第二十四話『真実狂想』
フィリと春の主従関係が作られていくのを横目で見ながら、耳について離れない言葉を呟く。
始まりの二人の名前、それは横にいる朝日や、天使陣営の殆どの人間にとって決して思い出したくなかった言葉のはずだ。ありきたりな名字だからこそ、言われてしまうだけで思い出してしまう。下の名前まではもう、覚えていない。
「中原、ね」
「汚れつちまつた悲しみにー……」
『汚れつちまつた悲しみに』から始まる著名な詩を朝日が歌うように口ずさむ。確かにあの始まりの二人の悲しみは酷く汚れていただろうけれど、この詩の本意など作者にしか分からない。思えばその詩を書いた人も中原という名字だった。先程の『やってみせ~』の下りからも薄々気づいていたが、朝日はその見た目に似合わず中々に学があるという事がハッキリと分かる。
「愛する人がいるのに、自殺されるのは御免だけれどな」
ならばと俺も『愛するものが死んだ時には、 自殺しなけあなりません。』と始まる同作者の詩をもじる。とはいっても自分に学があるとは思わない、大学に入る気すらも無い程の無気力だったのだ。ただ自分がその言葉に気付けたのは、単純に本の虫になろうとした時期があっただけ。
「愛する人と死んじゃおうとするのは、太宰さんですね。イケメンは羨ましいったら」
文豪を差して軽く笑うのが朝日らしい。だが確かに彼女の言う文豪は女性との自殺未遂で有名な作家だった。
「俺は中原よりも太宰の方が好きだけどな」
「えー……。やってる事ったら女の敵ですよう。でも私もまぁ……もし男に生まれていたら」
そこで朝日は口を閉じ、少し難しい顔をしながら静かに思考に耽っているようだった。
太宰治という文豪は『誰よりも彼の事を理解している』という共感を読者に思わせる天才だ。それでいて、諸説はある物の、最後は女性との無理心中でその人生の幕を閉じたという事になっている。そんな事を知っているのも、一時期はライトであろうとヘビーであろうと構わずに本の世界に入ってみたり、気になる作品であれば映画やアニメやゲームの世界に入ってみたりしたからだ。自分の悲しみや苦しみを誤魔化せるうちは何処にでも逃げ道はあった。
だが、創作された物語とは良く出来た嘘であるという事に気付いた頃から、それらに触れるのが急に苦しくなった。それは異世界病が流行ってしまった事にも起因しているかもしれないが、ある日を境に俺は創られた物語を読むのをやめた。それでも詩人や画家が残した言葉達については少しだけ騙されたくなった。
創作といえど数多くあるが、その多くが血反吐と共に生まれた結晶、もとい血晶と呼んでも良い程の物だ。ある人は怒りを伝える為に、ある人は誰かを救う為に、ある人は理由なども無く、それでも作品は創られていく。その中でも画家や詩人という存在は自分にとって心の支えになっていた。彼らはその絵画だけではなく、その言葉だけではなく、その人生を以て評価される事が多かったからだ。
実際の物語を知り、人物を遠からず近からずに感じながら、その最期と向き合う事を自分は好んでいた。天才達の人生には必ずドラマがある。生前はゴミのような価値だったゴッホの向日葵が彼の死後どうして評価されたのか。多少の知見しかない俺に深く掘り下げる事は出来なくとも、少なくとも俺はその向日葵よりもゴッホが耳を切り落とし、自殺したという最期に惹かれていた。
だが、結局俺という物語は希望を欲しがりながら絶望と共に一人で飛んで終わり。物語にするにはあんまりな話だ。
「芥君、難しい顔してますね」
「それはお互い様だろ?」
俺は響からもらったスキットルを取り出し、中にはいっているという名も知れぬ極上らしいウイスキーを一口飲み込む。朝日の視線が突き刺さっているのは何となく気づいていた。
「……やるか?」
俺を見ている朝日に向かってスキットルを揺らす。味はハッキリ言えば複雑で分からなかった。ただ飲んでみて分かったのはアイラ系なんて呼ばれるような癖の強いタイプの銘柄では無いだろう事だけだ。
「……ん」
一瞬関節キスなんて言葉が頭をよぎり言葉にした事を後悔しかけたが、彼女は少しだけ真面目な顔をしたまま俺のスキットルを受け取り、その蓋を開けて呑み口に鼻を近づけた。
「おんなじアルコールなのに、こんなに香りが違うんですね」
それはおそらく彼女が医療従事者だった事から出た言葉だったのだろう。彼女が毎日のように使っていた消毒用アルコールもまた、飲んでいいわけは無いがアルコールという点に於いてのみ違いは無い。ただ、飲めないという時点で同じ括りかは疑問ではあるが。
「ふふ、辛いね」
彼女は結局の所そのスキットルに口は付けなかった。代わりに、俺が飲んだ時に呑み口に残っていたであろうウイスキーの雫を舌でペロリと舐め取って笑う。それが妙に妖艶のようにも、子供の悪ふざけのようにも見えて、俺はそんな彼女を何も言わずに見つめる事しか出来なかった。
「酒なんてそんなもんさ。人によるけどな」
「辛さを辛さで誤魔化すんなら、天使長さんはどうして飲み続けたんだろう」
ちゃんとした間接キスならまだ言いにしろ、まるで俺の飲み残しを舐め取るような仕草の後では、呑み口にキスという単純な言葉よりもより艶めかしく口吻でもされたように思えて、二口目を飲むのは気恥ずかしい。俺はほんの少し軽くなったスキットルを服の胸ポケットに仕舞って、彼女の思案に寄り添う。
「酔えないって言ってたからな、酔いたかったんだろうな」
「じゃあ、辛い事があったんですかねぇ……、アレ?」
彼女は溜息を付いて窓の向こうを眺めていた。
――戦い合うべきは人では無い。
その前提は壊れた。だがたったそれだけの事なのだ。では悪魔が敵か、天使が敵か、それとも始まりの二人が敵か、その答えに俺達は未だたどり着けていない。であれば『前提』で誤魔化し『嘘』で騙していた天使長であっても一概に敵だと言い切るには早い、早かったはずだ。ならば響は早まったという事なのだろうか。そのせいであんな姿になったというのだろうか。
「聞く前に殺されたなら、どうしようもな……」
言い出かけると同時に、階段でガラガラと空き缶が鳴る。
「やっぱそうだよね!!」
朝日が焦って窓際へと走り寄る。
「み、皆さん!」
春の言葉で朝日以外の全員がドアの方向へと身構え、フィリが扉を閉じて俺達を一旦後ろ側へと下がらせる。
階段から響く音は、まるでこの場に俺達がいることを元々知っているかのような勢いで、侵入がバレる事すら気にしないかのように近づいてくる。そうして近づくにつれ聞こえるのは、それが人間の気配ではなく、機械音を発した何かだという事に気付いた時にはもう、爆発とともにドアが吹き飛んでいた。
「魔法か?! 刻景か?!」
フィリが吹き飛ばされたドアを蹴り飛ばしながらドアと少し距離を取る。春は両手を前に出して何かを呟いているようだった。俺はとりあえず獲物を手には取るが、突然の事に対する判断としてはフィリと春の方が圧倒的に上だという事が分かる。朝日もまた何かに気付いたように窓際へと走り出していた。
「違うよ……、機械だ」
爆発による煙が消えたその場所にいたのは、魔法使いでも刻景使いでも、ましてや天使や悪魔でも無かった。人に似せて精巧に造られたアンドロイドとでも言うような見た目の機械の兵士だった。だが確実に人では無い事が分かるその衣類を纏わぬ容姿と男性も女性も無い姿。あるべきものがどこにも無く、瞳に似せられた何かは俺達を確認するようにグルリと周り、喋る為の口は持っていないようだった。右手に当たる部分にはおそらくドアを破壊した銃の類いが展開しており、左手に当たる部分には刃が見える。およそその姿は殺意で成り立っているように見えた。
「機械、ですか?」
春が両手を前に出したまま少しだけ前へとにじり寄る。彼女が見せた電撃であれば、機械にとって有効であるだろう事は分かる。だがこの世界でそんな物は見た事が無い。明らかなオーバーテクノロジーだった。だが、人ですら無い以上、俺達が戦う必要があるか否かすらの判断をつける以前の話だ。敵意があるのならば、壊す以外の選択肢は無い。だが重要なのはそれを操っているのが誰だという事だった。
「仕掛けの悪ふざけじゃなかろうな……」
フィリが春が少し歩を進めたのを見て徒手空拳のまま一歩だけ踏み出す。
流石に金属製のはずで、力もどのくらいか分からない。そもそも刻景が通用するのかすらも分からないのだ。だが彼女はあくまでこの場で一番の実力者という自覚と責任感を持っているのだろう。その装甲を打ち抜けずとも打つ程度の事はするつもりでいるようだった。
「いいや、彼にはこういうのは作れないよ。この子はシェルジュ、僕のとっておきの手足だ。仕掛けで括れる物じゃあないよ。フィリ君だって知っているじゃあないか」
その声を聞いた途端に、何もかも分からなくなるような感覚に陥る。
響という天使がした事。
天使が同族を殺せば堕天するというルール。
眼の前に現れたオーバーテクノロジー。
そうして、その横で薄く微笑んだ表情を顔に貼り付けて佇む、天使長。
「君達の知ってるから何も言わなくていいよ。けれど君達は何も知らない。
エンジェリンを潰すなんて、響君も酷い事するよねぇ。ちなみにそのスキットルの中身は……」
「そんな事はどうだって良い! やれハル!」
フィリが機械兵の右へと飛び出すと同時に春の両手からシェルジュと呼ばれた機械の左側へと電撃が放たれる。
フィリの蹴りに反応してシェルジュが避けた先には春の電撃が迸っており、それにシェルジュが触れた途端機能が低下していくのがすぐに分かった。少なくとも行動停止には追い込めている。
「うーん、流石に知能は低いよね。でもエンジェルオーダー・修復」
死んだはずの天使長の冷たい声が響き渡ると同時に、窓が割れドローンが室内に入り込んでくる。そのドローンは電撃によって停止しているシェルジュに何らかの処置を施そうとしているようだった。
――そして、割れる窓の音は一つではなかった。
「エンジェルオーダー……銃撃」
「だ! よね!! 皆屈んで! 刻景!」
朝日の刻景・スロータイムによって窓を割る幾つもの銃弾の時間が緩やかに変わる。
彼女が屈み皆が屈んだのを確認した瞬間壁へと銃弾の雨が突き刺さった。
その行動がなければ今頃全員が蜂の巣だ。朝日はおそらく階段から簡易トラップの空き缶の音がする前に、遠目にドローンが見えていたのだろう。それがもし敵対する相手ならば、重火器のような物を撃ってきたならば、と考えた時にそういった防御に関しては彼女がこの中で一番秀でている。
「上手くなったね、覚悟みたいな物なのかな? でも、でもだよ。そうあってはいけないんだよ、芥君、朝日君。それに」
そう言って天使長は心底残念そうな顔をして、フィリの方を見る。全員が確かに屈んで銃撃を躱した。だが、その瞬間に全員に等しく隙が出来、修復を終えたシェルジュだけがフィリの首元をその手で掴んでいた。
「刻景とは、言わせないよ。もう君は何も失う必要は無いし、何を奪う必要も無い。暴れられるのも問題だからね、まずは君だ。後はどうにでもなるしねぇ」
今まで聞いた一番冷たい声で、真っ白い顔で、彼は銃を取り出し、フィリの脳天へと突きつける。
「しかし、本当に勿体無い事をしたよ」
降り注ぐ銃弾に俺達は動けぬまま、フィリが物言わぬ機械……シェルジュの手から逃れようとするのを見ている事しか出来なかった。
「刻……」
「首を潰すだけで良いけれど、仲間が無様に死ぬのを見るのも可哀想だしね」
朝日と俺が屈んだまま、持っているあらゆる銃で銃撃を撃ち込むが、シェルジュの装甲は厚いようでビクともしない。そもそもの火力が足りていないのだ。かといって天使長を狙ってもシェルジュを修復していたドローンが邪魔をする。春は屈んだままもう一度電撃を撃とうとしているが、それも今すぐに出せていないということは時間がかかるのは間違い無い。
「うん、沢山頑張ったしね。ちゃんと殺してあげよう。こんな世界じゃうんざりだろう?」
天使長がそう言った瞬間に、俺は銃弾の雨の中を走り出していた。
そうして、俺が走り出した瞬間に朝日の声と共に銃弾の速度が緩まっていく。笑ってしまう程に空気が読めると思いながら、俺はマチェーテを取り出し走りながら全力で振り上げる。時間をいくら使うとしても、フィリの命には変えられない。ただ、スロータイムの範囲はギリギリ天使長には届いていない。
だからこそ、その手に持つ銃の引き金が引かれたら終わりだ。だが、一撃でもシェルジュに攻撃を当てられたなら勝機はある。
「じゃあ、君を救おうとする手遅れを見ながら、お疲れ様」
――届く、届く。
天使長の手が引き金にかかる。
――届く、届く、届く。
俺のマチェーテが仕掛け銃声と共にシェルジュへと叩きつけられる瞬間。
俺が出した音でも、朝日が出した音でもない。
一発の銃声が、鳴り響いていた。




