AngelSide1『灰に塗れた羽根の束』
注:天使陣営で起きていた出来事が三人称視点で書かれています。
石鐘響は天使であった。
芥を取り逃がした後、響はその羽根で空へと飛んで一人叫んでいた。言葉にならない叫び。怒りを纏っているように見えてその実彼女は悲しみに包まれていた。銃弾の残りは仕掛け屋にしてやられたせいでもう残っていない。空から見渡した所で芥の姿も見えない。それに、何度繰り返しても刻景は彼女の中にもう存在していないようだった。
「もう、帰るしか無いか」
響はその羽根で今まで生命取りの追いかけっこをしていた森の上を滑空する。それを抜けるとすぐに残り火が見えてきた。
話さなければいけない事があり、おそらく話される事があるだろうという予感の元、彼女の顔は苦渋に歪んでいる。
殺しそびれた事と、ならば殺せと命じる事。
悲しみが薄れたわけでもなかった。響も芥と出会った瞬間からこんな日が来ると薄々気付いていたのだ。今まで隠して来たこの世界の嘘がバレる事は分かっていた。それでも彼女は、手を伸ばしたいと思ってしまったのだ。だが結局は、芥が事態を甘く見ていたように、響もまた事態を甘くみていたのだ。実際のところ彼女ははしゃいでいた。だから甘えていたのはむしろ先に瓦解の可能性に気付いた響だったのかもしれない。
もし初めて芥を天使長に会わせたタイミングで天使長が詳しくサーチしていたら終わっていた。決して響も彼の刻景について詳しいわけでは無いが、アレは全てを見通せるがサーチをするという動作が必要になる事を知っていた。おそらくあの時の天使長は酒という一点に絞って芥の記憶を即座に盗み見たが『篝火』のメンバーにはサーチをしないとしたその日、響もまた安堵したあの日の寸前に、芥以外の記憶を読んだのだろう。しかもおそらくは響の記憶が仇となり、芥がフィリ達からこの世界の真実だと思われているという事を聞かされているという記憶が決定打だった。
「分かるよ。均衡を崩されるわけにはいかない……。でも殺せってのはさ……」
響は誰にも聞こえない時に弱音を吐く。虚勢を張っている事くらい自覚しているのだ。それでも彼女には道化を演じるのが板についてしまっていた。天使長からは真面目に叱咤され、それなりに落ち込むのだ。だけれど彼女自身殺せなかった事にもホッとしていた。だがそれを打ち明ける相手もいない。打ち明けるという事はつまり彼女自身もまた芥と同じ立場になるという事だ。天使長の刻景は記憶までは盗み見る事が出来ない、だから無言を貫けばある種問題は無い。
『嫌な役を押し付けやがって』という悪態が出かけて響は口を塞ぐ。天使長はもう篝火が全員集まった場では芥が世界の嘘に到達した事を知っていたのだ。だがあえてその場で何かをすることも無く、見送る為の酒と言わんばかりに彼のグラスに酒を注ぎ、ボロを出させないように気付かないフリを貫いた。その事実は響と天使長しか知ってはいけないという大前提があったからだ。
だからこそ芥は次の日まで見逃され、朝日と共に外に出る事までを許した。しかし芥達が魔法使いと戦っていた頃、BARエンジェリンでは舌戦が繰り広げられていた。
芥を殺すべきだと言う天使長とそれはやりすぎだと言う響の言い争いは、フィリが気まぐれに、天使長が使っていた地下からBARエンジェリンへの直通エレベーターを乗って現れる時まで止まる時は無かった。そうして時間切れ、不思議な顔をするフィリをエンジェリンに残し、人払いをして響は覚悟も無いまま彼にとっての悪となった。
悪にならねば天使の世界は終わるのならば、と悪を演じた。笑えぬ道化も演じてみせた。だが涙は止まらなかった。大事な友人も、大事な友人になれたかもしれなかった人達も、今はもういない。
そうなるのが分かっていても強いられる。持てるべき確固たる意思や覚悟や自由などは無く、唯一つの理由で縛られる。石鐘響はこの世界に於ける、天使という役割を持った人間だった。
「刻景が使えなきゃ私もお払い箱か」
彼女は赤くなった目をこすりながら残り火の入り口に降り立つ、涙が流れていたとすれば風に乗って消えたのだろう。幾人かの意味のない見張りが不思議そうな顔で会釈をする。
残り火自体もある程度は強固な砦ではあったが、それ以上に強く固められた施設としての篝火には程遠い。団体としての篝火は、もう終わりだと言ってもいいだろう。
魔法使いが一段となって攻めてきたならば残り火程度ではすぐに制圧されてしまうだろうから、それを防ぐ為に定期的に魔法使いには餌をやる。だから今だ天使陣営は残っている。悪しき習慣、狂った習慣。何となく使え無さそうな刻景を持った人達をまとめて、その気にさせては灰場へ送り込む。それで魔法使いは満足し、拠点への進行は止められる。
本当に近づいてきたならば、篝火レベルの刻景使いが少し本気を出してまだ戦えるフリをする、強いフリをする。それで乗り切るにも、もう限界があった。そんなやり方が続いていたのだから今更簡単に変えられるわけもなく、言うかどうか分からないにしても、世界の嘘を知っている事を知ってしまった以上。どうしようもなかったのだろう。だからこそ天使長は芥を殺すと決めたのだろう。
「あーあ、最後にやなこと言っちゃったな」
憎めば殺せたのかもしれないと響は考えた、怒りにまかせてしまえばいいのでは無いかと。だが結局のところ、恨み言をぶつけただけ彼女は暗い後悔の中にいた。そもそも殺さなければいけなかっただけで、殺したかったわけではないのだ。他の方法があるならそうしたいと彼女は思っていたのだ。だがぶつけた言葉が言葉で、やった事がやった事だ。もう関係の修復は無理だろうと彼女は考えながらBARエンジェリンへと向かう。
平等と変わらぬ事を重んじる天使長は戦闘を主とする組織のリーダーとしてはややふさわしくないと響は考えていたが、この世界の天使の出自を考えてしまえばもう何も言えないのは明白だった。
だが、彼は考え方がぶれ過ぎる上に、頑なだった。何となく許し、何となく許さない。それらは気高き信念の元に存在しているというよりも、防衛を意識するあまりに生まれてしまったどっちつかずな状態だとも見えた。
だが、だからこそ残り火は強固な砦のようであり篝火は鋼鉄の要塞なのだ。AOもまた技術者である彼特有の発明ではあるが、それもまた天使というこの世界での役割故に得た物に過ぎない。生き延びる為の策なのだ。
巡る不満を口にもせずに、響はBARエンジェリンの前までたどり着き、ノックもせずにその扉を押し開けた。天使長はグラスを磨く手を止め、彼女を見つめる。
「フィーが来たよ。すれ違ったよね?」
おそらくこれから始まる舌戦の口火を切ったのは響だった。口調も静かになり、笑えぬ道化がやっと化粧を落とした。敵わないが抵抗してやろうという気持ちくらいは残っていたのだ。言うだけならば、タダなのだから。
「すれ違ったね、ただアレでも神の子なんだ。止めるわけにも行かないさ。けれどあの子が行ったとしたって片は付いていたろう? まさか見逃したんじゃないよね?」
天使長はまだ何も知らない。そのフィリが天使陣営を裏切った事も、響の刻景を使えなくさせた事も、そして芥が未だ生きている事も。
「読まないでも教えてあげるよ」
響は自身の腕につけていた時計を無理やり引き剥がしてテーブルに乗せる。数字は『0,00』になっていた。本来ならば死ぬ数字だが、刻景を持たない人間にとっては何の意味も無い時計であり、何の意味も無い数字だ。その数字はフィリがロストタイムを使った瞬間から『0.00』のままだった。増える事も減る事ももう無い。
「フィーはもう神の子じゃない。私達が大事に大事にしてきたせいで、その立場だけで持っていかれたよ」
「つまり君は……」
天使長が絶句する、芥が死ななかった事を知り、響の刻景の喪失を知り、フィリの裏切りを知ったなら当然の事だろう。だがあくまでその表情は崩さずに次の句を告げた。
「失敗、したか。遅いとは思っていたけれど、その口ぶりじゃ殺しきれてもいないわけだね?」
「出来るわけないでしょ。私の刻景は朝日の刻景の上位互換だけれど、それが無ければそもそも刻景が使える朝日達の方が強いんだから。向こうが逃げていたからまだしも、向こうがこっちに殺意を向けていたら私が死んでたよ。弱いヤツが強いヤツを追いかけて、強いヤツらが弱いヤツから逃げる、それこそ滑稽だよね」
そもそもが散弾銃を獲物としている響にとって逃げられるという事は面倒な事に他ならない。それに加えてスロータイムで一瞬でも銃弾の動きを遅くされたならば、余程先読みでもしない限り、散弾を当てるなんて芸当は出来やしないだろう。
「それにしたって時間切れがあるだろうに、芥君だって手負いだった向こうが逃げているのならば殺せるはずだろう? 仕留められない理由がまだあると?」
流石の天使長もやや苛立ちが見える。声色こそ変わらない物の、物言いがやや強くなってきていた。
「仕掛け、大音量。見失って、おしまい。彼は通りがかりなんだろうけどね、あんな人だから良く分かんないや。でも要は篝火のメンバーは集まった次の日に半分になっちゃったってわけだね。てんちょー、正解だったかな」
「失敗したのは君だろう? 口封じは絶対に必要だっただろう。それこそ誰に言うつもりも無い。コック君とキーパー君にもだよ」
やはり、天使長は根本を間違えているのだ。響が言いたいであろう事はそんな事では無い。
「殺そうとしたの、正解だったかなって聞いてるの!」
響が声を荒らげる。破れかぶれのような声に、天使長の眉間に皺が寄った。互いが互いの信念に基づき、理解しあえない二人の天使。
「言うまでも無いよ。手配を出す。時間を餌にすればこちら側からもあちら側からも狙われる事になるからね。悪魔側にはこっちから話を通せばいいだけの話。『始まりの二人』はともかく、悪魔側だって焦って探し回るだろうさ」
「じゃあ、私がそんな事させないとしたら?」
瞬間、互いの眼の前に互いの銃口が向けられていた。
「僕も君にそんな事はさせないよ。けれど、だ。君は僕を堕天させるつもりかい? それとも君が堕天するとでも? 僕らは互いを殺し合えないように作られているじゃないか」
天使が殺し合ってもメリットなど一つも無い。だが殺す事自体は可能だった。半界のルールに則るのであれば天使を殺した天使は堕天したと見なされ、刻景を含めた全ての天使の権限を失う。そういう物だという事を、天使も、そして悪魔もまた知っていた。聞く相手がいないならば不作為の嘘すらも公然と言い合っていた。
「空が飛べる、強い刻景が持てる、そうしてこの世界で偉ぶれる? それが天使だとして、私は何を持ってんだろうね」
『神の子』としての立場が消えたとしても、それでもきっと今もフィリは偉ぶり続けているだろうと響は信じていた。それはフィリ自身がそうありたいと思い、そうあろうとしているからだろう。
「少し落ち着くべきだと思うけれどね。僕を殺したところで代わりはいくらでもいるって事、分かっているよね? 芥君に今更肩入れしたところで、時間稼ぎ程度にしかならない。君だって本当は聡明なんだ、分かるだろう?」
天使長も、響もまた銃口を動かさない。天使長の刻景は相手が体験した刻を見るだけ、ならば戦闘に於けるアドバンテージは無いと言っても過言では無い。彼の度を越した悪辣な言葉を聞き、やっと響は覚悟を決めた。もう手遅れだとしても、決めたのだ。
「気付いたんだよてんちょー。私はね、飛んだんじゃない」
一発だけ銃声が鳴り響いた。堕天を怖がる天使は、銃を撃てない。
「堕ちたんだ」
石鐘響は、天使であった。