第十五話『誰が為でも無く共に往く』
轟音が銃声をかき消した後からは、もう追撃の手は止まったように思えた。銃声自体は消えてなくなったが、それでもしばらく走り続けて、やっと耳元で朝日が何か言っているのに気付く。
「芥君! 肩!」
言われなければもう少し気付かずにいられたかもしれないのに、と思った。気付いた瞬間に激痛が走り、思わず抱きかかえていたフィリを落としかける。バランスを崩した俺から彼女は飛び出すように降りて、結局俺だけが地面を這いつくばる事となった。
「馬鹿じゃの……、ワシじゃなくて殺されるのはアクタじゃ。ワシを優先してどうなるというんじゃ。とはいえ、逃げ切れたかの」
殺されるのは俺だけだという事はおそらくこの三人の誰もが気付いていた事だろう。それでもフィリは何を思ったか響に弓を引いたのだ。ならば同罪とは言わずとも苦しい暮らしを強いられてもおかしくはない。朝日だって秘密を知っているなんて事を口走ったからにはそう楽に過ごさせてはくれないだろう。だからこそ逃げたのだ、全員がただひたすらに走ったのだ。
朝日にも、フィリにも、それぞれの意思で立ち止まる事をしないでくれた。だが結局、事の発端が俺のせいなのは間違い無い。例えそれが嘘で塗り固められた信仰であっても、嘘と気付いてしまったのが俺一人であれば、悪は俺になることぐらい分かっていた。だからこそ、俺一人でいるべきだったとも思う。だがそれでも、俺一人では生きられなかったとも思う。
――俺の為に馬鹿を見させてしまった。
後悔よりも感謝の気持ちの方が大きいのだろうとは思う。助けてくれなければ死んでいたのだ。一人で逃げ切れたなんてそんな訳は無い。それでも心は暗い感情で包まれていた。
「……悪い、助かった」
俺はただそれだけを二人に伝え、立ち上がって泥に塗れた顔を拭った。
「不作為の嘘、だけれどきっと必要だったんですよね?」
朝日はこんな俺をまだ信じてくれている、もうパートナーと呼べるのかも怪しいが、それでも彼女の中での悪は向こうで、こちらが正義なのだとあの場で決めたのだろう。彼女がいなければ、フィリが来るまでの時間は決して稼げなかった。
「あんなものはあまりにもつまらん幕引きじゃ、手を出しても構わんじゃろう。とはいえどワシはもう偉くはないがな」
フィリが刻景を使った時に『神の子』という言葉を聞いた。この世界に天使と呼ばれる存在がいるのならば、神がいても決しておかしくはない。ならばその子がいてもおかしくはない。実際問題として、天使長が敬うのも分かる。神の子という立場が本当であれば偉いどころの話では無かったのだ。そうしてその立場と引き換えに発動しなかった響の刻景。それこそが彼女が本当に神の子であるという証明だった。
「神様の、子」
朝日が呟くと、フィリは「じゃったな」と言ってくふふと笑った。
「神などおらんに等しい。ワシにとっては唯の親、そこに信仰などないからのう。絶縁状が書けてせいせいしたぞ。だがまあ、面倒な事になったもんじゃな。アクタよ」
「殺すなんて正気の沙汰じゃないですよ、でも許してもらえる感じでも無かったですよね……」
二人が何て事も無い風に接してくれているのが今は本当にありがたかった。これから話すべき言葉の後でも、そうであってほしいと願った。
「此処までしてくれたんだ、隠し事はしたくない。けれどこれは俺が偶然気付いてしまった、アイツらが俺を殺そうとした理由なんだ。聞けば同じ扱いになってもおかしくない」
「もはや全部手遅れじゃから構わん。ワシらがしたことはワシらがした事、まだ薄い縁かもしれんが、ワシはあんな所でグダグダやるよりも、お主らが暴れまわるのを見たいと思った、それだけじゃ。ほれ、言うてみい」
フィリはきっと平気な顔をするだろう。何故ならば目的意識が少しおかしい。世界の命運でもなく、俺達を面白いと思ったのだろう。ただそれだけで、神に成りえた立場を捨てたのだ。少なくともこの世界で一番偉くなるはずだった彼女が、それを捨てるくらいに、退屈が彼女を支配していたのかもしれない。だからこそ何もかも捨てながら暴れまわったのかもしれない、そんな事を思っていた。
「私は……、そりゃそう言われるとちょっとは怖いけど。今は芥君の肩を早くどうにかしたいかな。だから聞くよ、聞かなきゃきっと始められないんだよね?」
そう言って朝日は一度立ち止まってから俺の目を見た。怖さよりも傷を気にしている彼女の優しさを裏切るわけにはいかない。
甘く考えすぎていたのだ。目的が一致していれば思想など関係無いと高を括っていた。事実、これからどうあっても魔法使いは灰にしていくだろう。魔法使いとの戦いで肩を負傷した事すら、俺の中では些細な事になっていたのだ。激痛よりも酷い痛みが心に走っていた。けれどフィリも、朝日もそれぞれがそれぞれの想いで俺と共に来てくれた。
――だから俺は、二人を巻き込む事に決めた。
「響は、俺と同じ歳だった時がある。異世界病が生まれるよりも前の話だ。この世界――半界は異世界病者の成れの果てと俺達のような死にぞこないがお互いの信念を元に争う世界、なんだよな?」
それだけでフィリはどうやらピンと来たようで、小さく溜息をついた。
「それで、か。馬鹿じゃの、どいつもこいつも」
「魔法使いは本当の異世界に行く為、私達は現実へ帰る為、そんな事を聞いたけど……、響ちゃんと同じ歳だったって事は……、えっと……? 凄い見た目に差が……」
朝日は俺をマジマジと見る、年齢こそ言っていなかったが響と俺はそもそも見た目に十年近くの差がある。
「死んだんだよ、アイツ。校舎の屋上から飛んだんだ。それから少しして『始まりの二人』なんて言われる心中事件が起きた。だからおかしいんだ。チグハグなんだよ、順番が。この世界が異世界病によって生まれた物であるなら、それ以前に死んだ響がどうして天使としてこの世界にいる?」
「つまりは、その矛盾から生まれる天使側の信仰崩壊を防ごうとしたわけじゃな」
その説明が端的でわかりやすかったようで、朝日は声を荒らげる。
「ほらやっぱりー! 悪い人がやる口封じじゃないですか! 殺される程の事だとしても、殺されてちゃ堪りませんってば!」
「全くじゃな……とは言えまずいのう。アクタの言うそれが真実だとすれば、悪魔側の信仰もまた崩壊する。どちらにせよ何かしら隠しておるんじゃろな。とは言え面白い、今になって三つ目の勢力が生まれたか」
言われてみれば、俺達はもう天使陣営には属していない。殺害対象だろう。かといって決して悪魔陣営にいるわけでもない宙ぶらりんの状態だ。
「それでも殺るのは魔法使いだけどな。どうせ狙って来るんだ。真実を知る為にもどうにかしていくしかない。というよりも、神の子だったんだろ? 何も知らされずにいたのか?」
俺の言葉にフィリは少しだけ拗ねた顔をする。
「大前提を考えろ。この世界は天使と悪魔が人を駒に争う世界なんじゃぞ? では神がいたとして何になる? そもそもワシらは己の出自すら知らん。失ったのかもしれんがな」
主従という体裁はあれど、つまり神の子という事実を持って存在している彼女ですらこの世界ではある意味でプレイヤーの一人でしか無いという事だ。
「ただしまぁ、ズルは出来た。天使を選ぶ事も悪魔を選ぶ事も出来たし、どちらにせよ簡単には死なぬ程度の加護を持って顕現した記憶がある。捨ててしまっても良かったんじゃがの、こんな記憶も」
つまり、神はどちらかに属するバランスブレイカーの役割なのだろう。もしかするとフィリが天使陣営に付くという事までが予定調和な気すらしている。聞けば聞く程に、考えれば考える程に、世界への疑心暗鬼は深まっていく一方だった。
「じゃから言わばワシらもまた天使と悪魔にとっては駒の一つなんじゃろうな。偉いのは間違いなかろう。実際強いしの、じゃが手のひらを返されるとは思って無かったんじゃろうなぁ」
心底嬉しそうにフィリが笑う、童顔だからまだ見れるが、してはいけない笑い方をしているような気がした。やはり見た目はともかくとして、ある程度長い時間を生きてはいるのだろう。神というシステムとして考えるのは失礼かもしれないが、この世界の発現と同時に彼女が生まれたのだとしてもまだ幼いはず、だが彼女の思考は少し偏ってはいてもその多くは成熟しているように思えた。
「してもまぁ、ワシの力を以てしても面倒なのは変わり無い。そろそろあやつも来ないもんかのう」
場所を把握したフィリを先頭にして、やっと森を抜け廃墟のように見える街中に入った頃、不意に誰かの存在を示唆した。
「来るって……? 誰がです?」
朝日がキョロキョロと街にある誰もいないであろう店、おそらくは薬屋を探してくれているのだろうが、それを一旦やめて不思議そうな顔をフィリに向ける。するとフィリは意外そうな声でとんでもない事を口走った。
「あの轟音を聞いとらんかったのか? あやつがおらんと間に合わんかったんじゃぞ。ハズレくじばかりでも無いという事じゃな。まぁあやつも生きとればそろそろ見つけてくれる頃じゃろ」
――つまり、巻き込んだのは三人だったという事だ。
銃声を止めるきっかけになった轟音。アレは仕掛けられていたのか、それとももしくは仕掛けた音だったのだ。だが彼は俺達の話の場にいなかった。ならばこちらに助け舟を出す理由などそれこそ一つたりとも無い、見てみぬ振りをすれば良いだけだ。
「ちなみにヒビはおそらく来んから安心して良いぞ。今のあやつはもうワシには勝てん。お主らは負けるがの。だから逃げたが、迎え撃たれたなら向こうの負けは必然じゃ、そのくらいはあの馬鹿でも分かるじゃろ……流石に」
「しかし相対すりゃロクでも無いってこたぁ分かるだろうよ、助け舟は穴だらけで困らぁ。良い夢見せてくれんだろうな?!」
フィリの言葉の上から、勢いよくロープのような物と一緒に言葉が降りてくる。その姿はボロボロだったが、傷のような物は見えなかった。轟音を鳴らした人物、そうして響を引き付けてくれたもう一人の協力者は、仕掛け屋だった。
「仕掛け屋さん?! 何で?!」
朝日が軽くジャンプしながら驚くと、仕掛け屋はへへと鼻をこすって笑う。
「逃げるおめぇらと追うアイツ。遊びじゃねえのは一目で分かる。なら俺も決めなきゃいけねえじゃねえか。すれ違っちまった妙縁と袖すり合った他生の縁と俺の勝手な合縁がありゃあやかましい銃声なんて消しちめえってんだ。丁か半か分かりきっちゃいても、床を揺らす程の音を立てりゃ話も引っくり返らあな」
つまり彼もまた彼の意思で、義勇心のみで追われる側を助けたという大馬鹿者なのだ。感謝してもしきれない。
「要するに、だ。葛籠の兄ちゃんも朝日の嬢ちゃんも、お嬢も覚悟を決めたわけだな。それぞれ理由は違かろうが構いやしねえや。乗った、乗った! 賭けるのは穴が良い。一番人気が鳴りを潜めて、ドベ人気が差し切っちまうのが一番楽しいわけだ。真実なんざ知った事じゃあないけどよ、この大博打、仕掛けてやろうじゃねえか」
仕掛け屋もまた、彼の信念で俺の側についてくれた。朝日とフィリと仕掛け屋が揃うならば、こんなに頼もしい事はない。俺と朝日の戦闘経験が浅いとしても、ほんの少しだけ希望が見えてきた気がした。
「しかし仕掛けよ、傷が無いあたり手を抜いたな? 生きてるとは思っとったが、あまりにも楽に済ませたもんじゃの、手傷くらいはくれてやったか?」
「お嬢も簡単に言うねえ! 響の嬢ちゃんだって手練には変わりゃんよ。刻景を使われちゃめでたくもなく人生お開きだろうよ」
やはり彼は俺達の話を聞いたわけでもなく、なんと無しに加勢したのだと言う事が分かった。仕掛け屋と言うくらいだから盗聴くらいされていてもおかしくない気はしたが、刻景を封じたという事は言われるまで知らなかったようだ。そうして彼はそれを聞いて神妙な顔をする。
「道理でなぁ……、しかしお嬢も思い切ったな。気っ風の良さは知っちゃいたが、神の顕現を捨てたと来たか。立場だけとは聞いちゃいたがそれじゃあアイデンティティなんつぅもんが消えちめえよ」
「ええい横文字を使うな! ワシはワシじゃ、それだけで良い。失くした物だって取り戻せる。もしそれが本当に欲しいものじゃったらな。ワシは決して馬鹿じゃあない、要らん物だけ捨てて来たつもりじゃよ。あの美味いヤツも見て美味いヤツだと分かりゃ名前など知らぬ。だが本当に食べたいと思ったならば刻景の呪いを乗り越えてでも名を呼べるようにするつもりじゃよ」
アイデンティティは全く喪失していないように見えた。立場という物が消えた事がどれだけの意味を持つのかは知らないが『神の子』という立場の利益はもう既に得た後なのだ。なのに響の刻景を失くす程の力を持っていたとするならば、やはり彼女を過保護に扱い、丁寧に神の子として意識していた篝火達の想いからだったのだろう。
「そもそものう、アクタに朝日、それにヒビか、仕掛けは名を言わぬから失くしようも無いが、コックやキーパーなんぞワシにとっては役割で覚えた方が楽だったんじゃよ。だからいつかの戦いで失った。名は高く付くからな。二人の存在には感謝こそすれど、そこに名は要らぬ。それを伝えて受け入れられた時点でワシが持っていた『神の子』という立場はロストタイムに於ける最高の交換材料として機能したわけじゃな」
コックとキーパーが少し不憫に思えたが、決して馬鹿にしているような素振りでは無かった。つまりフィリは明確な取捨選択の基準を持ち合わせているという事だ。そうして、俺達の名前は拾うべき言葉として想ってくれている事が嬉しかった。
「あ、ドラッグストアありましたよ! 色々あると良いなぁ。傷の手当はお任せくださいね! 元医療従事者! 母も医者! 父も医者! 兄は獣医で妹も医者!」
自分の事だけは医療従事者と表現したあたり、少しだけ彼女の人生の暗さが見えたきがするが、そんな事は天使陣営に来た誰しもが持っているものだ。だが、店内で軽い治療を行ってくれていた時の真剣さは本当に痛みを治そうとしているのだと感じた。
「ありがとう、助かったよ」
肩は光の槍で貫かれた気がしていたが、いつの間にか傷自体が塞がりかけていた。その事に朝日も首を傾げている。
「あぁ、その傷を作った相手を殺したんじゃろ? ならば応急処置で構わんぞ。治るように出来とる。灰にさえならなければな。じゃが奴らには回復魔法とやらがあるからその分不利なのは変わりゃせんが」
まるでゲームだ。天使と悪魔が駒にしてなどいう言葉を聞いていたが、実際にこの世界の俺達はルールを明かしきってもらえないままに、手探りでゲームを進めていくプレイヤーの様だった。
「回復魔法はズルすぎる! 治療は真心あってこそですよ! 『いたいのいたいのとんでけー』が本当に通用するなら、いずれ痛みなんてのは誰も気にしなくなる。そんなの嘘です」
朝日の信念を聞き、仕掛け屋が強く頷く。
「楽して魔に堕ちるのは邪道そのもの。とはいえ俺達も似たようなもんだが、矜持だけは食らいついてでも持ってなきゃあな」
そんな話をフィリはボウっと聞きながら、俺達を急かすようにドラッグストアがあったビルの上階へ行く事を勧めて来る。
「何かしら食い物はあるじゃろ、それを持ってはよう上がるぞ。流石にワシも疲れた。それに此処にも灰があるってことを忘れるで無いぞ。仕掛けはさっさと仕掛けい」
灰があるという事はこの場でも誰かが息絶えたという事だ。それも量から考えると一人や二人では無い。
ドラッグストアの入り口に何かしらの仕掛けを施している仕掛け屋を待ってから、俺達は食べられそうな物を集めて上階へと進んだ。
この世界でたった四人しかいない、まだ名も無い陣営がそれぞれの想いを胸に灰を踏んでいる。
次の日が来る事を、その次の日が来る事を、そうしていつか報われる事を小さく願いながら、俺は消えていった者達が残した生命の跡を踏みしめていた。