◆四話-中
土煙の中、男は立っていた。――防がれたか。
「今のを、止められるのかー……」
空間魔術によって半固定された空間の射出。引っ張り上げ、絡め取りながら押し進む空間は全てを呑み込む。空間そのものの歪みであるため、防ぐことは不可能な攻撃だった。拳を通せばその腕ごと歪みに呑まれ、魔術による熱量などの放出すら空間の一部として呑み込みながら広がる攻撃だ。だから、対処法は逃げるしかない。事実、男は途中まで逃げていた。そして見誤った。この校舎内は私と火灼の魔力が充満しており、私はそれらを使用することが出来る。つまり、この校舎内であるならば今の一撃を端まで減速させることなく――どころか、加速させることができる。だから、男は歪みに捕らわれた。
――にも拘らず、男は右腕の断裂のみという軽傷で済んでいた。
「空間そのものを叩いたわね」
それも右腕を一度歪みに喰わせ、内側から破裂させた。中途半端な固定であるが故に流動を可能とした攻撃だが、中途半端であるが故にそれは脆い。対処法さえ分かっていれば、突破はできる。
「できるって言っても、容易ではないっつーのに……」
結果として腕一本を犠牲にしているのだ。馬鹿げた再生能力がそれを容易にさせている。
――見ていると、すでに骨は内側に戻り、血液の流出も止まっている。
「とはいえ、流石に回復は遅いか」
ダメージは蓄積しているのだろう。
「――スコールの妹よ」
様子を見ていると、男は話し掛けてきた。距離は結構あるというのに、はっきりと聞こえる。良く通る声だ。私としても、空間に充満させていた魔力の大部分を使った一撃を防がれ、体勢の立て直しがしたいため、それに付き合う。
「なによー」
遠いせいか、間延びした声を出してしまう。
「…………」
無言で距離を詰めてきた。なんだその気の使い方は。
「なによ」
一息では詰められない程度の距離まで近づいてきたので、改めて問うと――
「周りを見て、どう思う?」
◆◆◇◇◆◆
原型を留めていないプール。一部が崩壊している校舎。空間の歪みによって巻き取られ捲り返された箇所や、ネセルの激突によって爆ぜた箇所のある地面。
「これが、人間二人が争った結果だ」
片や素手、片や刃物を携えただけの人間。それらが明確な殺意を持って相対した結果。
言われて、スノウは辺りを見回す。そして、不思議そうに言う。
「結果って……、よくあることでしょう」
――あってたまるか。
ネセルはそう言いたい気持ちを堪え、話を続ける。スノウが『虚ろい空』の使用と、それを防がれたことによって散った魔力の補填を行っているように、ネセルもまた、己の回復に努めている。お互いに、次の全力を出すための小休止だった。
「我々の振るうこの力が、一個人が持つモノとしては過ぎたるモノだと、理解しているか?」
「過ぎてないから私たちが振るえているんでしょ」
「……では、それが許容されている理由はわかるか?」
「わかんないわよ」
スノウの即答にネセルは少しばかり頭を抱えたくなった。
――兄と違い、話が通じる気配が無い。
「貴様に対して、私がいるからだ。だからこそ、貴様は今、魔術界において、社会において、その存在が許されている」
◆◆◇◇◆◆
『はぁ? なに言ってんの? お前のおかげで私が許されているとか意味わかんないんだけれど』
『……私のおかげではなく、私がいるからだ』
『どう違うのよ』
『…………』
刀河の計らいにより、音声も拾われるようになった。二人は英語で会話をしており、親切なことに翻訳字幕まで出してくれている。
「ネセルが言っているのって、どういう意味だ?」
俺のことを捕まえようとしている男の名前がネセルであることや、そのネセルという人物が学府における最上位戦力の一員であることを教えてくれた刀河に尋ねる。
――情報を調べながら、俺に伝わるようになるたけ噛み砕いて説明してくれるので、つい訊いてしまう。
「あんた、私に訊けば解説してくれるだろうと思ってない? ……まぁいいか。天木はさ、今の世の中が世紀末じゃない理由ってわかる?」
「世紀末? それって、ヒャッハーな世界ってこと?」
「そうそう、社会としての均衡が崩れ、弱肉強食で、暴力が表立って重要視される世界のこと。原意とは若干違うのだけれど、そう思ってくれていい。その上で、どうして今が『そう』じゃないのかはわかる?」
「…………核が落ちてない?」
「そうね、根本としてはその認識でいいわ。要は、今は社会としてのバランスが崩れていないのよ。そのバランスの取られ方が完璧かどうかは別として、現在、世界は成り立っている。世界中に核が落ちるなどの要因により、食糧問題などが起きると、需要に対して供給が間に合わなくなり、結果として需要側を減らす動きになる」
強い者が弱い者から食料を取り上げ、最低限の栄養を取ることすらできなかった弱者は飢えて減る構図。
「ではそもそも、今はどうしてそれが成り立ち、強者が弱者から食料を取り上げない――取り上げはしても、最低限の栄養は取らせる状態になっているかはわかる?」
「……その方が効率良いから?」
「長期的に、人類という種全体で見ればそうなるわね。そういった、全体の話になるには、全体で続くことを前提として連携が取れなきゃダメなのよ」
「ほ、ほう?」
あー、わかってねーなこいつ的な目で見られる。すまん。
申し訳ないなと思いつつも、考えるほど話の規模が広がるので、上手く纏まらない。
そんな俺の様子を見て、刀河は溜め息も吐きつつも口を開いた。
「いや、話が逸れたわ。もっと簡単にしようか。どうして今は『暴力』が表立って権力になっていないんだと思う?」
「暴力が権力?」
「例えばこういうことよ」
そう言いながら、刀河は懐から煙草を取り出してくわえ、それに火をつける。先端が赤熱したかと思うと、その熱は一気に前方へと広がり、空間に人一人ほどの大きさの炎熱の塊が生まれた。
刀河は煙草を口から離し、それをチョークのように持ち、空中に紫煙で線を描く。
そうすると炎熱は凝縮し、剣の形を取り、刀河の手元へと収まった。
「これを」
手に取った炎熱の剣を俺へと向ける。熱くないのだろうか。熱くないんだろうな。
「こうする。んで、えーと、千円払え」
唐突なカツアゲに困惑しつつも、首元へと添えられた炎熱の剣に逆らえる雰囲気ではないので、財布を取り出して渡す。
「これ、『暴力が権力』ね。実際に振るわなくても、その力があることを示すだけで力とすることができる状態」
「なるほど……、カツアゲする意味あった?」
「実際に体感してみた方が分かりやすいと思ったのよ。返すに決まっているでしょ」
そう言って千円札を返され、刀河は握っていた炎熱の剣を振り払って消した。
「暴力はこうして人に言う事を聞かせることができるわけだけれど、現代社会ではそれがあんまりできないようになっているでしょ」
「そうだな」
「それがどうしてだかわかる?」
「法律で禁止されているから」
「そうね、法律で禁止されているから、みんなやらない。でも、その法律だって別に破っていいんじゃないの? 法律自体に力はないわ。それなのになぜ、みんな法律を守る?」
「そりゃ、法律を破ったら警察とかが動くし」
「じゃあ、その警察も暴力で捻じ伏せればいいじゃない」
「無理だろ。警察は銃だって持っているし、一人じゃなく組織だ。個人の有する暴力じゃ警察には勝てない」
「つまり、一個人の持つ『暴力』よりも、警察組織が有する『抑止力』の方が強いが故に、その暴力は使えないようになっているわけ」
「ふむふむ」
「ここら辺の規模と複雑さを大きくしていくと、さっきの話に繋がるんだけれど、それは横に置いておくとして」
横に置くと言いながら、挙動は紙を丸めてゴミ箱に放り入れる動きだった。
「今、スノウは暴力側なわけ」
世界端末という爆弾を野放しにしてはいけない。それ故に、ネセルは俺のことを捕獲しようとしている。それはきっと、正義というモノなのかもしれない。裏がどうであれ、真相がどうであれ、あの男は今、犠牲を抑えるために俺一人という危険を取り除こうとしてあの場にいる。
「スノウは暴力としては一級よ。純粋な制圧力としては、一人で、一晩で、小国家一つを潰せるわ」
「それは流石に言い過ぎなんじゃないか? 今の戦闘を見てスノウが強いのは分かるけれど、どう見てもそんな短時間でそこまでのことが出来るようには見えない」
校舎の崩壊やプールの破壊、地面を引っ繰り返すような膂力は驚異的だが、そこまで行って、今彼女は肩で息をしている。見て取れるほどに疲労を見せている。
「あー、まぁ、今は対人シフトだからね」
「対人シフト?」
「小さい的に一定量のダメージを与えなきゃいけないときに、ショットガンを握っているとして。『当てる』という点では散弾が勝るけれど、効率というものを考えるならスラッグ弾を使うでしょう?」
「スラッグ弾ってなに」
「……男ならそれぐらい知っておきなさいよ」
「えぇ……」
スラッグ弾は知らないが、なんとなく今の発言は理不尽な気がする。
「あー、もう……。ドラゴンボールで悟空たちは地球を壊せるぐらいの大規模なエネルギー波を出せるのに、一対一で戦うときは殴ったり、一点にエネルギーを集中したかめはめ波を使うでしょ? あんな感じよ」
「あぁ、なるほど。今のスノウたちの攻防はまさしくそれなのか」
「これで伝わるのかー……」
一応、散弾のくだりでニュアンスはなんとなく理解していたのだが、すとんと頭に入ったのはドラゴンボールだったので、何とも言えない。
「で、ここで重要なのは。その攻防は両者の実力が近しいか拮抗してなければ発生しないという事よ。あいつらばかすか殴る蹴るしているけれど、あれがもし防御されず、直接地面でも殴っていたら、小規模な地震ぐらいは起きるわよ」
「地震が発生するような打撃って……」
ではそれを受け止め、五体満足でいるネセルという男も同様ということなのだろう。
――否、学府はスノウの古巣だ。スノウという個人の力量だって把握されている筈だ。その学府が対スノウという状況を考えて繰り出した人物なのだから刀河の言うように「同等以上」というのが正しいのだろう。
「つまり、アレはスノウ以上の力を持っているモノとして来ているのよ」
そこまで聞いて、最初の話に合点する。
スノウは危険だ。魔術師という存在の中ですら、個人としては異常な力を有している。
危険な場合、普通はどうなる?
無力化するか、排除するか、その二択が真っ先に出てくるものだ。
――実際に俺は今、そういうモノとして狙われているのだ。
では、危険な筈なのにその二択が選ばれていない場合とはなんだ?
それ以上の抑止力を有しているが故の余裕。
何かが起きたとしても、排除できるという確信。
何かが起きる前に、無力化できるという自信。
「だからこそ、ネセルは言っているのよ。『私がいるからだ』と。どれだけスノウが暴力性を有していようとも、彼のような『抑止力』を持つ学府は、それを止めることが出来る。被害を最小限に留めることが出来る。それ故に、今までのスノウは致命的な――人類に仇名す方向性を持った暴力になるような――ことを起こさない限りは、容認されていた」
――厳密には、スノウもまた、抑止力の内の一つよ。と、刀河は付け足す。
けれど、その抑止力の一つは今こうして、個人の我を通すために、仇名す側へと堕ちたのだ。
「なぁ、刀河」
「なによ」
「現実感がないんだ」
「……だろうね」
「つい一か月前までは、俺は普通だったんだ」
「知ってるよ」
「朝には妹に起こされて、眠い目擦って居間に降りれば親父が新聞読みながらコーヒー飲んでてさ、弟は楽しそうに世界情勢のニュースを眺めているんだ。朝食を並べてくれる母さんにありがとうって言って、いただきますって言って、みんなでご飯を食べるような家族なんだ」
それから、
「それから、面倒だなぁなんてぼやきながら電車に揺られて学校に行ってさ、玖島とくだらないことをダラダラと話してさ、将来とかのそういう漠然とした不安に怯えてさ、でも今が楽しいことは確かで、それがすげぇ良いことだってなんとなくわかっていてさ」
「あぁ、知ってるよ。それはスノウと一緒に見ていた」
「学校が終わったら、玖島と寄り道しながら時間を潰して、帰れば母さんがご飯を作ってくれているんだ。妹は雑誌を読みながらテレビを眺めていてさ、弟は楽しそうに宿題をやっている。親父はくたくたになりながら帰ってきて、妹と弟に笑顔で出迎えられると、『頑張れそうだ』って嬉しそうに呟くんだ」
「いい家庭だね」
「俺の日常はそういうモノだったんだ。――変わっていくものだとは理解していたけれど、それでもそれは変わらないような気がしていてさ」
変わらないモノなんてないのに、それでも変わらないように思えて、些細な変化に戸惑いながらも慣れていくのだろうって、思っていたんだ。
――そこに大幅な変化が加わった。
「スノウが現れた。超常の存在である魔術師が、現実として俺の前に現れたんだ」
でも、
「それは俺にとって大きな変化であって、社会全体として見れば、スノウの存在は当たり前の一つだったんだよな」
彼女は暴力としては一級品でも、それを抑える力は存在していて、彼女自身もまた学府という組織では抑止力として扱われていた。
制御可能な暴力。
「そんなスノウが当たり前から外れた」
俺がいるから。
「俺は当たり前ではない存在だった」
俺は危険な存在だった。
「そんな俺を守るために、スノウは今、今まで彼女を社会に適用させていた存在と向き合っているんだよな」
◆◆◇◇◆◆
スノウは跳ねる。
固定させた空間を足場にして、縦横無尽に跳躍する。
屋外にいるというのに、空間を壁として駆け、空を天井として跳ねる。
両手に構えた刃を振り回し、目の前の男の首を跳ねようと躍起になる。
ネセルは飛んだ。
その背中から翼を生やし、皮膚は硬化した鱗に覆われ、太い尻尾を振り回してスノウへと応戦していた。
「竜種形態」
――形態変化。魔術によって他種の特徴を人の身へと宿らせる術式。
ネセルはその中でも『幻獣種』と『幻想種』に分類される様々な種族の特徴を色濃く宿す、学府にとっての成功個体である。
振るわれる刀身を左腕で受ける。
数枚の鱗に罅が入るが、それだけに留まる。
止まった刃を弾き、右腕をその隙へと差し込むように突き出す。
スノウは弾かれたのとは別の刀でその腕を受け止める。
刀身をへし折るためにそのまま体重を乗せて押し込もうとするが、その瞬間に受け止める力は無くなり、スノウが後方へと跳ねる。
力の押し合いを前提とした押し込みであったが故に、そうはならなかったネセルの身体の重心は若干のズレを生み、バランスを崩す。
後方へと跳ねたスノウは即座に空間を固定して足場を作り、バランスを崩したネセルの脳天へと刃を振り下ろす。
◆◆◇◇◆◆
振り下ろした刃は、当たったけれど、当たりではなかった。
竜人種へと姿を変えた男は首をずらすだけで、それ以上の回避行動を取ろうとはしなかったが、それだけで私の攻撃は無力化された。
生えた二本の頑強な角、その片方に刃は当たり、そして弾かれた。
――硬すぎるでしょ!
先ほどまでの人狼状態が回復力に優れた、攻撃を受けることを前提とした形態であるとすれば、今の竜人状態は攻撃を通さないことを前提とした形態だろう。
だが、いくらなんでも通らなさ過ぎる。
私の刀は師匠から強奪した中でも最上の業物だ。『概念付与』だけでなく『精霊の施し』まで多重に行われており、事象にすら干渉できる域まで高められている。
にも拘わらず、鱗がちょっと削れて終わりとはなんだ!
しかも、罅が入った鱗はすぐに生え変わり、古い鱗はこちらへと射出される。
「ずっるい!」
思わず口に出てしまう。
「戦いに卑怯もなにもなかろうが!」
男はこちらへの攻撃を緩めずに、律儀に私の言葉に返事をする。
「わーってるわよ!」
振るわれる尻尾の一撃を左右の剣を立てて受け、逃し切れない勢いはそこに合わせるように身体を回転させながら後方へと跳ねて消す。
一度完全な防御へと移行したのがまずい、男は追い打ちを掛けるためにこちらへと接近する。
翼による飛翔であるにも拘らず、男の空中での機動力は私の跳躍よりも速く鋭い。
空間を蹴るということしか出来ないが故に、直線軌道しか描けないのだが、私はそれを跳躍数でカバーしている。回数を増やすことにより、直線の距離を短くし、描く軌道を複数に、複雑にして多角的な攻撃を試みている。空間の固定に掛ける魔力と集中力、多段的な肉体への負荷を度外視した動きのため、生半可な相手ならば動きについていけずに即座に斬首まで持っていけるのだが、この相手にはそうはならなかった。
竜種の加護。空中の覇者である竜は空を自由に泳ぎ駆ける。
翼の微細な動き一つで身体が浮き、傾き、移動する。
片翼の羽ばたき一つで空中へとホバリングし、もう片翼の動き一つで加速する。
しかも、加速中に翼を制御することによって軌道に変化を加えられるため、私よりも空中移動の自由度が高い。
機動力で言えば向こうが上だ。今はまだ、私はそれに対応できている状態だけれど、現状が無茶をしている状態だ。このまま行けば先に私の方が崩れる。
事実、先ほどまでは上回っていた手数が追い付かれ始めている。
純粋な回避能力で言えば私の方が上だ。体捌きによる回避とその流れからの差し込みによって男に対して防御を取らせていた。
そう、男は防御を取っていた。頑強な鱗があるにも拘らず、男は私の刃を受け止めるときにはその腕や脚で行っている。理由は明確だ。その箇所は特に鱗が厚く、受けて砕けたとしても肉にまでは届かない部分ということだ。つまり、そこ以外の部位――関節などの必然的に鱗が薄くならざるを得ない箇所ならば刃が肉まで到達するということ。
――狙うのならば腹部だ。
身体構造上、屈む姿勢を取れるようになっている以上は腹部に鱗は密集できない――できたとしても、それは他の部位よりも薄くならざるを得ない。
四肢の関節では結局のところ、部位の欠損までしか行けない。体力などの条件が五分ならば、一つずつ切り落としていくことも問題ないが、すでにこちらは限界が見えているのに対して相手の底は見えていない。ならば、そのまま命へと届く腹部への一撃こそが最適解だろう。
大振りな尻尾の一撃に対して、受け流しを行いつつ後方へと大跳躍を行う。
距離を取り直すことによって、体勢の立て直しを行うためだ。
当然のように、男はそれを許さない。
◆◆◇◇◆◆
その後退への追撃が、誘われたものであることをネセルは理解した。
右肩が『何か』に衝突した。だが、衝突した『何か』はすぐに霧散した。
感覚としては道で躓いたような状態。
それによって姿勢が少し崩れるが、些細なものであるため、動きに支障は出ない。
――支障は出ない、それだけならば。
次に脇腹、次に膝、次に足首と『何か』が当たる。
翼があり、尾があり、飛翔中であるが故に、重心が通常の人体とは異なる位置にある。
それにも拘らず、それらの連鎖は全てが的確に重心を崩すための点となる衝突だった。
「――ッ!」
体勢が崩れる。
そこまで行けば、それが固定された小さな空間への衝突であることが分かる。
――空間魔術の使い方が上手い!
固定された空間は魔力の塊であるため、事前に配置されれば気付ける。
だが、ネセルが気付くことすら出来ない直前のタイミングで空間が固定される。
空間魔術は空間に流した自身の魔力へと術式を走らせることにより発動する。
ここで一つの根本的な疑問として、空間の固定に対象物を巻き込まないのは何故なのかというものがある。対象物がいる範囲をそのまま固定すればいいのではないか? となるのだ。
――理由は魔力の干渉による術式の不発である。
魔素濃度が高いモノからは常に魔力が漏れ出る。スノウのように意図して魔力を放出しなくとも出るのが常となる。そして、その漏れ出る魔力こそが理由となる。
ある程度距離が開けば、漏れ出る程度の魔力ならば大気の魔力に溶け込むが、近ければ近いほどにそれは濃い。そして、その漏れ出た魔力が空中に流されている空間魔術師の魔力に干渉し、走らされた術式を不発にさせる。それ故に、空間魔術というのは、魔力を宿した対象物の内部や間近に発生させることが出来ない。
――しかし、スノウ=デイライトはこの戦闘中に私の魔力を把握し、空間魔術を成立させられる最短距離を見極め、それを達成させるだけの技術力を以てして、私の進行方向に固定した微小な空間を設置している!
そして、それ以上にネセルが感嘆している要素は、
――数合の遣り取りで竜人の重心を把握し、命懸けの戦いの最中にそれらを躊躇うことなく実行できる胆力とセンス!
ネセルは断定する。スノウ=デイライトという存在に於いて、一番に目を見張るべきはその魔力量でもなければ、空間魔術という稀少な属性を扱えることでもない――戦闘への集中力であり、相手を殺すことへの判断力と、それを十全に実行できるだけの精神力。
器としての強度。探索者としての求願。進化のための土壌。
――デイライトが目指した答え、それの一つの到達点! 確かに、これならば!
◆◆◇◇◆◆
スノウは構える。
後退は一瞬のみであり、即座に背後の空間を固定し、それを足場として垂直に降り立つ。
姿勢を崩し、無防備な胴体を見せながら向かってくるネセルへと確実な一撃を入れるために。
突きの姿勢。相手の加速に合わせ、刃をその場に固定させる。
崩れたのは一瞬。ただし、これは刹那の殺し合い。
一瞬はとこしえのように長く、果ては致命へと至る。
「とった」
瞬きすれば刃は鱗を砕き裂き、ネセルのはらわたを引き裂き、戦闘の継続が不可能となる負傷になる――そこまでのイメージがスノウには見えていた。
「――ッ」
が、しかし、ネセルは二回りほど膨れ上がっていた。
「――は?」
スノウのイメージが崩れる。
ネセルの肉体が膨れ上がり、それに伴い刃の貫通点がズレる。
姿勢の崩れ方に合わせた完璧な合わせ。故に、膨張に伴う崩れ方の変化は予想外。
――三度目の形態変化。
極東に存在する幻想種。隆起する肉体、額から生える禍々しい黒角、金色に光る瞳。
「鬼種形態」
刃は横腹を貫くが、狙いから逸れたことにより内臓には届かず、致命から逃れる。
肉は裂けるが骨には届かず。
「――この国の諺にそんなのがあったな」
ネセルの右腕へと魔力の流れが集中するのをスノウは見ていた。
振りかぶられた腕が倍に膨れ上がる。怒張する血管には純度の高い魔力が巡る。
防御のため、差し込んだ刀を引き戻そうとするも、抜けない。
――手を離すべきだった。
スノウは一瞬の判断ミスを悔いる。今から手を離したところでもう間に合わない。
故に、スノウは全身に巡る魔力を一ヶ所に集中させる。
ネセルが振りかぶる腕の軌道は単純明快。
顔面を狙った必殺の右ストレート。
瞬間、空気が爆ぜる。空間が揺れる。
およそヒトの顔面を殴打した時に響くとは思えないような重く低い激突音。
爆発地点から一つの塊が亜音速で校舎の教室棟へと突き刺さる。
連なる教室を巻き込み、四階から一階に至るまでの殆どをその衝撃で破壊しながら、ソレは地面へと激突した。地面は衝突地点から放射状に砕け、歪んだ地形は周囲に小規模な揺れを引き起こす。
◆◆◇◇◆◆
三度目の形態変化、それも全てが幻種系列への変化ときた。
「自己確立ができなくなって、廃人になれっつーの」
悪態を吐きながら立ち上がり、鼻に違和感を覚える。手で触れると、折れていた。
「鼻血も出ているし」
中が切れているのは左側なので、右側を抑えて一度中身を噴き出し、鼻の通りをよくする。傷の治りはかなり早いので、すでに出血は止まっていた。折れて曲がった鼻も手で戻し、違和感のない位置へと動かす。
校舎の崩壊によって生じた土煙が鬱陶しいので、空間を掴み、振り払う。
土煙のあった空間を一塊にして、横へと投げ捨てると視界は晴れ渡り、そいつはそこにいた。
「「それで生きているのか」」
お互いの声が重なる。
「…………」
男は私の顔を見て、黙り込む。鼻血を拭った跡を見て、こいつは何を思ったのだろうか。だが、そんなことに言及している余裕はない。ここで私が考えるべきことは別にある。
「あんたがバケモノなのはわかった。だから私も本気を出すよ。――奥の手だ」
◆◆◇◇◆◆
「なぁ刀河、常々思うのだが、どうして最初から本気を出さないんだろうな」
最初から必殺技だったり強い技だったりを使えよ! と思うのが世の常である。
「言い方に語弊があるわね。ここでいう本気は、全力を出すって意味よ」
「それ、どう違うんだ?」
「スノウはネセルを殺すために、常に適切な行動を選択して――本気を出していたよ。でも、それは全力ではない」
「だから、その全力をさっさと出せって話だろう?」
「全力を出したら疲れるだろうに」
「えぇ……」
「疲労はかなり重要なことだよ。五〇メートル走とシャトルランの関係だと考えてくれればいいさ。例え五〇メートルを六秒で走れたとしても、シャトルランでそのペースで走り続けたらすぐにダメになるでしょ?」
例えが学生的でとても分かりやすい。
「でも、ネセルとの戦闘はどちらかと言えば五〇メートル走じゃないのか?」
ネセルを倒せば終わりというゴールが見えている。長期戦になるぐらいなら、すぐに全力を使って倒した方が最終的な疲労度は抑えられる筈だ。
「戦闘がネセルだけで終わるとは限らないよ。もしも全力を出してネセルを倒したとして、その疲労困憊の状態で第二、第三のネセルが現れたとしたら、それらを退けられる可能性は一気に下がる」
「あぁ、そうか。相手はネセルではなく、学府なんだよな……」
学府はネセルのような抑止力を何人も保有している。つまり、後続がいる可能性は存在する。
「今、スノウの後ろ盾は私と天木だけで、ネセルと同格のやつらが私たちに向かって来たら、まぁ、三〇秒保てばいい方でしょうね」
「じゃあ、今までシャトルラン――適切な、最低限での撃退を行おうとしてきたスノウが全力を出す方向へとシフトしたということは……」
「そうね、なりふり構っていられない相手だと判断したと、そう考えていいわ」
それは、まずいのではなかろうか。
いや、先ほど刀河は言っていた。スノウは負けるだろうと。では、どうしてこいつはこんなにも冷静に事態を眺めていられるのだろうか?
「なぁ――」
それを問おうとして、言葉を手で遮られる。
「――それと同時に、スノウはネセルさえ倒せば問題ないと、そう判断したのよ」
――そして、
「けれど、スノウは負けるでしょうね」
そう言って、刀河は懐から取り出したものを俺の眼前に掲げた。
◆◆◇◇◆◆
この男の後続は無いと、その確信があった。
ことこの段階に至るまで、追加の戦力がいないのがその証だろう。いたとしても、それは私とこの男の戦いに入ったとしても邪魔になる程度の戦力だ。
一つ、最初は私の実力を測るためにこの男だけを充てるのは順当だからだ。下手に複数人を嗾け、私の実力がそれら以上だった場合における損害が大き過ぎる。故に、基準を測る上でもこの男だけが充てられたとしても不思議ではない。それを見た上で、さらに人員を呼ぶかどうかの判断もできる。
一つ、すでに様子見の時間は過ぎた。例え今までの遣り取りが全力ではなくとも、余力を残す戦い方という点で見れば、ある程度はその実力が推し量れる。その上で、追加の戦力が投入されてこない。そして、その理由はこの男一人で私を降すのが可能だから――ではない。男は私よりも上の実力を持つ者だ。能力とその習熟度、経験の差が私の総合力を上回っているのは私とて理解している。それは男もまた同様だろう。おそらく、火灼ですらそれは見切っている筈だ。いや、彼女のことだから、私たちが遣り取りし感触を確かめている最中に理解していたとしてもおかしくはない。彼女の見る眼は確かだ。
――だが、実力が上ならば勝つのが男なのかと言えば、否だ。
勝負に絶対はない。ありとあらゆる要素が絡み合うが故に、その終着を予測出来ても確定はできない。余程の実力差があれば話は変わるが、この男と私の間にそれ程の差はない。つまり、私はこの男を絶命へと至らしめ得る可能性がある。
もしも後続がいるのならば、投入する筈だ。私がこの男を打倒する可能性を、少しでも零へと近づけるのならばそうしない理由がない。それにも拘らず、未だに男は一人だ。
つまり、世界端末――秦くんを捕獲する上で動いている戦力の中でまともに私を倒せるのはこの男一人ということになる。
そして、それが追加されることはない。この男は学府として動いているが、それが学府全体の総意ではないと見える。おそらくは利権絡みによる秘匿と牽制のための少数での行動。一番手っ取り早いのは学府総出での物量による圧倒こそが一番だった筈なのに、それを行っていないのがなによりの証明。
故に、私はこの力を行使することを決めた。
――ここでお前を殺そう。
『私は何処から発生した? 私とは何だ? 私は何処へと行き着く?』
◆◆◇◇◆◆
『――あゝ、君の為なら死ねる』
この戦闘において初めての呪文の詠唱。
空間に満ちた魔力がスノウへと戻る。
――違う、アレは戻っているのではなく、集っている。
大気に満ちた自然の魔力すらもスノウへと集う様と、その肉体の変化をネセルは見る。
スノウの碧い瞳が赤みがかった金色へと変化する。覗く歯は鋭くなり、魔力の質が変化する。
――その特徴をネセルは知っている。
「吸血鬼への形態変化か!」
このような隠し玉を持っていたのかと、ネセルは笑う。己と同じ形態変化――それも幻想種という同格と来たのだ。並大抵の魔術師であれば一瞬で自己崩壊を起こすような魔術でもあるにも拘らず、スノウはそれをやってのけた。
その事実に興奮を覚えながらも、ネセルは跳躍し、その肉体へと拳を振るう。
――吸血鬼の特性は何よりもその回復能力だ。
だが、それには限度がある。ならば、その限度まで削れば問題はない。
それ故の先制。呪文の詠唱と、肉体の変化による反応へのラグが生まれる瞬間を狙っての命を刈り取り続けるための一瞬の連撃。
「――違う」
拳は届いた。顔面、喉元、肩、腕、胸、腹、鼠径部、脚と満遍なく砕いた。鬼の膂力によって、スノウの狂気染みた魔力の集中制御すら間に合わないような連撃を放った。
それにも拘らず、一発たりとて通らなかった。
その感触に危機を感じ、スノウが反撃の動作を取る前に後方へと距離を取る。
「――まさか」
そこでネセルは己の思い違いに気付く。通常、形態変化のために呪文の詠唱は必要としない。形態変化は己の肉体に刻まれた術式――刻術に魔力を通すことによって行われるため、そのような工程を必要としない。それにも拘わらずスノウが詠唱を行ったのは、その補助のためだと考えた。事実、彼女は大気中の己のではない魔力すらをも自身へと吸収していた。形態変化に掛かる負荷を少しでも軽減するための術式だと判断した。だが――
――魔術によって吸収していたのではなく、肉体の変化に伴い、呼吸として行われたものか!
大気中の魔力を吸収して生きる存在――精霊種。
通らない攻撃――生物としての質の違い。
形態変化ではない。特徴の引き出しなどでは到底届かない在り様。
「純粋回帰! それも吸血鬼の原種かッ!」
――純粋回帰。
この惑星における生命の成り立ちは一つ。
そこから派生し続けて生まれた存在が現代を生きるモノたち。
その源流へと遡る過程で存在する純粋種――或いは原種。
生物が、生物としての在り様を確立させればさせるほどに消えていく因子。
もはや人が人として出来上がってしまった現代では、失われた古の因子。
だが、そんな現代に於いて極めて稀に発生する先祖返り。
因子を持って生まれるモノが存在する。
そういったモノがありとあらゆる積み重ねの果てに辿り着ける極致。
――それこそが純粋回帰。
ネセルはデイライトの積み重ねた結果を見て驚愕する。
世界端末を眉唾だとは思わなかった。それでも、それが存在することは半信半疑だった。
――だが、確かに来た意味はあった。これを目に出来ただけでも、十分に価値がある。
目前の脅威に畏怖と敬意を覚えつつも、ネセルは冷静に行動した。
取った手段は後方への大跳躍。
――精霊種の特徴は、神の派生であるという点だ。
厳密には神から発生する現象の一つから成る存在であり、存在する位階は天使や悪魔より下位、つまりは人類などと同じに位置する。しかし、人類と同じでありながら神の因子を濃く内包するが故に、その法則の一部は神と同一。
――存在としての断絶権能。概念による一方通行の接触権限。
それはとても単純な強さ。干渉が出来ないという絶対的なルール。
――だからこその一時的な退避。今の己では、あの状態のスノウ=デイライトには掠り傷一つすら与えることは不可能。
吸血鬼の原種。人々の流布する伝承の原形となった存在。その特徴は星からの膨大な生命力の供給。ただそこに居るだけでありとあらゆる物体から生命力を譲渡されるという在り方。
近くにいるだけで危険な存在。それ故の退避。ネセルは戦闘が始まった瞬間から校舎を取り巻くように空間が隔離され、スノウによって異界へと閉じ込められていたことも理解している。
ネセルにとって空間の異界化自体はそこまで問題ではなかった。近隣への被害を軽減できるという点で考えれば、それは学府としても利点でもあった。もしもスノウが行わなければネセルが連れてきた術士たちに行わせていたことであり、空間の形成が甘ければ乗っ取らせる手筈ですらあったのだ。
――しかし、空間の完成度は高く、中に入り込めたのは己のみ。
異界化された空間の特性は外部との断絶。侵入を拒むことと、内部の変化を外部が把握することが出来ないという二極化。条件を絞ったがための特化。
――ただし、特化しているが故に、空間が侵入者を蝕むことはない。もしもその方向性を少しでも歪めようものなら、脆くなった場所から外にいる者たちが世界端末を捕獲しようと動くだろう。
そしてそれは、今さっきまでの話だった。
――純粋回帰による全能力の底上げに加え、吸血鬼の原種としての特性、それらから導き出されるこの空間の特性は、空間内の異物の消化と吸収!
明樹高校の敷地は、スノウの胃袋の中と呼称しても差し支えない状態となっている。
ネセルは内心、かなり焦っていた。
これが純粋な火力による暴力であれば、まだどうとでもなった。だが、吸収による一方的な同化現象は、現状のネセルが持ちうる手段では回避のしようが無い。それ故の転進だった。
――なにより、純粋回帰などという埒外の能力は数分と保ちはしないだろう。
過負荷による自滅待ちと、致死領域からの離脱、そのための後退だった。
――空間の特化は外部からの干渉に対する拒絶。それ故に、内部からの破壊はできないにしても、内部からの退避はそう難しいことではない!
空間の一部を破壊して逃げ道を作るために、魔力を右腕へと集わせる。
莫大な熱量へと変換されたそれは膨れ上がった鬼の腕をさらに膨張させ、赤熱する腕は触れる外気を高温で燃やし、水蒸気を発生させる。
そこでネセルは気付く。
スノウが追ってきていないことに。
空間の異界化が解除されていることに。
スノウがどこかに繋げた空間からとある物体を取り出したことに。
それは絵画。
ミランダの報告にあった、ブロウルの必要としたモノ。
天使の現界術式が埋め込まれた触媒。
――なにを、
その思考の無意味さを思考し、ネセルは四度目の形態変化を行う。
◆◆◇◇◆◆
――約一分。
それが純粋回帰を維持できる時間。スノウ自身の体調や環境など、様々な要因によって変動するが、誤差は十数秒とない。そして、スノウは純粋回帰を行ってもなお、その短時間でネセルを仕留めきれないと判断し、純粋回帰を踏み台とした。
「回帰転換」
己の肉体へと走り続ける生物という理からの逸脱、その力をスノウは絵画へと流し込む。
流し込まれた上位階の情報によって不純物である額縁や紙、インクや絵具が一瞬にして消失し、刻まれた術式だけが残り、スノウはそれらを圧縮して結晶化する。
その結晶をわしづかみ、さらに力を注ぎこむ。
術式へと強制介入し、自身の肉体を依り代に天使を呼び出す。
――上位階の存在の完全顕現など、周囲への影響が予測できず、制御できるかすら怪しい。
それ故に、スノウはそれを己の肉体へと降ろすこと選択した。
生命が存在する階層における例外存在。神の一端。精霊種。
例外的に神の権能の一部を地上に再現できるその肉体へと、天使を降臨させた。
頭上に浮遊するのは光輪。
背中に伸びるのは片光翼。
光を衣のように纏う姿は天の御使い。
「――――――」
七秒。
天使の憑依が行える時間の限界をスノウは知覚する。
「――――」
六秒。
それだけあれば十分だと判断したスノウは空間へと手をかざす。
光が集う。輝きが収束する。
「――」
五秒。
束ねられた光が一筋の光となる。
「――――――」
光は空中を跳ねていたネセルを呑み込み夜空を裂く。
「――」
四秒。
スノウの意識が白に染まる。
◆◆◇◇◆◆
「一目惚れ、ですか」
秦くんはとても味のある表情を浮かべながら、私の言葉を復唱した。
「うん、一目惚れだよ。初めて君を見た時の胸の高鳴りを私は決して忘れない」
それは秦くんと付き合い始めて数日が経過したころ。初めてのデートで映画館に行って、観終わった私たちは喫茶店に行って、映画の感想を話していた。お互いに抱く感想や好き嫌いの違いを楽しんでいると、ふと、思い出したかのように――本当は、それこそが真っ先に訊きたかったであろうことを――君は問うてきたのだ。
――デイライトは、どうして俺のことを好きになったんだ?
どこか照れるかのように、どこか躊躇うかのように、どこか不安がるように、恥ずかしそうに君は聞いてきたので、私は率直に答えた。
「――だから顔だね!」
「わぁ軽い薄い」
「その後一年間は秦くんのことだけを見て考えて過ごしていたけれど、今では顔も体も精神も心も性格も何もかもが全部ぜんぶゼンブ大好きだよ!」
「わぁ重い怖い」
乾いた笑いをしながらも、引かないのだからこの人は肝が据わっている。
「運命だと思ったの」
君がそういう言葉をあまり好んでいないのは知っているんだ。
それでも、私はそのとき本当にそう思ったんだよ。
「運命かー、運命ねー……。まぁでも。その方がしっくりくるかなぁ」
苦い顔をして、でもなにか得心したかのように笑う。
「しっくり?」
「しっくり。俺はこれでも山も谷もない人生を歩んできた自信があってなー」
身辺調査や過去を知る人たちに聞いて回った話を総括すると、確かにそういう人生、人となりという結論に至る。常に身の丈に合った向き合い方をして、生きていたのだろう。
――だからこそ、彼は魔術というモノに向き合ってなお、それをあっさりと受け入れ付き合っているのだろう。魔術を見て、人が死んで、人が殺されて、それでもなお、困惑はしても、慌てなかったのだろう。
「別に顔が飛びぬけて良いわけじゃない。頭だってどちらかというと空っぽだ。だから、デイライトが俺のことを好きになった理由が運命だって言うんなら、多分それは一番納得できるんだよ。因果なものであるのならば、それは俺を否定できない」
自身をあまり肯定しない君は、そういった自分ではもうどうしようもない大いなる何かによる力ならば、納得してもいいと言ったのだ。
「私は秦くんの顔が好きだよ」
「それは多分、好きになった奴の顔を好きになるってやつだろうな。運命を起点とするのならばさ……。あー、でも、嬉しいな。そうやって好きだって言ってくれるのは、嬉しいよ。ありがとう」
そう言って君は私に微笑んだ。
――その時間は幸せのカタチだった。
君が好きでたまらないんだ。
君の全てが欲しいんだ。
君に私だけを見ていて欲しいんだ。
でもそれ以上に私は君に抱き締めてもらいたくて、
それ以上に私は君に笑いかけてほしくて、
私は、ただ、君と一緒に、
きみのとなりに――
◆◆◇◇◆◆
意識が回復する。
どれだけ意識を失っていたのだろう。
すでに肉体は吸血種から人のそれに戻っている。
目の前には男が立っていた。
五体満足だった。
「なん――」
疑問の言葉は途中までしか出なかった。
純粋回帰による肉体への過負荷。それに伴う全身の激痛によって声が止まる。
男が腕を振るって、私の四肢を砕いた。腕と脚はもう原形が残っていなくて、肩と太ももから伸びているから、その肉と骨の残骸が元々は手足であることが辛うじてわかるような状態になった。私の喉から出た音は言葉ではなく、ただの悲痛な呻きだけになった。
「がぁああぁぁぁあっぁ……ぁあぁあぁぁぁああああ!」
高位階の情報熱だ。魂すら燃やし溶かす。
なんで生きているんだ。
なんで、なんで、なんで、なんでなんでなんでなんで――
極度の疲労と激痛によって思考が定まらない。
ありえない現実を突きつけられて浮かぶ言葉は困惑と疑問。
――いや、そんなことはどうでもいい。
目の前にはまだ敵がいる。敵はまだ生きている。
私と秦くんの幸福を邪魔する存在はここにいる。
――ならば、殺すだけだ。
全身を這い回る激痛など関係ない。腕と脚に感覚がなくとも問題ない。
ただ殺すだけ。ただ殺す。
◆◆◇◇◆◆
――眼の輝きが失われていない。
手足を砕いたにも拘らずその眼に殺意を滾らせるスノウを見て、ネセルは肉体の損壊では意味がないと悟る。
「貴様は何故戦おうとする?」
「彼が好きだから」
スノウは即答した。
「たかが一人の男だろう。男など星の数ほどいる。探せばもっといい男だって見つかるだろう」
「秦くんは一人しかいない」
スノウは即断した。
「アレを特別視する理由が貴様にはないだろう。アレが世界端末であるとは知らずに、貴様は近づいたのだろう?」
「秦くんは秦くんだから特別なんだよ。世界端末なんか知るか。それはお前らにとっての特別だろう。私にとっての特別は彼が天木秦であることだ」
スノウは迷うことなく言い切った。
「そうか」
そこまでの言葉を引き出してネセルは口角を上げる。
「スノウ=デイライトよ。貴様はデイライトがどうして『変わりモノ』と呼ばれているか知っているか?」
いきなり自身に関わることを問われ、スノウは訝しむが、会話によって少しでも隙が出来るのならば、回復が出来るのならばと思い、応じる。
「……学府の『席』への執着を見せなかったから」
「では、何故デイライトは一度だけ『席』へとついた?」
学府における『席』とは、中枢における最高権力を七つに分けたもの。つまりは『席』を獲得することは学府の七分の一を掌握することに等しい。人の上に立つ権力。探求のための資金と資料。立場を盤石とするための後ろ盾。およそ魔術師と呼ばれる生き物ならば誰もが最低一つは望むようなモノがそこにはある。
当然のように、それを獲得するための労力は莫大となる。
「『席』の獲得は容易ではない。当時のデイライトが払った代償や犠牲は生半可なモノではなかろう。ただ、その代償すら、『席』を獲得したことによって得られるモノを考えれば――『席』の一つをデイライト家が抑え続けられることを考えれば、釣り合いが取れるどころかおつりが出るものだった」
だが、しかし、
「ご先祖が『席』にいた期間はたったの十年」
学府の関係者で少しでも『席』について調べれば知っているような事実をスノウは口にする。
「失脚ではない、陰謀でもない、ただの放棄。自らそれを手放した。だが人々はそれを愚行だとは言えない。そこに至れるだけの能力をその者は確かに保有していた。席を失ってもなお、その事実は変わらない。愚か者とでも言おうものならば、その言葉は自らへと還る。故の変わり者。変わり者のデイライト」
スノウはその事実を知っている。特段隠されたことではない。幼少のみぎりに先祖へと思いをはせた少女が親や祖父母に訊ね、文献を漁ればすぐにでも知ることだった。
スノウが浮かべる「それがどうした」という表情を見て、ネセルは口を開く。
「では、あっさりと手放すような『席』をどうして望んだ?」
『――そこに求めたモノはなかった』
先祖の言葉を一字一句違わずにスノウは呟いた。
スノウの先祖には求めたモノがあり、そのために席へと至った。だが、そこには無かった。
――故に捨てた。
有象無象の魔術師たちが、夢に見ることすら烏滸がましいとされる席の獲得を、デイライトは呆気なく放棄した。
「デイライトが掲げるは『全能』であり、今の貴様や貴様の兄――スコールはそのための足掛かりとして『万能』へ到達せんとしている」
こいつは私の――私の家のことをどこまで知っているのだろうかとスノウは眉をひそめる。
「昔、あるところにサン=デイライトという男がいた」
「……は?」
急に、真顔で淡々と語り出したネセルをスノウは呆然と見つめる。
「ある日のことだ。男は完全を目指した。天啓と称すべきか、気が狂ったと評すべきか、男の目標はソレになった」
それはスノウにとっても馴染み深い、スノウの先祖の話。デイライトという家の原点。
「男はそのための手段として魔道を選んだ。男にはその才能があった」
それからはただ研鑽のための年月。親は子にその業を残し、子はその呪いを悲願として受け継ぎ続けた。どこにでもよくあるような家族の話。ありふれた継続の物語。
「それから時が経ち、男の子孫である少女――ミスティ=デイライトは一つの結論に至った。ソレは人の身では不可能であると」
スノウはその言を聞いて、固まる。
――知らない。誰だそいつは。いつの話だ。
「ヒトという器には限度があり、それは決して完成しえないと悟った。故に、少女は一つの方向性を定めた。まずはヒトの器を超えること」
「それは――」
スノウの言葉は遮られる。
「だがそれもすぐに破綻した。当然だ。ヒトは人であるが故にひと足り得る。ヒトの器にそれ以上の存在を求めたところで、壊れるだけだ」
では、どうした?
デイライトは諦めたか?
否、その先は今ここにいる。
「ヒトでありながらヒトならざる器を求めた」
スノウが使用した純粋回帰。純粋種への先祖返り。
純粋種の因子を色濃く受け継ぐ必要がある先天的な才能。
生命として確立され、その過程で消えた因子をどのようにして?
因子を色濃く受け継ぐ必要があるのならば、因子を持つ者と交わればよい。
「だが、それすらも失敗だった。それだけでは万能への足掛かりすら程遠かった」
神の権能によって生じた現象では、結局神にすら至れない。そして、望んだのはその先。
「デイライトはありとあらゆる可能性を探るために貪欲だった。その過程でその能力は研ぎ澄まされ、研鑽された技術と血統によりその名は魔術界へと知れ渡った。そして、当時の当主であるクルード=デイライトは学府の門戸を叩いた」
スノウ自身、そこまで歴代の当主たちの名前を把握はしていなかった。要所での、歴史に関わるようなことを行った先祖の名前は知っていても、学府と付き合いを始めた時の当主の名前までは把握していない。だから、それをよどみなく語り上げるネセルがスノウには気味の悪いモノに見えた。――だが、そんなことよりも、その内容にこそスノウは怯えていた。
――それはとても嫌な予感。身震いするような場所に立たされている感覚。自身を知覚する上でもっとも大事な足場が崩れていく恐怖。
「それから二代経て、ガスト=デイライトは席を獲得する。そこで彼は何を知り、何に失望し、何に希望を見出したか、知っているか?」
その問いかけはスノウへと向けられたものであるにも拘らず、その回答を求めていない。
「席についたガスト=デイライトは学府が納めるありとあらゆる秘術を漁ったが、当然のようにそこにはデイライトが求める望みへと至る解答はなかった」
故に失望し――
「だが、それとは別に希望を見出した」
その希望とは――
「『世界端末』という存在である」
学府が隠匿し、隠匿し、隠匿した埒外の存在。
世界そのものの代替。それらは世界が内包する存在から無作為に選ばれる。
神の中から、天使の中から、悪魔の中から、生命の中から――人の中から。
人でありながら、それは世界である。
ヒトの器でありながら、それはセカイの器である。
「そこからのデイライトは、目的への手段を変更した」
「……おい」
スノウの言葉をネセルは無視する。
「――すなわち、世界端末の獲得」
「おい……」
辛うじて声を絞り出すスノウをネセルは見やる。
「さて、スノウ=デイライトよ。貴様はどうしてこの極東へと惹かれた?」
親友、刀河火灼の故郷であるから――でも、私はここを知る前から、ここに惹かれていた。
「さて、スノウ=デイライトよ。貴様はどうして兄に祖国を追い出された?」
席を獲得する争いの際に、スノウという少女が危険であるから――私が危険な目に遭うからではなく、私という危険な存在がいることによって、私とスコールの組み合わせを脅威だと判断し、他の競争相手全てが手を組み、スコールとそれ以外という対立図を作らせないため。
――では、ない? 席を争うような人達だ。私の立ち位置というモノを理解していない奴らではないだろう。兄とは距離を置いているが故に、たとえ席争いだろうが不干渉など目に見えていた。それどころか、下手に私自身をつついて火灼や師匠を藪から出すことの方が問題だ。だから、私に対してスコールが取るべき選択肢はそんな私を放っておくことだった。なのに、あの兄は私を無理やり国から追い出した。そんな目立つことをした。席争いの真っ最中だと言うのに。なんのために? 目立ち――注目されるために? 注目されようとした理由とはなんだ? 学府の人間が注目することによって発生することは?
「さて、スノウ=デイライトよ。貴様の両親はどうしてその旅立ちを許した?」
スコールが次期当主であり、そうではないスノウにはせめて自由を――というわけではない。両親の愛を本物だと思ってはいるが、それとは別に、家の存続のためと生物本能として、私は兄の保険であり代替だ。スコールが『席』争いという、場合によっては殺し合いに発展するような競争へと足を踏み入れたのならば、その可能性を考慮して、私を手元に置き安全を確保しようとしてもおかしくない。では、何故そうしなかった?
「さて、スノウ=デイライトよ。貴様はどうして天木秦に惹かれた?」
それはスノウの一目惚れであるはずだった。――あの衝動は本物だ。では、その本質は?
「さて、スノウ=デイライトよ。どうして学府は天木秦を『世界端末』だと断定した?」
人の身でありながら悪魔の情報によって消失せず、ブロウルという男が天使より優先した存在であるため。――ただ、それだけで断定が出来るのか?
例えばそこに、もう一つの理由が加えられたら?
「やめろ」
四肢を砕かれていても尚、スノウは上体を起こしてネセルがその先を口にするのを止めようとした。
「とても簡単な話だ」
「黙れ」
「デイライトは世界端末を探すための探知機を作り上げようとしていた」
ネセルは黙らない。
「そうして世代を重ねていくうちに、傑作とも呼べる兄妹が生まれた。兄は万能には程遠くともヒトの器としては広く、深く、濃い存在として出来上がっていた。そして妹はその兄が取りこぼしたモノを補うかのように、兄が受け継がなかった才と能を保持していた」
優秀な兄と、その残り滓の妹。
「そんなスノウ=デイライトが極東の国へと興味を示した。何も知らないのに、まるでそこに目的の何かがあるかのように、無意識にそこへと惹かれた」
目指した一つの在り方――探すモノ。
兄が得られなかった能力。
そして、兄の持たない才を得ていた妹。
「スコールはデイライトの悲願とは別に、己の野望を抱いていた。そのためには学府の席が必要不可欠であると結論し、席争いへと踏み出すことにしたのだ」
席の獲得に必要なモノは、学府への貢献と功績。
「もしも妹のソレが本物であり、世界端末を見つけることに成功したのならば、学府からの評価は盤石になると考えた」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
ネセルの言葉は止まない。
「結果として、貴様は見つけたのだ。天木秦という少年を!」
「違う!」
「誇れよスノウ=デイライト! 天木秦が世界端末として認定されたのは、『ナルコシスの剥奪』から逃れたからではなく、悪魔の記した『ヴェルデギェスの手記』からの存在消失に耐えたからではなく、ブロウルに『天使』よりも優先されたからでもなく、貴様という『探すモノ』に見初められたからだ!」
「私はっ! 私はっ!」
スノウはネセルの言葉を掻き消すかのように叫ぶ。それはもはや絶叫に近く、悲痛な響き。
「貴様に目覚めたのは世界端末を探すための機能。それを貴様は勘違いしただけだ」
スノウは耳を塞ごうとするが、その腕は砕けたままで、無理に動かそうとしたせいで傷口が開き、血だまりを広げるだけだった。常人ならすでに失血死で死んでいる量を流しているにも拘らず、少女の身体からは鮮やかな赤が溢れて止まない。
「つまり、貴様のソレは愛でもなければ恋でもない。本能ですらない。ただの機能、反応だよ」
――あぁ、この言葉でこの少女の心は折れるだろう。
ネセルはそう考えながら、躊躇いなくその言葉を口にする。
「――天木秦を誰よりも『世界端末』として見ていたのは、貴様だ。スノウ=デイライト」
◆◆◇◇◆◆
男の言う事には納得できてしまう自分が嫌だ。でも否定する材料が無くて、それを否定しようと考えれば考えるほどに否定のための材料は消えて、それが真実であるという確証が自分の中で固まっていく。
この気持ちは嘘じゃないと言いたいのに、その感情こそがただの思い違い。
今だって君のことは好きだって思えるのに、それが本当なのか自信が無い。
今まで君に言った言葉が嘘になってしまうのかと思うと、胸が苦しい。
今まで君に嘘をついてしまっていたのかと思うとが息が詰まる。
そんな自分に気付けずに、恋だ愛だと浮かれていた自分が情けない。
こうなるように仕組んだのであろうスコールに対する怒りすら湧かない。
男が腕を振り上げる。私を殺そうというのだろうか。
隙を見せた瞬間にその首を切り落とす――そのために練り上げていた魔力が、私の中のなにかと一緒に弾けて消えて、もう本格的に動くことすらできない。
――あぁ、でもこの男はスコールと親しいようだ。それならば、命までは取られないか。
でも、そんなことはどうでもいい。
もう、なんでもいいや。
あぁ――