◆四話-上
連れてこられたのは特別棟にある一室――出入り口に文芸部というプレートが下げられた部屋だった。有無を言わせない迫力のスノウに手を引かれ、ここまで来て初めて俺は口を開いた。彼女のあまりにも切迫したような雰囲気が話し掛けることを拒絶しているようで、何も言い出せなかったのだ。
「なぁ、ここって――」
それでもこうして夜の学校に連れ込まれ、扉を閉められ、鍵まで掛けられては黙っていられない。
「ごめん、秦くんは何も言わずにここにいて」
ただ、スノウはそんな俺の考えを理解していてなお、疑問への回答を拒否した。
「今だけだから。今回だけだから。これっきりだから。私のワガママを聞いて。この先一生私は秦くんに口答えしないし文句も言わないし嘘も言わないし隠し事をしない。なんでも言う事を聞くよ。秦くんが喜ぶならなんだってする。秦くんが望むならなんだってやるよ。――だから、お願いだから秦くんはここにいて」
それは必死な言葉だった。今さえどうにかなればいいと、後のことなんか何も考えていないような言葉。とても切実で、とても痛々しい悲痛なお願い。
だから、俺はそんなスノウの言葉になんて答えればいいのか分からず、言葉に窮する。
「ごめんね、こんなこと言われたら困るよね。でも、聞いてね、お願い」
この数週間でこの子の顔をたくさん見た。幸せそうな顔、嬉しそうな顔、困ったような顔、泣きそうな顔、楽しそうな顔、そのどれとも違う、追い詰められたかのような顔。
「俺はどうすればいいんだ」
状況を把握できていない俺に出来ることがなんなのか。それすらわからない。
「待ってて。私が終わらせるまで、ここで待ってて。ここは私と火灼で作り上げた空間だから、部外者が容易に侵入できないようになっているの。ここなら一先ずは安全だから、秦くんはここで待っていて。その間に、私が終わらせるから」
「終わらせるって……」
「ねぇ秦くん、秦くんは私のこと――好き?」
濡れた碧色の瞳は真っ直ぐに俺を見つめる。
「……どうだろう。ここのところずっと一緒にいて、これからも一緒にいたいとは思った。でも、これが好きって気持ちなのかはまだ分かっていない」
顔も可愛いし、スタイルもいいし、優しいし、尽くしてくれるし、会話していて落ち着くけれど、
「これが好きってことなのか、まだ結論が出ていない」
だから、そんな真っ直ぐな言葉に対して俺は出来る限り思ったままのことを言った。好きだと言われて悪い気はしないけれど、じゃあ果たして俺はこの少女のことを好きなのかと、ここまで真っ直ぐにその言葉を口に出来るかと考える。試しに口にしてみてもそれはどこか嘘臭くて、なんだか実感がわかなくて、だから結局、これが本物なのか偽物なのか、その区別すらついていない。
「そっか。ありがとう。嬉しい」
そんな俺の曖昧模糊とした不確かな言葉を受けて、スノウは顔を綻ばせた。
「私は好き。秦くんのことが好き。初めて見た時から好きで、今でも好き。きっとこれからも好き。だから、私は頑張るよ」
そう言って、金色の少女は立ち上がる。
懐から短刀を取り出し、柄を握り鞘から刃を抜き放つ。
「今はまだでも、これからきっと君に好きになってもらうの。だから、その『これから』を掴み取ってくるね」
言い終わると同時に、スノウは空間へと刃を走らせた。
そうして出来た空間の亀裂に躊躇うことなく飛び込み、部屋からいなくなる。
瞬く間に亀裂も消えていき、部屋に残されたのは俺だけとなった。
◆◆◇◇◆◆
――それはもう告白だろう。
彼の言葉を思い出して、顔がだらしなく歪むことを自覚する。
彼はまだその感情と、その感情を形容する言葉の擦り合わせが出来ていないだけだ。
時間を掛ければいい。時間を掛けて、その感情と向き合って貰えばいい。
最初はただ見てくれるだけで良かった。顔には自信があった。身体にも自信があった。だから、あとは都合が良い存在になれば近くにいてくれると思っていた。それだけだったのだ。
それなのに彼は向き合おうとした。自分なりに真摯に、分からないなりに誠実に、それがとても嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
だから――
「彼は殺させない」
陽が完全に沈み、暗闇に包まれた校舎。
その校舎が見下ろす校庭に佇む一人の男。
二メートルを優に超えるその巨躯。密度のある引き締まった四肢は鉄の塊を連想させる。
後ろへと流された傷んだ茶髪は獅子の鬣を彷彿とさせ、夜闇で妖しく光る眼は威圧的だった。
有り体に言えば、それは通常の魔術師の風体ではない。どこまでも「動かす」ということに主眼を置いたその肉体は、私と同類であるということ理解させる。
――いや、同類ではない。アレは私よりもさらにその先へと至っている。
壊す者としての究極系。
ただ只管に殺す者。
「――なるほど、噂に違わぬ傑物だ」
歩み寄った私を見て、男は感嘆の籠った言葉を漏らす。
「私の噂って、碌でもないものしか聞いたことないんですけれどね」
下手な不意打ちは悪手でしかない。この化け物とやり合うのならば、呼吸を合わせるところから始めなければならない。呼吸の種類を変える。化け物へと合わせるための、怪物としての呼吸。
「さて、スコールの妹よ。問おう――、『世界端末』を差し出す気はあるか?」
「ない」
出てくる言葉は飾り気がなく、それ故に純粋な本心だ。
「私からも聞かせて貰います。秦くんは『世界端末』と見做されているのね?」
「あぁ、学府は正式に天木秦を『世界端末』と定め、その捕獲を私に命じた」
「見逃す気は?」
「ない。『世界端末』は危険だ」
「どこが危険なのよ」
聞いた話では、都市一つと数百の魔術師と小惑星一つが犠牲になったらしいが――
「それは暴走した時の話でしょう?」
暴走なんていう不確定要素など、確率のパーセンテージが小数点第四位以下を超えるようになってから検討するものだ。
「『世界端末』は世界そのものから安全装置が仕掛けられていて、下位存在である私たち人類ではちょっとやそっとじゃ干渉すらできないのでしょう」
それならばもはや杞憂の域だ。考えることすら馬鹿々々しいだろう。
「その干渉を成し得た存在があり、それ故の暴走と、結果としての犠牲があったのだ。それは考慮に値するだろう」
目の前の獅子は事前に用意されていたであろう言葉なのか、すらすらと理屈を並べ立てる。
「我々は知っているが故に、それを事前に排除する義務がある」
「学府が関わる方がよっぽど干渉になるんじゃないのかな」
「学府が関わることが最善であると、我々は考えている」
「はっ! 随分と自分たちに自信があるようで!」
「……それはそうだろう。否、それは貴様が一番わかっているだろう? スコールの妹よ。デイライトの血を継ぐ貴様こそがそれを一番わかっているだろう?」
瞬間。私は地を蹴る。
質を高めた魔力が指先まで充満した。これ以上この男の言葉を聞く理由はなかった。
世界端末とか、学府とか、魔術とか、そんなのは本当にどうでもいいんだ。
ただ彼が私の隣にいてくれればそれでいいんだ。
それだけで私は満足だから、
そのためにこの障害を排除して、
私たちは世界の隅っこで幸せになろう。
◆◆◇◇◆◆
十歩分の距離を一度の跳躍で接近し、鬣の男――ネセルの懐へと潜り込んだスノウは握る短刀を喉元へと滑らした。
素手であるネセルはその刃を受け止める手段がないため、躱すことを選ぶ。上体を反らし、最低限の動作で刃の到達点から肉体を外す。
人体が――相手のではなく、自身の肉体が――反応できる最大限の速度で繰り出した一撃を躱されたことに対してスノウは動揺しない。伸びきった右腕をそのまま振り切り、腕に引っ張られるようにして身体を捻る。空を切った勢いそのままに捩じられた肉体はあるべき姿に戻ろうとするが、それを無理に留め、地面へとつけた腕によって体を支え、両足を地面から離す。
下半身が地面から離れたことによって、身体中に留まっていた力が捩じりを戻そうとする箇所に集中し、それは回し蹴りとしてネセルの腹部へと解き放たれる。
「がぁッ!」
腕を差し込み、防御に専念してなお、全身を通じて伝わる衝撃に呻き声を上げる。
足元が崩れ、地面に罅が走り始める。
――ネセルは事前に聞いていた情報から、スノウが戦闘を主とする魔術師であることは理解していた。そして、自身と同じようにその肉体を主体とすることも相対した時点で確信していた。
(だが、しかしッ、これは期待以上ッ!)
様子見としての防御。それも受け流しではなく真正面からの受け止め。その判断をネセルは正しくもあり、間違いであったと確信する。
ネセルは咄嗟に後方へと跳躍し、身体に残る衝撃を散らす。
「逃がすかぁ!」
スノウは一度目の跳躍にて跳ねたネセルに追い並び、二度目の跳躍で背後へと回り込む。
避けるでもなく、流すでもなく、真正面から受けることによって正面へと身体を硬め、背中を無防備に晒したネセルへの追撃として、背後を取ることをスノウは選択した。
「逃げるかッ!」
背中へと短刀を突き出すスノウに対し、ネセルはさらに地面を蹴り上げることで対応する。
自身の軌道を斜め上へとずらすための蹴りによって刃の切っ先は背中をかすめるだけで終わり、ネセルはスノウの頭上を位置取る。先程受けたスノウからの打撃と己の跳躍を加えた勢いをそのまま無理矢理身体の捻りへと動かし――解き放ち――裏拳をスノウの顔面へと叩き込んだ。
ネセルの拳がスノウの額へと触れた瞬間、衝撃がグラウンド全体へと爆発した。
その額へと拳を受けたスノウは五〇メートルの距離を僅か三回の地面の接触のみで校舎まで吹き飛び、一階の職員室へと派手な音を立てて突っ込んだ。
そして、裏拳をスノウに見舞った筈のネセルもまた弾け飛んでいた。
ネセルは三〇メートルほどの距離を、地面を、その巨躯で削りめり込んでいた。
「女子の顔面に手ぇ上げるなんていい度胸ねぇ!」
窓ガラスやコンクリートを砕くほどの勢いで職員室に突っ込んだにも関わらず、傷一つなく平然と職員室から顔を出し、怒鳴り声を上げるスノウ。
「傷がついて秦くんにがっかりされたらどうすんだ!」
その両手にはスノウの身長と同程度の長さの日本刀が握られていた。
「……傷一つ付いてなかろうが」
クレーターと見紛うような抉れ方をした地面から、ネセルが這い出す。
「インパクトの瞬間に頭突きをするなど誰が予想できる」
側面からの殴りつけになる筈が、最小限の動きだけで衝突面を額の中心地へとずらされ、あまつさえ首の力だけで自身の拳と打ち合った。並の術士ならば脳髄を四散させる威力であり、戦闘行為へと特化した肉体の頑強な魔術師であろうと首の骨が砕けてもおかしくない一撃。
――おそらくはアレが得手なのだろう。と、スノウの持つ日本刀を見て、ネセルは理解する。
長刀が纏う魔力は並の魔術師の魔力より遥かに量も質も高い。そしてスノウ自身から発される魔力を常に喰い続け、循環させている。
――使用者の生命力を糧にする魔剣。それも自我を持ち生命への足掛かりを得ている。そんな業物を二本も扱うか。……いや違うな、対か。
そこまで思考したところで、ネセルは己の肉体がすでに次の挙動へと移行していることに気付く。修練と経験による無意識下での最善の行動。
最初の変化は胸部から、胸板が膨れ上がり下腹部が絞られる。息遣いに呼応するかのように獣毛が全身を覆い始める。腕は伸び、手は広がり、爪は指先を覆うように肥大化する。太ももは一回りも増大し、足は靴を突き破る。
――上着や履物は肉体の変化に合わせて伸び縮みする特別性である。ただ、この状態へと変化した際の足だけは直に地面に触れた方が良いため、靴は市販の一般的なモノを利用しているのだが、些か勿体無い。――などと、少しばかり場違いなことを抱いて気分を沈めるネセルのその顔は、すでに人間のソレではなかった。
「獣化! それも狼――いや、ライカンスロープ!」
人狼――幻獣種へと変貌したネセルを見て、スノウは即座に迎撃の体制を取る。
眼前へと刃先を向ける。――否、向けるのではなく、構える。攻めへの姿勢ではなく、一撃を防ぐための構え。
その構えを行い切る合間に、スノウとネセルまでの地面が三ヶ所跳ねた。
地面が抉れ、三ヶ所が弾け飛ぶのとほぼ同時に、眼前へと接近し首筋へと振るわれた爪をスノウは左に握る刃の腹で受ける。
「これに反応するかッ!」
百メートル近い距離を瞬きの合間に詰め、その首を引き千切る為に振るった爪を防がれて、ネセルは感嘆の声を上げる。
ネセルは防がれてなお、振るった腕に力を加える。
スノウの身体が浮く。浮遊感は一瞬。ネセルの腕は振り抜かれ、スノウは吹き飛ばされる。
――手は緩めない。
吹き飛ばされたスノウへと、ネセルは地面を蹴り砕きながら接近する。
スノウは飛ばされながらも姿勢制御し、迎撃へと入ろうとするが、
「遅い」
体勢を取るために腕を上げるその姿勢では、ネセルの爪への迎撃には間に合わない。
――まずは機動力を削ごう。
大きく振り上げず、一度折り畳んだ腕を突き出すように伸ばすコンパクトな爪での斬撃。
生身で振るえば決定打には至らない一撃。ネセル自身の魔術的補助による強化を施したとしても、同様に身体強化が行われているスノウに対しては攻撃としては芳しくない。ただし、人狼種へと変化した肉体の膂力と魔を裂く爪ならば、その一撃は足を砕き割き得る――筈だった。
振るった腕に手応えがない。
確実と思った一撃だからこその、自身ですら知覚できない速度での一撃。
遅れてやってくるはずだった肉を裂く感触が、やってこない。
――何が、
空を薙いだために崩れた姿勢でネセルはスノウを見る。
◆◆◇◇◆◆
「っっっだぁらぁ!」
足場のない空中。躱しようのない一撃に対してスノウが取った選択肢は、空間そのものへと両手に持つ日本刀を突き刺すことだった。
空間魔術。空間を曲げる、繋ぐ、固定するといった空間そのものへと干渉する高等魔術の総称。スノウの親友、刀河火灼が得意とする魔術。
また、一年以上もの地道な火灼の努力によって、明樹高校の敷地内はほぼ全域に火灼とスノウの魔力が通じており、火灼のための空間として確立されている。
そして、火灼から空間魔術を学び、唯一その空間への容易な干渉を許されているスノウにとってもまた、この空間は己の領域となる。
突き刺した刀身は半ばで止まり、固定される。
固定された刃の柄を握り、腕の力のみで己の身体を引っ張る。引っ張り上げることによって、足をネセルが想定していた以上の速さで引き込み、爪の一撃を避ける。
避けた勢いをそのままに、柄を支点に身体を回転させ、驚きの色を浮かべてこちらを見たネセルの横顔へと蹴りを見舞う。
蹴った物体は地面を抉り飛ばしながら校庭の端にあるプール場まで吹き飛び、溜められていた水のほぼ全てが掻き出される勢いで弾けた。
頭蓋を砕く確かな感触を足全体に覚えながらも、スノウは地面へと足を着けると同時に即座に次の姿勢へと構える。
◆◆◇◇◆◆
頭蓋が砕ける感覚が久々だった。
それも人狼へと形態変化した状態での怪我。数年ほど忘れていたその感覚にネセルは笑った。
すでに傷は塞がり、砕けて突き刺さった骨は溶けて吸収されているため後遺症の心配もない。
それ故に立ち上がる。
「空間魔術か、厄介だな」
濡れた髪を払う余裕はない。
頭蓋を蹴り砕いた感触を得たにも拘らず、スノウは攻撃の手を緩めていなかった。
「湖岸流――」
ネセルが立ち上がるよりも先に構えていたスノウの攻撃が続く。
スノウが持つ刀の魔力純度と密度が増す。構える際に刃先が地面をなぞり、そのまま地面が歪みながら刀身へと纏わりつく。
――アレはなんだ? 地面を削り取った?
「――虚ろい空ァ!」
認識の間違いを悟ると同時に、ネセルは横へと駆けだした。
振るわれた刃はその刀身に纏わりつく地面だった空間を前面へと押し込んだ。
地面から続く捻じれた空間は、進行方向の空間を巻き込みその捻じれを太く大きく広げながらネセルへと走る。
――空間の半固定による、防御不可能な範囲攻撃か!
認識と知覚からの刹那、広がりゆく歪みを見て、ネセルは回避が間に合うと判断した。
――先ほど行った、急接近のための瞬間移動にも等しい三段跳躍は使えない。
人という存在に於いて、肉体の移動速度の限度は様々な手段によって突破できる。純粋な肉体の強化、魔術による抵抗低下、科学技術による速度の補助、それらを組み合わせれば、すでに理論上では『人は光速に達する』ことができる。
ただし、実現させようとすればそれにはあらゆる障害が伴う。瞬間加速に伴う重力加速度についていけるだけの肉体的補助が無ければ、肉体がついていけずに崩壊するし、到達速度を上げれば上げるほどその必要強化量も爆発的に増えていく。そして、もしそれだけの補強を行うことができたとしても、今度は周囲への被害がネックとなる。質量のある物体が光速へと達しようとした際、それは無限へと踏み込む。そもそも、重力加速度だって、光へと到達したそれは無限だ。ヒトという殻には限界があり、決して届かない領域。もしも届くとしたならば――
それは理への到達。
ヒトという種が存在する階層において、それは世界を壊す到達となる。
――言ってしまえば、地球が滅ぶ。どころか、世界への干渉となる。
――結局のところ、理論上でしかない。
そして、たとえ速度を抑え、自己保持の可能な限界速度で動いたとしても、根本的な問題が存在する。人間の反応速度の限界である。感覚器からの電気信号への変換と、神経の伝達、伝達された信号を処理するまでのラグがあるのだ。どれだけ身体の物理的な速度を上げたとしても、それに反応が出来ないのだ。
対人――読み合いが発生する戦闘において、どれだけ速度を上げたところで、構えと初動によって見切りとカウンターは行われる。そこまで含めて戦闘は組み立てられるのだ。そして、自身の反応が出来ない速度で動いた場合、カウンターなどに対しての対応ができなくなるという致命的な欠点が生じる。
故に、ネセルはスノウの範囲攻撃に対して、いかなる変化が起きようとも対処できる速度で動いた。斜め後ろへの跳躍。それを最適と判断した。
「――失敗でしょう。それは」
それに対し、スノウは間違いを指摘する。
「――あぁ、ミスだな。これは」
スノウの声が届いたわけではない。ただ、ネセルはそれを悟った。
広がる歪みは衰えることなく――むしろ加速した。
通常、広がる攻撃というのは広がれば広がるほど威力は低下し、速度は落ちるものだ。発動地点から一定の距離までならばそれらを保ちながら広がることも可能だが、それには限度がある。放たれた弾丸には最初の衝撃以降、止めるための力の方が上回る。魔術とてそれは同様で放たれる魔術には終わりがある。
だから、ネセルの行った斜め後方への跳躍はその歪みの速度と等速であり、数メートルも下がれば威力が減衰し、逃げ切れると考えたものだった。
だが、広がりは衰えなかった。
周りの空間を巻き込むのではなく、周りの空間が融け込み拡大する様を見て、ネセルは周囲の空間そのものが広がりを後押ししていることを理解した。
――この敷地そのものを掌握した空間魔術の応用か!
学校の敷地という限定下ではあるが、この魔術に衰えというものは存在しない。
空間そのものが放たれた後の魔術を放ち続ける。それ故の、広がれば広がるほどの加速。途中までの速度が変わらないのは意図した仕組みなのだろう。
――ただし、仕組みはわかった!
眼前へと迫った歪みに対し、ネセルは右腕を振りかぶった。
そのまま突き出された右腕は空間に合わせるように歪み、腕自体は歪みに耐えられずに皮膚が裂け、肉が引き千切れ、骨が軋み折れ――そして、歪んでいた空間の全体に亀裂が走った。
◆◆◇◇◆◆
空間が爆発した。引き絞られた空間が弾け、元の形に戻ろうとするという在り得ない現象が引き起こされたのだ。
「ていうか、こんなにどったんばったんしたら近隣の皆様に通報されたりしない?」
校舎の一部が崩壊し、グラウンドは爆心地のようになり、プールに至っては原型さえ残っていない。音や衝撃は凄まじいものだろう。そう思い、隣で同じ映像を見ている刀河に訊ねる。
「あー、大丈夫。学校の敷地全体を異界化しているから」
「異界化?」
「結界みたいなもんかな。結んで閉じて隔離してんのよ。外のことは中には伝わらないし、中のことは外に伝わらない。空間としてはそこにあるまんまなんだけれど、場所としては認識できなくなっている感じ。応用すると中の広さだけを変えたりもできるんだけど、学校全体を包んでいる今はそんな余裕ない」
「ほーん、便利だな。ご都合主義結界みたいなものか」
封絶みたいなものかと、自分なりに落とし込んで納得する。
「お前な、そのご都合主義結界の維持に、現在進行形で私がどれだけのリソースを割いていると……」
刀河が何か言っているが、俺は画面に意識を持っていかれた。
「――おい、なんで生きているんだよ」
砂埃が舞うグラウンド上でネセルは立っていた。
その右腕は潰れていた。皮膚は裂け、肉が露出し、骨が突き出ている。
それは肩まで到達しているが、肩までしか到達していない。
それどころか、ゆっくりとだが腕は再生を始めていた。
先ほどまでの瞬間的な再生までとはいかないが、それでも確実に腕が元の形へと戻っていく。
「――あれは、倒せるのか?」
「スノウには無理だね。相性が悪い」
刀河は断言した。
俺なんかよりもスノウの実力を理解しているであろう刀河が、そう言い切った。
――遡ること十数分前。
部屋に置いてかれ、待つことしかできない俺の前に、刀河がやってきた。刀河は「遅かったか……」と舌打ちしながら、部屋に備え付けられたプロジェクタースクリーンにグラウンドの映像を流し始めた。敷地内に点在させている使い魔の視界を映し出している仕組みとのことだ。
「天木はさ、『世界端末』っていう、まぁ端的に言うと『世界』に選ばれた存在なんだよね」
校庭に立つ男と、それに向かい合うスノウが何かを話している。音までは拾わないようだ。
「あの男はさ、そんな特別な天木を捕まえに来たんだよ」
話が見えない。いきなり特別だと言われても、受け止められない。
俺からしてみれば、お前らのほうがよっぽど特別だ。
「で、スノウはそれを止めるためにあそこにいるわけだ」
――愛されているねぇ。なんて、軽薄な口調で言われる。
「見ているといいよ。魔術を修めた人間が辿り着く、個人としての最上位の戦いが見られる」
――スノウの能力を把握している学府が寄越す存在だ。アレはスノウに並ぶか、その上だぞ?
映像を見る刀河の目は、面白そうなものを見る目だ。
「見ているといいって……」
そう言いながら、俺は映像を見た。
対面する男と少女。魔術師を名乗り、自分の恋人である少女。俺を捕まえるために、この学校へと乗り込んだらしい男。その組み合わせは、どこか他人事のように思えた。どちらも自分が理由としてそこに立っているにも拘らず、その実感が薄い。
「…………」
そうして映像を見ていると、スノウが動いた。
金色が跳ね、それは閃光と化した。