◆二十一話:回顧録《佐田花織》
佐田花織の人生はその大半が「何もなかった」と、そう形容できた。
その人生において唯一残ったのがたった一人の子どもだけだったと、誇張なく言える程度には。
両親は優秀な姉につきっきりで、不出来な次女を疎ましく感じていた。いや、疎ましく思われるどころか、それはほとんどが放置だったと言っていい。
小学生の頃まではまだ最低限と言えるだけのやり取りが存在したが、中学入学から高校卒業までに親と交わした会話の数は百にも満たなかった。
花織は中学高校を通して合唱部に所属しており、内向的で社交性に乏しいが一応の交友関係は築けていた。ただ、それは学校の部活という狭いコミュニティ内だからこそ成立したものであり、高校卒業後、生まれ育った地元や親から逃げるように他県にある工場へと就職したところ、かろうじて存在した繋がりは全てが切れた。
就職した工場では、最初の数年は小さくはないミスを起こすことが何度もあったが、慣れてくるとミスの量も問題性も低下し、人員として問題ないと認識される程度には定着することができた。
そうして、やっと日々の生活で一息つけるようになった花織は趣味の音楽鑑賞に少しずつ傾倒するようになる。
誰かに話し掛ける勇気もなく、自らに向けられた言葉が少なく、そうやって人の感情に触れる機会も疎らだった女にとって、歌唱のある曲は自身に向けられた言葉であるかのように錯覚できて、ヒトの感情に触れられる――自らの感情を揺らす娯楽が支えとなっていた。
ある日、花織は一人の男に遇った。
音楽が趣味だと言う男だ。話好きで、会話が苦手な花織にとってよく喋りかけてくれる男は好ましく、気付けば惹かれていた。
そうして、暫くしないうちに花織の妊娠が発覚した。
花織は自身が人の親になることなど考えてもいなかったが、それでも、生まれてくる赤子のことを考えれば頬が綻び、頑張ろうと思えた。
妊娠の発覚から数日もしないうちに男が失踪した。
残ったのは借金と身重の花織だけだった。
――それでも、花織には堕胎するという発想はなかった。
工場は辞めることになった。
「ほんとうに迷惑だ」
責任者には吐き捨てるようにそう言われた。
それからの日々は、花織にとっては辛苦の連続だった。常人の何倍もの速度で疲れ、老い、枯れていく。密かに自慢だった艶のある髪は輝きを失い白髪が混ざるようになり、咳き込むことが増えたせいで喉は荒れた。
それでも、子供をちゃんと育てることだけは――守ることだけは、歯を食いしばってでもやり遂げようとした。それだけが、花織の唯一の支えとなっていた。
子供は可愛い。とても可愛い。生まれてきてくれたことを何度も感謝した。抱きしめると温かさを実感する。家族との関係に失敗し、愛情や繋がりに飢えていて、けれどそれに怯えてもいた花織にとって、自分の子供という存在はこの世で一番大切なモノだった。
子供を――悠理を育て上げると胸に誓った。
だが、誓ったところで現実は好転しない。
日々衰える身体は壊れやすくなり、一度体調を崩せば様々なことで支障が生じる。仕事は最たるモノで、常人よりも出せる成果が低く、結果的に他者にも迷惑を掛けることになる花織を周囲は疎ましく思った。
和を乱し、足を引っ張り、身なりのみすぼらしい花織を攻撃していい対象として周囲は認識した。
嫌悪を隠さない露骨な態度、陰湿な嫌がらせ、そんなモノが常態化した。
“私たちが被っている迷惑を考えれば、これぐらい当然のことだ”
周囲は自己の行いの正当性に疑問を持つこともなく、花織を非難した。
周囲が悪いのだろうか。被害という意味では、彼ら彼女らは花織の不足によって不当に損をしているのは事実であり、鬱憤が溜まるのは仕方のないことだった。
花織が悪いのだろうか。彼女は他者より劣っているだけだった。社会を生きる上で、只々弱者なだけだった。彼女なりに努力をしたが、それは実を結ばなかった。それを“悪”と言えるのだろうか。
誰が悪いのか? という話で言えば、その根本にあるのは個人ではなく社会だった。そして、その社会にすら全ての責任を擦り付けることは無理なのだ。完全な社会システムなど存在せず、人類は未だに正解を求めて試行錯誤を繰り返している道程であり、その果ては未だ遠い。現存する社会は構造上、どれだけ弱者救済を掲げようとも、そこから掬い漏れる存在はいる。花織はその漏れた側だった。
ただ、それだけだった。
花織はそれでも、成長する悠理を見ることでそれらに耐えた。子供を育てることが出来ているという事実に支えられていた。――それはある種の現実逃避であり自己防衛だった。だが、悠理が小学校に上がるとそれすら不可能になった。
明らかに悠理の成長が遅れている。他の児童を見れば一目瞭然だった。背が明らかに低く、線が細い。保育園のときは成長にも差があるのだと思えていたが、そうは言っていられない段階になった。
子供に不便を、我慢を、辛抱を強いている。
否、その段階はとうに過ぎている。
「子供を」
「満足に」
「育てられていない」
「幸せに」
「できていない」
「不幸に」
「している」
――その日は、借金の取り立て人がやってきて、アパートの扉を何度も蹴りつけていた。
取り立ての男は呼び鈴を押さない。苛立ちと愉悦の混じった声で叫びながら扉を蹴る。それが一番花織を竦ませると理解しているからだ。
かなりの音が響いているというのに、周囲の住民は誰も動かない。
関わりたくないからだ。ただし、しっかりと大家経由で苦情を入れる。大家は花織に苦情を伝え、これが続くようなら出て行って貰うと嫌そうに言う。花織はただただ謝ることしかできず、頭を下げ、何度も何度も「すみません、すみません、すみません」と言うだけの存在になる。
取り立ての男はそうなっていることも理解しているので、扉を蹴るのをやめて欲しいと懇願する花織にただ怒鳴り嘲るだけだった。こうでもしないとすぐに出てこないお前が悪いのだと言い、自身の正当性を主張する。
男は機嫌が悪かった。暴対法の改正、取り締まり基準の強化によって、自身の玩具が減っているという事実に苛立っていた。目の前にいる女のような“人生の落伍者”が自分の手から離れてしまうという事実がとても面白くなかった。
それと同時に、目の前の女はまだまだ遊べるということに男は内心で喜んでいた。
馬鹿で、愚図で、どうしようもないほどに無能。搾取され続けるために生まれたかのような存在。救われたいと思っても、そのための方法を考える頭もないクズ。どうすればいいか、という思考すら奪われた惨めで矮小な被略奪者。――男には花織がそのようにしか見えていなかった。
だから、その日、取り立ての男は花織の心をどこまでも壊そうとしていた。
“お前みたいなやつのとこに生まれたガキはほんとぉに不幸だよなぁ! テメェのせいで一生不幸になるんだからな!”
女の顔を殴り、腹を蹴りつけ、首を絞め、せせら笑う。
“ゴミ溜めから這い上がれるなんて思っちゃいねぇだろうな! クズからはクズしか生まれねぇんだよ! どうせお前もお前のガキもそのうちそこらで野垂れ死ぬんだろうな! えぇおい! どうだ? テメェのガキはこっちで処分してやろうか? ゴミなんか抱え込んでいるからお前はこんなことになっているんだからよォ! あんなのがいなけりゃお前だってもっと他の道があったかもしれないしなぁ? コブ付きってだけで色々と不便だろうしなぁ!”
男は自分が何を言っているのかもよくわかっていなかった。ただ怒鳴って、相手を否定する言葉を並べ立てて恍惚とする。男の度重なる暴力によって思考が弱り、唯一の支えとしていた子供の存在そのものを否定されたことで女の中の何かが折れたという確かな実感。それらは男の歪んだ欲望を十分に満足させた。
――その後、男は今月分の取り立てを行って帰っていった。
花織はそれから数時間ほど横たわった後、仕事の時間であることに気付き、のそりと立ち上がってパートタイムで働いている職場へと向かった。
店長に遅刻を咎められ、終業後に「もう来なくていい」と言われる。そんなことを急に言い渡されても困るが、花織にはそれに抗議する気力が湧かない。自責の念だけが頭の中を渦巻く。男に殴られた頬の痛みが自己否定を加速させる。追い詰められる。惨めな気持ちになる。
――どうして、こうなったのだろう。
男の言葉が脳内に響く。
“あんなのがいなけりゃお前だってもっと他の道があったかもしれないしなぁ?”
それは考えてはいけないことだ。それを思ってはいけない。それだけはダメだ。そうやって頭の隅に浮かんだ言葉を追い払おうとするが、そうするほどにソレは意識へと強く粘り付く。
亀裂の入った心がどうにか形を保とうと言い訳を探す。ぐずぐずに溶けた醜悪な思考が罅の隙間に入り込む。そうして壊れる寸前で保った形はすでに歪で、もはや原型など留めていない。
「あの子さえ、いなければ」
それは言ってはいけない思い。
一度たりとも、口に出してはいけないもしもの言葉。
――気付けば、花織は帰宅していた。
そして、穏やかに眠る子供――悠理を見て、その首に手を這わせた。温かく、柔らかく、不安になるほど細い首。どくりどくりと脈を打つそれを徐々に締め付ける。自身の口から漏れ出る言葉が花織の耳には届かない。吐き出される呪詛のような恨み言をただ目の前の子供に浴びせる。
子供が気付く。目を覚まし、苦しそうにする。何が起きているのか理解できないという表情。
それが花織の感情をなお一層に鬱屈とさせる。誰のせいで私が苦しんでいるのかと考える。
――だが、そこで、子供は抵抗を止めた。
「ぃ……ょ」
悠理はそれを受け入れた。
母の選んだことを否定せず、自らの死を受け入れ、その上で母の幸せを願った。自身が母にとって重荷であることを理解していて、それでもどうにか育てようとしていた努力を誰よりも間近で見ていた悠理はその選択を良しとした。
悠理の小さな手が花織の手に触れる。優しく、弱く、撫でる。
意識を失った悠理の手が落ち、触れた温もりが離れる。
――私はなにをしている?
花織はそう疑問して、悠理の首から手を離した。まだ温かい。
感触が残っている。
子供の――我が子の首を絞めた感触が、嫌になるほど残っている。
「あ、あああ、あああああああああああああああああぁ……」
顔を手で覆う。爪を立て、顔中を引っ掻き回す。自らの所業を自覚してしまった。
それだけはダメだった。
どんな理由があろうとも、どんな状態であろうとも、どんなに苦しくてもどんなに辛くてもどんなに悲しくとも、それだけはあってはならなかった。
こうなってはいけなかった。
「――だって、この子を幸せにできるのは、私だけなのに」
佐田親子には頼れる相手がいない。悠理が頼れるのは花織だけ。そう考えていたからこそ、花織は身を粉にして働けた。自身を蔑ろにすることを厭わず、悠理の成長だけを喜びとして生きることが出来た。
たったの一度、悪意だけで塗り固められた言葉に屈して我が子に責任を擦り付けた。その事実が花織を苛む。自責の念が膨れ、意識が揺れる。視界が狭まっていることすら認識できていない。
――ふと、視界にとあるモノが映る。
その縄の太さや長さを見て、花織は“丁度良さそう”だと思った。




