◆エピローグ『後日談』
――ひどく悲しい夢を見た。
でも、その中身はもう思い出せない。悲しくて、悲しくて、悲しくて、こめかみを何かが伝う感触を知覚して、涙が流れていることに気付く。
視界は不明瞭で、身体は言うことを聞かない。瞼は開いたと思うのだけれど、どうにも焦点が合わない。光があるということだけしか分からない。
そのことに戸惑っていると、ふと、額に何かが触れた。
――温かい。……温かい?
何かはゆっくりと私の額を撫でた。なんだかその感覚が無性に懐かしくて、ますます泣きそうになった。さらに涙が溢れてきた。今度は、その涙を拭われた。優しい感触だった。
視界が少しずつ良くなっていく。世界が形を取り戻していく。それに合わせて、私は自分が横になっていることを認識できた。そんな私を覗き込むように、人の顔があった。
「兄さん……?」
それは不意に出た言葉だった。兄に撫でられた記憶などない。それでも、何故かその感触を兄のモノだと私は思った。
「んー?」
その人は、困ったような声をして、それでも私のことを撫でる手を止めなかった。
そのまま、撫でられるままにぼうっとしていると、見えるようになった。
――その顔は、ここ数ヶ月で見知った顔だった。
「天木、先輩……?」
眼帯で左目を隠してはいるけれど、その人は天木先輩だった。
「おはよう、後輩」
先輩は優しく微笑んで、そして、喋り始めた。
――事の顛末を語り始めた。
◆◆◇◇◆◆
あの後、先輩たちは兄――空海玄外と戦い、そして兄は死亡した。そのまま、疲労によって気を失っていた私のことを回収し、こうして地元に帰ってきたと、そう簡潔に教えられた。
私は病院に運ばれており、この病院は先輩たちの住む町にある病院で、学府――南雲飾とも繋がりのある病院だそうで、色々と都合がいいらしい。先輩も以前にお世話になったそうだ。
「兄は、失敗したんですね」
「そうだな」
私は丸一日ほど寝ていたらしく、休日も残すところ日曜日のみとなっており、その日曜も半分をとうに過ぎている。
「それで、私はこの後どうなるのでしょうか?」
学府に敵対し、そして敗北した家の人間が辿る道など容易く想像できるけれど、こういうのは勝者の口から直に言われるべきものだろうと、そう思った。
「あぁ、とりあえず高校は卒業まで通ってもらうことになるかな」
「…………はい?」
「その後は成世の希望にできるだけ沿うようにするつもりだけれど、とりあえず高校は絶対。これだけは譲れないな」
絶対に譲歩しないという、そんな力強い意志を感じられる言葉だった。
――いや、そうじゃねぇよ。
「あの、えぇ、うん?」
ちょっとこう、理解が追い付かない。高校を卒業? そのあと? そのあとってなんだ? 大学とか、そういう話か?
――いや、ていうか、そもそも、
「といいますか、私はもう、そんなに長くないのですが」
理解が追い付かないままに、現実が追い付いた。そう、私の身体は――空海というモノはもうどうしようもないほどに終わっているのだ。私の負担を肩代わりしていた兄も消えた。
――というか、そんな状態であの土地から離されるのはマズい。
などと、内心焦りのようなものを覚えていると、
「あー! そこら辺はもう終わった話だぜっ!」
などと、だいぶ五月蝿い声が聞こえた。
出処を見やれば、病室の出入り口に黒髪の女が立っていた。
……確か、スノウ=デイライトといつも一緒にいる人だ。名前は……えっと、
「刀河火灼です! ぴっちぴちの女子高校生でぇす!」
あぁそう、そんな名前だ。
「……この人こんなテンションの人でしたっけ?」
なんというか、躁状態だ。印象としてはもっとダウナーというか、クール系というか、それでいて影が薄めな感じだったはずだが、見事に壊れていらっしゃる。酩酊状態?
「あー、今はアッパー系のをキメているらしい」
「いやいやいや、病院でやっていいことじゃないでしょう!」
先輩の補足に思わずツッコミを入れてしまう。
「むっ! 病院にあるのでやったからセーフ! むしろ病院だからこそできることだよ!」
サムズアップしてくる刀河火灼。何一つ理解も納得もできない。
「あの人、訴えられたりしないんですか?」
ジャンキーを指でさしながら先輩に聞く。
「しない」
「ち、治外法権っ!」
「魔術師に今さらなにを……」
などと、そんなやり取りを先輩としていると、刀河火灼がこちらに近づいてくる。
――きょ、恐怖! 足取りが若干不安定な人間が接近してくる絵面って結構怖い! 思わず逃げ出したくなる。だが、体の自由があまり利かないので、思いに反して逃げることもできない。先輩に視線を向けたが、黙って逸らされた。オイ!
「ていっ」
刀河火灼はそう言って私の左目の位置へと手を振り下ろした。何かを剥がす音が肌を伝う。
――そして、視界が開けた。
「……え?」
戸惑いの声が漏れる。何故なら、それは在り得ない光景だったからだ。
みえる。見える。視える。視界の左半分が見える。失われたはずの視界が――消失したはずの世界が、そこにはあった。
「ばっちり見えているようだね。よしよし」
私の様子を見て、刀河火灼は頷いた。その手にあるのは貼るタイプの眼帯、その残骸だ。
「え、なんで、これ……。だって、私の左目は消失していて、完全に消えたと世界に定められたからこそ、移植したとしても意味がなくて……」
――だから、そこには精巧に作った形だけの義眼が入っているはずなのだ。
そう思いながら、横で座る先輩の顔を見る。――その目を見る。眼帯を付けられた左目を。
――まさか?
「移植したモノに消失が集まるのなら、それでもなお消失しないモノを移植すればいいだろうと、そういうわけだ。……親に貰った身体だけれど、こういう使い方ならギリギリ許してくれると信じているぜ両親」
簡単に言うが、そんな簡単にできることなのか?
「私がやりました! ――まー、厳密には、消失が発生しているわけじゃないんだけれどね。結果として消失しているだけであって、実態はそうじゃない。……いやまぁ、結果として消失しているんだしあんま関係ないかー、あっはっはっはっははー」
けたけたと笑う刀河火灼が奇異なものに見える。
「なんのために?」
色々と言いたいことがあるが、一番に浮かんだ言葉がこれだった。
そう問うと、まず先輩が答えた。
「約束したから」
「約束……?」
「うん。君のお兄さんと、約束したから」
意味が分からないと、そういう気持ちを込めて先輩を見る。
「まぁ、それについては追々話すよ。……話を、しよう。言いたいことがあるし、教えたいことがあるし、話したいことがたくさんあるんだ」
そう言って私を見る先輩の目を見て、思い出すのは――
「あ、私はそいつと違って利益のためだよ」
刀河火灼の言葉が私の思考を遮った。
「成世ちゃんとこの式神ともいくつか契約を結ばせて貰ったよ。そんで、そのうちの一つとして、あなたの後見人は今日から私ね!」
「…………はい?」
さっきから理解が追い付かない。
「資産もちょいと触らせてもらうけれど、安心して大丈夫。私これでもにゃっ――」
と、そこまで言ったところで刀河火灼の脳天に手刀が落ちた。
「火灼、その状態だと段階を踏んで話せないんだから黙ってて」
手の主はスノウ=デイライトだった。
「おはよう成世ちゃん。具合は大丈夫そう?」
軽い雰囲気で私の体調について尋ねられる。そんなスノウ=デイライトの手には果物の詰められた籠がある。明らかにお見舞いの品だ。
「えっと……、大丈夫」
「そっか、それならよかった。成世ちゃんは林檎と桃ならどっちがいい? 第三の選択としてメロンもあるよ」
そう言いながら椅子に座り、空間魔術で包丁を取り出し、林檎を剥き始めた。
「秦くんや火灼からどこまで聞いた?」
林檎の皮を剥く瑞々しい音を個室に響かせながら、聞いてくる。
「空海家が負けて、私がここに連れてこられたこと。あと、なんかとりあえず高校に通うことと、その人が後見人? ってこと」
スノウ=デイライトのチョップによって沈み、床に倒れている刀河火灼を見る。
「なるほどね。じゃあ、もう少し詳細を教えるから、林檎でも食べながら聞いてね」
そう言って、切られた林檎を皿に盛り、そのうちの一つに爪楊枝を刺して、私に皿を渡してきた。
◆◆◇◇◆◆
「あなたの保護をすることにしたの。学府としてではなく、私と火灼の個人で、だけどねー。まー、とは言っても私はデイライトだから、厳密には学府も関わることになっちゃうのだけれどさ」
「なぜ?」
「空海家が発展させた魔術体系は目を見張るモノがあるからね。使い潰すよりは手の中で育てたいってのが学府と火灼の言い分」
「あなたは、どうして?」
「秦くんが決めたことだからだよ。私があなたの味方をすると決めた理由はそれだけ。秦くんが大事にすると決めたのなら、あなたは私にとっても大事な人だよ」
至極当然のように、言い切った。芯のある言葉だった。その言葉に嘘はないのだろう。
「だから、それが納得できない。先輩が私を助けようとする理由がない」
「いや、だから、約束したからだよ?」
先輩が不思議そうに、どうしてそれで納得しないのかと、そんな口調だった。
「そんなのが理由になりますか?」
「なるでしょ」
私の反論を、スノウ=デイライトが否定した。
「信じなくてもいいけれど、信じたほうが楽だよ? 状況的には信じるしかないんだから。それに、秦くんはあなたの命のためだけに左眼球を差し出したんだよ。魔術師的には軽い行為かもしれないけれど、普通の人の感覚で言えば、それはそれこそ身を切る思いでしたことなの」
スノウ=デイライトは言葉を続ける。
「しかも、その左目は繋がりを作るために秦くんとしての存在情報を残しているから、秦くんは空洞になった眼孔に新しい目を再生させることも移植することもできないの。できることは以前の成世ちゃんとと同じように義眼を入れることぐらいかな。それだけのことを彼はしたよ。――だから、少しは信じてみてもいいと思うよ?」
天木秦という人間の性質を考える。この数ヶ月で知ったことを踏まえる。
誤魔化すことはあっても嘘は言わない人だ。損得よりも感情で動く人だ。捻くれた態度を取りがちだけれど、正しいことを好んでいた。善きことが正しいことであって欲しいと思っているような、そういう人だった。
「――そうですね。先輩はそういう人だと、思います」
「よしよし」
納得を示した私に対して、スノウ=デイライトは頷く。でも、
「でも、あなたたちは兄の仇でもあります」
感情の話をするならば、これもまた必要な話だ。
「そうだね」
「恨まないとでも?」
「いいじゃない。恨みなよ。殺したいならそうすればいい。私は殺されないけれど、殺しに来ていいよ。それであなたが生きようと思うのなら、一先ずそれでいいよ。――あぁそうだ。これだけは覚えておいて。あなたの兄を殺したのは私だよ。他の誰でもないこの私。それを履き違えなければ、いいよ」
私たちの――空海家の一方的な思惑で、この人たちに迷惑を掛けて、返り討ちにあっただけであるということは理解している。そんな逆恨みもいいとこなのに、この人はそれを肯定した。
――かなわないと、そう思った。
どうせ拒否権などないのだ。力量差も馬鹿馬鹿しいほどにある。
それならば、現状をあるがままに受け入れたほうがいい。
「復讐を望むのなら私たちの近くにいる方がいいから、丁度いいわね。成世ちゃんは今日からウチに住むことになっているから、よろしくね」
「…………え」
あるがままにとは言っても、ちょっとこう、やっぱり理解が追い付かない。
「家具とかは、成世ちゃんがこっちで契約していたアパートから移動済みだから大丈夫。解約とか役所への届けとか、その辺りの諸々の手続きは火灼が済ませたから安心して。後見人ってのも本当のことだし」
「あの……、そもそも学生で後見人って不可能では?」
今さらだが、とても当たり前なことを聞いた。
「火灼は戸籍をいくつか持っているからね。ほらこれ」
そう言って、スノウ=デイライトは鞄からカードのようなモノを取り出した。
……免許証?
そこには刀河火灼の顔写真が印刷されている。赤縁の眼鏡を掛けており、髪の毛も纏めていて雰囲気は大人っぽい。そして名前の欄には、
「藤河楽禍……この生年月日だと、今年で二十五歳」
「煙草買うのに便利なんだって」
「そうですか……」
考えるのが面倒になった私は、諦めることにした。
――あぁそうだ。それならば言うべきことがある。
「あの、デイライトさん」
「スノウでいいよ」
「……では、スノウさん。えっと、これからよろしくお願いします」
スノウ=デイライトに――スノウさんにお辞儀をして、先輩の方を見る。
「これからもよろしくお願いします。先輩」
そう言うと、先輩は優しく笑って、
「ん、よろしく」
そう返してくれた。
頽廃した目も、
ちょっと癖の付いた髪も、
痩せこけていない頬も、
どれもが全くの別物で、
笑顔なんて見たことがない筈なのに、
――私はそれに兄の面影を見た。




