◆六話-4
視界が暗転する。『世界変容』によって形成された世界が崩壊し、俺と刹那さんは弾き出される。そして、刹那さんの――空海玄外の肉体が消失した。
その顔は安らかだったと、そう思う。
「んっ」
強烈な眩暈が襲ってくる。天地を認識できなくなるほどに視界が揺れる。何かが身体を包むような感覚があるが、これが何であるかさえも分からない。そのまま何もできずにじっとしていると、次第に視界が戻ってくる。意識がかなり乱れていたため、どれくらいじっとしていたのかも判断できない。
「だいじょうぶ?」
焦点が合わさったことに気付いたのか、スノウが声を掛けてきた。
「たぶん、大丈夫」
俺を包んでいたのはスノウだった。スノウに抱きとめられていた。なんかこう、全体的に柔らかい。時速百キロの車に轢かれようが傷付かない頑丈な身体をしているのに、こうして触れてみれば、この女の子はとても柔らかい。
「スノウは大丈夫なのか?」
「わりとヤバい」
「え、ヤバいの?」
「誰かさんが限定接続をガンガン使ったせいで繋がりが広がっているんだと思う。ちょっと気分が優れない……。ていうかちょっとシャレにならない……。今は満足に動けないと思う」
よく見るとただでさえ白い顔がさらに白い。ていうか青白い。
「まぁ、一応は一段落ついたわけだし、ちょっと休憩かね……」
この後、成世のところに行って刹那さんとの約束を履行する必要はあるが、ほんの少しの間であれば回復に時間を割いても問題ないだろう。
と、そう考えて目を瞑ろうとした瞬間、包まれている感触が消えた。
「え」
同時。金属同士がぶつかる音が響いた。
「――おいおい、満足に動けないんじゃなかったか?」
声の方へと目を向けると、鮮血のような赤髪が特徴の女――確か、成世はフェリシティと呼んでいた――が大鎌を振り回していた。そして、スノウはそれを弾き返しながら、周囲に展開されている『死神』みたいなやつを斬り伏せていた。
そういえばこの女がいた。存在を忘れていた。
あの場で姿を消していたから、てっきり逃げたものだと思っていた!
いったいどうやってここに? ……いや、あの女はここの場所自体は知っているか。とはいえ、結界が張られていて侵入は不可能だったはずだ。玄外の肉体が消失したことによって結界が機能不全を起こしていたとしても、この場所までこの短時間でやって来ることができるか……?
と、そこまで考えて思い出す。フェリシティが使役している『死神』の能力には『影潜み』がある。そして、フェリシティは『死神』を纏い、『死神』と同じように鎌大を振るっていたのだ。『死神』の能力を使用できるというのであれば『影潜み』も同様であり、あの時、この女は撤退したように見せかけて俺の影に潜み、巻き込まれてここに飛ばされ、全員が疲労困憊になるこの瞬間まで隠れていた……?
「……満足に動けていないでしょ? だからお前が今も生きている」
スノウはそう言いながら俺のすぐ近くまで後退してくる。
「はぁ?」
フェリシティが疑問符を浮かべると同時に、その右腕が縦に割れる。薬指と中指の間から、肩に至るまでが綺麗に裂けた。
「なっ」
割るように斬られたことを知覚し、それに伴ってフェリシティの肉体は「斬られたら血が出る」という当たり前のことを思い出したのか、大量の血液がその切断面から溢れ出す。
「チィッ!」
彼我の間を埋めるように大量の『死神』が出現した。
「うわうっざ」
大鎌を手に向かってくる夥しいほどの死霊を前にして、スノウは心から嫌そうな声を漏らす。ただ、そう言いながらも、動くことのできない俺を庇うようにそれらを斬り伏せていく。
スノウは一分と経たずに、三桁にも及ぶ異形を刀の錆にした。
――その光景を見て、本当にスノウがかなり消耗しているということを理解する。
「あー、だるい……」
握っていた黒刀を地面に突き刺し、周囲を見渡す姿は彼女らしくもない。
「逃げられたのか?」
「逃げられた。ほんとうになんだったんだあの女……」
渦中に巻き込まれていたであろう俺でさえ、あの女の存在は未だに不明瞭な状態だ。スノウなら尚更だろう。
「まぁ、今度は様子見とかじゃなく本当に逃げたと思うから、九割九分大丈夫でしょ」
「傷を塞ぐことはできるだろうけれど、結構な量の出血はあったし、その辺りが理由か?」
「そこら辺もあるけれど、傷に『腐敗』と『侵食』に『阻害』と『変調』の呪いを打ち込んだから、こっちに戻って私とやり合うような余裕はないと思う。本当は首を落とすか心臓を斬り抉りたかったんだけれど、一番無防備な部分だったから妥協した」
「…………」
妥協でそれ? などと言いたくもなるが、これがスノウ=デイライトという魔術師なのだと再認識する。――明らかに生物としての次元が違う。
「秦くんはあれの目的って知ってる?」
「一応、世界端末だったらしいけれど」
「そ。じゃあ、空海成世のとこには急いで行った方が良さそうね。主目的が失敗したとして、代替品だけでも回収しようとはする可能性もあるだろうから」
言われて気付く。確かにそうだ。
「今のままだと成世が危ない!」
思わず声を出すと、スノウが俺のことを抱き上げた。
「場所って、秦くん分かる?」
有無を言わずにこちらの意図を汲んでくれるのはすごく助かる。だが、
「知らない……」
肝心の俺がどうようもない。
「……まぁ、言ってはみたけれど、私が施した呪いはそれなりに強力なモノだし。あの状態で空海成世の回収に行く可能性は低いから、ほぼほぼ大丈夫だとは思うよ? とりあえず、虱潰しに探そっか」
そう言うと、スノウを覆う魔力が広がり密度が薄まった。
「捜索用に広げた。詳細は分かりにくくなるけれど、とりあえず対象の範囲内に人が引っ掛かれば分かるし、これで探していこう」
至れり尽くせりである。スノウだってかなりの消耗をしているというのに、これだ。
「頼む。埋め合わせは必ずする」
俺の言葉に頷いて、スノウが足に力を入れようとした瞬間、人影が出てきた。
「私が案内します」
――繊さんだった。
いつの間にすぐそばまで? と思いスノウを見ると、スノウは気付いていたと表情で教えてくれる。
「いたのは分かっていたけれど、聞いたところでさっきまで敵対していた私たちに教えるはずがないだろうし、式神なら拷問とかしても意味ないだろうから、無視してた」
「なるほど、――繊さん。案内お願いします」
◆◆◇◇◆◆
フェリシティ=マーレイは秦やスノウが向かったのとは真逆の方向に動いていた。
「クソが」
悪態を吐く。その右腕には幾重にも布が巻かれており、その布もベルトによって強く固定されている。だが、応急処置としての固定と止血を行ったというのに、血は溢れ続けていた。布は元の色が分からないほどに血に染まり、フェリシティが通った痕跡を示すように血の道が出来上がっていた。
「あぁあぁあぁクソッタレの『旧態魔女』かよ! エげつねぇ呪い掛けやがって! 学府んときはただの破壊の塊みてぇなツラしてたっつぅのに、どこでこんなん覚えたんだあの女ァ!」
治癒のための魔術は先ほどから常に流している。解呪も行っている。だが、その魔術自体が腐る。そしてその腐敗が魔術を通して魔力へと浸食する。切り落とした方が早そうだが、切断という手段に対して阻害が発生し、無理に行おうとすれば切断という行為が腐敗へと変調されるという状態。そのため、フェリシティは腐敗が追い付かないように治癒と解呪に専念するしかないという状態だった。
また、このままでは埒が明かないということをフェリシティは認識しており、呼び出した『魂を喰らうモノ』の腕を自身の腕と同調させて呪いを丸ごと移そうとしている。ただし、それには少しばかりの時間を要することも理解していた。そのことを踏まえ、フェリシティは空海成世の捕獲すらも諦め、こうして転進を選んでいた。
「元々は『空海の検体』の確保と、学府に対するちょっとした嫌がらせが目的だったってぇのに、どうしてこんなことになっちまったんだろうねぇ」
などと愚痴のように呟くが、フェリシティの口元は笑んでいた。
「『世界端末』、それも覚醒済みと来たもんだ」
その事実こそが一番の収穫だった。その事実さえ持ち帰ることが出来れば、今現在受けている呪いのことすら笑って受け入れられる。それほどまでに天木秦という存在を把握できたことが枢要だった。
自然と笑いが漏れる。スノウから受けた痛みや屈辱すら凌駕する歓びの感情。
空海玄外が死んだことによって結界は不安定になっており、手負いであろうとも出入りは容易になっている。転送魔術自体は結界に阻まれるが、それも外にさえ出れば関係ない。
――そして、結界の果てへと辿り着いた。
あとはここに穴を開け、転送魔術を起動すれば――
「よお」
声が響いた。
「…………」
フェリシティは声の出処へと顔を向ける。一人の女が立っていた。
その顔には見覚えがあった。スノウ=デイライトの隣にいた女だ。東洋系の顔をした長い黒髪の女。記憶にあるのは、スノウ=デイライトの隣でとても疲れた素振りを見せていた姿。
大した魔力量もない女だった。とはいえ、スノウ=デイライトが引き連れるような存在なのだから、何らかの希少性はあるのだろうと、容易に想像は出来る。
故に、フェリシティに油断はない。
だが、フェリシティに自負はあった。
学府の最上位戦力。
教会の聖人。
協会の到達者。
そういった埒外の存在に手を伸ばした。手を伸ばしてなお、生き残れるだけの存在であるという自負が存在した。
だからこそ、この状態の己に声を掛けてきた黒髪の女に、フェリシティは心から憤怒した。
「なにかな」
――大方、ここまでの手負いになったのだから、己一人で私をどうにかできると、そう思ったのだろう。
フェリシティはそう思考した。その思考自体に、臓腑が焼けそうなほどの憤りが生まれる。
そのような感情を抱いてもなお、フェリシティの思考は冷静だった。常に激痛が走り続けている腕を無視し、状態と状況の把握に努めた。
「お前を帰すわけにはいかないんだ」
女はそう言いながら煙草を取り出し、火を点けた。吸い、紫煙をたっぷりと肺にくぐらせて吐き出す。くゆらされた煙は空間に溶けるように広がっていく。
フェリシティは女の動き出しに注目する。それ以外にできることがないのだ。『魂を喰らうモノ』のストックは先ほど全て出し切った。残りは呪いの移し先としての一体のみ。ただし、すでに呪いの流し込みは始まっており、その個体を満足に使役することは不可能。そのため、残る武器は一本の大鎌と己が肉体のみという状態だった。
――右腕も使用できない。それでも、私は戦える。
並みの魔術師ならば、片腕で圧倒できるだけの実力を備えている。フェリシティは驕りなくそのことを認識している。だからこそ、後の先を取るために構えていた。
「いいわね。やる気に溢れている。これの試運転にはちょうどいい」
そう言って女が両の手を少し上げると、手の上の空間が裂け、そこから二丁の拳銃が落ち、その手に収まった。
「…………銃?」
空間魔術を見て構え、そこから現れたモノを見てフェリシティは驚愕した。
回転式拳銃と自動式拳銃。現代に於ける武器として、とてもオーソドックスな存在。
特別な力を持たない人間でも、相手との力量差を覆して対象を絶命させ得る兵器。
魔術師といえども人間。無防備な頭に小石ほどの大きさの銃弾を受ければ簡単に絶命する。
だからこそ、魔術師は真っ先に火器に対応した。ありとあらゆる方法を用いて無力化した。
変則防御などによって、一定の魔力が伴わない攻撃を無効化した。それとは別に、肉体の頑強さも向上させた。結果として、弾丸は現代の魔術師を撃ち抜けなくなった。
――だというのに、銃?
フェリシティには戸惑いがあった。目の前の魔術師が不可解な存在に見えた。だが、即座に考えを続ける。考えを繋げる。
「教会の人間か……?」
――いや、教会の人間であるとしたら、なぜ魔術を使う?
フェリシティはそう疑問する。魔の廃絶を謳う教会の人間が魔術に手を出すことはない。それは信条や信念を超越した絶対の信仰であり、それこそが信徒たる所以だからだ。だが、現実として目の前の女は魔術を使い、その上で銃を握っている。魔術師を相手に――魔術師が相手だと理解していて銃器を取り出すような存在など教会の人間以外に在り得ない。
――だから、この女を教会が関与する存在だと仮定する。
ならば、この女は尚更ここで仕留めねばらならないと、フェリシティはそう考える。
女の手によって教会が『世界端末』のことを把握していたとして、協会側が『世界端末』の居場所を知ったことをこの女によって伝えられることが不味いと、そう考え、動いた。
教会の技術によって魔術印を刻まれた銃が撃ち出す弾丸は変則防御を貫く。だが、変則防御を超えられたところで、フェリシティほどの力量を持つ者であれば、銃弾など脅威ではない。
構え、銃口の向きを定め、トリガーに指を掛ける、その動作を必要とする銃に対応することは容易だった。避けることもいなすこともできる。
結局のところ、肉体の向上を図るような魔術師に弾丸は当たらない。
だから、魔術師たちは銃を持たない。
教会の人間が銃を握るのは、魔術を使わない人間が魔術師に対抗するためだ。
そして、フェリシティはそのように対抗してきた教会の人間を幾人も殺してきた。
それをここでも繰り返すだけだと、そう思った。
撃たれたら、それを避け、大鎌で薙ぐだけ。
それで終わる。
はずだった。
「残念、不正解」
トリガーが引かれた。撃鉄が下りた。火薬の弾ける音が響いた。
その銃口はフェリシティを覗いていなかった。
だから、フェリシティはその弾丸に反応できなかった。
「……え?」
フェリシティは脇腹に熱を感じた。内臓が掻き乱されている。脇から脇へと、銃弾が貫通していた。発砲音がさらにいくつも響く。大鎌を握っていた手から肩に掛けてを『上』から撃ち抜かれた。いくつもの穴が空いた腕は地面に叩き付けられる。その衝撃で大鎌を手放す。
「『クラガンラック』。昔の伝手を使って無理言って取り寄せたんだけれど、……いいねぇ。手に馴染む」
楽しそうに感想を言う女をフェリシティは見ていなかった。その視線は地面へと向けられていた。フェリシティは『たかがこれだけの銃撃を受けただけ』で動かなくなった己の身体を不思議がっていた。
「空間魔術との合わせも上手くできたし。悪くないねー」
理解が及ばない結果を突き付けられて、思考が停止する。
――フェリシティの意識はそこで途絶えた。
黒髪の女――刀河火灼は、動けなくなったフェリシティへと手を伸ばした。




