◆二話-上
電車を乗り継ぎ、バスに揺られて着いた人生初の美術館で俺はぼうっとしていた。
正確に言えば、飾られている絵画を眺めながらぼうっとしている。流石に、美術館に来て飾られているモノを見ないほど常識のない人間ではない。けれど、美術館に来て絵を見てもろくな感想が浮かばない程度には感性が貧相なので、結果としてこうやって阿呆そうに絵を眺めるしかできないのである。裸婦画は真っ先に探したけれどなかった。
妹である奏は俺のことを置いてお目当ての絵へと向かっていった。薄情な妹だと思う。美術館に来てはみたものの、そもそも何が飾られているのかも一切把握していない俺は絶賛棒立ちなのだ。常識があろうとも、知識がなければどうしようもない。
「ありゃ、あんちゃんそないな所でつっ立ってどしたん? 迷子のマントヒヒさんみたいな顔しちゃって」
あまりにも間抜け面だったのか、係員らしきお姉さんが声を掛けてきた。長い黒髪を後ろで纏めており、着ているのはスーツなのにどことなく和風な雰囲気を纏った雅なお姉さんは、あまり普段から見ないタイプの人種だったのでどことなく新鮮だった。最近は、もっぱら金髪碧眼の少女を見ているというか見られていることが多いから。
「あぁ、えっと、はい、美術館初心者なもので、何をすればいいか分からず立ち尽くしております」
ていうか、迷子のマントヒヒってなんだ。俺は一体どういう顔をしていたんだ。見たことあるのか迷子のマントヒヒ。
「はっはー、美術館なんて展示されとるもん見とけばええんよー? 他のお客さんの邪魔にさえならなければ、文句を言われることはないけんねー」
どんな訛りだ。
「そんなもんなんですかね」
「そんなもんそんなもん」
なははー、なんて気の抜ける笑みを浮かべるお姉さん。
「もしもそれっぽく楽しみたいんなら、絵画の隣にある説明文でも読めばええと思うんよ? それっぽい解説が載っとるから、わかった気になれるんよー」
「わかった気になれるだけですか」
「十分だし、大事よ。わかった気になればそのうち本当にわかるからね。わかる気がしないならずっとわからないままだから、やっぱり、雰囲気だけでも知っておくべきだよ」
「ぬぅ」
なんかそれっぽいことを言われているがそういう話は妹で足りているので、あまり聞きたくはない。
「ま、とりあえずこれでも読んどけばえーと思うよ。少なくとも何も知らずに眺めるよりはね」
そう言って、お姉さんは尻ポケットから何かを取り出して俺に手渡し、去って行った。
「なんだったんだあの人」
手渡されたモノへと目を落とすと、パンフレットだった。
この美術館で開催されている美術展――故ミルノルト=グロム展の概要などが記されているモノだ。入口で配られているやつ。
「……生温かい」
お姉さんの体温が残っており、ただ温かいだけの紙がやたらと官能的に見えた。思春期の男子らしい末期症状だ。家宝にしよう。
――ミルノルト=グロム。
ウェールズの北部にて生を受け、育ち、絵を描き続けてその生涯を終えた男。晩年はオカルトや宗教へとその興味を強く向け、神や悪魔、天使などの絵画を多く残したという。
とても大雑把にまとめるとそんな感じだった。三四半世紀以上を生きた男の一生が紙一枚に収まり、四半世紀も生きていない小僧にさらに要約されるのだから、人生は儚いものだと思う。
「『天使降ろし』――晩年のグロムが描いた『天使』をモチーフにした絵画の内の一つである。と……」
周りの人に配慮した声量で、俺は目の前にある絵の解説をさわりだけ読み上げる。
――不思議な絵だった。絵自体は白を基調とした色調で、天使という言葉に相応しい色合いなのだけれど、肝心の天使が――描かれている天使がどこか歪だった。浅学で見識の狭い俺が知る絵画に描かれている天使というのは、赤子で――せいぜいが幼児で、裸で小さな羽根を携えていて、ルーベンスの絵を見たらお迎えにやってくる存在なのだけれど、この絵画に描かれている天使はおよそ俺が知る天使とは別の存在だった。貌が無く、腕が無く、女性の胴体のようなモノから不揃いだが大きな白い翼を広げ、地から空へと墜落していた。そう、それは飛翔ではなく墜落だった。
――意味は、分からなかった。
「その絵に興味があるのかい?」
三分ほどその天使をじっと見つめていたら、男が俺の傍らに立っていた。声が出なかった。あまりにも自然に、音もなく、気配もなく、その男は俺の真横に立っていた。
背が高く、細く、眼鏡越しに覗く目は鋭く、どことなく狐を連想させる男だった。――銀髪なので、ぎんぎつね? うなぎを届けてくれそうだな……。違うか、それごんぎつねだ。
「えっと、はい、なんとなくですが……」
男の唐突な問い掛けに、俺は深く考えることが出来ず正直に答える。
「ふぅん、そうか。キミはいいセンスをしているね」
「はぁ……?」
なんだかよく分からないが褒められたらしい。ただ、なんとなく俺はこのパターンを知っている。これはアレだ、褒められて調子に乗っていたら高い絵とか壺とか布団を買わされるやつだ。そう直感した俺は男に対する警戒心を強くした。
――だが、男は俺のそんな露骨な警戒を気にすることなくこちらの全身をざっと一瞥し、興味深そうに微笑んだ。
「キミは、見たところ普通だね」
……これは褒められているのだろうか? 普通って言葉は、褒め言葉にも貶し言葉にもなるから判別がつきにくいのだ。とはいえ、この場合だとおそらくは貶されているのだろう。男は言外に俺のことを『特別』ではない『普通』だと判断した。
「それなのに『この絵』に強く惹かれたということは、もしかしたらキミには何かがあるのかもしれないね」
こちらの反応などお構いなしに、男は楽しそうに喋る。
「いつもならそんなキミとお話をしてみたりしたかったのだけれど、残念だ。今日はそんなことをしている場合ではないし、何よりも準備が整った」
「え?」
話についていけてない俺の気の抜けた声を無視して、男は指を弾いて鳴らした。
――たったそれだけだった。
――たった、それだけの動作で、状況が一変した。
その瞬間、周囲にいた五人の人間がその場で倒れた。老夫婦が倒れ、親子連れが倒れ、一人の青年が倒れた。この展示スペースで立っているのは俺と男だけになった。
「え?」
俺はもう一度気の抜けた緊張感のない声を上げることしか出来なくて、
「なっ――」
そんな俺を見て男は心底から驚いたかのような表情をしていた。
「――――少年、キミは何故立っていられる?」
状況が呑み込めず、突っ立って呆然とするしかない俺と違い、男はすぐに冷静になっていた。冷たく、静かに俺へと問い掛けていた。
「いや、俺にも何が何だか……」
俺は自身の無知を躊躇なく晒した。それは愚かな行いだったと思う。
「――そうか、キミが素直な子で良かったよ」
男は俺の言葉を聞いたかと思うと、懐から紐のようなモノを取り出した。
「さて、キミは今からその腕を後ろに回し、この紐で拘束されることを受け入れてくれ」
言っていることの意味は分かるが、どうしてそのようなことをするのか理由が分からない。
戸惑い、何も出来ずに狼狽えている俺を見て男は眉を顰める。
「『ナルコシスの剥奪』の下で、その精神を眠らせることなく活動を可能とするのだから、どれだけの存在なのかと思ったが、本当に何もわからないのか……」
男の独り言に、俺は何も反応できない。依然として、男の言葉の意味が分かっても理由が理解できない。――ナルコシス? 剥奪? この人は何を言っている?
「あぁ、安心してくれ。これは東洋のある呪術師の家系がその血液から二百年の歳月を掛けて練り上げた封印の呪具でね、害はないよ。――ただただ、強力なだけだ。結ばれたモノ自身では解くことができず、結ばれたモノの魔力が封じられる、それだけの紐さ。これから逃れられる奴なんてワタシの知る限りでも三人といないのさ。だから、これをキミが付けることは証拠になるんだ。一先ずの間、キミがワタシたちの障害にならないという証拠にね」
話に付いていけているようで全く理解が及ばない。どういうことだ? 俺がこの男――男たち? ――の障害になるとでも? 状況に少しも対応できていない俺が?
「なんで――」
だから、俺は聞こうとしたのだ。理由が分からないから。理由が分からないことにはどうしようもないから。この男が俺のことを危険視している理由が知りたかった。周りで倒れている人々はこの男が何かをしたから倒れているのかを。もしもそうだとしたら、何を目的としているのかを。何よりも、その中でどうして俺が他の人々とは違って倒れていないのかを。
――でも、それは間違った考えだった。そんなことを考えてはいけなかった。
――愚かで無知であるのならば、どこまでも愚直であるべきだったのだ。
俺の言葉も途中で、男はどこから取り出したのかと聞きたくなるような長く大きい西洋剣を取り出し、それを倒れている老夫婦へと向けて投げた。片手で、ろくに姿勢も正さず、まるでゴミ箱へちり紙を放るかのように投げたというのに、剣は空気を切り裂きながら老婆の頭を切り飛ばして床へと突き刺さった。
切り飛ばされた老婆の頭は血液をまき散らしながら絨毯を赤く染め上げる。
首を切断されたにもかかわらず、老婆の身体は微動だにしていなかった。切られた断面から血液を垂れ流し続けるだけだった。
「あぁはなりたくないだろう? だから、キミにはこれを付けて欲しいんだ」
固まるしかできない俺に、男は諭すように言った。
――現実感がまるでない。
――ただ、引き攣る喉が、高鳴る胸が、震える身体が、悪い夢のような現実を実感させる。
己の命が惜しかった。
己の痛みが怖かった。
己の傷が嫌だった。
出来得ることならば、それらを知らないままでいたかった。
だから、俺は頷くことしか出来なかった。
◆◆◇◇◆◆
狐のようなその男は自らをブロウルと名乗った。
紐で腕を固められた俺は、ブロウルに誘導されるがままに別の展示室へと移った。そこは一枚の絵画といくつかの椅子やソファがあるだけの空間だった。そして、それらの椅子には二人の男と一人の女性が腰掛けていた。男たちは俺を見ると少しばかり驚きの感情を見せた。
坊主頭で、中でもとりわけ体格の良い――映画なら外国の傭兵部隊にでも所属していそうな――男がブロウルへと問い掛ける。
「そのガキは?」
「拾い物だよ」
ブロウルのその回答に、不健康そうに痩せ細った色白な男が苛立ちを見せた。
「おいおい、こんな時にお前は何をしているんだよ。お前の趣味にとやかく言うつもりはないが、流石にここでやるようなことじゃねぇだろう」
唯一言葉を発していない茶髪の女性は、その痩せ細った男の言葉に頷いていた。
態度から見て、口調から聞いて、彼らはブロウルの仲間のような存在なのだろう。そしてブロウルは今、その仲間たちに責められていた。だが、ブロウルはまるで悪びれもせずに――むしろ得意げに口を開いた。
「この少年が『ナルコシスの剥奪』に対して影響を一切受けていないと言ったら、キミたちはどう思うかな?」
ブロウルがそう言うと同時に、三人の表情が変わる。驚きから戦慄へと、疑惑を含みながらも俺をナニか異形なモノでも見るかのような目で見た。
「……本当なのか?」
「嘘は言わないよ」
「『ナルコシスの剥奪』への抵抗など、人間ができることではないぞ」
「ワタシはそれが出来る人間を少なくとも四人ほど知ってはいるけれどね。
――久遠の魔女、アリス。
――第八超越者、カザリ=ナグモ。
――終末体現者、サイネル=リサージェンス。
――究理匡、デタイラント=ナルヴェグロ。
どれも錚々たる存在だ。そして、この少年はそのどれでもない。その意味がキミたちにはわかるだろう?」
ブロウルの言葉に痩せ細った男は唾を飲み、黙る。体格の良い男もまた、何かを考えているのか口を真一文字に結んで動かなかった。しかし、茶髪の女性は逆に口を開いた。
「――たとえその子供がそれらに比肩するであろう原石だとしても、所詮はただの子供で、原石だ。私たちが今からやろうとしていることはそれらを遥かに凌駕する超越行為だぞ? 何故、今になって原石を見つけた程度で喜ぶ。そんなものを磨いたところで、意味がない」
茶髪の女性は至って冷静に、時間の無駄であることに変わりはないと言い捨てた。
そして、ブロウルは女性のその言葉を待っていたかのように、懐から何かを取り出した。
ソレは一枚の古びた羊皮紙。劣化が激しく、横から見ても年代物だとわかる折り畳まれた一枚の紙。
そして、仲間である三人はブロウルが取り出したソレを見て、本当に青褪めた。先程までの驚愕などの表情が紛い物であったかのように、傍から見ても分かるほどに、心からその感情を露見させた。
「――あぁ、今はまだ原石だ。たかだか『ナルコシスの剥奪』を弾いた程度では人間でしかない。弾ける人間が最低でも四人以上は存在してしまうようなモノを弾けたからといって、大して価値はない」
「待てっ! オマエはソレをそのガキに見せるつもりなのか! やめろっ!」
――体格の良い男が叫んだ。先程まで俺のことなど道端に転がる石を見るかのような目で眺めていたというのに、男は今、俺のことを本気で心配して、たかが一枚の古びた紙を俺に見せようとしているブロウルへと掴み掛ろうとした――だが、間に合わない。
ソレの表面が俺へと向けられる。
俺がソレを捉えるよりも先に、ソレが俺の眼球を捉えた。溢れ続けていたナニかは俺の眼球という方向を見出し、這い出してきた。光よりも速く、それは俺が認識するよりも速く、俺へと覆いかぶさろうとした。
――けれど、それは俺の中身へ入ろうとして、霧散した。
跡形もなく、ただ俺の眼球へと僅かな痛みを残して消失した。
「……痛い」
両腕を後ろで縛られている俺は痛みの残る目を手で押さえることも出来ず、目を瞑り頭を揺らすことしか出来なかった。
「――――――」
「――――――、――!」
「――――――」
そんな俺をよそに、男たちは何か喚いている。
何を言っている? 急に彼らの言葉が分からなくなった。さっきまで日本語で話していてくれたのに。しかも、俺に向かって話し掛けているようにも聞こえる、なのに言葉が聞き取れない。俺に話し掛けるのだから、そこでこそ日本語で喋ってくれよ。――あぁ、違う。言葉が分からないのではなく、音を言語として俺が処理出来ていないだけだ。意識の揺れを自覚する。朦朧としていく感覚が明確になると同時にそこで俺の意識が途絶えた。
◆◆◇◇◆◆
何も無い空間があった。
否、そこには二人の少女が立っていた。
否、そこには建造物があった。その傍らに少女たちは居た。
ただ、時折通る通行人たちはそれらを意識できない。
認知できないが故に、それらが異常な雰囲気を纏っているにも関わらず、真横を通り過ぎた通行人たちはそこを通過したという認識すらしていない。
「街から外れた場所とはいえ、ここまでやるかね? 何かをやるとしても、人除けでも十分でしょ。敵対者がそこかしこにでもいない限り、邪魔する奴なんている筈がないんだし」
黒髪の少女は建造物へと手をかざしながら、隣に立つもう一人の少女へと話し掛ける。
「どうでもいいよ、そんなこと。それより解析は?」
もう一人の金髪の少女は、冷たく、吐き捨てるように問う。
「あと三十分もあれば行けるよ」
「もう少し早くできないの?」
「一番早くしてこれだよ。これ以上は相手に気付かれる可能性がある」
金髪の少女は押し黙る。黒髪の少女が自身の要望に応えて最速の手段を選んでくれているのを理解しているため、何一つ文句は言えない。
ただ逸る気持ちを抑えるために、強く拳を握り締める。
「今のところ、彼は無事だよ。相手方はなにが目的か分からないけれど、彼に危害を加えるようには見受けられない。それなら、下手に結界に引っ掛かってこっちの居場所を教えながら彼のところに向かうよりも、空間への介入で彼の真横へと出現した方がいい」
下手に乱戦になったり、人質として扱われたり、盾代わりとして攻撃に晒されたり、邪魔だからと殺害されるよりかは、それが一番彼の安全に直結する。結界の解析を行う直前に言った言葉を黒髪の少女はもう一度言う。
――ただし、言葉には嘘がある。
解析を行いながら中の様子を見ている黒髪の少女は、彼が何らかの手段により倒れたところを見ている。ただ、それを金髪の少女には教えられない。握り込んだ拳は、強く握り込み過ぎたせいで爪が肉に食い込み、血を滴らせていた。
今の状態の金髪の少女にそれを言えば、彼女は己の制止を振り切り彼の下へと直進するだろう。相手の実力も判断できていない状態で激情へと陥った少女が向かうのは危険だし、少年はあくまでも意識を失っただけで生体反応は確認できているから無事であると判断したのだ。
――だから少女は先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「今は待ってなさい」
◆◆◇◇◆◆
――意識の覚醒を自覚する。記憶に混濁は感じられない。脳は開かれた瞳孔から得られる情報の光を取り込もうと躍起になる。
「やぁ、起きたね」
そうまでして急激な目覚めを必要とした理由が、俺のことを見下ろしていた。
「…………」
どう返事をしたものかと思いつつ、周りの様子を伺う。場所は先ほど連れられてきた展示室で、体感的にも時間はそれほど経っておらず。せいぜい十数分程度の間だけ意識を失っていたのだろう。ただ、その十数分間に何かがあったのか、この展示室には俺とブロウルしかいなかった。
「あぁ、彼らには準備に向かって貰ったから、今この部屋にいるのはキミとワタシだけだよ」
目線が露骨だったのか、先ほどまでいた男二人と女性の現状を丁寧に教えてくれる。
「さて、キミが眠っている間にワタシたちは話し合いをしたのだけれど、ワタシは回りくどいことが少しばかり苦手でね。単刀直入に結論だけを言おう、キミをワタシたちの仲間として迎え入れることにした」
ブロウルはそれが決定事項であるかのように、その現実を俺に伝えた。
「仲間……?」
意味が分からない。理由もわからない。ブロウルの単刀直入な結論は、俺に対して理解をさせる気が感じられない。
「そう、仲間だ。私たちはとある目的の下に集った魔術師でね。今日はこの美術館にある絵画に用があったのだけれど、そこでキミという逸材を見つけてしまったから。こうしてキミを勧誘したわけさ」
「……魔術師?」
「そう、魔術師。ピンと来ないかな? キミたちに馴染み深いのは魔法使いのほうかな? アレはちょっとばかし系統が違うのだけれど、全然違ったりするのだけれど、まぁ、魔法使いだと思ってくれても構わないさ。おや、疑わしい目をするね。――いや、半信半疑といったところか。そうだとも、今の状況を考えれば、キミの中に存在する現実はこの状況に対する解答を出してくれない筈だ。だからこその半信半疑なのだろう?」
ブロウルは俺の目を見て、俺の表情を見て、会話を進めていく。
「今、その目の前にある現実を受け入れ給え。――キミは今、道を違えた。本来ならば関わることのなかった魔の道へとその身を堕としたのだ。呪うならその才能を憎め。寿ぐなら己が才能を抱きしめ給え」
「俺に、魔法の才能があるんですか?」
――ふと、一人の少女を思い出す。自分のことを見つめる碧い瞳。魔女だという噂のあるクラスメイト。もしかしたら、彼女は本当に魔女で、俺のその才能に気付いて見つめていたのだろうか。なんて、そんなことを考えてしまう。
「いいね、受け入れが早い。その柔軟性は魔術師として必要なものだ。で、才能かい? あぁ、あるよ。間違いなくある。『ナルコシスの剥奪』に対して耐性を持つってだけで三百年に一人の逸材だ」
三百年に一人の逸材と聞くと、なんだかそれはとてもすごいことのように思える。少なくとも、褒め言葉としてそう言われて喜ばない人間はいないだろう。
「まぁ、本当にその程度だったなら要らないのだけれどね。ただアレだけに対して耐性が高い程度じゃあ意味がない。重要なのはその後だ」
三百年に一人の逸材の価値が暴落した。
「その後っていうと、あの古い紙?」
ナルコシスの剥奪。詳細はわからないけれど、話の流れからして他の客たちが気を失った原因だろう。多分、睡眠の範囲魔法とかで本来なら意識を失うところを、俺だけがその影響を受けなかったからこそ、ブロウルは俺のことを特別だと判断したのだろう。
「まぁ、それしかないよね。とはいえ、しっかりと自分から考えるのはいいことだ。そう、あの紙だ。アレはとある悪魔神の髪の毛から生成された紙でね」
……オヤジギャグなのだろうか。ただ、ブロウルはいたって真面目そうなので、下手に突っ込んだら碌なことにならなそうだ。
「アレには悪魔の文字が書き込まれている」
それが意味することを、男は重要そうに紡ぐ。
「アレは、人間が見ていい代物ではないんだ。アレを人が見た瞬間、迎えるのは最低でも無惨な死――最悪は存在そのものの抹消だ」
ただ文字を見ただけで迎える最期など――それも無惨であったり存在そのもの抹消などであったりと言われても、十全に理解することはできない。ただ、それでも、どう足掻いたところで死ぬということは十二分に理解した。
「なんてものを見せるんだ。死んだらどうするんだ」
――自分で言っておきながらも、俺は自身のその言葉があまりにも見当違いな言葉であることをわかっていた。それでも、俺の中にある普通の感性が言うことを止められなかった。
「死ぬかどうかを試したんだ。死んだらワタシの推測が外れていたという結論が出るに過ぎない」
だから、ブロウルのその判然とした言葉に驚きつつも、どこか納得していた。
「それに、キミは生きているだろう?」
そう、俺は生きている。
何よりも肌で感じ取った。目で見て思い知った。アレが超常なるモノであるということを。だから、俺はこうもあっさりとブロウルの言葉を信じた。
「――あなたたちの仲間になるにあたって、要望を出すことは可能なのか?」
だから、次に俺がするべきことは決まった。
ブロウルは俺のその言葉を受けて、嬉しそうに口角を吊り上げた。
「あぁ、仲間の願いなら、ある程度は聞き届けるさ。仲間だからね。それで、なにかな?」
「他の三人は――他の仲間の人たちは、今、何をしている?」
「儀式の準備している。そのために、用意した触媒の整備をしたり、張っておいた結界の出力を調整したり、邪魔な一般人たちを一箇所にまとめているところだよ」
「――その一般人を、どうするつもりなんだ?」
「深くは決めていないよ。今回のワタシたちの目的は人ではなく、絵だからね」
「絵……」
この美術館で開催されているミルノルト=グロム展。その展示物の九割は絵画だ。だから、ブロウルたちの目的がそれらだったとしても、そこまで不思議ではない。ただ、たかが絵画を盗むのが目的だったとしてもここまでするのだろうか。
――そういう疑問はあった。だから、きっと、あれらの絵には、きっと何かがあるのだろう。そして、その何かを目的とした彼らにとって、ここにいる一般人には何の価値もない筈なのだ。
「俺は、あなたたちの仲間になることをここで誓う。だから、一般人たちには手を出さないでくれ。絵だけが目的なら、ここでの彼らの安全を保障してくれ」
俺の出した望みが意外だったのか、ブロウルは不思議そうな顔をする。
「別に構わないけれど、理由を聞いても大丈夫かい?」
「俺の要望がどこまで許されるかを知りたかった。あとは、まぁ、さっき話したお姉さんが好みだったから、死なれたりしたら寝覚めが悪いなぁと」
――ここには妹がいる。
俺はもう、どうしようもないだろう。ブロウルが俺のことを迎え入れると言った時点で、俺に選択の余地はなかった。彼は断定したのだ、つまり、そこに俺の意思は関係ない。俺が選べるのは、彼らの仲間に進んでなるか、拒絶して殺されるか操られるかだろう。死にたくない。死ぬのは嫌だ。そこに苦痛が付与されるなら尚更嫌だ。
妹が――奏が危険な目に合うのは、一番嫌だ。
それなら俺は俺を差し出そう。喜んで踏み台となろう。奏の人生において兄として何かが出来たとはあまり思えないけれど、それでもここであいつの無事を買えるのならば、俺がこの先想像だにしていなかった人生を送ることになろうとも俺は俺を売ろう。あいつの安全をここで買おう。ただ、それを正直には言わない。言えない。ここで俺の弱みを彼らに見せることはできない。妹を知られたくない。出来得ることならあいつには、こんなわけのわからない世界には関わらないで欲しい。俺が知ることのできないところでいいから、俺の知らないところでいいから、あいつには今のまま生きて欲しい。そして願わくば、幸せになって欲しい。
「――いいよ。実に思春期の男の子らしいね」
笑って頷いたブロウルを見てふと思い出す。あの老婆はどうなった?
「さっき、あなたによって首を飛ばされた老婆はどうなったんですか?」
「ん? あぁ、死んだだろうね。即死だろう。あのまま放っておいているから、もう冷たくなり始めている頃合いかな」
「そのおばあさんを生き返らせるとかは」
「無理に決まっているだろう。通常、人は生き返らない。魔術を行使するとしても、人は簡単に生き返らない。ワタシがキミに約束するのは、今この美術館にいる生きた人の安全だ」
「そうですか……」
「それじゃ、ワタシは彼らにキミの願いを伝えてくるよ。それに儀式の準備が整った頃合いだろう。そのままワタシは儀式を始めようと思うから、キミはここで待っていなさい」
そう言って、ブロウルは部屋から出て行った。
――儀式とはなんのことなのだろう。
妹のことが最優先で、唯一意識の端に引っ掛かったのはあの老夫婦のことで、それ以外に意識を向けられなかった。まぁ、そんなのはあとで聞けばいいか。妹の安全が確保された今、俺が考えるべきは今ではなく今後だろう。
「…………」
そういえば手が後ろで縛られたままだなぁ、とぼやきつつ、俺は自分が今後どうなるかを考えていると、部屋に男二人と女一人が戻ってきた。
「あら、本当に目覚めているね」
意識のある俺を見て、女が声を掛けてきた。茶髪の女性。紺を基調としたスーツに身を包み、程よく化粧を施しているであろう清潔感のある様は、なんというか大人の女性といった風体だ。
「……おはようございます」
何を言えばいいのかも思いつかないので、目覚めの挨拶を返すことにした。
「どうやら、ブロウルの言っていたことは本当のようだ。ヴェルデギェスの手記を覗いて存在剥奪に耐えうるどころか意識すら保っているのだから、あいつの言っていたこともデタラメというわけでもないのかもね」
挨拶は返さず、女性は俺のことを面白そうに見ながら懐から煙草を取り出し、口に咥えたところで手を止めた。
「キミ、タバコは吸うかい?」
「未成年だよ」
そう返答をすると、些か間を置いてから女性は納得したかのように頷き、咥えた煙草を胸のポケットへと押し込んだ。
「そうか、この国だと子供は吸えないんだったな。――ん、とはいえ、キミがタバコを吸うかどうかは別か。一応聞くけれど、タバコは吸うかい?」
「吸えませんし、吸いません。あんまり臭いが好きじゃない」
「そうかい、なら、火を点けなくて正解だったな」
取り出していたジッポを手の中で持て余しながら、女性は笑った。
「これから一緒にやっていく仲間だ。嫌われたくないからな。――さて、私の名前はミランダだ。少年の名前を教えて貰えるかい?」
「天木、天木秦です」
ここで名前を教えないのはおかしいので、素直に教えることにする。下手に偽名なんて使ってもあんまり意味があるとは思えないし、後々齟齬が発生した時に面倒なので。
「へぇ、シンか。罪な名前だね。――それじゃ、あっちの二人も紹介しておく。あっちのでっかいのがグダド=スラインで、ほっそいほうがメレル=マイベルだ」
女性――ミランダは残り二人の名前も教えてくれる。
「あとはシンをここに連れてきたやつがブロウルだけれど、それは知っていた?」
頷く。
「だろうね。あいつは名乗るのが好きなやつだからな。私たちの紹介はしなくても名乗ってはいると思ったよ」
そう笑って、ミランダは手近なイスに座った。深く腰を掛けるので不思議に思う。儀式とやらはいいのだろうかと。
「ブロウルは儀式とか言っていたけれど、ミランダたちはそれに参加しなくてもいいのか?」
「ん? あぁ、大丈夫だよ。アレはブロウルの専門だ。私たちがいたところで邪魔なだけだ。だからこうして私たちはシンのお守りをするためにこっちで待機しているんだ」
「アレって? ブロウルは今、何をしようとしているんだ?」
「シンはブロウルからどこまで聞いているんだい?」
「なんか、儀式をするってことぐらい」
「全然何も聞いてないね……。いいよ、ブロウルの儀式が終わるまでの間に私が説明してやる。――ところで、シンは本当にただの一般人なんだよな? 魔術に関して知識はあるかい?」
「ない。魔術なんて、創作上の存在だった」
「はっはっは、いいね。隠匿はしっかりと行われている。『想われど、信じられざるモノとしてあれかし』という根本原理は見事に現代まで繋がっているわけだ。とはいえ、それはこうして原石の見落としにも繋がるわけだけれどね。大多数の平均以上の才能を守るために、偶発的に発生する異常な才能は諦める。実に保守的だ」
くっくっく、と、ミランダは実に愉快そうに笑う。
「そして私たちみたいなはぐれ者にその原石を拾われちまうのだからタチが悪い。諦めるのなら、拾われないようにまでしなくちゃあね」
「えっと、儀式の話は……」
一人で愉快そうになっているミランダに俺は再度疑問を投げかける。
「シンは天使の存在を信じるかい?」
「魔術と同じで、空想上の存在だと思っていたけれど、その魔術が実在するのなら、天使だっていてもおかしくはないかと」
今、俺の中での現実と非現実の境界は曖昧になっている。
「そうだ、天使はいるんだよ。ただ、それが私たちの前に姿を現すことはない。存在する階層が違うからね。そして、ブロウルは――私たちはその天使を地上に呼び堕とそうとしているのさ。ミルノルト=グロムという稀代の狂人、死の間際に聖痕を宿した咎人、それが遺した絵画を使ってな」
「……天使を呼び出して、あんた達は何をするんだ?」
天使について俺が知っていることは、死んだ人をあの世へと運ぶことぐらい。だから、ブロウル達がその天使を呼び出して何をしようとしているのか、想像がつかない。
「簡単なことだよ。天使ってのは、要は莫大なエネルギーの塊だ。世界への深度が高く、私たちでは触れられないようなところまで触れられる高位存在。それを地上に堕として、手中へと収めるのなんて、力が欲しいからに決まっている」
それはとても分かりやすいお話だった。力が欲しいから、より強大な力を求める。どこにでもある有り触れた行動原理。
「力は、あった方がいい」
「あぁ、力はあるに限るよ。それだけで――ん?」
いつの間にかミランダの横に、大柄な男――グダドが移動していた。
「先に、いいか」
「ん、そうか。お前は相変わらず心配性だな。いいぞ」
グダドの意図を察したのか、ミランダは俺の前をグダドに明け渡した。
「目の調子はどうだ? 吐き気や眩暈は覚えているか?」
ぶっきらぼうな物言いで、グダドは俺の体調を心配する言葉を掛けてきた。
「とりあえずは治まっているけれど」
その見た目の厳つさに反した気を使う口調に、少々の面を食らう。
「治癒術式にはそれなりに精通している。少し触るぞ」
そう言って、グダドの腕が俺の眼前へと伸ばされる。
――思い出す。
そう、ブロウルがあの悪魔の手記を俺に見せようとしたとき、真っ先に俺の心配をしたのはこの人だった。ブロウルを止めようとしたのはこの男だった。
だから、俺はこの男への警戒を緩めた。
どうせ腕は封じられている。
健常というのも自己判断に過ぎない。
それならば、この男がなんらかの治癒を施してくれるというのなら、それを受けるのも悪くはないだろう。
そう思ったのだ。