◆四話-1
――意識の覚醒を自覚する。
ただ、意識を失っていた時間がどれほどあったのかはわからない。
「えっと……」
とりあえず、己の内へと向いていた意識を外へと向ける。周囲を見渡し、状況を把握しようと努める。
「和室だ……」
畳敷きの床、木組みの天井、四方を襖が囲っている。
田舎にある祖父母の家を思い出す。ただし、違うのは広さだ。――広い。何十畳なのか数える気にもなれないくらいに広々としており、旅館などの宴会場を彷彿とさせる。
気付く。自身が片膝をついていることに。左膝を畳につけ、右手を伸ばしている。
その右手の先には手があった。
――成世の手だった。
勿論、その手の先は存在する。成世の腕が、肩が、身体が、そこには在る。切断されていた左腕も元に戻っており、傷一つない。
一瞬、つい先ほどまでの出来事が白昼夢なのではないかと錯覚しそうになったが、その左腕は外気に晒されている。スノウによって切断された個所から先の袖がない。つまり、続きだ。
成世は気を失っているようだったが呼吸は安定しており、素人目からしてみれば「大丈夫そう」という感想以外を出しようがない。
「いらっしゃいませ」
りんと、よく通る鈴のような声が響く。少し、驚く。それが目の前で発された言葉だからだ。
「気が付いたようなら、体勢を緩めていただけますでしょうか。成世様を仰向けに寝かせたいので」
目の前にいたのは女性だった。正座をして、背骨に棒でも通しているのかと思えるようなほどに上体を真っすぐに伸ばしている。
大きいと、素直にそう思った。胸でない。背だ、背が大きい。脚は折りたたんでいるためその長さを判断できないが、上体だけで「長い」のだ。おそらく、立ち上がれば俺よりも頭一つ分以上は上背があるだろう。それでいて肩幅などは俺よりも細そうで、そういった部分から女性的な要素を感じ取る。
「……聞いておりますか?」
こちらが面食らって固まっていると、女性は小首を傾げて言葉を重ねてくる。
白百合を連想させるような白髪を一本結びにして肩の前に垂らしており、紅玉を彷彿とさせる赤い瞳でこちらを覗き込んでいた。およそ人間味のない構成要素。なんとなく、シロウサギを思い起こさせる。
着ているのは白い着物に赤い袴。神社で見る巫女さんを想起させる装いだが、それ以外の髪や目、背丈などのパーツが見慣れたものとはだいぶ違うせいで違和感が強い。
「成世様も、あなたも、手を握って離そうとしないため、眠られている成世様の体勢があまりよろしくないのです。どうか脚を崩して姿勢を下げるか、もしくはその手を離していただけますでしょうか?」
改めて具体的な指示を受けて気付く。なるほど、俺が手を握っているせいで成世の姿勢は確かに不安定だ。うつ伏せに倒れているけれど、俺が手を掴んでいるため腕が浮いており、引っ張られている状態になっている。
言われた通り、俺は素直に手を離そうとするが思った以上にしっかりと握られていた。
「固いな……」
仕方なく、俺は成世に近づきながら畳に尻をつき、胡坐になる。
引っ張る要因がなくなり成世の上体が――ていうか顔が畳に熱いベーゼをかまそしそうになるが、それは巫女さんが素早く手を差し込み、器用にその身体を引っ繰り返した。
そしてそのまま成世の頭を俺の膝の上に置いた。おい。
ご丁寧に敷物を用意して高低差の調整もしている。
「…………」
目で訴えるが、反応はない。
「さて、成世様の体勢を整えましたので、改めてご挨拶を。空海邸へようこそおいでくださいました。私はそちらの成世様と空海玄外に仕えるモノであり、名を『繊』といいます」
そう言って巫女さん――繊さんは居住まいを正してから自己紹介をしてくれた。ついでに、現在地についての情報も獲得。空海邸。成世の実家と考えるのが妥当だろう。
「不躾ながら、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「はぁ……、天木秦です」
「アマギシン様ですね。次いで、成世様とのご関係をお伺いしてよろしいでしょうか?」
「学校の先輩後輩ですね」
「……なるほど」
なんだろうか、今の若干の間は。
「私は空海家に受け継がれる式神の一種です。主な役割は教育と家事となります」
「なるほど、式神」
式神。刀河から聞いたことはあるし、それはそれとしてフィクションからの知識もいくらかあるので、疑問符をつけることなく復唱した。
「はい、式神です。とは言ってもほとんど人です。人ですが、若干の差異はあります。具体的に言うと、身体機能をある程度意図的に調整できるなどあるのですが、そうですね……。例えば、ホルモンバランスの調整によって母乳を出すことなども可能で――」
「ちょいと止めましょう。ストップ。ストップトーキングですよ。初対面の女性から聞かされる話としては些かパンチが効きすぎているのでもう少しソフトな感じのやつにしましょう」
「男の子は母性に惹かれるものだと記録していますが?」
母性という単語から三段跳びしているぞそれ。
「そういう話をいきなりしたら引かれるものだと記憶しましょうね」
「小粋なジョークですよ。最初の掴みが肝要ですからね」
「だいぶ大振りなパンチだったからな? 掴むどころか握り潰しているからな?」
「ふむ……」
繊さんは唇を人差し指で叩きながら考えるような仕草をする。少し、雰囲気が変質する。その視線は俺を捉えて離さない。値踏みするかのように、確かめるように、俺という存在が持つ情報を網膜に焼き付け取り込まんとするように、見続けてくる。
「と言いますか、私が申したかったのは、成世様が赤子の頃はそれによって育てていたのですよ。と、そういう話なのですが」
「あぁ、そういう……」
つまり、繊さんは成世にとって字のごとく乳母だったということだろう。
「アマギ様は乳母という存在に対して性的な嗜好がおありで……?」
「発想を飛躍させるな」
「乳母……性的に……食べる……はっ! これが巷で話題の『うーばーいーつ』なるものですか」
なんか上手いこと言ったみたいな顔をされるが、どうすればいいのだろう。時事ネタはやめて欲しい。
――でも、なんとなくではあるが、この人が成世の育ての親だというのも理解できる。初対面の人間に対して随分とエッジの効いた話題から入るところには既視感がある。
そうやって話している間に、俺の方もだいぶ落ち着いてきており、現状を把握できた。
俺や成世の履物が脱がされている。室内なので当然と言えば当然ではあるが、これはつまり、意識のない間に目の前の人物ないし、他の式神の方々によって脱がされたのだろう。
それ自体は別にいい。だが、それが示すことは身体検査もその延長で行われているだろうということだ。――案の定、いくつか仕込んでいた刃物や暗器の類は回収されていた。
こうなると、得物の性能による経験憑依での強行突破という選択肢も取れなくなる。成世が目を覚まさないからこそ、こうして呑気に話していられるのだろうけれど、成世の意識が戻れば、先ほどまでの続きを繰り広げることになるだろう。そして、ここが成世の生家であるということを踏まえれば、俺は再度危機的状況に陥ったと考えていい。
「成世様は、学校ではどういったふうに過ごされておりますか?」
畢竟するに、今の俺にできることは一つだ。警戒度の低い今のうちに話を合わせつつ外に出て逃げる。これに尽きる。この手に限る。これしか知らない。……逃げてばっかりだな。
「空海の学校での感じ、ですか?」
「えぇ、この子は上手くやれていたのでしょうか?」
繊さんはそう言いながら毛布を成世に掛け、その肩を撫でる。表情筋が固まっているのかと思えるような無表情だが、その手つきは優しく、動作に温もりが見て取れる。
「どう、なんでしょうね。別に、俺はこいつの同級生とか同じ部活の仲間とかではなくて、校舎内で見掛けたら話すぐらいの間柄ですから、学校生活の大部分をどのように過ごしているのか詳しくはないですし」
事実をそのままに喋る。
「先輩後輩の間柄であると、仰っていましたものね。ですが、所属が一緒ではないにも関わらず、先輩と後輩という間柄に収まっているのであれば、アマギ様自身とはそれなりの友好関係を築いていたのではないですか?」
そう言って、こちらの手へと視線を落としてくる。そこには繋がれた二つの手がある。
「そうですね。少なくとも、お喋り友達みたいなところはありましたね」
俺はそういう認識だった。話の合う後輩。時折見せる翳が実に人らしくて、少なくとも嫌いではないと、そう思える存在だった。成世もまた、そういった波長の重なりを好み、俺に話し掛けていたのだろうと、そう考えていた。
――ただ、事実は違うのだろう。スノウの正体を知っていたことと、俺の正体について知った時の激昂具合を見るに、彼女の目的はもっと別のところにあったはずだ。俺のことなど踏み台としてしか認識しておらず、踏み台として丁度良い角度になるようにと、こちらの波長に合わせていただけだったのだろうと、そう思う。
別に、それが悲しいことだとは思わない。
少し、寂しいのかもしれないけれど。
「成世様は、笑っていましたか?」
繊さんは重ねて問うてくる。
成世と会話している時のその表情を思い出す。声音を思い出す。
「えぇ、笑っていましたね。俺といるときはだいたい笑っていましたよ。けらけらと、からからと、楽しそうにしていましたよ。くだらないことを大真面目に話して、嬉しそうに」
実にアホそうに――それこそどこかで見たような『懐く後輩』というイメージをそのまま当て嵌めたかのような振る舞い。今にして思うと、アレもそういうものだったのだろうか。
寂寥感に苛まれている俺とは対照的に、繊さんは心なしか嬉しそうな声音だ。
「そうですか。それはそれは、えぇ」
安堵の吐息。喜色の滲み出た呟き。
「ところでこいつ、いつ目覚めるんでしょう……」
空いている方の手で成世の頬を示しつつ、目の前の女性に確認する。頬を指でつつきたい衝動に駆られたが、それで起きられても困るので、指し示すに留める。
「そうですね……。外見に傷は見られませんし、切断されていた左腕もすでにガワは形成し終わっているようです。けれど、体力の消耗が激しいようですし、内臓にもいくつか損傷が見られます。なにより代替器官が軒並み消えており、それらが消えていたことによって周辺の臓器や組織にも破損・浸食が起きていますね。土地による治癒・再構築の後押しもありますが、体力の回復力も低下しているでしょうから、しばらくは起きないでしょうね」
こちらの意図など知らない繊さんは成世の身体を触診しながら答えてくれる。
「……そうですか」
しばらくってどれくらいだよ……。
一時間? 一日? 一週間? 一ヶ月? はっきりさせてくれ。
――そういえば時間の単位っていやにはっきりしているものだけれど、この『一ヶ月』ってのだけ曖昧な部分になっているよなぁ。一分は六十秒で、一時間は六十分で、一日は二十四時間で、一週間は七日なのに、一ヶ月はだいたい四週間とちょっとで、日数換算でも二十八日から三十一日と変動する。ただ、一年となると十二ヶ月で、日数にすると三百六十五日と、また明確な数字に戻る。なんだその例外は。
なんなんだろうな、これ。……いや、年は閏年とかもあるのか。
多分、無理に既存の定義に無理くり擦り合わせていった結果なんだろうけれど、知らないのでこの疑問にはこれ以上の発展性がない。帰ったら調べてみるかね。
――もっと深く考えれば、もっと思慮を重ねれば、実際は例外の方が多くて、例外だと思った方が普通で、さらに俯瞰して見れば例外も普通もそれなりに数があって、何が普通で何が例外であるかなどあやふやになってしまうのかもしれない。
などと、若干の現実逃避を行いつつ、これからのことも真剣に考え始める。
――体力に言及するということは、純粋な疲労もある筈だ。
魔術による治癒は形を取り繕うものと、人元来の回復力を助長させるものがある。
切断された腕を接合するような『くっつける』ものは形を取り繕うだけであり、細胞レベルへの治療は行われない。つまり、ダメージは残る。イメージとしては、傷が塞がってもそこを指で押せば痛みがある。そんな感じ。
もう一つの回復力の助長は、それそのまま回復の促進でありダメージの取り除きだが、これは体力を通常よりも消耗する。魔術による治癒は回復の速度を速めるだけであり、短縮でしかない。そして、もしも体力の回復速度よりも体力の消耗量を上回るようにした場合、最悪の場合は衰弱死すら在り得るのだ。
人体は基本的に回復と消耗を同時に続けている。通常時はそれで問題ないのだが、疲れるような行動や怪我をした場合は消耗量が増える。それらを補うために消耗する行動を控え、休息するわけだ。魔術はその過程を調整して短縮させることはできるが、省略させることはできない。つまり、魔術師といえど基本的には不眠不休での行動はできないのだ。一応、それも方法を選べばできるらしいのだが、一般化していないあたり実用性や費用対効果がかなり悪いのだろう。
夏に俺やスノウ、ネセルが入院し、病院のベッドの上で安静にしていた理由も主にそれだ。
そして、それに対する療養方法は睡眠などによる長時間の活動停止が基本。つまり、成世が目を覚ますにはまだいくらかの時間が必要で、少なくとも数時間程度ではないはずだ。
そうやって熟考に及んでいると、
「アマギ様は『井の中の蛙大海を知らず』という言葉をご存じですか?」
繊さんは成世の乱れた髪を櫛で撫で付けながら、世間話をするかのようにそう訊いてきた。
「故事成語ですよね。中国のあの……梨の品種みたいなやつに書いてある」
「秋水ですね」
物覚えの悪さを披露してしまったのでなんとなく気まずくなり、それっぽい知識をひけらかすことで印象の補填を試みようとする。
「そうそれです。秋水。……そうそう、井蛙と言えば続きがありまして、されど、空の――」
「それは俗説と言いますか、後から勝手に加えられたものですよ。捻くれ者が『だけど』とか『でも』などと言って取って付けたものですね」
「…………」
浅学さが露呈しただけだった。聞きかじっただけの知識は裏付けをしてから使うようにしよう……。
「私が今から言おうとすることは、それと同じですよ。既存の言葉に対する揚げ足取り、改変、その言葉が述べられた意図を捻じ曲げ、前後の話を無視した受け取り、そういうものです」
そこで言葉を一度区切る。
「井戸の中の蛙は、そもそも海など知らなくて良かったのではないのでしょうか? 海などというものがあることなど、知らずにいても問題はなかったと思うのです」
だってそうでしょう? と、言葉が続けられる。
「蛙は海では生きていけません。生きていけない場所を知ったところで、意味などないでしょう? むしろ、そんなところを知り、気の迷いで思いを馳せ、向かいでもしてみれば、待つのは地獄のみです。生きていけない場所を、行けば死ぬような場所を知ったところで、どうしようもないのです。それならむしろ、井戸の中を知っていればいいのです。自身が生きる場所を、自身が行ける範囲を適切に把握し、そこで満足して一生涯を終えればいいのです」
繊さんは慈愛の籠った目で成世を見つめながら、淡々と、けれど芯のある声でそう言い切る。
この人、よく見れば左目の下に泣き黒子があり、下ろされている前髪から時折覗くそれには妙な色気がある。……泣き黒子ってすごいな。今度スノウにも言ってみるか。と思ったが、やっぱやめておこう。それ言ったら「泣き黒子つけるよ!」とか言い出して目の下をいじり、本当に泣き黒子つけちゃいそうだし……。つけ方によっては皮膚がんとか出そうだしね!
「否定はできないですね」
思考を明後日の方向に飛ばしながらも、繊さんの言葉に頷く。
そして、これが誰の話であるかは理解できる。
「でもまぁ、選ぶのは本人ですよ。知りたいと思ったのなら知ればいい。知って、行きたいと思ったのならば行けばいい。自分で決めたのなら、そうすればいいと思います」
「その先が地獄でも、ですか?」
「たとえその先が地獄でも、です」
「知らなければ良かったと、後悔するとしても?」
「えぇ。後悔するとしてもですね」
「それは、随分と突き放した考えではありませんか?」
「そうでしょうか。そうかもしれないですね」
なるほど、そう言われてみると、確かにこれは冷たく聞こえる。
「身近な人が、大切な人が、大事な人がその選択をしたとしても、アマギ様はそう言って突き放すのでしょうか?」
「俺は、基本的に誰かの意志を覆すつもりはありません」
でも、と続ける。
「意志の手助けはしたいと、そう思っています。その先が辛い道のりであれば、その辛さを和らげることに尽力します。艱難辛苦など味わう必要なんてないですからね。痛みがあれば取り除きます。悲しみを、苦しみを、悩みを、苦渋を、可能な限り排除します。――まぁ、当然のように、その対象は俺が助けたいと思う人に限りますが」
そう言って、未だに掴まれている手を見る。
「もしもこいつが苦しんでいるのなら、俺は助けたいと思いますよ」
手の先では、成世が静かに小さく寝息をつきながら、繊さんの用意した柔らかめのクッションに顔を半分ほどうずめている。――ていうか、手ぇ離してくれないかなぁ……。もし逃げる隙を見つけたとしても、これでは初動が潰れてしまう。
「アマギ様……」
こちらを見る繊さんの目から、警戒の色がやや薄れる。赤い瞳が青くなったわけではない。
よしよし、相手の油断を誘えているぞ。懐柔できている気がする!
「そういえば、カエルは必ずしも海が駄目なわけではないですよ?」
引っ掛かりを覚えた部分について指摘をいれると「え?」と、素っ頓狂な声が返ってくる。
「確かにカエルやその幼生のオタマジャクシは基本淡水域に生息していますし、浸透圧の関係で塩水を苦手としていますが、あくまで苦手程度ですよ。一部の汽水域の河口などで見掛けることも普通にありますし」
昔にどこかで仕入れたあやふやな知識を思い出しながら喋る。
「また、一部の品種では体内に尿素を溜め込むことや、皮膚の硬質化をすることによって、海水に対してある程度の耐性を持っているそうです」
体内に尿素に溜め込むという方法はサメで有名なモノだ。
サメは海中の塩分濃度下で生きるための浸透圧調整として、尿素を取り入れて体液――血液などを濃くし、身体から水分が抜けていかないようにするという。
サメの切り身などがアンモニア臭い原因もこれだったりする。……厳密には死後に微生物が尿素を分解してアンモニアにすることによって発生するのだそうだ。
そして、カエルにもそれと同じようなことをしている品種が実在する。
「それでもまぁやっぱり『海で暮らす』というのは難しくて、生きていくには淡水環境が必要だそうですが、必ずしも『行けば地獄』とは限らないんです。なんなら、餌を取るために岸辺にカエルが姿を現すことだってあるそうですよ」
例えそこに居続けることができなくとも、行くこと自体はそれほど難しい話ではなくて、行くことによって何らかの得るモノがあるというのならば、そこに意味を見出せないとは断言できないだろう。
だって、それは人も同じなのだ。人は海中で生きられない。人は宇宙では生きられない。それでも海中に行くし、宇宙を目指す。……などと浪漫のある方向へと話を飛躍させてしまったけれど、実際問題そこまで極端な環境ではなくとも、人が生存し続けられる環境というモノは意外に限られる。それでも人はそこに向かうのだ。
時に明確な意志を持って。時になんとなくで。時に流されて。人それぞれの理由で行くのだ。
「繊さんの言うように、海を知らないことは悪いことじゃないと思いますよ。それと同様に、海という巨大で塩っ辛い水溜まりの存在を知り、それがどんなものかを実感したいと思う気持ちもまた、悪いことではないと、そう思います」
無知は罪か? いいや、そうはならない。
好奇心には罰があるか? いいや、そうとも限らない。
結局のところ、それらは結論からの逆算に過ぎない。
ならば試せばいいのだ。試すしかないのだ。
好奇心は猫をも殺すという言葉が傾向から生まれた言葉であり、統計的に見て実際にそうだった割合が過半数を超えていたとしても、それの少数に該当させることこそが周囲の人々の役割なのだ。
俺は、そう思う。
それが普通のことで。
それが正しい普通で、
それが優しい普通で、
それが甘い普通だとしても。




