◆一話-下
「お邪魔しまーす」
そいつは当然のように扉を開き、俺の部屋へと入ってきた。
艶のある黒髪をショートボブにし、家の中だからと俺の古着であるサイズの合ってないTシャツとちょっと心配になるくらい丈の短いホットパンツを着用しているのは妹である天木奏である。
今年で中学二年生になった妹は俺と違って親の優秀な遺伝子を受け継いだのか、とても整った顔立ちと食べても栄養が胸に少々行って、後は効率よく燃焼されるだけの体質を上手く扱って人生を楽しそうに生きている。
中学に上がってからはお洒落に目覚めたのか、外に出掛ける時は兄である俺でも感嘆する程に良い外面を作り上げるのだが、こうして自宅では気の抜けた格好をしている。いや、むしろ自宅での気の抜けようは悪化していると言ってもいいだろう。外での反動が自宅で発散されているのだと思う。
……外面を作り上げることがお洒落なのだろうかと思われるだろうけれど、妹を見ているとお洒落の際には服や装飾品だけでなく仕草や口調も着飾るのが大事なのだと学んだのだ。
「ノックをしなさいといつも言っているでしょうが」
ただ、いくら自宅では気を抜くからといっても兄の部屋に無遠慮に闖入するのはいただけない。嫌われたくないので小言は言わないようにと心掛けてはいるのだけれど、それでもこの件は譲れない。ノックは人類が生み出した偉大な発明の一つだ。特に思春期の男子には重宝されている。ノックは彼らの繊細なハートを守るためにあると言っても過言ではないのだ。思春期の繊細なハートがどれだけ繊細かというと、ノックされたら砕ける繊細さだ。……守れてないしそれは繊細ではなくただの虚弱。
「お兄ちゃんにノックとか必要ないでしょ」
俺のことを一瞥したかと思うと、溜め息一つ吐いて部屋の奥に設置されているベッドへと寝転んだ。自由だなー。
「何を言う。エロ本とか読んでいたらどうするんだ。明日から気まずくなってしまうだろうが。それをお前が母さんや親父に言ってみろ、明日の朝ごはんは間違いなく気まずくなるぞ?」
「その手に持っている本を閉じて隠してから言え」
奏は俺が手に持っている――現在進行形で読んでいるエロ本を指差す。内容は洋モノである。ブロンドの姉ちゃんがたくさん出てくる。性の暴力と言ってもいいだろう。とても刺激的だ。
「明日には玖島に返さなくちゃいけないから今日中に読んでおきたいんだよ」
とっておきだけれど、今日だけは貸してやると言って渡してきたのだ。その厚意ある友情に答えなければ男ではないと思う。
「そんな図書館で借りた本を返すようなノリで言われましてもねぇ……。というか、またあの人か……。玖島さんはお兄ちゃんに悪影響しか与えてないんじゃないかなぁ」
「いや、あいつの言う通りこれはかなりいいモノだぞ」
「そういう問題じゃないなー。妹の前でそういうのを読むのもどうかと思うけれど、そんな真顔で淡々と読むものじゃないでしょそれ。読んでいて面白いの?」
「たいへん興奮するぞ」
「聞き方が悪かった。そして真顔で言うんじゃない。妹にそんなことを報告するな。あと、トモくんにはそういうの見せないでね。そういうのはせめて中学生になってからだから」
「わかってるよ。奉にはまだ早いもんな」
トモくんというのは末っ子である天木奉のことである。今年で小学三年生になる弟だ。奏は弟である奉のことを大層可愛がっているのだけれど、流石にその手の情操教育にまで口を出すのはどうなんでしょうね。いや、中学生でエロ本を許容する辺り理解はあるのだろうけれど、姉にその手の理解を示されるのも思春期の男子にとってはかなり厳しいのではなかろうか。
というか、感想を聞いたのは奏の方だと思うのだけれど……。まぁ、妹とは兄に対して理不尽なモノなので口答えしない。
「それで、どうしたんだ?」
本を読んだままでは失礼なのは一理あるので、とりあえず閉じることにした。
「しまえ」
「はい……」
そんなドスの効いた声で言わなくてもいいじゃないかと思いつつも、言われるままにエロ本を通学鞄へと仕舞う。仕舞ったことを確認すると、奏は口を開く。
「お兄ちゃん、今度の土曜日って暇?」
「畳の目を数えるという大事な予定があるな」
「我が家に和室ないけれど」
「……天井のシミを数える予定があるな」
「暇なのね。それじゃあよかった、そのまま空けておいてね。出掛けるから」
「休日は、基本的に家に居たいんだけれど……」
「基本的には居るじゃない。というか、居過ぎだよ。私、ここ数週間でお兄ちゃんが休日に出掛けているところを見たことがないんだけれど」
「インドア派なもんでなぁ」
「そっか。それなら尚のこと都合がいいでしょ。行くのは美術館だよ。インドア派にはぴったりのお出掛け先」
「えぇー」
奏の中では、俺のことを連れて行くのは確定事項になっているようだが、面倒くさがりの俺は駄々をこねて抗う。なんてみっともないんだ俺は。
「本当は一人で見に行こうとしていたんだけれど、そこそこ遠いし、まだ中学生の私じゃ不安だからお兄ちゃんを連れていけってお母さんに言われたの」
「マジか」
我が家における二大権力者の内の一人である母の言葉となると、容易に抗えない。ここで断れば母からは呆れられ、妹からは恨まれるだろう。家でのんびりと過ごすだけの休日を死守したところで、その損失は大きい。
「よし、たまには美術館もいいか。美術の成績が二でも楽しめるかな?」
そういうわけで、俺はあっさりと母と妹の要求に従うことにした。
「ところで奉は連れて行かないのか? 俺なんかよりもその手のものには理解がありそうだけれど」
「トモくんは塾」
「あの子、どうしてあんなに勉強が好きなんでしょうね……」
「問題を解けるようになるのが楽しいんだと」
「あー、わからんでもない」
「他の人が解けていない問題を横で解くのが爽快なんだってさ」
「あの年でその優越感の浸り方を覚えてるのまずいのでは……」
――もしも。
――もしもここで俺がもう少し抵抗していたら。
――家で過ごす休日を守ろうと必死になっていれば。何かが変わったのだろうか。
――けれど、そんなことは考えるだけ無駄なことだった。
――何故なら。
――何故なら、奏は行くと決めたら行く人間だし、母の言うことにはしっかりと従う娘だからである。そして、そのためならば俺のことを縛り付けてでも連れて行くだけなので、たとえ俺がこの場で拒否をしたところで意味はなかったのだ。
◆◆◇◇◆◆
「ねぇスノウ、あなたが『魔女』だって噂が広まっているらしいけれど、身に覚えはある?」
机上に置かれた植木鉢、そこから伸びる植物に成分のよく分からない液体を注射器で注入しながら、火灼は話し掛けてきた。視線は植物へと集中しており、私の方を見てはいない。
「ありまくりですね」
私は私で、クラスメイトから貰ってきた少し古いファッション誌をぱらぱらと捲りながら返事をする。
「あるのかい」
「何を隠そうその噂を流した張本人です」
「キサマが犯人か」
「別に罪は犯していないからね……。試してみたい魔術があったから、その仕込みとしてね」
色々と端折って説明をするが、火灼は少し考えたかと思うと納得したかのように頷いた。理解が早くて大変やりやすい。
「あー、流布による無意識共有下での補強か。珍しいもの試しているわね」
火灼が本当に珍しそうな声色を上げながら私の方へと顔を向ける。植物への調整は一段落したのだろうが、それでも彼女が対象物からすぐに目を離すのは珍しい。本当に珍しかったのだろう。
「この一年は積み重ねた技術の研鑽に重きを置いていたけれど、限界が見えたからねー。別方向からのアプローチがしたいと思ったのですよ」
実際、私が試そうとしているものは今までの私を知っている人からしてみれば珍しいだろう。私自身もそう思っているのだから、他からしてみれば尚更のはずだ。
「限界、見えたんだ」
「うん、見えた。大部分はスコールが持ってっている中で、残っているモノとしては十分だったけれど、それでもやっぱり十数年で底が見えるあたりちょっと悲しい」
「鞍替えはしないんだ」
「しないかな。私は火灼と違って研究者じゃないし」
それがどれだけ強力なモノであろうとも、限界が定められており、底が見えていてはどうしたって辿り着くのは行き止まりとなる。それならばまだ、方向を変え、道を変え、目指すべき場所を見えないモノに替えた方が有意義と火灼は言いたいのだろう。
ただ、私は火灼のような『求める者』ではなく『使う者』だ。そして、兄と違って野心などがあるわけでもなく、ある程度の地位を確立できるのならば何でもよくて、そしてそれにはこの『限界の見えたモノ』でも十分だと私は判断した。これはそのための別方向からのアプローチ。見えた限界に対して多角的に突き詰め、精度を高めることを一先ずの目標とした結果。
「まぁ、やり方には口出しはしないけれど、伝聞による噂はほどほどにね」
私が行おうとしているのは多数の人々の無意識下への刷り込みによる自身の魔術の補強と、それによって派生される魔術の使用。魔術は環境によってその精度を上下させる性質を持ち、その環境というモノには人々の精神や魂も含まれる。そして、私は特に対人への魔術による武力行使を専門としているため、その手の『人の想い』などによる増幅が効果的なのだ。
ただ、本来こういった無意識下への刷り込みは絵や文字、音や匂いによる暗示が一般的となる。私が行ったような口伝えによる刷り込みはそこまで効率のいいものではないし、魔術の隠匿を基本とする魔術師としては危うい行動だ。私が暗示の類を苦手とするから選んだ手段ではあるのだけれど、火灼が忠告するのも当然と言えば当然だろう。
「そこらへんは大丈夫。元々、学外まで広がるようにはしていないし、火灼のところまで届くようになったら止めるつもりだったから」
一応、私としても注意しながら行ったことなので、安心して欲しいと伝える。
「そう、それなら何も言わないわ」
火灼もそこまで心配はしていなかったのか、私の言葉を受けてあっさりと頷いた。
「ところで、それはなにをしているの?」
弄っている植物を指さす。
「盆栽?」
私がよく知る盆栽とは些か植物の種類が違うけれど、現代の若者に流行っているのは火灼が弄っている種類の植物なのかもしれない。
「私はじいさんかってーの……。違うよ。これは品種改良」
「ふむ?」
品種改良。火灼が手ずからやるようなものなのだから、普通の植物とは違うのだろう。それこそ魔術に関わるようなモノならマンドレイクとかになるのだろうけれど、昔に見たモノとは明らかに違う。うーむと、あれこれ考えていると火灼は説明を始めてくれた。
「これ自体はただの観葉植物で、オーガスタって名前。いやまぁ、そこらへんはあんまり関係ないか。とりあえず、これは普通の植物。特殊なのはこっち」
そう言って、火灼は手元の注射器を揺らす。
「それを打ち込むとどうなるの? 色んな種類の果物が生るようになるとか?」
先日読んだ漫画のひみつ道具を思い出す。
「……本気で言っている?」
「流石に冗談です……」
気まずい間が生まれる。少しすると火灼は一つ息を吐くと、話を続けてくれた。
「これは、言っちゃえば自我を作るための薬」
「自我ですか」
「ねぇスノウ、私たち人間の自我というモノはどこにあると思う?」
「それは、脳じゃないかな」
意思を司る部位。人間という存在の演算装置。精神の宿る箇所。
「そうだね。発生源として考えるなら、そうなる。それじゃあ、通常の植物に脳はある?」
「ないです。――あ、でも、植物に音楽を聴かせたら美味しく育つ! って、この間テレビで見たのだけれど、それはつまり植物が音楽を聴いているってことになり、つまりは脳に類似する器官が存在するということに!」
「日本に来てからスノウは俗世に染まりまくっているよね……。あと、普通の植物にはそもそも聴覚がないから、その俗説は信憑性が低いよ」
夢のない話だなー。いや、植物が音楽を聴いているという話に夢があるかと言われれば、そうでもないか。
「脳という神経細胞の塊――どころか神経細胞そのものを植物は持たない。刺激を受けて、それを伝えるという機能がないんだ。いや、必要がないの。植物にあるのは刺激に対して反応をする受容体のみで、受容器が存在しない。さて、人間と植物の簡単な違いとして一番初歩的なのは細胞の違い――細胞壁の有無だね。中学生が理科で習うことだよ。細胞壁についてざっくばらんに言わせてもらうと、細胞が外骨格を持っているようなものだ。これによって、植物は私たち――脊椎動物のような骨、内骨格というものを必要としない。人から骨を抜けば立つことすらままならないが、植物――樹木などは骨なんてなくとも真っすぐにそびえ立つことができる。ただ、これにも当然デメリットがあって、柔軟性が非常に低い。要は移動性を犠牲にしているわけだ。そこで私は考えた。それこそ、細胞壁が外骨格の役割なのであれば、外殻さえあれば中身は細胞膜のみの塊でもいいのではないか? とね。甲殻類のように、中身は柔らかくても――それこそ脳があってもいいじゃないかなと。そして、甲殻類と違って動かない分、筋肉などに中身を割く必要がないのだから、中身をすべて中枢神経系とかの神経細胞に変えられるのではないかとそう考えた。それで、私の細胞情報をベースに薬品投与と魔術付与を行って、肥大化及び変質を引き起させて、植物に人間の脳と同程度の機能を持たせようとしてみた」
「それって、植物を脳そのものにするってこと?」
植物に動物としての機能を付与させて錬成する植動物種とは違うのだろうか。……多分、違うのだろう。あちらとは手の加え方が根本的に違うように思える。
「脳に変えるのではなく、脳としての機能も持たせるの。書き換えではなく拡張。植物でしかないけれど、その中身は植物としての機能の他に脳としての機能が付与されていると考えて頂戴。簡単な話、植物が『考える葦』になるの。さて、ここで問題ですが、脳となった植物は――思考することができるようになった脳に、自我は芽生えるでしょうか?」
「そりゃ、考えることが出来るようになるのなら、自我は芽生えるんじゃないかな」
自我が思考によって作り上げられるものだとしたら、思考を行えるようになった植物にも同様の現象が起こると思える。
「ところが、現状から言わせてもらうとこの状態の植物に自我は存在しない。思考することが出来るようになったにも関わらず、これは思考しない。思考をするうえで――自我を作る上で必要な『刺激』を入力するための器官を植物は備えていないからね。ガラス管の中に浮かんで栄養を供給されているだけの脳の映像を思い浮かべてくれれば、わかりやすいかな。
まぁ、さらに植物は動物と違って考えるための積み重ね――思考プロセスの遺伝子情報がないから、人が考えるうえで必要とする刺激を受け取れたとしても、それを人と同じように思考のための刺激として扱うことが出来ないのだけれど、ここら辺は脳科学やらの分野になるから素人の私としては多くを語れないんだよねぇ」
「……えーと、それじゃあ、結局のところ自我が生まれないのではないでしょうか?」
「まぁ、そうなる」
「ダメじゃない」
植物に近づき、指でつつく。一見しても、一触しても、ただの植物にしか見えない。
――いや、違和感がある。その違和感の正体にはすぐに気付く。
「この植物、魔力を生成している?」
元来、万物は魔を孕む。生物であれ無生物であれ、魔力というモノを宿す。なので、ただの観葉植物が魔力を持っていてもおかしくはない。それでも、この植物が持つ魔力量はただの植物が持つ量としては異常だった。なにより、ただの植物が見て取れるほどに魔力を自己生成しているのだ。
「相変わらず、感知能力も頭抜けているわね。流石はデイライトの血筋と言ったところかしら」
火灼は半ば呆れ気味に、半ば感心したように私のことをからかう。
「やめてよ……」
デイライト家は学府においても、魔術界隈においてもその名を知られている。それなりの歴史があり、功績があり、なにより学府における権力の象徴である『席』を獲得したことがあるのが一番の理由だ。兄であるスコールが『席』を獲得するための権力闘争に身を委ねようとしているのも、前例があるからに他ならない。
ただ、私としてはそれが理由で生まれ故郷を追い出されているので、あまり面白くはない。
デイライト家が持つ力に関しても、その大部分は家督を継ぐスコールに持っていかれている状態だ。私が持っているのは搾りかすの残りかすと言っても差支えがない。それを学府でやっていける段階まで高めたのは私の努力に他ならないので、安易に家の名前を持ち出されるのは、気分の良いモノではないのだ。まぁ、それ故に、こうして前から興味のあった日本への移住を両親はあっさりと快諾したのだろう。
――とはいえ、それはあまりにもあっさり過ぎて、少し違和感があったのだけれど。いくら兄がいるからといって、スペアであり、保険であり、代替である私をこうもあっさりと自由にさせるのは些かおかしい。何か他に意図があるのではないかと考えてしまう……。いや、意図など考えるだけ無駄なのかもしれない。一度だけ『席』を獲得した後、それをあっさりと手放し、スコールが名乗り出るまで誰一人として『席』に興味を示す者が現れなかった『変わりモノのデイライト家』がやるようなことだ。深く考えるだけ損だろう。
「本当に嫌そうな顔をしているなー。ごめんて」
嫌悪感を隠すつもりはなかったので、露骨に出ていたのだろう。
「わかってくれればいいよ……」
私たちの住む世界は基本的に血統を重視する。積み重ねこそが魔術を高める一番の方法だからだ。――努力は誰でもする。命を懸けるのは皆同じで、そこに優劣は生まれど差は生じにくい。ではどこで差が生まれるかというと、生まれ持っての才能だ。そして、血統というのはその生まれ持っての才能を意図的に高めることが出来るモノ。だからこその血族主義。歴史を重ねることを良しとし、名の重みを重要視する。
そして、私はそこから外れた人間だ。先に生まれた兄にその才能のほとんどを持っていかれた妹。だからこそ私は残った才能に縋って、それを使って努力するしかなかった。結局、私は家の血に頼ったわけだけれど、それでも、それを限界値まで引き出せるようにしたのは私の努力だと思いたい。だから、安易に家の名前を持ち出されると不機嫌になるのだ。
――わかってはいるのだ。それが自己満足でしかないことも。私には努力を許されるだけの環境があった。両親は応援を、兄は手助けを、血は元となる才能を私にくれていた。ただ、私は未熟で、それを肯定するだけの度量がない。だから、こうして家の名前を持ち出されると、自らの努力を否定された気持ちになってしまう。理解はしているけれど、子供な私はそれを受け入れられない。それだけのことなのだ……。
そうした自己嫌悪に苛まれていると、火灼は話を再開した。
「スノウが感じ取ったようにこの植物は魔力を生成しているのよ。植物の活動リソースのうち一割強を魔力の生成リソースに変換するように情報を書き換えて、現状は魔力を溜める状態にさせている。目標値まで蓄えたら、書き加えたもう二つの術式が走るの。機械受容器というものがあって、いわゆる外部からの刺激に反応するための神経細胞でね。中枢神経系へと情報を伝達する末梢神経への入力装置なの。これが必要だから、神経細胞の内、一番外側のものをまずはそれへと変質させる。ただ、その入力装置ですら細胞壁を纏った細胞に覆われているので、結局のところ外部からの刺激を受ける手段がない。目を作っても、その目が露出せず体内にあったら意味がないでしょ? そこで三つ目の術式によって、感覚を直接その受容器に送り付けるって寸法よ。感覚器がないのならば、代用すればいいという考えでね」
植物には意思がない。あるのは遺伝子に刻み込まれたその設計図通りにただ萌え、ただ成長し、ただ次を残し、ただ枯れる。それだけを行う生きた機構。その機構に、火灼は手を加えた。
「……魔術による感覚器の代替って効率悪くない? それならいっそ実際に感覚器をくっつけた方が手っ取り早いと思うけれど」
未だに義手や義足、義眼などが主流なのは費用対効果が圧倒的だからだ。魔力のみで編んだモノはその存在を維持し続けるだけでもかなりの魔力を消費する。
「私は形をそのままにしたいのよ。それに、これは感覚器自体を作ろうとしているのではなくて、繋ぐための魔力を生成しているだけだよ」
「繋ぐ?」
何に繋ぐというのだろう。それこそ何かに繋いでしまえば、形をそのままにするという火灼の目的が達成できないと思えるのだけれど……?
「そ、世界と繋げるの」
――こともなげに、そんなことを火灼は宣った。
「……たまにだけれど、私は火灼のことがよく分からなくなるときがあるよ」
「私だって私のことをよく分かっていないのに、スノウの方が分かっていたら怖いわ」
「そういう話じゃなくて……、世界との接続なんてなにを無茶なことをしようとしているのよ」
「無茶なことじゃないよ。あくまでも接続をするのはこの植物だし。スノウが心配するような、拒絶反応とか存在崩壊は私には来ないようにしているよ」
――火灼の言い分では、あくまでも世界への接続を試みるのは植物自体であり、そこに火灼は介入しないので失敗時の火灼へのフィードバックは皆無とのことだが、それでも、こんな一般の学校の放課後に空き教室の一つでやるような実験ではない。世界への介入とは、そう容易に実施していいものではない。
「確かに、感覚器という世界からの出力を変換させる機能を付けるよりも、直に入力される世界への接続の方が圧倒的に情報としての質も上だろうけれども……」
「ヒトなんかよりは世界との親和性が強いし、悪くはないと思うんだけれどねー」
「…………」
根本的に、私と火灼は在り方が違う。力の為に求める私とは違い、火灼はただ求めるだけなのだ。だから、世界との接続という、現状では不可能とされているモノを『植物への自我の植え付け』のために行おうとしてしまう。勿論、彼女は人間が世界そのものへの接続を試みることへの危険性を理解している。ヒトという瑣末な器が世界などへの接続を実施しようものなら、流れ出る情報に塗り潰され、存在が消失する――それどころか、接続しようとした段階で拒絶が起き、その愚かさを『窘められる』だろう。
だからこそ、火灼は植物という『世界の末端であるこの惑星』に『根付く』存在を――ヒトという種よりもまだ近い存在を利用しようとしているのだろう。
ただ――
「うぉ! 丹念に育てたオーガスタが融けた!」
植物が融けて消え、土だけが残った鉢植えを呆然と眺める火灼。
「そりゃ、ヒトより親和性が強いとは言っても、多少マシな程度でしょうし……」
「一応、それなりに耐性は施したんだけれどね。まぁ、こんなもんか」
失敗したことに対してはほとんど悔いていない。いや、研究者としては失敗とすら思っていないのだろう。失敗は成功への道程なのである。
「どうして、いきなり植物に自我を与えようと思ったの? ……いや、まぁそれはいいとしても、どうしてそのために世界への接続なんて思いつくかなぁ?」
「植物への自我は前々から試そうと思っていたの。ただ、できるだけ植物という殻を壊さずにしたかったから行き詰っていたんだけれど、知り合いから面白い話を聞いちゃってさ」
「面白い話? どんな話なの?」
火灼が面白いというのだから、よほど面白いか変わっているのだろう。興味が湧く。
「知り合いが所属している研究所で『アーカイブズ』の――あー……、いや、これの詳細はスノウにはちょっと教えられないかな。席争いに参加している人間の親類に教えて良さそうなものじゃないし」
「そこまで言っておいて秘密ですと……?」
……書庫? なんのことだろうか? 魔術の家系の娘で、学府にも長いこと所属しているにもかかわらず、初めて耳にする言葉だった。
「まぁ、なんとなくで察してね。私が直接教えたってなると、それはそれで面倒臭い話になっちゃいそうだし」
「むぅ」
拗ねたくもなるが、火灼が口を閉ざすほどの内容と考えるとおいそれと聞くのも憚れる。
それに、世界への接続に関する内容だとしたら、確かに絶賛(皮肉)権力闘争中の兄を持つ私が知ってもいいような内容ではないだろう。もしも、世界への接続に関する研究に進展があったとして、それが公になっていないのならば、それはまだ隠されている事柄になるし、公になった場合は発表者の地位も名誉も跳ね上がるだろう。それ程までに『世界』というモノの解明は学府に於いて重要視されている。そして、その情報は権力闘争をしている人間からしてみれば喉から手が出る程に欲しいモノとなる筈だ。ともすれば、権力闘争から離れるために日本へとやってきた私がそれを知ってしまっては本末転倒だろう。
――無知であることは、時として自分の身を守ることもあるのだ。
「わかった、今聞いたことは忘れる。とはいえ、火灼はかなりペラペラと喋った方だと思うけれど大丈夫? 火灼がそんなことを言っていたとスコールに私が伝えたら、火灼も面倒なことになるんじゃないかな?」
なんて、親友に対して一応の心配をしてみせる。
「大丈夫でしょ、あの人は私のこと大嫌いだし。私のおかげで席を取れた、なんてことにでもなったら六回は自殺するでしょうからね」
「そ、そっか……」
火灼とスコールが不仲であることは知っていたが、そこまでだとは思わなかった。あまり関わるところを見ることもないので『妹の友達』と『友達の兄』ぐらいの微妙な距離感ぐらいだろうとは思っていたが、まさかそこまでだとは。私の知らないところで二人には何があったんだろう。
「ま、こんなおどろどろしい話は学校でするようなものじゃないし、楽しい話でもしようか。スノウ、週末は予定入っている?」
「あぁ、それならね。行きたい場所があって――」
夕陽に照らされる放課後の学校。
特別棟にある空き部屋の一つを使って私と火灼は文芸部の活動をしている。他に部員は三人いるのだけれど、どれも幽霊部員なので活動しているのは私と火灼だけ。
それをいいことに私たちは色々な私物を持ち込んで部室を小規模な研究室へと作り替えた。
結果として、文芸とは一切関係ない魔術の実験とかをする私と火灼だけの秘密基地となっているのが現状だ。
魔術へ傾倒しつつも私はこうして普通の学校に通い、青春のようなものを謳歌している。
学府にいたままでは経験することのない生活。
そういう意味では、兄には感謝しないでもないだろう。あいつが私のことを追い出さなければ出会うことのなかった体験を私は味わっている。
――そしてなによりも、ここに来なければ彼に会うことも、この気持ちを知ることも出来なかったのだから。
ひどい勘違い部分が長いこと放置されていたので、ちょっと修正しました。(2023/04/14)
これを書いたやつは誰だ! 私だ。私かぁ……。
そういえば、ハエトリソウが止まった虫に反応して動いているのはなぜ?
という疑問が自分の中にありましたけれど、アレも別段、刺激がなんらかの方法によって伝達され能動的に閉じている。
というわけではないそうです。
葉の内側(にある感覚毛)に刺激を受けると、その反応として葉の内側の細胞が水分を外側の細胞に移して細胞の強度を下げるそうです。そうすると、開くための支えが弱くなり、結果として閉じるのだとか。
反応をしているのは内側の細胞部分だけなので、伝達自体はしておらず、あくまでも反応を示したのは内側のみであり、葉の全体が動いているのはその結果に過ぎないということですね。
水分の移動による開閉の仕組みは、カードゲームとかをしている人なら「ホイル加工されているカードが反る原因と同じ」と言えば伝わりそう。かな?
あれも紙が吸収した水分が原因ですからね。ホイル加工面は一定の強度が保たれていますが、反対の紙のみの面は水分を吸収して柔らかくなるとホイル加工されている面に引っ張られて丸まってしまうわけです。
対処法として乾燥材が使われる理由は吸収された水分を吸い取り、硬さを取り戻すためということですね。
ただ、逆に水分がなくなり過ぎると本来より硬くなり、そして縮み、反対に反ってしまうので注意が必要なのだそうです。
なんの話だ。
また、くだんのハエトリソウなのですが、感覚毛を三十秒間に二度刺激しないと閉じない仕組みになっています。
これはつまり、何らかの方法によってその刺激が短期記憶されているということなのですが、これもまた実際のところは記憶をしているとかではないそうです。
一度目の刺激である原子が一定量放出/蓄積され、一定時間(三十秒)以内までにその濃度が減り続けるそうです。それまでに二度目の刺激を受け、またその原子が放出/蓄積されて一定値を超えると、最初に述べた水分を移動させる反応を起こすのだそうです。
うーむ。生命ってすごいぜ。
ほんとうになんの話だ。