◆一話『後輩の生まれ方』-6
ネセルはドライヤーのスイッチを入れ、秦の濡れた髪に温風を当てる。秦は特に抵抗もせず、ネセルに頭を預ける。櫛を使って髪の毛を梳き、風を上から当てて毛表皮が閉じるようにしていく。
――思った以上にしっかりと手入れされている。そして、されることに慣れている。
櫛の通りやすさや、その感覚に対してほとんど身動ぎをしない秦を見て、ネセルはそんなことを考える。
「自然乾燥などと言い出すので、もっとごわついているものかと思ったが、そうでもないな」
「家では何もしないと妹に怒られるので、最低限の手入れはやっていますからねー。あぁ、とは言っても、機嫌が一定値を超えていると妹が進んでやってくれるので、自分でやる回数は一割もありませんが」
風呂上りの髪の手入れを高頻度で妹にされていることを嬉しそうに言う秦。
「そうか、仲が良いのだな」
「えぇ、とても」
朗らかに笑う秦の横顔をネセルは眺める。
それはあまりにも自然だった。
天木秦という少年は、ネセルという存在に対して一定の信頼を置いていた。僅か数ヶ月前には命のやり取りをした相手であるにもかかわらず、平然と背を向け、頭を無防備に晒していた。
――さて、これはどうしてか。
スノウや刀河もまた、秦と同様にネセルや南雲に対して一定の信頼を置き、現在は良好な関係を築いてはいる。だが、それはスノウと刀河が魔術師であり、学府という枠組みを理解しているからこその信頼だった。
――あの二人は『世界端末を巡る騒動』の際の殺し合いに対してなんの感情も抱いていない。
事務的とも言えるだろう。私情や怨恨ではなく、学府という組織によって遣わされた――学府という組織そのものであるネセルと南雲の行動を当然のものとして処理している。
学府としての判断。仕事としての捕獲。それらが一先ずの解決を迎えたのならば、学府の所属として元の位置に戻れたのならば、立ち位置の問題で相対したに過ぎないとし、その上で今はネセルと南雲を上司として信頼しようとしている。
スノウと刀河はそう割り切っている。
――いや、割り切りですらないか。そもそも、スノウ=デイライトは『私』にではなく『シン=アマギを害する者』に対して殺意と敵意を抱いた。根本的に、アレは私を見てすらいなかった。そして、現在の私やナグモは少なくともアマギを保護する側だ。だからこそ、彼女は我々に対して友好的なのだ。
刀河に至っては、それらも含めて織り込み済みだった節がある。と、ネセルは考える。
――だが、お前は違うだろう。
髪を乾かされながら南雲と緩やかに雑談を交わす秦を見て、ネセルは心配した。
天木秦という少年は『世界端末』という特別ではあるが、秦という人間を形成する十七年のほとんどは普通だった。平凡と言っても差し支えない。
秦が限定接続を行って大量殺戮を示唆した際、ネセルは殺す意志を明確に向けた。
殺意を向けてきた人間を前にして、平然としていられる筈がない。たとえその殺意の理由が判明し、その理由が取り除かれたとしても、人はその人間をおいそれと信じられない。
それが普通というものだった。だというのに、秦はそれすらも容易く受け入れていた。
――世界端末に関する情報の一つに、自己の度外視というものがあった。
学府が保有する世界端末に関する情報。用例が少なく、確実性が高いわけではないが一定の指標となる情報の一つ。
世界端末とはつまり、世界のバックアップである。通常、世界端末自身はそのことを自覚することは出来ないが、無意識的にそのことを感じ取っている節がある。
――それが意味することとは、自分自身が唐突に己ではないものとして変容し、消失する可能性があるということ。
生物として抱く、いつか迎える死への『恐怖』などではなく。ある日唐突に訪れるかもしれない、自己という存在の消失。そんな『当然』を抱き続ける無意識。
――そして、己が『何か』の代替でしかないということを感じ取っているが故に、世界端末者は自分自身を天秤にかけるとき、自己の比重を極端に軽く扱う傾向がある。
美術館での一件についても、秦は他の見知らぬ客よりも、自身の命よりも、妹の命を最優先に考えた。
明樹高校でのネセルとの戦いにおいても、自己保身のための逃走ではなく、スノウを助けるため、存在消失の可能性がある『接続薬』の投与を計三度も行った。
――そう、この少年は接続という行為を三度実行したのだ。
開かれた際に流出する上位階の情報によって塗り潰される自身という情報。そして、溶け切らないがために組み立て直される『他人のような自分』という感覚。
連続する自我の崩壊と再構築。
意識があるままで、己が己であることを見失う瞬間。
――一度ならば、まだ理解できた。だが、二度目は理解できない。そして、三度目は理解したくもない。魂と肉体の消失、その感覚を知って尚、躊躇うことなく行い続けた精神。
十七年間を普通に過ごしたはずなのに、今のような有様でさえも普通として過ごせる在り方。そんな秦を見て、ネセルは憂いを抱くばかりだった。




