◆一話『後輩の生まれ方』-5
駅前に立つ五階建てのオフィスビル。その一階の事務所が便宜上のバイト先となっている。表に看板などはなく、表札などもないので一見するとなんのテナントも入っていない空きビルに見えるが、中はしっかりと埋まっていたりする。
『学府・極東日本支部』
などという簡潔な名称で呼ばれているここは、学府現三席にして第八超越者の肩書を持つ南雲飾さんが管理する建物である。支部などとついているが、オーナーは南雲さんなので、完全な私物だったりする。
世界端末の管理という名目で、南雲さんは日本に留まるためにこのビルを買った。
学府側からも色々と言われたようだが、スノウと取り交わした契約内容の一つに『高校卒業までの日本在住』があり、それを理由にして南雲さんは押し通したとかなんとか。デイライトであるスノウとの契約というのも、押し通すことができた一因だろう。
そして南雲さんの懐刀であるネセルもまた同様に、現在は日本に在留している。南雲さんは名前や容姿からもわかるように元は日本に住んでいたようで、久々の日本での暮らしに乗り気ではあるが、ネセルは頭を抱えていた。
現在、そんなビルの地下室に俺はいる。
短刀を右手に構え、姿勢を低くしながら相手へと駆け寄る。狙うのは脚。機動力を削ぐことを念頭に置いて戦闘を組み立てていく。身長差のある相手に対して、身体を屈めることによって狙える位置を絞らせ、こちらの防御に割くリソースを減らす。
「経験の浅さの補助か」
こちらの選択を見て、ネセルは思惑を正しく言い当てる。
それと同時に、鋼鉄の籠手を付けている右腕を上段から振り下ろす。
体格差があり、自身より小さい人間がさらに身を低くして向かってきた際、素手の人間が取れる迎撃の選択肢は限られる。蹴りを入れるか、上から振り下ろすように殴打するかだ。
そして、ネセルが殴打を選択したように、ここで蹴りが選ばれることはあまりない。威力という点で考えれば、殴打よりも蹴りの方が遥かに上だが、その一撃が入らなかった際の隙の大きさが段違いとなる。
蹴りの場合、行った直後に一本足となり重心が崩れやすくなり、次の動作に入るまでに蹴り上げた脚を地面に戻す動作を要求される。さらに、その蹴りが受けられるのではなく避けられた場合は力の逃げ先がなくなり、放った脚を無理やりに引き留める必要性が出てくる。
当たりこそすれば勝敗を分かつ一撃となるが、相手が一定の機動力を保持している場合はおいそれと選べるようなものではない。故の、無難とも言える上からの振り下ろし。
振り下ろしならば、例え避けられたとして地面を殴打すればそのまま衝撃を地面に吸収させることが出来るし、両脚と片腕を地面に設置させているために重心は安定し、次の行動への移りが早くなるからだ。
――ここまでは目論見通り。
振り下ろされる拳に対して、回避を選択する。掠っただけでも勝敗の決定打になりかねない一撃なので、これは当然。事前に予測できていたため、淀みなく回避へと移れる。振り下ろされる右腕を左に避け、がら空きとなるネセルの右半身へと肉薄することを選ぶ。だが、
――拳の速度が思った以上に速い!
このままでは掠ってしまうと判断し、空間魔術を簡易起動する。スノウや刀河ほどのコントロールは出来ないが、空間の固定ぐらいならば咄嗟にでも行えるため、それをネセルの拳の軌道上に設置していく。当然のように、固定された空間は拳によって砕かれていくが、それでもその速度を一瞬だけ緩めることはできる。はず。――できた。
拳は眼前を通過し、地面へと吸い込まれていく。
それを視界の端に収めながら、短刀をネセルの脚と腕を結ぶように一閃させようと、そのために回避後の踏み込みをしようとしたところで、足場が崩れた。
「――はっ?」
突如崩壊した足場によって重心を乱し、踏み込みのために入れた脚の力が変な方向へと暴発する。負担の集中した脚に鈍い痛みが走るが、それを堪えて崩れた姿勢のままどうにかネセルのほうへと視線を向ける。
腕が床にめり込んでいた。床は腕を中心にして放射状に罅割れ捲れ上がっていた。
――無茶苦茶だ!
が、ネセルの動きはそこで止まらない。突き刺さった腕を基点にして、寝返りを打つかのように、身体を引っ繰り返す。地面に腕を突き刺した際に生じた衝撃の反動を逃すのではなく、それをそのまま身体の反転に応用。
「――えっ」
体勢を崩してもなお、俺は俺で構えていた。生じた隙に打ち込まれるであろう攻撃、その際に使用されるであろう右腕と右脚に対応するため、その部位の動きを見て、防御の構えを取っていた。だが、ネセルが選んだ攻撃は回転運動による左肘での打撃。
意識外。上段からの振り下ろし。それはもろに入った。
――意識が弾ける。
「リハビリはこれくらいでよかろう」
その後も何度か手合わせを行い、何度も気絶を経験し、俺がとうとう立つのもやっとという状態になったところでネセルはそう言って、一息ついた。
「……あ、ありがとう……ございました……」
「こちらこそ、助かる」
俺と違って息一つ乱れていないネセル。化け物かなー?
事務所の地下には物置部屋があるのだが、そこは魔術師たちの手によって異界化されており、いくつかの拡張空間が形成されていたりする。その中の一つに俺とネセルはいた。
空間名は体育館。読んで字のごとく、体育館の中のような空間がそこには広がっている。刀河監修のもと、明樹高校の体育館のデザインがそのまま流用されていたりするのだけれど、理由としては「体育館周辺の構成情報をそのまま引き抜いているので、こっちのが楽」だからだそうだ。意味は分からないが、本人はそれが楽だと言っているので、そういうものなのだろう。
とはいえ、その体育館の内部は現在、悲惨な有様である。床はフローリングが砕けている程度ならばまだマシな方で、場所によっては合板やその下のコンクリートまで捲れている場所がある。壁も同様で、場所によっては穴が開いている部分もある。
――これ、直すのは刀河なんだよなぁ……。
遠くない未来、刀河の怒号が響く光景と、正座させられる自身とネセルの姿を思い浮かべる。
「起き上がれるか? 治癒が難しいようならば、私が行うが?」
座ったまま周囲を一瞥し、遠い目をした俺を見てネセルは声をかけてくる。
「あぁ、いえ。大丈夫です。ネセルさんの手を煩わせるような状態ではないので」
実際、問題はない。身体強化によって肉体の頑強さは上がっているし、自身への治癒術式もしっかりと施せているので後遺症などもないはずだ。
ただまぁ、何度か脳震盪による気絶がある。その際はネセルによって治療が行われているのだが、パンチドランカー症候群とかも怖いし、刀河が戻ってきたら一度確認してもらおう。
などと考えつつ、立ち上がる。特にふらつきなどもない。身体全体にのしかかるような疲労感は運動直後故のものだろう。その様子を見て、ネセルは安堵する。
「一先ず、事務所の方へ行こうか」
「はい」
ちなみに、先ほどネセルは「リハビリ」と言ったが、これは俺のリハビリではなくネセル側のリハビリである。
世界端末を巡る騒動の際に負った怪我などに関しては、俺もスノウもとうに完治している。だが、不死鳥の刻術を引き剥がされ、破壊されたネセルは事情が違う。肉体に刻まれた術式の組み換えや入れ替えを行い、魔術の行使が可能な状態にまでは復帰できているが、それに伴う肉体の感覚の再調整に時間を要しているのである。
そのため、こうやって俺の訓練と併せて身体を動かし、肉体を馴染ませているのだ。
刻術の一から組み立て直し――それは実質的な肉体の再構成であり、肉体感覚の完全な初期化と言っても過言ではないと刀河は言っていた。
それにもかかわらず、すでにネセルは俺のことを一方的に叩きのめすことが出来るような状態にまで復帰できているのだから、この人もまたスノウなどと同じで、規格外なのだろう。
――少しばかり前、スノウに「今のネセルさんと戦ったら勝てるのか?」と聞いたところ、返ってきた言葉は「やりたくない」という簡潔な答えだった。
不死鳥の刻術がなくなって肉体感覚が初期化されたはずなのに、それでも尚スノウよりも強いこの人はなんなんだろう……。と、階段を上るネセルの背中を見ながらそんなことを思う。
一階に上がると、豪華なソファとテーブルが設置されている応接室では南雲さんがお茶を淹れていた。用意された茶碗は三つだが、お茶が入っているのは二つだけだった。
南雲さんは眼鏡をかけており、先ほどまで書類の確認や整理などの事務作業を行なっていたのが窺える。
「ネセルは大丈夫でしょうが、天木くんはだいぶ草臥れているようですし、シャワーでも浴びてきてください」
事務所の奥に設置されている浴室へと促される。特に断る理由もないので素直に頷いて向かう。事務所の浴室はすでに何度も使用しているし、替えの服などもいくつかこちらに置いているので、特に困ることはない。
そのまま勝手知ったるままに熱湯を浴び、身体を洗い、濡れた身体を拭いて替えの衣服に身を包んで応接室へと戻る。
「髪は乾かさないんですか?」
タオルを首にかけたこちらをみて、南雲さんがそんなことを言う。
「はい、自然乾燥ですね」
家では妹に怒られるのでドライヤーを使用するが、ここならそんな細かいことをいう人間はいないだろう。
「傷みますよ?」
南雲さんは長い黒髪を後ろで束ねているのだが、その髪は艶があり綺麗なストレートだ。髪の手入れには一家言あるのかもしれない。
「あー……」
面倒なのでやりたくないという気持ちが強く、どうしたものかと考えていると、ネセルが無言で立ち上がり、浴室の方へと姿を消した。少し待つと、ドライヤーとともに何やら道具を抱えている。
「そこに座りなさい」
ソファの端を示されるので、言われるがままに座る。




