◆四話-下
――目が醒める。
いや、意識はあった。ただ、肉体が眠っていたのだ。だから、今の会話はちゃんと全部聞こえていた。だから、俺は身体が動くようになると同時に刀河が開いてくれた裂け目へと飛び込んだ。
――大丈夫。必要な情報は取り出した。
裂け目を突破し、スノウの後ろへと着地する。出てきた俺を見て、ネセルは目を見開く。
「はじめまして」
映像ではさんざん見たが、初対面だ。挨拶は大事なのでしっかりと行う。挨拶と一緒に、着地と同時に姿勢を低くし捩じっていた身体を戻す。ネセルはすでに腕を振り下ろすだけだったが、俺の方が挙動は早い。俺の出現により一瞬の動揺をして、若干の硬直があったこともこちらにとっては好都合だ。
有効な魔術というモノが分からないので、とりあえず拳に魔力を乗せて、それを正拳突きの要領でネセルへと飛ばした。
ネセルは防御へと移る。ただの魔力弾だ。その箇所を防げばいいという判断は正しい。
ただし、相手が素人であるということを忘れている。先程までスノウと交戦していたせいで判断が鈍っているのかもしれない。
――膨大な魔力の制御はまだまだ不慣れだよ。
束ねた魔力はすぐに解け、拡散し、放出され続けるそれは魔力の洪水。凝縮し、質量を付与し、粘性を得たそれは、ただの大波となる。
「流されろ」
再展開された空間の異界化。それにともなって校舎を覆うように組まれた結界の壁。
――そこへ叩きつける!
津波や雪崩などの自然災害の再現。いくら魔術師といえど、結局は小さな物体だ。純粋な質量による抑え込みを不意打ちで喰らえば、流されるしかない。
当然、これで倒せるわけがない。だが、動きを封じる。流し続ける魔力の変換。結晶化。硬度と剛性を極限まで高め、そこに閉じ込める。
「……上手く行ったかな?」
やったことは、ヤのつく自由業お得意のコンクリ固めみたいなものだ。
「まぁ、あの化け物みたいな存在があれだけで死ぬとも固まるとも思えないけれど、少しぐらいは時間を稼げるだろう」
そう独り言ち、振り返る。
「……秦くん?」
スノウは俺のことを呆然と見ていて、どうして俺がそこに立っているのかを理解できていないかのような表情を浮かべていた。
「そうだよ」
酷い有様だ。両腕両脚がぐちゃぐちゃで、胴体だってボロボロだし、あんなにも綺麗だった金髪だって血と土で汚れている。
――あぁ、でも、そんな姿になってもこの少女は綺麗なのか。
それでもなお、美しいと思えるのは――贔屓目だろうか?
「なんで……?」
それはどういう意味で? でもまぁ、どういう意味だろうと、答える必要はない筈だ。答えるまでもない筈だ。これは当たり前のことだし、当然のことだから。
――だから、
「ごめんな。ほんとうはもっと早く駆けつけるつもりだったんだ。限定接続までは上手くいったのだけれど、その後の情報の整理と溶けた意識を戻すのに時間が掛かった」
そう言って謝ると、スノウは俺の状態に気付いたのか、慌てたような声を出す。
「接続って、もしかして、世界との?」
以前より明らかに魔力量だって増えているし、そもそもが『探すモノ』であるスノウはなんとなく俺の状態の変化が分かるのだろう。
「そう。刀河が手伝ってくれてさ。いやー、ぶっつけ本番とはいえ、成功したし良かったよ」
もっと遅れていたら――あのまま完全に溶け切っていたら、スノウがもっと傷ついたかもしれないのだ。だから、成功してよかった。
そんな俺の安堵をよそに、スノウは顔を青くする。
「なんでそんなことをしたの! 火灼はなんで? 秦くんはそれがどういうことかわかるの? 世界への接続なんて行えば、行き着くのは消失なんだよ!」
「接続したのは極々一部だから、そこまではいかないよ」
「そういう問題じゃない! 第一、少しだから大丈夫なんて根拠としては不十分だよ! もしも秦くんが世界端末じゃなくて偶然特徴が一致しているだけの人だったら、ほんの少しの接続でも存在そのものが消し飛んでいてもおかしくはないんだよ! たとえ世界端末だったとしても、器としての制限だってある! もしも秦くんの器としての限度が、流れ込む情報に対する許容量を少しでも超えていれば、廃人になっちゃうんだよ!」
すげぇ怒られる。スノウがここまで俺に声を張り上げるのは初めてだ。あぁ、でもこれはこれで可愛いな。必死な姿というのは、可愛い。
――当然、その心配はあった。刀河だってその可能性を考慮した上で俺に提案した。あいつに至ってはスノウに殺される可能性も踏まえて遺言と辞世の句を書いていた。
――でも、
「それでも、そうするしかなかったんだ」
そうしないと、お前と一緒に居られないと思ったんだ。
「でもっ、それでもし秦くんになにかあったら私――」
そこまで言って、スノウが口を噤む。まるで何かを思い出したかのように、震える。
「スノウ?」
「……やっぱり駄目だよ。秦くんはそんなことしちゃダメだよ。私のためにそんな危ないことしないでよ」
「恋人が危ない目に遭っているんだから、命を懸ける理由には値するだろ」
「ないよ……。だって私――」
「スノウ=デイライトが貴様に近づいたのは貴様が『世界端末』だからであり、そこに恋慕の情など存在しないからだ」
スノウの言葉を遮るのは、男の声。
その声を聴いて、言葉を受けて、スノウは蹲る。
――結構全力で固めたんだけれどなぁ。やっぱ、ついでで引き出した情報だと限度があるか。
「人の彼女を泣かせるのやめません?」
「事実を述べたまでだ」
鬣の男――ネセルがそこに立っていた。
◆◆◇◇◆◆
「シン=アマギ、貴様はどこまで事情を把握している?」
身体にこびりついた結晶の残骸を剥がしながら、ネセルはそう切り出した。日本語助かる。英語の成績が悪いので、英語で話し掛けられたらどうしようと思っていたのだ。というか、
「え、話すの? 問答無用で捻じ伏せて言うこと聞かせるタイプかと思っていたけれど……」
いや、違うか。それならこうして話し掛けるのではなく不意打ちを狙う筈か。
「戦闘は好きだが、行わずに済むのならそれが一番いい。――最初からそのつもりだ」
……確かに、最初から向こうは話す姿勢だった。
仕掛けたのはスノウからだし、都度対話を試みていたのもネセルだ。
「今一度問うぞアマギ。貴様はどこまで事情を把握している? もしも貴様の現状に対する認識が不足しており、ただ恋人だからという理由でスノウ=デイライトを庇おうとしているのならば、ここで私に立ち向かうべきかどうかを考えた方がよい。ここで対峙したところで、貴様は無意味に傷を負うだけだ」
「あー、大丈夫。話は聞いていたよ。よく分かってはいないけれど、なんとなく理解している」
そう答えるとネセルは非常に渋い顔をした。
「話し合いで結論が出るのなら、それに越したことはないんだろう? なら、ちょっとスノウと話をさせてくれよ」
「……構わん」
許可を得たので、ネセルが視界に収まる位置に移動しつつ、スノウに話し掛ける。
「さて、どうしようか」
「秦くんは逃げて」
即答だった。
「なんで?」
「君がここでアレに立ち向かう理由も必要性もないから」
「理由ならあるだろ。お前が傷だらけだ。それに、あいつは俺のことを捕まえに来たんだから、立ち向かわないと未来が無い」
「それは私のせいだよ。私が悪い。だから、私がなんとかする。あいつは倒すし君が学府から追われないようにする」
「無理だろ、それ」
事情を何も知らない俺ですら、それが不可能な妄言であることは分かる。どれだけ強くても所詮は子供で、大人や組織といった強大な存在には抗えない。事実、スノウはすでに満身創痍だ。
「無理でもやる。だから君は逃げて」
「お前が探知機ってやつでさ、それが原因で俺が学府から目を付けられたのは理解した。それじゃあ、どうして俺を助けるんだ? そこまで理解していて、お前がそれを認めているのなら、お前が俺を助ける道理はないだろ」
責任とか、義務とか、そういうのは存在しない。俺を見初めた理由が『世界端末』だからであり、それだけなのだとして、その事実を認めているのならば、それを彼女が気にするほうが道理に合わない。
「それなら尚更、俺はあいつに立ち向かう必要があるだろ。お前の役割はここまでで、ここから先にお前は関係ないはずだ」
「関係あるし、やっぱり必要ないよ。……そうだよ。おかしいんだよ。だって一目惚れなんだもん。それまで男の子に興味なかったのに、君を見て運命だって思っちゃうんだよ? おかしいでしょ。でも、この衝動の理由が、機能としての正常な動作だって言うのなら納得できるんだよ。初めてのその衝動を恋だと勘違いして、勘違いのまま君に近づいて、君の日常を壊した。あまつさえ君に言った言葉は勘違いから出た嘘ばかりなんだよ? そんな嘘つきのために、君が危ない目に遭う必要なんてないんだよ……」
面倒な状態になっているなこいつ。だいぶ追い詰められている。
「だから、どうしてスノウは俺に助かるように言うんだよ」
その気持ちが嘘だというのなら、君はそれを割り切って、俺を差し出してもいい筈だ。むしろ、探知機としての自覚があるのならば、それこそが正しい筈だ。
それなのに、君は俺に助かれと言う。
「――だって、好きなんだもん。嘘かもしれない機能かもしれない勘違いかもしれない間違っているのかもしれないけれど、それでも好きなの。大好きなの。だから、たとえこの気持ちが嘘でも、君が助かるのなら、私はそれでいい」
あぁ、綺麗だ。やっぱり、君は美しいと思う。
「そっか」
そう頷く。
スノウはその目に涙を溜め、だが決して流すまいと堪える。
ネセルを見ると、結論は出ただろうという顔をしている。
――あぁ、結論は出たよ。
「アンタが邪魔だ」
空間からスノウの愛刀『凩』を取り出す。
――魔術名、返歌。
『君と共に生きよう』
◆◆◇◇◆◆
秦が魔術を行使して刀を手に取るのと、刀河が現れスノウを空間の裂け目へと引き込むのはほぼ同時だった。秦の潜在能力が未知数である故、ネセルはスノウと刀河への攻撃には移れなかった。下手にそちらへと意識を向け、隙を晒すことをよしとしなかった。
故に、ネセルの対応は一瞬だった。
即座に六度目の形態変化を行う。竜種の特性を呼び覚まし、竜人種へと肉体を変化させる。秦の戦闘スタイルは不明であるが、先ほどの魔力弾や今手にした刀のことを考えれば、防御力と機動性の高い竜人こそが適正であると考えた。なにより、竜の鱗はあのスノウですら容易に砕けない硬さを誇るのだ。いくら世界端末であったとしても、制限の掛かった器であり、少し前までは素人だった秦に後れを取ることはないと判断してのことだった。
「流石に疲れた?」
――だが、間に合わなかった。
秦は最小限の動きでネセルの横へと回り込み、片翼を断ち切っていた。
「馬鹿なッ!」
ネセルのその驚愕は翼を切られたことよりも、秦の動きへの驚きだった。
呼吸の合間、意識の合間に通すような足運び、人体の反応できる限界点での動き、いくら不意を打たれたとはいえ、高硬度の鱗を断ち切るような洗練された一刀。
明らかに素人の動きではない。反撃すら捌かれ、距離を取られる。
深追いせず、当てて逃げるという定石を堅実に行う。
なにより、それは先程まで相対していた少女の動きに似ていた。
つい先程まで、重心などからしても素人同然だった秦の動きに、型のようなモノが生じた。
それが変わったのは――スノウ=デイライトの刀を握った瞬間!
「経験憑依か」
「当たり」
――モノに蓄積した使用者の記録を読み取り、己の肉体へと映す能力。
秦が一時的に得たのは『凩』の持ち主であった二名分の経験。
「積み重ねた経験による実力差を埋めるための術としては、正しかろう。だが――」
そこまで言って、ネセルは動く。片翼になったとしても、竜は空の覇者である。
空を駆け、剛腕を振るう。
制御としての機能は落ちたが、間合いを詰めるための単純な接近ならば片翼でも十分。
どれだけ秦が経験を引き出せたとしても、それは秦のモノではなくスノウとその師匠の経験である。肉体の性能や体格差、相手に合わせることはあったとしても、己の変質に合わせる経験はない。故に、秦がその経験を基に動作を行う際に若干のアジャストが入る。
微々たる誤差であるが、接近し、近接し、拳を振るい、腕を回し、脚を差し込み、尻尾を叩きつける――それらを一瞬の気の弛みも許容させない速度で押し付け続ける。
一手違えば即座に身体が穿たれるような連撃を秦は捌き続ける。
――なるほど、冷静だ。本人の素質もあるだろうが、憑依による経験の強みはこれだろう。
経験を積み重ねることによってのみ克服できる、眼前の死から目を逸らさない胆力。
――これが戦闘経験の浅い者ならば、恐怖によって判断力を失い、焦り、起死回生の一手へと縋り、そこを狙われて刈り取られるのが普通だ。
そして、冷静に受けきるからこそ、秦自身にも分かることがある。
微々たる誤差が積み重なり、無視できない隙へと広がる。
「あー、くっそ。無理」
そう呟いた瞬間、秦の防御を掻い潜り、ネセルの尻尾が秦の腹部へと叩きつけられる。肉を打ち軋む音が響き、血管や筋が裂け、骨を通じて衝撃が全身へと伝わる。突き抜けた衝撃が秦の後ろの空気を震わし、秦はそれを追うように倒壊した校舎へと突っ込む。
◆◆◇◇◆◆
全身を打ち付けた感触は最悪の一言に尽きるな、と、内心で漏らす。
スノウに教わっていた身体強化に加え、経験憑依による姿勢制御や受け身により致命傷は避けられているし、継戦も不可能ではない。刀だけは死んでも離してはいけないと、気合入れて握り込んでいたのが功を奏したのだろう。いくら限定接続によって過剰に供給される魔力を充てて、自分の未熟な技能で行える以上の身体強化を施しているとはいえ、打ちどころが悪ければ死にはしなくとも気絶だってあり得た。
というか、冷静に物事を考えているが、経験憑依によって成り立っているに過ぎない。多分この刀を手放せば痛みに悶え苦しみ泣き言を吐いてまともな思考などできなかっただろう。
――そもそも、人に向けて刃物を振るうことすら、躊躇したかもしれないのだ。魔術はまだどこか現実離れしていて感覚が麻痺するが、刃物は現実的であり、その痛みが理解できるせいで相手の傷を想像して手が震えて止まっていただろう。
「――気は済んだか」
気が付けば、ネセルはすぐそこまで近づいており、瓦礫に埋もれているこちらを見下ろしていた。
「今の不意打ちは、悪くなかった。だが、その程度だ。世界への接続を行ったかのような口ぶりだが、存在消失をしない程度では、それが限界なのだろうな」
「トドメを刺したりしないのか?」
不意打ちされといて、随分と余裕だなぁオイ。
「それは最悪の場合だ。そして、今のやりとりでその最悪は限りなく低いと理解した。それは貴様も同じだろう?」
黙るしかない。
実力差を埋めるために――経験の差を誤魔化すために行った経験憑依だが、逆に彼我の能力差を自分でも理解できるようになってしまった。
もしも俺がネセルを倒そうとした場合、相討ちがせいぜいで、九割超ぐらいの確率で一方的に殺される。それでは意味がない。俺が望むのはスノウが生きて、刀河が生きて、俺もまた生きている状態というモノだ。その中でも、一番は『全員が自由』な状態。
――現状では、不可能な望み。
そして、それをネセルもまた理解しているのだろう。
さぁて、どうやって最善を掴み取る?
そう考えたところで、ネセルが口を開く。
「貴様から抵抗の余地を奪い、従う強制を与えてやろう」
「あ?」
こいつは何を言って――
「貴様の家族は今、私の配下によって監視されている」
「――――――」
お前は何を言っている?
「貴様がこの場で降伏し、無抵抗を確約しない限り、貴様の家族――特に、弟妹の生存及び人権は保障されない」
空間の裂け目から注射器を取り出し、俺はそれを首筋へと撃ち込んだ。
◆◆◇◇◆◆
顔のすぐ横に空間の裂け目を作り、そこから取り出した注射器を迷うことなく使用。
天木秦は流れるような動作で、それを行った。
あまりにも淀みなく行われたせいで、ネセルはそれへの反応が出来なかった。
「なっ――」
何をしたのだ。という言葉をすぐに喉元へと引き戻させる。
聞かなくても分かる。見なくても分かる。肌で感じる。
――魔力量が加速度的に上昇していく!
魔術的薬物によるドーピングだろうかと考え、否定する。
――否! このような薬は存在しない! 上昇量が異常だ。もしもこのような薬物があるのならば、もっと界隈に広まっている。
秦はすでに先ほどの状態でスノウと同程度にまで魔力量が上昇しており、限定接続からの情報獲得により一部の術式がハイエンドクラスにまで高められていた。
そこからさらに、上昇する。ネセルが判断した限度を嘲笑うかのように。
そしてネセルは考える。
――秦が『世界端末』であるとして、では如何にして彼は接続へと至った?
器自身が望もうと、本人の意思による情報の流入など世界が許す筈がない。
では、何かしらの手段を以てして、世界への接続を広げたに違いない。
――では、それは、どうやって?
秦が投げ捨てた空の注射器。刀河から受け取った二本目の薬物。
薬物の副作用により脳内麻薬の分泌量が狂った秦は盛大に顔を歪め嗤う。
空間が歪む。異界化された空間の体積は、その地平の果てが肉眼では捉えられないほどにまで広がる。地表の面積で言えばオーストラリア大陸と同様の広さが作られた。
秦はいつの間にか立ち上がっており、ネセルへと手のひらを向けた。
刹那の逡巡を挟み、ネセルは七度目の形態変化を行う。
『限定接続――耀焔』
ネセルが形態変化を行い切るのと同時に、秦の手から放たれた莫大な熱エネルギーの塊である魔力砲が彼を包み込み、二〇〇〇キロメートルの距離を進んでそれは地面へと直撃した。地面を削ると同時に熱源の先端は歪み、内包する熱量をその場へと展開させる。白と赤と黒に光る火球は遠くから見れば遅々と膨らむが、実際には十数秒で直径五〇〇キロメートルに及ぶ広範囲を燃やす。広がる火球の周囲には急激な加熱によって上昇気流が発生し、熱によって抉られ気化した地面や水蒸気が上りながら周りに吐き出され、火球から離れた位置にまで到達して冷却され輪っか状の雲を幾重にも生み出す。
「マジかよ……すごいな。これでも生きているのか……」
それを見ていた二人の内一人が、どこか楽しそうにそう言った。
「貴様は……貴様は一体…………」
五体満足であるネセルが、口から血を吐き目から血涙を流し黒い鼻血を垂れ炭化し曲げることができなくなった右腕をぶら下げる秦を見ながら、彼らの前で初めて震えた声を発した。
彼らの遥か後方では、広がりきった火球が上空へと上りながら収縮していき、熱され膨張され切った空気が冷却され、広がるのと同様の速度で爆発の中心点へと戻っていた。
それは一つの光景を連想させる。
――水素爆弾による広範囲爆発。
それを魔力の熱エネルギー変換のみで再現したという事実。
「スノウ渾身の一撃を凌いでいた時点でなんとなく予想はしていたけれど、純粋な熱量による攻撃は効かないんだな」
薬物による副次的な脳内物質の過剰投与。
その作用による興奮状態は、全身を覆う激痛によってすでに醒めていた。
「でもまぁ、反応を見るに今の一撃を脅威だとは感じてくれているようで良かった。――だから、少し話をしようか」
そう言って、秦は無事な左手で横に空間の裂け目を作り、それを広げる。
◆◆◇◇◆◆
裂け目の先にはスノウがいる。
刀河が治療したであろう両手両足は黒い包帯でぐるぐる巻きになっているとはいえ、元の形を取り戻していた。しっかりとその足で立てているので、少し安堵する。
「ほら」
そう言って手を差し出す。
スノウはわけが分からないといった様子だが、それでもゆっくりと、けれどしっかりと俺の手を取ってくれる。その感触を握り込んで、こちらへと引っ張り出す。
閉じていく裂け目の奥では、刀河が机を繋げた簡易的なベッドの上でぐったりと横になっているのが見えた。きっとスノウの治療で消耗したのだろう。ありがたいと思い、心の中で礼を述べる。
ふらつくスノウを抱き留めながら、自分もまた少し安定しないので、お互いに寄り添い支え合うように肩を合わせる。
「よし、役者は揃った。じゃあ、話そうか」
「先ほど、邪魔だと言ったのは貴様であろう」
「あの段階では邪魔でしたよ。勝利条件が単純だったし」
学府に俺が無抵抗で投降するか、しないか。そういう話だった。
世界端末だなんだと言ったところで現状はただの学生。抵抗したって無意味なのは自明だ。下手に抗って傷が増えるよりかは、さっさと身柄を差し出してしまったほうが良かったのだ。
だが、スノウはそれをさせたくないからと、ネセルに相対するということを譲らなかった。
そして、そんなスノウと俺は一緒にいたいと思った。そのためにどうすればいいかと考えれば、目の前にいるこの男を倒すことこそがその一歩だった。
「で、次にそっちが新しいカードを切った。俺の家族だ。俺の家族を人質にして、俺に有無を言わせないと宣った」
それは駄目だ。許されない。スノウとか関係なく、俺に対してだけの脅迫となるそれだけは絶対に許容できない。
「貴様が家族を――とりわけ弟妹を大事にしているのは調べがついている。貴様という脅威を従わせることが出来るのならば、その手段を取らない理由がないだろう」
「わかっているよ。その選択を俺に迫ることは交渉にすらなっていない、ただの強制だ。だから、その手段を取ってはいけない理由を提示することにした」
そうして、俺は炭化した右腕を見せびらかす。――痛みは凄まじいが思考に支障はない。刀河謹製のクスリが良い感じに痛みを和らげてくれている。もしも痛覚を麻痺させる効用がなければ、今頃は恥も外聞もなく痛みでのたうち回っていただろう。
「今の『耀焔』は中々の威力だっただろ?」
痛みなんてまるで問題ないかのように振る舞う。
スノウは俺の痩せ我慢を看破しているのか、横で不安そうにこちらを見上げている。
……ばれちゃうからあっちを見ていてくれ。
「だが、私には意味がない。見ろ、五体満足であり、傷一つないぞ」
ネセルは己の肉体を誇示する。そうすることによって、どれだけ威力があろうともネセルには今の攻撃が通用しないことを示し、交渉材料にはならないと言いたいのだろう。
お前に効かないのは理解しているよ。だけど――
「あー、確かにアンタには効かないらしいな。――でもさ、防ぐことはできないだろ?」
そう言うと、ネセルは悟ったようだ。
「貴様……」
肘から先の感覚が無く、ただ硬い何かが繋がっている状態の右腕を揺らす。
「だから、こうさせてもらう。そっちが俺の家族に何かしようものなら、俺は今のを世界中に撃つ」
ネセルにとっての弱点がよく分からないので、とりあえず全人類を人質に取ることにした。
「……させるとでも?」
威圧感を出しながら凄んでくる。
「できないとでも?」
ただ、これで怯んでは駄目だ。ここで重要なのは、それが出来ることを前提とし続けることだ。そうやって、本当にできるかもしれないという可能性を相手に思わせ、俺の家族を人質に取るという行為の意味を失わせなければいけない。俺の家族の生死と全人類の生死、釣り合わない天秤を示して破綻させ、今後の交渉における俺の家族への危害という材料を取り除く。
「今の一撃は大したものだが、それでも、滅ぼせて小国家一つだろう。そして、その一度で貴様の肉体はかなり損傷しているように見えるが、不可能ではないか?」
よく見てらっしゃる。
「今のは試運転だよ。限定接続の供給効率と熱エネルギーへの変換最適値は肌で理解した。次はもっと広く強く連続して使えるよ。というか、地表に使うとは限らないだろ。この惑星の核にブチ込んで、この星を叩き割ることのほうが現実的なんだぜ?」
大言壮語もいいところだが、世界端末は小惑星一つを消滅させた実績もあるらしいし、ハッタリだと一笑に付すことはできないだろう。なにより、その可能性を考慮しなくてはいけない程度の威力は示した。
「あぁ、別に『監視は解いた』とか『安全は保障しよう』とか言わなくていいから。もしこれで俺が家に帰ったときに家族に異常があれば、即座にこの星を壊す。それだけだよ。それだけの話だ」
やると思わせろ。そう思わせれば勝ちだ。
「もしもお前の配下が分かりやすく刃物や銃器を構えていても同じだ。俺は泣きながら家族もろともこの星を砕く。そうはなりたくないだろ」
だって、もしもそれで人類が滅んだら、原因はお前らが不用心に爆弾を叩いたからってことになるもんな。――あぁ、でも、それならもっといい方法があるか。
「いや、やっぱりそれはやり過ぎか。ほどほどにしとこう。そうだなー、ユーラシア大陸にでも撃ち込むかぁ。そうしたら、どうなるんだろうなぁ? あんたらはさ、一応のお題目は世界端末が暴走して世界が滅んだりしないようにするための行動なんだろう? いいねぇ正義の味方だねぇ格好いいねぇ! じゃあ、その正義の味方が不用意に『暴走するかもしれない』という可能性しかなかった『世界端末』をつついたせいで大陸が一つ滅んだりしたら面白そうだよなぁ?」
今、俺の手には実際に強大な力がある。大いなる力に振り回されろ。増長しろ。驕れ。余裕ぶれ。調子に乗れ。タガの外れた人間が何をするかわからないと完全に思わせろ。
「秦くん、その言動は悪役……」
自分は正しいことをしていると思っている人間と対している奴は誰だって悪役だよ。
「ならば、貴様はここで排除するしかないな」
まぁ、そうだよな。そうなるよな。
その結論は、実際にそうなったときに自分たちでは対処できないことの証明だ。
もしもネセルが俺を止められなかった場合、学府は俺という『核弾頭』を処理できない。
つまり、俺という『核弾頭』は学府に対して対等以上の交渉をできるようになる。
――今の会話で目指すべき結末は導き出せた。聞きたい言葉は引き出せた。
「今の貴様は、人類の純然たる敵だ」
我欲のためだけに動く人間に対して使うような言葉じゃないだろう。
「ひでぇな。俺も人類だよ? 仲間外れは良くない」
「人類という枠組みの外を垣間見た貴様はもう人ではない――世界だよ」
世界とはなんだ?
人類の敵とはなんだ?
俺は世界のなんなんだ?
まぁ、そんなことはどうでもいい。
「ちょっとスノウと話すから、横槍入れるなよ」
手を突き出し、待ったをかける。その挙動に反応してがっつりと構えられるが、無視して言葉を続ける。
「もしかしたら死ぬかもしれないんだ。すっきりさせときたいんだよ」
ネセルは答えないが、動きもしない。おそらく黙認してくれるのだろう。
タイムが成立したので、俺はスノウへと話し掛ける。
「なぁスノウ。俺はお前と生きたいよ」
「……無理だよ。私にはその資格がない」
「その資格って誰が決めているんだ?」
「私」
「そっか。ちなみに聞くけれど、俺にはお前と一緒にいる資格ってあるの?」
「どうだろう。それは私が決めることじゃない。ただ、秦くんのその気持ちは紛い物だよ」
「なんでお前が俺の気持ちを決めつける?」
「私の気持ちが偽物だったからだよ。私は馬鹿じゃないからさ、理解してるんだ。秦くんは私の気持ちを受けて、それに返しているだけなんだよ。紛い物なのに、それと気付かず、まるで本物であるかのようにこの気持ちを君に押し付け続けた。それを君は律儀に返しているだけ」
――そんな関係を偽物と言わずしてなんと言う?
ネセルがそんなことを言ってくる。横槍入れるなって言ったのに。
「別にいいだろ。最初の感情が偽物でも」
「なにも良くないよ。そんなのは恋じゃない。こんなのは愛じゃない」
「スノウは結構乙女だよな」
「なっ、なんでいきなりそうなるの?」
「そりゃそうだ。打算とかそこら辺から始まる感情が受け入れ難いんだろ? それを純情乙女と言わずしてなんと言う」
好きになるきっかけを、不純なものにしたくないのだろう。
――ただ、一目惚れだってわりと不純だろう?
「別にいいんだよ。きっかけがなんであれさ。大事なのは最後に二人が自然に笑っているかどうかだよ。いいんだよ、容姿が目当てだとか資産が目当てだとかそんなきっかけでも。大切なのは二人が幸福かどうかだよ」
気持ちは分かるよ。そんなのは本物じゃないように思えるよな。
「でもさ、それでもスノウは俺のことが好きなんだろう? 動機が不純で、理由が恋ではなくて、愛なんて程遠いような感情だったとしても、それでもスノウは俺のことを好きだと今でも思っているんだよな」
自分で口にするのが憚られる台詞だ。だけれど、スノウと一緒に生きるためには必要な言葉だ。自惚れろ。面の皮を厚くして堂々と言い切れ。
「俺はそんなお前が好きだよ」
実際のところ、この感情が好きなのかどうか、自分でも整理できていない。
でも、お前と生きたいのは本当だよ。お前に生きていて欲しいんだ。
その右手を握る。
少しばかり震わせながらも、ゆっくりと握り返してくれる。
その目に意志が宿る。
「いいじゃないか不純な動機で! 外野が何言ったところで気にすんな! これは俺とお前だけの問題なんだから、最終的に俺とお前が笑って幸せそうに向かい合っていれば万事オーケー!」
だから、
「――だから、一緒に行くぞ」
君の手を放す。
また繋ぐために。
もう一度掴むために。
何度でも握るために。
◆◆◇◇◆◆
秦とスノウが弾けるようにその場から跳躍する。
手を繋げた際に意識の共有パスを繋げたため、二人は意思の疎通に言葉を必要としない。
秦は左手に『凩』を握り、スノウは空間から刃の厚いナイフを取り出してそれぞれがネセルへと接近する。
――結局こうなるのか。
ネセルは竜種形態から変えず、二人の挟撃へと対処する。
――実際のところ、ここでこの二人を同時に相手取ることは不可能だ。
秦の重く速い大振りな一撃を防ぐ間に、スノウは両の手に握るナイフを胴体へと振るう。鱗の隙間へと差し込み、捻る。鱗が弾け、その下の鱗が覗く。
――手数が、捌き切れない。
秦が一撃を入れる間に、スノウが丁寧に迅速に鱗を剥いでいく。
――ただし、それは万全であった先ほどまでの話。
鱗が剥がれ、皮膚が露出する。
――捌き切れないのならば、捌き切れるようにするまでだ。
だが、いくら攻撃の通る箇所が生まれようとも、ネセルはそう易々と攻撃を通さない。
熟達した技術によって、秦の一刀とスノウの剥ぎ取りを己にとって防御しやすい箇所へと誘導させる。あえて作られた小さな隙へと二人の攻撃が集中し、それを防ぎ、反撃を叩き込む。
「がぁっ」
ネセルの蹴りが秦の鳩尾を抉る。竜の鉤爪によって打撃と同時にその腹を裂く。
威力を受け止め切れずに吹き飛ぶ秦。そこへ追撃をかけようとするが、スノウが邪魔をする。
――愚かな。立ちはだかるのではなく、形だけでも挟撃の姿勢を見せるべきだったな。
怪我を負ったとはいえ、致命へとは至らない傷であるため、少し待てば秦が戦線へと復帰することをネセルは理解している。
とはいえ、その復帰は『即座』ではない。そして、一対一であるならばネセルはスノウに決して後れを取らない。スノウはすでに満身創痍であるため、尚更。
スノウが取るべきは秦を囮として、ネセルを背後から討つことだった。
両の手に握られている刃を折り砕き、次の得物を取り出される前に横腹へと拳を打ち込む。
骨が軋み砕ける音が響き、スノウはその身体をくの字に折る。
「っぁ」
身体に走った衝撃によって全身が硬直し、それを解こうと無意識に呼吸を行うため口を開く。
ネセルはそのまま意識を奪おうと、無防備に口を開いているスノウの首へと手を伸ばす。
そして、己の腕に深々と刃が突き刺さっていた。
――何故?
開かれたスノウの口から、刃が伸びていた。
刃はネセルの掌――鱗の無い箇所――から肘までを貫通し、刃先は空気へと晒されている。
――空間魔術を口内に展開したのか。
後方では、すでに立て直していた秦が虚空へ向かって日本刀を突き立てていた。
空間魔術は空中に流した魔力や、魔力を込めた触媒に術式を走らせ繋げる魔術である。
学校の敷地内を満たす魔力の殆どがスノウと刀河のものであるため、極論を言えばスノウはこの空間内であれば好きなところを自由に繋げることが出来る。故に、どれほどネセルと距離が離れていようとも、行おうと思えばその全ての攻撃をネセルの死角から生み出すことが可能だった。
では、どうしてそれを行わなかったのかと言えば、第一に空間魔術が緻密な制御を必要とするものであり、第二に空間を繋げた際の魔力反応が感知されればそれが不意打ちとして機能しないからだった。
先ほど行った空間の固定は繋げることよりも制御が容易であり、一瞬の固定で十分なため流す術式も簡易。そのため、限界まで引き付けてから使用することにより気取られないようにすることもできた。だが、空間を繋げる場合だと制御のために集中力が割かれ、且つ、空間を繋ぎ続けるため術式反応と魔力のゆらぎも大きい。そのため、たとえ死角に繋げてそこから攻撃を刺し込んだところで、ネセルは反応して捌く。そして、空間魔術のために集中力を割いた隙を狙ってスノウを戦闘不能へと追い込むだろう。
反応が間に合わないような至近距離はそもそも術式が乱れて展開できず、距離が開けば魔力感知はできなくなるがそもそも攻撃が届かない位置になる。
だからこそ、スノウが戦闘中に空間を繋げるのは、己の手元と武器庫のみへと限定していた。
――そう考えていた。
ネセルとスノウ、両者ともに同じ考えだった。
そのため、先ほどまでその戦術は論外であったのだ。
――口内の魔力や術式は感知できない。
どれほど至近距離へと近づいていようとも、術者という魔力の塊からの発生であるため術式が乱れることはない。そして、もう一つの発生元は後方へと距離を取っていたために、その感知が遅れた。
――その結果がこれか。
スノウは上体を反らし、空間の裂け目から口を離す。
ネセルは腕を引き、刃から抜き取ろうとするが、腕が動かない。
「湖岸流――虚の楔」
秦が空間の固定を行ったと悟り、腕を切り落とすべきだったとネセルは悔やむ。
片腕を封じられたネセル。
新たに短刀を取り出したスノウ。
もう一本の『凩』を構えて接近する秦。
そして、当然の帰結として――
◆◆◇◇◆◆
ネセルは呟く。
「――こうなるか」
幾重にもあった鱗が剥がされ、それによって露出した肉へと刀身が深く突き刺さり、切っ先は心臓へと達する。肉を裂き背中を貫通させながら、秦は迷うことなく手首を捩じる。肋骨が削れる音と一緒に内部に空洞が作られ、それを埋めるように血液が迸り溢れる。
心臓の破壊。それに伴う不随意筋の強制的な収縮。
秦は刃を引き抜き、血肉の通り道を開く。溢れ出る赤い液体が地面を彩る。
そこへ、スノウは脳天へと二本のナイフを突き刺す。鱗によって刃が砕けようとも、そのまま捻じ込んでいく。脳漿が己の顔に飛び散るのも構うことなく掻き混ぜる。
そして、刃に込められた術式を起動させる。
起動する術式は不可逆の呪い。治癒と再生の拒絶。
回帰転換による上位階の情報熱と、限定接続による途方もない魔力を利用し、疑似的な核融合反応によって生み出された莫大な熱量を受けてもなお無傷の身体。
それを見て、スノウは純粋な力押しではなく、ルールへと干渉することによって殺し切ることを選んだ。
◆◆◇◇◆◆
ぐっちゃぐっちゃと、俺の彼女が成人(竜?)男性の頭を掻き混ぜる姿を見守る。
「すげぇ光景……」
凄惨と言っても差し支えないその光景だが、不思議と感想はその程度だった。経験憑依のおかげで感覚が麻痺しており、人の中身を垣間見ても動転せずに済んでいる。
……いや、それどころではない。見ているなどと他人行儀なモノではない。アレを殺したのは俺だ。俺は確かにアレの心臓に刀を刺し込んだ。刃が皮を突き破り、肉を掻き分け、心臓を潰した感覚は手に残っている。真っ当な人生を歩む場合だと、医者にでもならない限りは味わうことのなさそうな経験だ。
「念のため」
俺が自分の手を見てそれっぽい感傷に浸っている間に、スノウは倒れて動かなくなったネセルの身体にさらに太い釘(杭?)のようなモノを打ち込んでいた。
「なにそれ」
思考の一部共有によって彼女が考えていることはなんとなく感じ取れるので、口にしなくてもいいのだけれど言葉にする。
「腐敗と鎮静の呪い」
律儀に返答してくれる。
「おお……」
――容赦ねぇな。
スノウがやれるだけのことをやろうと、あれこれ手を尽くしているのを見て恐れ慄く。
俺自身は素人で手伝うようなことはないので、手持ち無沙汰だ。
なんとなく空を見上げる。異界化された空間。星一つない黒い空。
「なぁ、これって――」
そうスノウへと声を掛けようとして、また彼女へと視線を戻すと、
スノウは疲れが出たのかふらついて、
その顔面へと裏拳が突き刺さった。
「は?」
拳の主は燃える人型。
スノウは仰け反りながらも踏ん張り、体勢を戻そうとするがそこへ拳の追撃が迫る。
どうにかそれを避けようとするが、叶わず顎へと拳が掠める。
「――っ」
脳が揺れたのだろう、スノウはその場へと頽れる。
燃える人型は徐々にその炎を弱めていき、輪郭を鮮明にさせる。
「なんで、まだ生きているんだよ」
それはネセルだった。その身体に傷はない。
――デスピサロかよ。何度倒せばいいんだよ。
「まだ生きているのではない。また、生きたのだよ」
何言ってんだこいつ。
「諦めろ。貴様たちでは私を殺し切れない」
「どういう意味だ」
「私の肉体には不死鳥の刻術――形態変化のための術式が組み込まれている。貴様も聞いたことぐらいはあるだろう?」
不死鳥。フェニックス。火の鳥。寿命を迎えると炎へと身を投げ、そこから新たな命として生まれ変わる空想上の鳥。その名とは少し違い、死なないのではなく、そのまま生まれ変わることによって死を超越した存在。
「私の『これ』は少し弄られていてな。私という存在の万全な形がそのまま世界に記録され、記憶され、生まれ変わりとしてその形へと造り上げられるように出来ているのだ」
「……つまり、どういうこと?」
気まずそうに額に手を当てるネセル。
「……どんな手段を取ろうとも、私は世界によって元通りになるため、お前たちがどれだけ身を削って殺そうとしても、無意味だということだ」
「それって教えていいことなのか?」
「知れば、諦めるだろう?」
「ていうか、それって無敵ってこと? なら、なんでわざわざ攻撃を避けるんだよ」
「無敵ではない。当然のように限度はある。形態変化は肉体と魂を蝕むモノだ。常人ならば幻想種への変化をした時点で魂が砕け散る。不死鳥への変化は、その比ではない」
「つまり、その限界までアンタのことを殺せば、倒せるってことか?」
「あぁ、その通りだ。そして、それは不可能だ。私の肉体と魂は殊更頑丈でな。あと千度ほどならば、不死鳥種への形態変化を行える」
千回。千回か。なるほど、それは確かに無理だ。
今、こいつは何度死んだ? ちゃんと数えてはいないが、二桁にも満たない数だろう。
そして、それで俺とスノウはどうなっている? 満身創痍もいいところだ。
奥の手の三本目を使ったとしても、千回殺し切るほどの回数は無理だ。
余剰火力で超過分のカウントをされたりしないかな。今までのを見るにしないよなぁ……。
――あー、これは流石に詰みかなぁ……。
そう思って、肩の力が抜けた。
余分な力を抜くための――継戦のための脱力ではなく、諦めからの虚脱。
そんな俺を見て、ネセルは当然だと、そんな顔をする。
そうだよなー、当然だよなー。
俺はわりと阿呆な方だけれどさぁ、現状把握が出来ないほど愚かではないんだよな。
――あぁ、くっそ。調子に乗って、格好つけて、これか……。
スノウには悪いことをしたかなぁと、弱気になる。
あそこで俺が自分のことを差し出して、スノウのことを拒絶していれば、スノウと刀河はどうとでもなったかもしれない。それなのに、俺のエゴに付き合わせて失敗してしまっては、どうしようもない。
そう思いスノウへと目を向けると、スノウもまた、こちらを見ていた。
まだ脳震盪が回復しきっていないのだろう。焦点が合っていない目をこちらへ向けて、まともに動かない身体をどうにか動かして、こちらへと口を開く。
『にげて』
言葉は擦れていて、それは音になっていない。
でも、はっきりと、そう言ったのだと理解できた。
――理解したからこそ、俺は動いた。
世界によって元通りになる?
つまり、それは世界からの強制で。
つまり、それはこの世界に在るからこそで。
つまり、それは神などと同等の権能であるということで。
つまり、それは人間であるスノウたちにはどうしたって介入できないことで。
つまり、それは神と同等か、それ以上の存在である世界にしか介入が出来ない在り方で。
――つまり、俺なら?
真横の空間を裂き開き『それ』を取り出そうと左腕を伸ばして、
――伸ばして、伸ばそうとした左腕が無かった。
「ぁ?」
言葉も、まともに出ていなかった。
下を見ると、右胸のあたりに太い腕が突き刺さっていた。
肩のあたりから引き千切られた左腕が、下に落とされる。
「行動させるわけがなかろう」
挙動を潰された。もうまともに動く腕はない。
肺が潰れている。不思議と痛みはない。ただ、身体に穴が開いているという感覚と、異物が中を押し退けて通っている感覚が気持ち悪くて仕方ない。
――でも、目的は達成された。
『俺の動きを止めるんじゃなくて、空間の裂け目を潰すべきだったよ』
裂け目から取り出すことはできなくとも、裂け目から出てきた刀河がその手に握り込むモノを、目的の『それ』を俺の首へと打ち込んだ。
己の内側にある何かが開く。情報の奔流がちっぽけな自我を呑み込む。
三度目の接続。肉体と意識が断続的に消し飛ぶ。
――大丈夫、もう慣れた。
「『創造』」
空間を塗り替えろ。異界の中にさらに異界を作り、それを基点に造り、世界を創る。
真白な世界。何ものにも染まっていない、無垢なる場所。
「三度目の接続だと? 自殺行為だ!」
ただ一人、この世界へと招待したネセルが俺の暴挙に取り乱す。
「死ぬつもりはないよ」
最初からそう言っている。俺はスノウと一緒に生きたいのだ。
――でも、死ぬ気ではなかったから、
「命を懸けることにしたよ」
「愚かな! 貴様の命では私の命に届かないと理解している筈だ!」
「あぁ、だから届かせる方法を考えたんだ」
「不可能だ! 私の転生は世界によって固定されている!」
不死鳥の在り方は世界による強制だ。
神と共に産まれ、世界が斯くあれかしと定義した存在。
「だから、お前をその世界から切り離すことにしたんだよ」
炭化した右腕が空間へと溶ける。
切り落とされた肩から先が、空間から腕へと変貌していく。
この世界はもう、俺自身だ。
『理想のセカイの作り方(仮)』
◆◆◇◇◆◆
世界変容――理想のセカイの作り方。
三度目の限定接続によって、一時的に世界そのものへと変容した秦。
展開した極小世界へとネセルを取り込み、ネセルと世界の繋がりを強制的に断ち切った。
動くという行為を世界から剥奪されたネセルは、されるがままとなった。
四肢を砕かれる。原形を残さないほどに、辛うじて繋がっている状態へと。
「不死鳥の刻術は壊させてもらう」
ネセルの肉体に刻まれた、不死鳥への形態変化のための術式が無理やり引き剥がされ、砕かれ消滅する。
それを行うと同時に、秦が呟く。
「あ、もう無理」
形成された世界が崩壊する。
◆◆◇◇◆◆
天木とネセルが虚空から現れた。
どちらも顔から地面へと落ちるが、受け身を取る様子はない。非常に痛々しい落ち方だ。
「なるほど、不死鳥の刻術を剥ぎ取ったのね」
ネセルの様子を見て、天木が行ったことを理解する。そして、それは限りなく正しい対処法だったと天木を褒めてやりたくなる。ネセルは多数の刻術を奇蹟的なバランスで埋め込むことによって出来上がった多重形態変化者だ。複雑に絡み合った刻術がそれぞれに作用しあうことにより、人の形態を維持している。そんな状態から無理やり特定の刻術を引き剥がしたとなれば、他の刻術にまで影響が及び、まともに身体を維持することすら難しい筈だ。
素体としてのネセルがいくら強靭であろうとも、当分、形態変化はおろか魔術の使用すら難しいだろう。完全な無力化だ。つまり――、
「お前たちの勝利だよ、スノウ」
そう言ってやるが、当の本人は私の声なんて聞いておらず、うまく動かない身体で必死に這いずり、天木へと向かっていた。
「秦くん!」
縋るように、倒れる天木へと寄り添う。
「息は――してるっ」
自分だって死に体だというのに、天木の安否だけを気にする。
……影の功労者である火灼さんには一言もないのかナー? 表立って戦ってはいないけれど、過労死してもおかしくないレベルでバックアップしていたんだけれどナー。悲しいナー。これが友達と恋人の差かナー。彼氏ができたら友達付き合い悪くなるやつかナー。などと、くだらないことを考えていると、
「身体が! 秦くんの身体がっ!」
スノウの悲痛な声が響く。そして、天木の身体に起きている異常は見なくても分かる。
――ま、そうなるよね。
三度に亘る限定接続に加え、短時間で極小とはいえ世界の顕現まで行ったのだ。
天木という器は、世界端末という特別ではあるが、世界端末としては特別ではない。
世界からの機能制限は外されていない。そんな状態で世界に接続したのだから、咎められるのは当然だろう。
天木の肉体は消失を始めていた。過剰接続による情報のオーバーフロー。世界の持つ浄化機構による存在の塗り潰しだ。そしてそれを止める手立ては、私たちにはない。
「やぁ、今晩は」
場違いな、実に緊張感のない声がした。
そちらへと目を向けると、男が立っていた。
細身の長身で、黒を基調とした袴に身を包み、長い黒髪を後ろで纏め、柔和な笑みを浮かべた優男。いつの間に? などという疑問を抱くのはこの男に対しては無意味だ。
「南雲、飾」
第八超越者にして、学府における現三席。そして、ネセルの上職。つまりは――
「ラスボスのお出ましかな?」
とはいえ、こちらの残存戦力は皆無と言ってもいい状況だ。さて、どうしよう?
「いえ、僕はそういったものではありませんよ。僕にそこまでの戦闘能力はありません。そこに倒れ伏しているネセルこそが、実質的な僕の戦力と言っても過言ではありません」
「それが本当なら、私たちの前に姿を現すのはおかしいでしょうが」
あまりにも白々しい発言についツッコミを入れてしまう。
「おかしくなんかありませんよ? 僕であれば、そこで倒れている世界端末の少年を救うことが出来ます」
その言葉を受けて、スノウが反応する。
「条件は?」
可不可は問わなかった。
「僕の部署に来てください」
「わかった」
逡巡すらなく、スノウは頷いた。
その首肯に南雲飾は満足そうに微笑んだ。
「越境権限――干渉」
超越者による越境行為が開始された。