英雄
そこは小さな砂礫ばかりが転がる灰色の空間だった。
吹き荒ぶ風をものともしない濃い霧のようなものが立ち込めていて視界が非常に限られていた。
斜面はそれほど急ではないものの地面が脆く踏みしめる度に心許なさを感じて体力を奪っていく。
更に、いったいどれほどの標高があるのか見当もつかない様子が希望をも疲弊させた。
もう幾度となく傾斜に沿って左へ右へと交互に折れ曲がりながら降りている。
それでも賢者はまだ歩き始めたばかりとでも言うかのように平然としている。
リオンは賢者の横顔を見てそういうものなんだろうと大人しくしていた。
歩いていればいつかは目的に辿り着くだろうと割り切れる能天気さがリオンの強みだった。
「へんな髪型」
「ん?」
「普通に髪が長いだけかと思ってたけど、頭の真ん中しか毛がないのね。それを垂らしてるんだ。なんで両側には毛がないの?」
唐突に髪型のことを尋ねられて目を見開く賢者。
見下ろせば興味津々な瞳でリオンが見つめている。
他に見るものがないからなのだろうが賢者は苦笑いし節くれだった指で髪を梳いた。
確かに賢者の髪の毛は腰ほども長かったが、それらの髪は全て額から頭頂部を経由して首筋に至る一直線から伸びたものだった。
「これに興味を待たれると思わなかったよ。好奇心旺盛だね。だがこの山ではそのような気持ちを持ち続ける事が何よりも大切だ」
「気持ち?」
「そう、端的に言えばこの山は気の持ちようが重要なのだ。例えば君がここに迷い込んだなら、それでも私の元に辿り着いただろう。君は強い心を持っている。どんなことがあっても先にはなにかがあると信じ続けられるはずだ。だが多くの者はそうではない。山を疑い、目的を疑い、自分さえも疑ってしまう。自分が登る事を選んだというのにね」
「それが迷い人になるのね。こんなところ、なんで登ろうとするのかしら」
「時に会いたいんだよ。どんな権力者でも高位の魔法使いでも絶対に出来ないことがある。それは時を遡ることだ。もう一度やり直してでも得たいものがある。その思いを胸に人はこの山を登るのだ」
「遡ってでも得たいもの……」
「古来より人々はその思いを叶えるために妄想を膨らませて来た。未知のものに対して自分たちが想像し得る言葉でここを形作って来た。虚ろなる山、死の山、虚空の果ての幻の山、時の還る場所……。山は設定を付け加えられ、どんどん育っていった。山を知らないはずの君にさえ、こんな光景を見せるほどにね」
「ここは本当は存在しないってこと? 誰かが作った想像の山に私は今立っているの?」
「いいや、存在はしているよ。現実ではないというだけさ。これは極論だが魔法と同じ原理なのかもしれない。そして魔法使いはきっと誰もが気脈で繋がっているんだろう。……さあ、あれだ。彼を連れて帰るといい」
砂礫だけの何もない斜面にそれはいた。
それは一切の衣をまとわず、風に凍えるように手足を折りたたんでうつ伏せになっていた。
一見すると乳児のようにも見えるが四肢は長く、しわがれた皮膚には骨が浮き出しており、人としての形を保つのもやっとと言った感じだったが成人のようだった。
何かを求めて山を登り続けるも深層心理では諦めており、されど引き返すことも出来ずに山にしがみつくことしか出来なくなった無様で醜く憐れな生き物が、そこにいた。
「元来この山に迷い込んだものはすぐに手の施しようがなくなる。自らの存在を否定して消えてしまうからだ。だが彼は違った。深層心理では希望などないと分かっているのに、それに勝る望みで自分自身をも欺いているのだ」
「ちょっと待って。分かってて放っておいたの!? 苦しんでるって分かってて!」
「私は時を見守る者。干渉は避けなくてはならないからね」
「今わたしにかんしょーしてるじゃない」
「まずは彼を救ってみよう。力の使い方が分かるはずだ」
「なんか嫌だわ、その試してる感じ」
リオンは少し不機嫌になりながらも迷い人に近づく。
顔を覗き込んでみるが両手が顔を覆っているので見えない。
恐る恐る手を伸ばして肩をつついてみても反応はなかった。
頑なに自分の殻に閉じこもっているこの生き物をどうやったら救えるというのだろう。
魔力の流れを見てみる。
僅かに残った灯のようなものを感じる。
リオンはその僅かな温かさに懐かしさのようなものを感じた。
気づきつつあるリオンに賢者が最後の一押しを述べた。
「君の世界で少し前に大きな気脈の乱れがあった。彼はそれからずっとここにいる」
「そっか、そうなんだ……」
リオンは理解した。
そして少し失望した。
世界が大変なことになろうとしているのに、自分が大いなる役目に不安になっている時に、この男は微かな好機を感じて己の望みを叶えようとしたのだ。
ロブは男に助けられたと言っていた。
最初はそのつもりだったのかもしれない。
だがロブの暴走する魔力と自身の反魔法が合わさった時、気脈に歪みが生じて虚ろなる山への道が開けてしまった。
男はそれを好機と捉え、全てを投げ出してここに来たのだ。
結果は見ての通りだ。
リオンは迷い人の手に触れ、ゆっくりと上体を起こさせる。
顔を上げた迷い人には眼球がなく垂れ下がった瞼の奥は空洞が広がっていた。
半開きになった口も舌が見当たらず、外部からの干渉を拒否しているのかこの調子だと耳も聞こえているか危うかった。
リオンは自分のおでこを迷い人のおでこにつけた。
こうすれば声を届けることが出来る気がした。
自分の魔力を注ぎ込む想像を膨らませると迷い人の中に魔力が流れていくのが伝わってくる。
迷い人の喉から掠れた声が漏れた。
「今はまだお帰り」
優しく、出来るだけ優しく諭す。
「ここにいてもあなたは消えちゃうだけ。だって自分を信じ切れていないんだから。一緒にあなたの望むものを探してあげたいけど。でも、あなたにはまだやらなければならないことがあるはずよ。だから、さあ、お帰り」
諭していると霧の向こうから声が聞こえて来た。
訝しげに目を細めていると迷い人が震えだしたのに気づく。
意味を成さない発音の羅列と奇声を発しながらそれは姿を現した。
それは比率の合っていない複数の人間が団子状に結合した集合体だった。
巨大な頭部の眼球は高速で痙攣し、美しい黒髪の間から飛び出た張りのある臀部からは白い足が伸びて空を蹴っていた。
肌には無数のふきでものがあり皮膚の内外で蠢いている。
よく見るとそれらは小さな手足や手足よりも大きな指の先端だった。
手足の欠片で地面を掻いて近づいてくる肉塊にリオンは絶句して叫び声も上げられなかった。
代わりに悲鳴を上げたのは迷い人だ。
地面を這い必死で逃げようとする迷い人をリオンは反射的に庇った。
あの化物はこの男を狙っている。
直観は当たっていた。
「な、なにあれ!?」
「時の狭間を漂う怪異だ。彼の魔力に気づいてやってきたのだろう。丁度いい、彼女たちに安らかな眠りを与えてやってはくれまいか。それもまた鞘の巫女の……」
「ああもう! 力を使うための練習になるっていうんでしょ!?」
「そうだ」
「急すぎて意味わかんない!」
リオンは魔力を見た。
怪物から放たれる力は無数の人間の集合なだけあって補足するのが難しかった。
懸命に探っている間にも奴は近づいてきている。
切羽詰まったリオンはそれらの魔力を逆に押し返す想像で手に力を込めた。
リオンの体から魔力が吹き荒れ光の帯となり怪物を包んでいく。
肉塊の魔力の流れと逆に流れるリオンの魔力が帯の中で一致した。
途端に化物は光となって消えてしまった。
後には何も残らなかった。
「消えちゃった……?」
「それが反魔法の攻勢だ。対象を無に帰す、魔力を知る者の極意だ」
「あの人たち、消しちゃって良かったのかな」
「あれにはとっくに自我はない。あれで良かったのだ」
「で、これが鞘の巫女の力?」
「そうだよ。復活したアスカリヒトの魔力は桁違いだ。それに合わせることの出来る反魔法を唱えられるのは鞘の巫女の他にいない」
「ふうん……ああやって消えちゃうわけね。だとするとさ、それに操られている人も、もしかして消えちゃう?」
「共に消し去るかどうかは君の加減次第だよ」
「それ知れて良かった。だってブロキスも被害者だもん。消えるのはアスカリヒトだけでいいよ。……っていうか、これは一体どういうこと?」
リオンは少しだけ肩の荷が下りた気がした。
同時に、荷が増えているのに気づく。
唇を尖らせるリオンの下では迷い人が足にひしっとしがみついていた。
賢者が愉快そうに笑った。
「なんか懐かれたんだけど」
「よいことではないか」
「嬉しくない。ほら、さっさと帰れ。帰らないとぶつよ」
「巫女らしからぬ言動だな」
手を振り上げるリオンに驚いた迷い人は飛び上がって後ずさりし、おどおどと様子を窺っていたが落ち着いたのかふらふらと下山していった。
その後ろ姿はすぐに濃霧にかき消され、後にはリオンと賢者だけが残った。
「鞘の巫女よ、ありがとう。だがまあ、封印の発動に至るまでの時間は……及第点といったところだな」
「ふんだ。3月15日だっけ? それまでには使いこなせるように頑張るわよ」
「頼むよ。さあ、君ももう戻るがいい。特別に私が送ってやろう」
「ん? でも封印が反魔法で無に帰す力のことなら、なんでアスカリヒトは何度も復活しているのかしら?」
振り返った先には既に賢者はいなかった。
視界が完全に霧で覆われ、そしてリオンは目覚めた。




