鞘の巫女 6
抜け駆けに気づいた時には既に外門は突破された後だった。
物見役の報告を受けたティムリートは飛び起きて天幕を出た。
青空に黒煙が立ち昇り微かな怒声が聞こえてくる。
朝露を踏みしめる足に力がこもり、駆け出した先は軍議用の陣幕だった。
「ブランク!」
ブランクは名前を叫ばれても机の上に広げられた帝都の俯瞰図を見つめたままだった。
その落ち着き払った様子がティムリートに全てを理解させた。
彼が猛獣たちを解き放ったのだ。
革命にかこつけて、暴れたいだけ、襲いたいだけ、略奪したいだけの哀れな猛獣たちを。
「お前……なんてことをしてくれたんだ……!」
詰め寄られて肩を押されたブランクはティムリートの手を振り払ってようやく目を見る。
「これで良かったんだティムリート。あんたは大きな勘違いをしている」
「なんだと?」
釈明ではなく逆に非難を受けたティムリートは目を白黒させる。
ティムリートに向き直ったブランクが腕組みをすると浅黒い筋肉が盛り上がり血管が浮いた。
まるで威圧しているかのような態度だ。
睨みつけるとブランクはゆっくりと瞬きをしつつ、悪意はなかったと言わんばかりに腕組みを解いて両の掌を見せた。
「なあティムリート。組織の頭だけ潰せぁいいだなんてのは、もう通用しねえんだよ。いいか、俺たちはてっきり西側の連中は徹底抗戦するかと思ってた。ここが終わったら次はあいつらだって。なのにどうだ、とっとと尻尾巻いて腹見せてきやがったもんだ。てことはだぜ、これが最後の戦いになるわけだろう? なのに皇帝だけ倒して、はいおしまいってなあ、そんなんで誰が納得するんだ。テルシェデントで逃げる兵たちを追わなかったのは次があるって分かってたからなんだぜ。だけどこれで最後なら、新しい時代を作るには、いらねえもんはここで全部処分しておかなきゃならねえんだよ。そうだろう?」
「それを決めるのはお前じゃない……」
「そうだ、だから俺たちで決めた。民意は聞いておくもんだぜ、皇帝陛下」
ティムリートは歯噛みした。
雑兵たちが無用の略奪をする恐れがあることは危惧していた。
だが付き合いの古いブランクなら、武力で彼らに一目置かれていることもあり絶対に抑える側に回ってくれると思っていた。
なのに同調して乱取りを推奨するだなんてどうして予想が出来るだろうか。
「皇帝といやあ第一、今の皇帝は昨日即位したばっかだろ。そんな無関係な奴一人に全ての罪を被せるって? 無理がある。そんなんで皆の心の傷が癒されるわけがねえ」
「バンクリフ殿だぞ。諸国にも名の知られた偉人だ。大局を見ておられるんだ。この国の行く末を憂いている。責任を一手に担ってくれようとしている! それがお前には分からんのか! 心の傷を言えば……何もかもが許されると思うなよ!」
「大将が敵の賛美かよ。みんなが聞いたらどう思うだろうな」
板挟みだ。
ティムリートは貴族である。
だが貧民たちと長年共に暮らしていたのでどちらの言い分も分かる。
うまく取りまとめることが出来なかったのは誰のせいでもなく力量不足だったと認めるしかない。
だがそこへ思わぬ助太刀が来た。
陣幕を分け無言で入って来たのはロブだった。
手には大穂の槍を持ち戦闘準備は既に整えられている。
外で話を聞いていたのか、その眉間には静かな怒りがにじんでいた。
「なんだよロブ……準備万端じゃないか」
「暴動が始まった時から待機しているからな」
「なっ!? 軍曹……知っていたのか!? 知っていて……止めなかったのか!?」
「見ろよティムリート、これが答えだぜ」
「違う。お前が奴らを抑えると、俺と約束したからだ、ブランク」
勝ち誇った顔のブランクが硬直した。
「ブランク、奴らは今、外門を突破して略奪に走っているぞ。避難していなかった住民の虐殺も行われているようだ。それなのに何故、お前はここにいる?」
「約束って。……おいおいロブ、あんた、俺を試したのか? 人の命を賭けて」
「お前を信じた。それだけだ」
失明しているはずのロブの視線に射抜かれてブランクは狼狽した。
自分を信じている、そうは言ったがロブの恰好は明らかに自分の言葉を疑って早朝から備えていたもののそれだ。
自責の念を与えるために軍規違反を見逃して敵方の非戦闘員の命を見捨てたということか。
そう考えるとブランクはロブが一番非道なのではないかと思った。
「軍曹……頼む、今すぐに出撃して奴らを止めてくれ。負の連鎖を止めてくれ!」
「そのつもりだ」
ロブは冷たく言い放つとブランクに詰め寄った。
ブランクは無意識に後ずさりをしてしまうが目の前にロブが立ったことで動けなくなってしまう。
ロブの内側から得体の知れない気配を感じブランクは殺されるのではないかと脂汗を浮かべた。
確かに裏切るような形になってしまったがブランクはブランクなりに後の治政を見据えて動いたつもりであり、その自負が唯一ブランクを奮い立たせていた。
「ブランク、お前が安易に人々の心を扇動したおかげで落としどころが必要になってしまった。団結しなくてはならない、この瀬戸際にだ。早急に事態を収拾する。よく見ておけ」
「見ておけって……何するつもりだよ」
「結局、人に言う事を聞かせるには恐怖で縛るのが手っ取り早いということだ。その役目、俺が引き受けよう」
ロブの全身から禍々しい殺気が放たれた。
それは魔力の解放であったが、魔法の使えないブランクやティムリートでさえも全身が粟立つのを覚えるほどだった。
「ブランク・エインカヴニ……。軍令違反だ。貴様の愚行により大局が損なわれ、罪は今この瞬間も加算されている。これがお前の選択だ」
「軍曹……!」
「償え。この国を本当に憂慮するなら。新時代の幕開けに、いらないものは皆処分しなくてはならないのなら。お前の違反は後のティムリートの治政に影を落とす前例となる。あの壁の向こうで罪を重ねる者たちに罪を問うなというのなら、お前がその罪を一手に引き受けるんだ」
「待て軍曹! 待つんだ!」
ブランクが殺される。
庇いたくも動けないティムリートが叫び、ブランクはついに尻もちをついた。
自分を見下ろしているのは悪魔か。
叫びたくなる衝動が喉の下まで迫った時、殺意はすっと和らぐのだった。
「出来ないだろう。だがバンクリフ・ヘジンボサムが今やっているのがそれだ。分かったか」
そういうと返事を待たずに踵を返すロブ。
自分が事態の収拾を引き受けると言っていたが、つまり単身で帝都に乗り込むということか。
確かにロブは最強の兵士と呼ばれるだけあって強いが敵にはまだ最新式の装備を持った兵士がごまんといるし、化身装甲や装甲義肢もいる。
それに立ち向かった場合、下手をすると蛇神の分身の呪いというものがまた解放されてしまうのではないか。
テルシェデントでそれが起こった時、ロブは大賢老に助けられたと言った。
だが今は大賢老の加護は期待できないらしい。
そんな状態でいずれ革命が成功した後の政治の中枢を消えない炎で焼き尽くすわけにはいかない。
ティムリートはようやく一歩だけ前に踏み出せた。
「ま、まて軍曹! お前の力もまた後に大きな爪痕を残すじゃないか! ジウの大賢老はまだ目覚めていないんだろう?」
「ああ。だが……当てはある」
ロブは槍を振るい陣幕を切り捨てた。
幕が地に落ちると外には防塵面を被った異相の二人と影の薄い男が立っていた。
ザッカレア商隊の社長ウィリー・ザッカレアとその社員たちである。
ウィリーはロブが頷くと馬にまたがって何処かへ駆けていき、防塵面の男女は軽く靭帯を伸ばした。
「戦争の狂気を知らん者たちに本当の地獄を教えてやろう」
最強の男ロブ・ハースト。
胡桃頭ダグ。
戦闘救護人ビビ。
対するは帝都ゾア守備隊及び解放戦線暴徒という、三対数万の無謀な戦争が始まろうとしていた。




