鞘の巫女 3
アシンダルの目の前にいるサネス少佐は戦女神と評されたエイファ・サネスではない。
双子の妹のニファ・サネスだ。
昔は髪形を変えていたし性格も違っていたので判別は可能だったが今は姉の髪型にして振る舞いも良く似せているので騙される者も多いだろう。
だがそもそもアシンダルは本物のエイファが既に死んでいることを知っているのだ。
退役の日に会った時にはまだニファはこんなではなかった。
あれから十年、復帰してきたらどういうわけかこんなことになっている。
始めは国家の方針に徹しようとしているのかと思って黙っていたがどうやらそういうわけでもないらしい。
最愛の姉を失った心の喪失を自身が姉に成りきることで埋めようとしているのかといえばそれも違うようで、人間にはあまり興味がないシンダルでさえもいずれ口を挟まねばならないと思っていたところだった。
ならば抗議のために敢えて仰々しく演じているのか。
確かに公式では死亡したのはニファのほうになっている。
それは国威掲揚のためであり、一等兵が英雄になるより士官が英雄になったほうが耳当たりが良いからだ。
殉職を美談にすることも考えられたが健在であるとしていたほうが抑止力になり、これに対して人権を唱えたいというのであればその気持ちは充分に理解出来た。
だがその仮定さえ正解でない気がする。
いずれにせよアシンダルは嘘をつかれる謂れはない。
明らかにニファの行動は常軌を逸している。
博士は化身装甲の生みの親として操縦者の精神状態によっては搭乗を禁止する権限を持っており、今は先のテルシェデントのように皇帝の勅命もなく緊急性もないのでニファの要請は退けられて当然だった。
「ねえニファくん、君が頑張ってお姉さんになりきろうとしているのはよく分かるよ。でもさ、きみは敢えて違和感を残しているよね。それはわざとでしょ?」
「仰っている意味が……よく分かりません、閣下」
「ほら、それだよ。ぼくはもう中将じゃないもん。ピークくんだって准尉だしさ。これ、何度も訂正しているよね? でも君は頑なに直そうとしない。お姉さんのふりをするにはこれは致命的な過誤だって、ぼくは思うんだよね」
「…………」
「だから悪いけど君の装甲は直さない。お姉さんの装甲も君用に調整したりしない。ぼくにだって技術者の誇りがある。心神喪失状態の君を見て見ぬ振りしてぼくの作ったものに乗せるなんて、ぼくには出来ないね」
「……閣下。ニファは妹です」
「だからそれが」
「死んだのは私であるべきだから!」
急に叫んだことで誰もいない周囲が一層静かに感じられた。
口元を戦慄かせながら、瞳孔は見開かれている。
「だから私はいなくなったじゃないですか……!」
「……なんにせよ今の君は腕の断面の縫合を終えたばかりだから。そんな状態で装甲に乗ったら膨張圧で傷口から中身が引っ張り出されちゃうよ。一番怖いのは癒着だ。装甲の内壁と君自身が癒着したら君は二度と元通りにはなれない」
「覚悟の上です」
「だったらその覚悟はいざって時に取っておきなさい。さっきも言ったでしょ。解放戦線は近いうちに必ずこの帝都に攻め上ってくる。ハースト軍曹と戦いたいなら、今は我慢するんだ」
「…………」
「ねえサネスくん、何が君をそうさせたんだい?」
「…………待機いたします」
「そっか。…………了解」
よろよろと検査室に戻っていくニファ。
アシンダルはその背を見送ったあと再びピーク准尉の調書に目を落としたが、溜め息をつくと調書を置いてお茶にすることにした。
城下は荒廃していた。
国家の代表たる皇帝が逃げてしまったのだから当然市民に規律を守る道理はなく終末思想が溢れていた。
逃げる者はついでに乱暴狼藉を働き、行き場のない者は残り少ない人生を楽しもうと本能のままに狂乱に耽る。
正常な頭で過去を思い出せる者はかつての栄華との落差に目を覆いたくなるだろう。
路上に座り込み、化粧をした顔で女物の服を着て酒盛りをする男たち。
裸で往来を飛び跳ねる男女。
大声で歌いながら鍋を家に叩きつける女性。
ピークはその者たちの前に立って大喝した。
「お前たち! 自暴自棄になるな! この帝都ゾアは堅牢だ。無法者の集団になど決して落とされはしない!」
「なんだあいつ」
一応認識はされるがその程度で己を律しようとする者などいるわけがない。
憲兵ではないとはいえ兵士相手でも市民のふざけた態度は変わらない。
それもその筈だった。
何故なら兵士も一緒になって堕落しているからである。
人々は面白がってピークを囲んだ。
装甲義肢が一般人の目に触れる機会は滅多にない。
風変わりな鎧を着た兵士がやってきて大声を出した程度の反応にピークは悲しくなる。
兵士とは畏敬の対象だったはずだ。
「こいつは軍事行列で見たことあるぞ。化身装甲ってやつだ」
「化身装甲? 秘密兵器とかいう、あれか? なんで今更こんなところにいるんだ?」
「敵を倒して来いよ、俺たちに威張り散らすのはその後でも出来るさ」
「そうよそうよ! 私たちは放っておいて!」
そういって手を繋ぎピークを囲んで踊りだす人々。
不敬を咎めても意味はなかった。
これからもずっと続くと信じて疑わなかった日常が壊れ、いつ敵意と殺意を持った集団に襲われるか分からない恐怖に抗うにはふざけるしかないのである。
実感を拭わんとして考えることを放棄した者たちに、いったいどのような言葉をかければ希望を持たせてやれるだろう。
「かえれ、かえれ、ぜいきんどろぼう!」
「帝国は滅びない。諦めてはいけない。平和な明日を取り戻した後に恥をかくのは自分だぞ」
「だったら明日を今見せろ、さあ!」
言葉は響くことはなく、行動を指し示すことも出来ない。
示威行動に出れば規律は取り戻せると思っていたピークが浅はかだった。
嘲笑を背に受けながらその場を後にする義肢使い。
どうすれば正解なのだろうかと悔やんだ時、思い浮かんだのは何故か無能で無鉄砲な今は亡き上司の困り顔だった。