鞘の巫女
ゴドリック帝国ではランテヴィア解放戦線が快進撃を繰り広げていた。
テルシェデントの陥落から数日でバエシュ領は解放戦線の手に落ち、中央の帝都領東部も接収する働きを見せた。
東北エキトワ領は列強の監視を理由に静観の構えを見せたがそれは事実上の降伏宣言だ。
あとは西海岸へ派兵した別動隊が中央の兵力を分散させることに成功すれば帝都への道は拓けることとなる。
しかし予想だにしなかったことが起きた。
皇帝ブロキスが突如姿を消してしまったという噂が流れ始めたのだ。
帝都では親ブロキス派の臣下が僅かに残るのみとなり軍部も分裂しているという。
いつの間にか革命の成功は約束されたものとなってしまっていたのだ。
ティムリートは喜ばなかった。
むしろ焦燥した。
これが誤報でなかったとしたら膨れ上がった人々の気勢はどこへぶつければいい。
敵首魁の血で勝利を彩ってこそ目的は完遂するというのに、このままでは勢い余った者どもが暴徒となり無用の蹂躙を始めてしまうだろう。
暗澹たる気持ちで領境を越えたティムリートに帝都から使者が訪れる。
使者は帝都諜報部ヘイデン独立大隊の人間だった。
降伏宣言かと思いきや協力者だと名乗る使者。
その口から発せられたのは帝都内と西海岸の動向だった。
ブロキスが帝位を離れたというのは本当だった。
後釜は既に決まっており白羽の矢が立ったのは旧リンドナル王家のヘジンボサムだった。
領主トゥルグト・ヘジンボサムはブロキスの下命を一蹴したが先代バンクリフが呼応してしまったらしい。
王家復興の野望に燃える父を止めるため、トゥルグト率いるリンドナル領は解放戦線の側に立ち挙兵する準備を進めているとのことだ。
この情報は他の諜報員によって西海岸の都市にももたらされる。
ならば、かねてブロキス政権とリンドナル領の親密な関係を快く思っていなかった貴族たちも危機感を覚え先帝ゴドリックの縁戚であるブランバエシュ家を擁立せんと立ち上がるだろう。
今後どう処理するか課題であった地域がこぞって同調の動きを見せているという報告にブランクは興奮して同志たちと共に鬨の声をあげた。
ただ、ティムリートだけは不安に飲まれそうになっていた。
諜報部はブロキスの懐刀だ。
ショズ・ヘイデンは帝政の右腕と言っても過言ではない存在だったはずだ。
それらが自分たちの都合の良い結果をもたらしてくれる。
追い打ちをかけるように。
これは受け入れてはならない。
分かってはいるがもう体制は整ってしまっていた。
ティムリートとヘイデンの個人的な因縁を知っているはずのブランクでさえとんとん拍子で運ばれてくる慶事に浮足立ってしまっている状況に、どうやって冷水をかけることが出来るだろう。
ここで一人異を唱えた所で最早群集を止めることが出来ないのは明白だった。
これが奴の戦い方か。
ヘイデンはヘジンボサム家に持たれていた負の心象をバンクリフが一手に引き受けて誅されることでヘジンボサム家を残してやる舞台を用意した。
同時に西側の富裕層には貴族の起死回生の好機を与えた。
時代に置いて行かれていることを薄々感じ取っている彼らにとって、時の政権にいち早く恭順することは自分の利益を守る上で最も大切なことだった。
ただしこれらの思惑は解放戦線の理念とは真逆に位置するものである。
解放戦線の主な構成員は低所得者層の市民だ。
既得利権を解体し新しい国家を作る事が目的だった。
彼らには自分たちを軽んじて静観していてもらうことが何よりの協力だったと言えるし、実際にそうなるように仕向けていたというのに。
これではいずれ意見の食い違いにより衝突することは火を見るより明らかだった。
やられた。
ティムリートは歯噛みする。
ヘイデンの目的は国家の防衛ではなく破壊だったのだ。
次の為政者が最も困難な状況に陥るように、協力に見せかけた罠は確実にティムリートの足を捕らえていた。
一方、帝都ゾアのエセンドラ城では。
僅かに残った臣下たちが新皇帝即位の準備を進めていた。
城下はもちろん城内でも多くの人々が帝都が戦場になることを予見し、諜報部が取り付けた西海岸との縁故を頼って逃げ出している。
この時分に残る臣下など時勢が読めず逃げる当てもない小物ばかりだった。
花火が鳴り戴冠式が執り行われる。
流石に簡略化したものとなっており国民へのお披露目はないようだがなんとも末期感のある悲愴な式典だ。
ビクトル・ピーク准尉は技術部の機械課にてその音を聞いていた。
目の前では猫背の老人が准尉の装甲義肢をいじっている。
「始まりましたね」
「うん? ああ、始まったの」
「現実を受け入れられない者たちに担がれて、偽りの皇帝の誕生です。敵はもうそこまで迫ってきているというのに。毎晩毎晩、宴、宴……。挙句の果てには戴冠式ときたもんだ」
「逃げるに逃げられない人もいるからねえ。一概に非難しちゃいけないよ」
「技師たちは皆逃げたんですか?」
「うん。昨日ね、解散したの。みんなは西側に知り合いとかいるみたいだし、いつ逃げられなくなるか分からないからね」
「あなたはどうするおつもりですか、博士」
「僕はここに残るよ。何年もかけてこの研究所をやりやすいように改築したんだもの。予算だってまだ使い切ってないもんね」
「ふっ、まあ博士の頭脳があれば何処でも引く手あまたでしょうしね」
老人は名をトルゴ・アシンダルといった。
かつては中将にまで上り詰めた天才技師だが皇帝への反逆が理由で投獄されてしまい、表舞台から退いていた。
だがそれはブロキス帝に重宝されることで他者の不興を買ってしまったからでありブロキスは彼の貴重な命を守るために敢えて罪を着せて失脚させたに過ぎない。
その後アシンダルはひっそりと復帰し、技術顧問という形で再び現場に返り咲いていた。
もともと官位に興味のなかったアシンダルは自由に機械いじりが出来る境遇となって以前よりも活き活きと働くようになった。
数多くの兵器は前線で役に立ち、ラーヴァリエが誇る難攻不落の要塞であるイムリントを落とすことが出来たのもブロキス帝が前線に立ったおかげだけではなかった。
そのアシンダルがとある設計書を用いて作った異色の兵器が化身装甲および装甲義肢である。
だがこれらははっきり言って失敗作だった。
個としての攻撃力が強大すぎて味方にまで被害が及ぶため連携が出来ない。
万夫不当の豪傑が一騎打ちをする時代でもあるまいし、近代の戦争においては無用の長物だった。
強力な力が使いたいのなら大砲でいい。
それでも話題性だけはあり、かつては皇帝の命を救ったという逸話もあってその神話性を崩さないように今は細々と運用されていた。