時が満ちる前に 7
ジウの大樹の亀裂から外に出たリオンとルビクはオタルバが寝所から出てこないか用心しつつ昼間のリオンの隠れ家まで来た。
人の目には分からないが大樹とその周囲に広がる森の間には睡眠魔法が張り巡らされておりそれに触れてしまったら最後、外部から衝撃でも与えられなければ一生眠り続けることになってしまう。
誰にも気づかれずにリオンたちが外に出るにはその魔法をどうにかしなくてはならなかった。
そこでルビクが思いついたのが反魔法という突破口だった。
発動した魔法には魔力の流れの向きがあり、それと同じ方向か真逆の方向に同じだけの魔力を流すと調和させたり相殺したりできる。
それが反魔法と呼ばれる打ち消し魔法の正体だ。
睡眠魔法の使い手である慈愛のイェメトは大賢老の右腕である。
彼女はジウの大樹の頂に住み、睡眠魔法で昼夜ジウを守る底知れない魔力を持った高位の魔法使いだった。
イェメトは山羊のような瞳と三対の乳房を持つ妖艶な美女だ。
情交をこなよく愛し、呼気や汗、粘液には色欲を促す催淫性がある。
その正体は太古から生きる精隷と呼ばれる人に似た怪異だ。
また両親のいないリオンの育ての親でもあった。
幼い頃から傍にいて且つ魔力を視認できるリオンはイェメトの魔法の弱点を知っていた。
いくら高位の魔法使いであっても永続的に魔法を発動させ続けるのは無理があるので工夫を凝らして魔力の消費を極力抑えていた。
壁のように思われがちのイェメトの睡眠魔法は実際は侵入される恐れの少ない上部に行けば行くほど薄くなっている。
そして地上では魔力の濃い場所と薄い場所があった。
それはまるで椀上に繰り出された蜘蛛の巣だ。
魔力の濃い場所に触れた侵入者はすぐさま眠りにいざなわれるが、薄い場所はいわば警報器のような役割を担っている。
何かが触れたと感知した瞬間イェメトはそこに睡眠魔法を向ける。
鉄壁と思われる魔法だがイェメト自身の生活様式で大きな穴が生じていることをリオンだけが知っていた。
「まだ早いかな。でももう少ししたらイェメトは注意力が散漫になるよ。だから自分の魔法にちょっとした揺らぎが生じても気づかないと思う」
「反魔法ってうまくやっても気づかれる可能性があるんだ?」
「当たり前だよ。ね、私を連れてきて良かったでしょ?」
「う、うん。本当にね。魔力の向きを聞いただけじゃ駄目だったわけか。でも、なんでもう少ししたら大丈夫になるんだ? イェメトって寝ないんじゃなかったっけ?」
「治療の時間みたいだよ」
「治療?」
「深夜の前の時間はね、私もイェメトの部屋に入れてもらえないの。だから聞き耳立ててみたことがあるんだけど、中からシュビナの苦しそうな声が聞こえたんだ。シュビナに聞いたらさ、眠れなくて悩んでてイェメトに治療してもらってるんだって。でもさぁほぼ毎日だよ? あのイェメトがずっと治療しなきゃいけないなんて相当深刻だよね」
「あ。……へえ、毎日……」
「うん。だから間違いないよ。その時間なら魔力の薄い部分だったら反魔法を当ててもたぶん気が付かないし、ルビクだってそんなに魔力がないんだから都合がいいでしょ?」
「毎日……か」
「可哀そうだよね。でも結構眠れなくて困ってる人って多いみたいよ。昼間も結構みんなイェメトに診て貰ってるみたいだし」
「……そうなんだ」
「ルーテルもよく診てもらってるみたいだよ」
「そっか、その話はもういいや」
なんとなく察したルビクは会話を打ち切り、暫くするとその時が訪れた。
「あ、質が変わった」
「了解!」
ルビクがリオンの手を握ると二人に流れる魔力の向きが変わった。
イェメトの魔力の流れと同じ向きになったことを確認したリオンが合図を出して走りだす。
二人はすんなりとイェメトの魔法を突破した。
ばれるんじゃないかとの心配から息を止めていた二人は緊張から解放されどちらともなく息を吐きだして笑いあった。
「成功した!」
「あたしのおかげでしょ?」
「本当にね。ありがとう」
「ま、まあ、ルビクもすごいと思うよ。いくら魔力の薄い部分とはいえイェメトの魔力と同じ量の魔力を流せるんだもの。自在に使いこなすことは出来ないんじゃなかったっけ?」
「いざってときにはやる奴なんだよ、僕は」
「普段はぜんぜんだけどね!」
「…………」
「で、いつまで握ってるの?」
「あっごめん」
手を繋いだままだったことを思い出したルビクは慌ててリオンの手を離した。
気恥ずかしさもさることながら、自然体の魔力の流れを意図的に変えることは体に負荷をかけてしまうのだ。
僅かな時間だったので大丈夫だったが流れを変えられた魔力は無意識に反発して元の流れに戻ろうとする。
そうなれば気脈を見守る大賢老に察知される恐れもあった。
「さてと、じゃあ探しましょ。焚き火をしているなら分かりやすいよね」
「とは言ってもアルマーナ島は大きいからなあ。今日見つけられればいいんだけど」
「あなたが言い出したことじゃない。なんでもう弱気になってるのよ」
「帰る時間も考慮しないとねってこと。とりあえず島の東側に重点をあてようか」
歩き出した先に広がる新月の森は真っ暗闇だった。
進むたびに不安が募っていく。
アルマーナ島には肉食の野生動物はいないが毒を持つ虫などはいる。
危険と恐怖にようやく気が付いた二人は自然と再び手を握り合っていた。
「……ここへ来てから君とか皆とかの話を聞いていて分かったことがあるんだ」
二人は心を奮い立たせるためによく会話した。
侵入者が近くにいたなら感づかれてしまうだろうがそんなことは言っていられないほど夜の森は怖い。
ルビクはあまり怖がっている節はなかったが語り掛けるのはリオンの心情を慮ってのことだ。
あれだけ焦がれた外出を後悔しつつあるリオンにルビクは常に声をかけて励ましていた。
「なに? 分かったことって……」
「大賢老が魔力を辿れる範囲だよ。君が大樹の外に出ると誰かが探すだろう? 大賢老が魔力を見れば君の居場所なんてすぐに分かるだろうに」
ルビクの言葉にリオンは首を傾げた。
確かに、自分が脱走するとたいてい捕まえに来るのはラグ・レだが、たまに見当違いのところを探して捕獲に時間がかかったりする時がある。
ラグ・レは大賢老の声を聞くことが出来ないのでオタルバかイェメトからのまた聞きでリオンを探すわけだが最初の居場所くらいは特定できているはずだろう。
にも関わらず異なった場所から探し始めることがあるということは大賢老はリオンの魔力の場所をラグ・レに伝えていないことになる。
今日の昼間も大樹の枝にいたリオンに対しラグ・レは「こんなところにいたのか」と言った。
だがリオンはオタルバとの押し問答に負けた後は一目散にその枝に行ったので居場所を転々とさせたわけではない。
そして、その後リオンは大樹の根の隙間に逃げ込んだのだがラグ・レは追ってこなかった。
大樹の外皮周りにはリオンの隠れ家がたくさんあることも、大賢老がリオンの居場所を特定できないことの証左と言えるのかもしれなかった。
「つまり大賢老の魔力を視認する力も絶対じゃない。千年を生きる大魔導士だなんて言われている大賢老でもその程度なんだ」
ルビクは振り返りリオンを見た。
「でも君は違う」
「そ、そうかな」
「そうだよ。僅か十三歳ですでに魔力を見ることが出来る。イェメトの魔法を破る目を持っている。これって凄いことだよ」
手を握られつつ目をしっかりと見て褒められてリオンは照れた。
体がむずかゆくてどういう顔をして良いのか分からず頭を掻くリオンの姿を見てルビクは笑った。
だがすぐに悲しそうな顔をする。
その表情の変化にリオンは不思議そうにルビクを見つめた。
「それなのに、なんで君ばっかり辛い目に合うんだろう」
「えっ?」
「皆は君を守りたいからジウの外に出さないなんて言っているけどさ、絶対嘘だよ。要は嫉妬しているんだ。自分たちがどれだけ修行を積んでも辿り着けていない境地に君はもういるんだから」
ルビクの言葉にリオンの鼓動が高鳴った。
「そう……かな?」
「そうさ。僕は分かるんだ」
なんだかルビクが格好良く見えてきたリオンだった。
新月の森の中、うっすらと吹いた風が木々を揺らした。