誰が為の力 6
それは巨大な蛇だった。
白い塔のように天を衝いてそびえる体躯には時折古代文字の羅列が青く浮かび上がっていた。
憎悪の熱が空を歪ませ陽炎が翼の如く翻る。
静かに降り注ぐ火の粉が触れたもの全てを焼いていった。
蛇神アスカリヒト。
神代から息づく荒振神にして死を司る精隷である。
先代巫女の封印の効力は残り僅か。
宿主であるブロキスを蘇生せんと現れたそれは未だ夢うつつの中にあった。
それでも人々が打ちひしがれるには十分すぎるほどの衝撃だった。
アスカリヒトの姿はエンスパリの住民のみならず周辺の都市の民の目にも届いた。
白昼に現れた蛇の姿を見た人々は膝を着き涙を流して祈りを捧げたという。
奇しくもラーヴァリエ信教の唯一神が現世に蛇の姿で現れるとされる事が信者たちに誤解を与えたのだ。
今、我らは神の奇跡を見た。
主と見紛うほどに邪神は神々しかった。
死闘の最中にあった衛兵たちですら見惚れてしまうほどの崇高。
しかし蛇神の化身は待ってなどくれない。
攻撃の手の止んだ殿があっという間に崩される。
我に返ったアルカラストが光の矢で分身たちの足を狙い転倒させた。
すぐに再生するため立ち止まっている暇などない。
聖堂を出ると中に入ってこようとしていた別の集団と鉢合わせた。
集団の中にはリオンにも見覚えのある白髪の紳士がいた。
空間転移の魔法使い・サイラスだ。
彼はルビクに命を受けた衛兵に要請され駆け付けた。
サイラスの登場をアルカラストが興奮ぎみに歓迎した。
「教皇様! 皆様! 不肖サイラス、馳せ参じました!」
「おお、転移の魔導師よ! 一刻も早く教皇様を安全な場所へ!」
「アルカラスト様! 橋を落としましょう! 空間転移が発動するまで時間を稼げます!」
「妙案です! さあ急いで!」
アルカラストが先行して走っていった。
後ろでは衛兵たちが次々と分身によって殺されていく。
魔法人形たちと違うのは彼らが断末魔の悲鳴をあげるという点だ。
彼らの最期の言葉がリオンの背中に鎖を伴う楔のように打ち付けられていった。
大聖堂は巨大な堀に囲まれている。
町へと続く長い長い橋を一団が走り抜ける。
いち早く橋を渡り終えたアルカラストが振り返り特大な魔法を唱え始めた。
神官たちがアルカラストの脇を通り過ぎ、ルビクとリオン、エーリカを担いだ衛兵たちが到達したところで全力の魔法が放たれた。
光が石畳を穿ち橋が崩壊していく。
衝撃でリオンは転んだ。
すぐに起き上がろうとしたがその必要はなかった。
橋は見事になくなり蛇神の分身たちが足踏みする様が見えたからだ。
分断成功。
すぐさまサイラスが転移魔法を唱え始めた。
神官たちはアルカラストに喝采を送る。
その中でリオンは橋の向こう岸から目を逸らせずにいた。
殿を務めていた衛兵たちの一部が取り残されていた。
全員が渡り切るまで待っていたら分身もこちら側に来てしまうからという判断だろう。
土煙舞い上がる橋の先で衛兵たちの悲痛な叫び声が一つ、また一つと消えていく。
最後の一人を見送ったリオンは項垂れて涙をこぼした。
「リオン……」
「巫女の力さえあればこんなことにはならないのかな」
「……考えても仕方がないよ。時期が来なければ得られないんだから」
「…………」
「リオン、これから僕たちはアーバイン家に避難するよ。君だけが場所を知らない。さあ僕の目を見て。記憶を渡すから……」
「来ます」
「なに?」
エーリカが目覚めていた。
伏したまま脂汗の浮かぶ蒼白の顔で見据えるのは蛇神の化身。
亡骸で遊ぶ二体に、崖から身を乗り出して堀を覗く一体。
そしてもう一体は明らかにこちらに向かって跳躍しようと試みていた。
「まさか」
人間ならば絶対に飛び越えることなど出来ない距離だ。
しかし蛇神に人間の常識など当てはまるだろうか。
ルビクが身震いして冷や汗を拭う。
エーリカがぽつりと呟いた。
「ルビク様、私に魔法をかけてくださいませんか」
「エーリカ?」
ルビクの催眠魔法など今はなんの役にも立たないだろうに。
エーリカは意識が混濁しているのだろうか。
リオンの顔を見ない。
ルビクはエーリカの策に気づいた。
「!? そうか……その手があった!」
「どういうこと?」
ルビクは希望を取り戻した瞳で大きくリオンに頷くとエーリカと目を合わせた。
二人の瞳が赤く共鳴した。
「いいかいエーリカ。君は今から最強となる。君の腕力は蛇神の分身たちを圧倒し、君は誰にも倒されることがない。君はこの瞬間、全ての頂点に立つんだ!」
どくん、とエーリカの体が震える。
「……え?」
「おお……おおお……うおおおおお!」
エーリカの全身の筋肉が更に肥大し血管と神経が浮き上がる。
興奮か負荷か、目が充血し鼻血が流れた。
明らかな状態異常にリオンは混乱した。
いったい何が始まろうとしているのか。
エーリカが立ち上がり、動いた。
リオンの制止も聞かず飛んだエーリカの先に同じく跳躍した蛇神の分身が見える。
分身の跳躍は悠々堀を渡ってこれるほどであった。
中空でエーリカが体当たりさえしていなければ。
「エーリカ! 嘘でしょ!?」
リオンの大声にアルカラストたちも異変に気付いた。
向こう岸で邪神の分身を組み伏せ頭を叩き潰すエーリカ。
残りの分身たちが方々から襲い掛かったがエーリカは瞬く間に蹴散らしてしまった。
どこにそんな力が残っていたというのか。
いや、分かっている。
あれはルビクの催眠魔法で身体能力の限界を引き出しているだけだ。
効果が切れた時の反動は推して知るべしだろう。
既に粉骨砕身の彼女が残りかすの魔力さえ出し切ってしまったら後に待つものは考えるまでもない。
死だ。
「何をやってるの、エーリカ! 戻ってきて!」
妙な胸騒ぎがする。
リオンとエーリカは暫く見つめ合った。
エーリカの背後では倒したばかりの蛇神の分身たちがもう蘇りかけている。
肩で息をしていたエーリカは一度大きく深呼吸すると晴れ渡る青空のような笑顔を見せた。
「リオン様! 私ね……もう無理みたいです!」
それは薄々感づいていた応えだった。
「普通なら治癒魔法で元通りなんですけど! ずっと! ずっと体があっつくて!」
黒炎を浴び、煙を吸い、エーリカの体は内部から溶けていた。
「だから私、ここで時間稼ぎしますね!」
倒しても倒しても再生する蛇神の分身たちを足止めするためにエーリカは飛んだのだ。
そして自分自身が、いつ蛇神の分身となり果ててもいいように。
その時。
突如として両肩を強い力で掴まれたリオンが空に飛んだ。
遥か上空から滑空しリオンを空に連れた存在とは。
見上げるとそこには逆光に照らされた翼が見えた。




