楽園 9
深夜、リオンは再びエーリカの元へ行く。
二日後には贖罪も終わる。
しかし明日にはもうリオンはここにいない。
その事を話すとエーリカも困った顔をした。
エーリカの話ではアーバイン家というのはラーヴァリエ屈指の名族だという。
またの名を北方守護家といい神聖大陸の北側を治める大貴族とのことだ。
リオンがいきなりの好待遇を受け、集会では群集が熱狂していた理由が分かった。
ラーヴァリエにとってリオンは蛇神を倒せる英雄であり自国の誇りという位置づけだったのだ。
リオンは反発した。
説明もなくそんな扱いをされたところでラーヴァリエのために戦うつもりなど毛頭ない。
それでいい、とエーリカも賛同する。
ラーヴァリエは信仰の大義名分を確立させるために敵と救世主の存在が欲しいだけなのだから。
「エーリカ。どうしても贖罪が終わるのを待たないと駄目? わたしアーバイン家なんか行きたくない。私の家族はジウのみんなだもん。急に本当の家族だなんて言われても……意味わかんない」
「リオン様……それなんですが、逆に上手く事が運ぶかもしれません」
「えっ?」
「北方守護領に入るまでは従順なふりをして、そこから船に乗って逃げれば良いんですよ」
「ジウに帰れるの?」
「一番可能性が高いです。とはいっても北方守護領の港は国内線かアシュバル航路しかないんですけどね。でも外洋船が出ている一番近い港町で乗り継げば、ここから陸路で外洋船が出ている港町に行くよりたぶん安全です」
「そうなの?」
「船は途中に関所がありませんから。陸路だったらここから外洋船の出ている町まで馬車で一週間くらいでしょうが……追手が必ず関所に報せを遣わすでしょうからもっと時間がかかると思います。でも北方守護領から船に乗ってしまえば途中で捕まることがありません。降りる港で待ち構えられているでしょうが撒く手立てならいくらでもあります」
「その場合は何日かかるの?」
「同じく一週間ほどでしょうか」
「えっ!? どの道そんなにかかるの?」
「リオン様はジウで育ったからご理解なさるのはなかなか難しいでしょうけどラーヴァリエはとても広いんですよ」
「びゅーんって一気に帰れたらいいのになぁ。……あの髭の人にお願い出来ないかな」
「サイラスのことですか? 十中八九味方にはなってくれませんよ。彼は教皇から寵愛を受けていますから」
「そっかあ」
「とりあえずリオン様は北方守護領に行くことに従ってください。私も贖罪が終わったら向かいます。向こうで合流したら港を目指し、そこからこの国を脱出しましょう。問題は船の手配ですが……今周辺海域でモサンメディシュという国とダルナレア共和国という国が交戦中なので民間船の運航が禁止されているんですよね」
「だめじゃん!」
「いやまあ、そのせいで船乗りたちは生活に困っているはずです。交渉すれば船を出してくれる無法者はすぐに見つかるでしょう」
「大丈夫なのそれ」
「なんとかなりますよ」
「でもそれだけ長い旅路になると絶対教皇たちにばれるよね。やだなあ。ルビクとかがあなたに私を襲わせた時みたいに急に現れたりしそうで怖い」
「それは大丈夫ですよ。あれはいくつかの条件が揃わないと出来ないことでしたから」
「どういうこと?」
「ルビク様の催眠魔法が発動している状態で、教皇様にリオン様の居場所を探ってもらい、サイラスの空間転移魔法を使わないと出来ないということです」
「あっ、私いま体に魔法陣描かれてて魔力が探知できないようになってる!」
「はい。教皇様が魔法陣を解除なさればリオン様の元に空間転移で追手を差し向けることも出来るでしょうが、それはなさらないでしょう」
「おじいちゃんやブロキスにも探知できるようになるから?」
「その通りです。教皇様もまさかご自分の魔法が障害になるとは思ってもいないでしょうね」
「万が一、この魔法を解く可能性は?」
「ないでしょう。リオン様がこの大陸にいらっしゃる限りは教皇様が他の方々を出し抜いている状況に変わりはありませんから。ですのでわざわざリオン様の居場所を公開するような真似はしないはずです」
「そっか! 道のりは長そうだけどなんだか上手くいきそうだね! エーリカは本当に心強いなあ! 一緒にジウに帰ろうね」
やはり土地の情報に明るい者が仲間にいると心強い。
リオンは感謝の気持ちを込めて昼間のうちにエーリカのために作っていたお守りをあげた。
それはラグ・レから作り方を教わった牙狼の牙を加工した変なお守りだ。
牙狼の牙がなかったので材料は探検した時に見かけた部屋の虎の剥製から引っこ抜いてきたものだ。
正しく効果が得られるかは分からないがこういうのは気持ちが大事だろう。
エーリカは顔を真っ赤にして喜んだ。
誰かに何かを貰ったのは久しぶりのことらしい。
ルビクやアルカラストに見つからないようにしないと、といってはにかむエーリカの笑顔はとても清らかだった。
翌日の聖堂は朝から慌ただしかった。
ゴドリック帝国軍が難攻不落のイムリント要塞を落としラーヴァリエ本土に肉薄するに至り、南西領土の各都市との連携が火急の政務となったからだ。
首都エンスパリまでは流石に侵攻されないだろうが本土に上陸されてしまうわけにはいかない。
ゴドリックごときに大国が後れを取るわけにはいかないのだ。
一方で今日の夕方にはアーバインの使者が大聖堂に到着する。
教皇もリオンと離れ離れになるのは名残惜しそうだったが別れを惜しんでいる暇はない。
リオンはそんな教皇の手の甲に接吻をし、ラーヴァリエの為に祈るから礼拝堂に籠ると嘯いた。
教皇はリオンの恭順の姿勢に痛く感じ入り快諾した。
リオンは当然ラーヴァリエの為になど祈らない。
エーリカが信じている唯一神にエーリカが少しでも苦しまないようにお願いするだけだ。
それに礼拝堂で祈りを捧げていれさえすれば見ず知らずの信者に話しかけられる面倒もない。
徹底して誰とも関係を持たないようにする、そのはずだった。
普段は多くの信者が祈りを捧げている礼拝堂も朝は静かだ。
しかしリオンが入ると既に人がいた。
唯一神を象徴する白い石柱を前に祈るわけでもなく頭を垂れるわけでもなくただ立ちつくしている背中。
それは黒い外套に、山羊の角をあしらった黒い肩当てが真っ白な空間にそぐわない男の背中だった。
気配に気づいたか男が振り返る。
リオンは訝しそうに眉根を寄せた。
男は醜い容姿をしていた。
垂れ下がった下瞼に頬、吹き出物だらけの顔は青みがかった灰色をしている。
「おはよう。あなたも朝からお祈り?」
「いいや。祈るべき神などいない」
とりあえず声をかけてみたリオンだったが思いもよらない返事が返って来た。
ラーヴァリエ信教の総本山たるこの大聖堂の最も神に近い場所でまさかそんなことを言ってのける者がいるとは。
そして男の声が外見よりも相当若々しいことにも驚くリオン。
くたびれた老人かと思いきや瞳の奥も爛々と輝いていた。
「不思議なことをいうのね。じゃあ何してたのよ。あなた神職の人じゃないの?」
「……俺は昔ここに来たことがある」
「答えになってないけど」
「精隷石を使った。忌まわしい記憶でも時には役に立つものだ。教皇も気づいただろうが一番に最初に来たのがお前か。まるで魔力を感じないが……」
「何を言ってるの?」
「鞘は剣に惹かれる。それは全ての縁を超越した宿命だ。つまりそういうことなのだろう。お前は……」
礼拝堂の扉が勢いよく開かれ大勢の少女を引き連れた教皇が入って来た。
その顔はリオンが見たこともないほどに焦燥と憤怒が溢れていた。
間で困惑し双方を見るリオン。
教皇が鋭く叫ぶ。
「リオン! 離れなさい! その男はブロキスだ!」
驚きのあまり目を見開いて再び男を見るリオン。
漆黒の男は静かにリオンを見下ろしていた。
「リオン……そうか。お前はリオンと呼ばれていたのか」
まるで表情のなかった男の顔にうっすらと笑みが見えた。
邪悪な蛇神を宿しているという噂に違わぬ醜悪な顔から漏れたのは純粋な笑み。
その笑みに、何故かリオンは見入ってしまっていた。
ゴドリック帝国バエシュ領が反乱組織によって乗っ取られたとの報が世界を震撼させてからたったの二日。
ロブやオタルバが別々の航路でラーヴァリエを目指している最中。
イムリント要塞を落としたばかりなはずのゴドリック帝国皇帝ブロキスは突如として千里も離れたラーヴァリエの首都エンスパリに現れる。
世界が大きく様変わりするまで残り時間はあと僅かとなっていた。