楽園 8
やはり協力を仰ぐのは無理か、そう諦めかけた時だった。
「今……今逃げたら時間稼ぎは朝までしか出来ませんよ」
エーリカの言葉にリオンは跳ね起きる。
女性の目には決心の色が浮かんでいた。
「エーリカ? それって……」
「……あと二日待ってください。そうすれば私は罪を償いきり、なんの予定もなくなりますから。逃げるならその時のほうがいいはずです」
リオンは喜んだ。
だが二日という猶予は長すぎる。
それはリオンにとってではない。
他ならぬエーリカにとってだ。
「エーリカ……ありがとう! でも二日なんて……その間もあなたがあんな目に合ってるかと思うと気が気じゃないわ」
「ならあなた一人で逃げてください」
「それは無理。酷いことを言うとあなたを誘ったのは土地勘のある仲間が欲しかったからなの。逃げるって言ってもどこに逃げたらいいのか分からないもん。利用しようとしてたってことなんだ。ごめんなさい」
「いいんです。それだけじゃないって、分かってますから」
「え?」
「私の心をなんだと思ってるんだって、アルカラストに言ってくださいましたね。あの時は逃げようとなんて思ってなかったって、さっき私に言ったじゃないですか。それなのに私のために怒ってくれて、私を人だと言ってくれて、私、嬉しかったです」
「…………」
顔を上げたエーリカは晴れやかで、目尻には光るものが浮かんでいた。
リオンはそっとエーリカの手に手を添えて大きく頷いた。
外気にさらされたリオンの手が冷たくて、エーリカは両手でリオンの手を包む。
温かさが伝わって急にくしゃみが出たリオンにエーリカはくすりと笑った。
「さあ、そんな寝間着のままだとここは冷えますよ。もう行ってください」
「あ、うん。じゃあどうやって逃げるかは明日また話し合いましょう」
「ええ。色々課題もありますからね。……あの、リオン様」
「なに?」
「ああ……えっと、おやすみなさい。良い夢を」
「……少しでも酷くないように祈ってるわ。おやすみ」
エーリカが仲間になった。
心強い味方を得たリオン。
脱走の決行はエーリカの贖罪が終わった翌日、つまり三日後だ。
寝室に戻り上等な布団に飛び込んだリオンだったがそういえばエーリカには布団もなければ自分よりも薄着だったと思い出して全く寝付けないのだった。
次の日の朝からリオンは教皇に頼み、礼拝堂での祈りに積極的に参加した。
教皇はリオンの行為を喜んだ。
リオンはエーリカのために祈った。
彼女は今日もルビクによって責められているのだろうが、リオンにはそれしか出来ることがなかった。
昼になり昼食を終えるといよいよ民衆の集会がある。
教皇に連れられ聖堂正面口の上の露台に出るとそこには聖堂前の広場を埋め尽くさんばかりの大観衆がいた。
皆が口々に救世主リオンを称えていた。
リオンは手を振って群集に応えた。
エーリカに会わなければ有頂天になっていたかもしれない。
リオンは気を引き締める。
この人たちが自分が逃げたと知って落胆する様などは想像しなくてよい。
自分は救世主なんかじゃなく、自分一人の身も守れないちっぽけな存在なのだから。
大勢で神を称える歌を歌い、教皇の説法があって集会が終わる。
聖堂の廊下に戻ると教皇はリオンを自室に呼んだ。
昨日のことがばれたのではないかとリオンは内心ひやひやしたがそうではなかった。
部屋に入るなり教皇がとんでもないことを言い出したのだ。
「リオンや。明日には北のアーバイン家の者が迎えに来る。本当はここにずっといて欲しかったんだが実は……あのブロキスが破竹の勢いで我がラーヴァリエに攻めこんできていてね。大事を取って君には避難してもらうことになった」
「えっ明日!?」
リオンは耳を疑った。
明後日にはエーリカと共に脱走する手筈だというのにその前にエンスパリを離れる事態になるなど予想だにしなかった。
そうなったらエーリカとは離れ離れになり、ジウへ帰れる可能性が大幅に減ってしまう。
蒼白になったリオンを教皇は優しく抱きしめた。
「安心しなさい。いずれ会わせる予定だったのが早まっただけだ。君に両親の話をしたとき、私はあえて母のことしか言わなかっただろう? 実は君の父はこのラーヴァリエの貴族でね。それがアーバイン家なんだよ」
「えっ?」
「いるんだよ。君には本当の祖父や祖母、親族が」
「なんでそんなこと……今言うの!」
衝撃に次ぐ衝撃を告げられるリオン。
もう既にいない親族の話をされても心動かされないリオンでも流石に生きている血縁がいると聞いて平静ではいられなかった。
自分はこの大陸において独りではなかった。
教皇はリオンの背中を撫でながら更に続ける。
「私が君の母の話をしたとき君は父についても聞いてくるかと思っていた。だが君は聞いてこなかった。君は何も知らない。全てを話すには時間が必要で、少しずつ話していくべきだと思った。だがブロキスがそれを許さなかった。今朝、我が領土最高の砦がブロキスの手によって落ちたと早馬が入ったのだ。いくら今君の魔力を消しているとはいえ彼は私の元に君がいると目星をつけている。だから私のところにいて君に万が一のことがあったら不味いのだ」
「い、嫌だ。私ここにいる」
「この神聖大陸は広い。いざとなったらアシュバルもある。私が彼に負けるとは思わないけどね、彼の目的は君だから、君は何としても一年間逃げ切らなければならない。一年経てば君の中の巫女の力が解放されるはずだよ。力の使い方は力が教えてくれるだろう。私の願いは唯一神の紛い物たるアスカリヒトを身に宿したブロキスを、君が真の力で倒すことだ。それは君にしか出来ないことなんだよ」
「でも……」
「君の偉大なる父、バティスタン・アーバインは栄光の騎士だった。そして君の母アルコはアシュバル王家の姫君だ。二人は愛し合い、様々な苦難の果てにセイドラントの地で結ばれ君が生まれた。希望の子たる君の存在をブロキスは恐怖し、すぐさま殺そうとした。だがブロキスは君の両親を殺すことは出来ても君を殺すことは出来なかった。セイドラントを一瞬にして滅ぼすほどの魔法を使ったにも関わらず、君は無事だった。それは巫女の加護のみならず両親の愛によるものだったと私は思っている。大魔法を使ったことでブロキスは力を失い、魔力を取り戻すまでジウに君を預けた。そして今、彼は力を取り戻しつつあることを誇示し始めた……」
「そんな話……聞いても!」
「私の知っていることは以上だ。本当はもっとゆっくり話したかったんだけどね。これから色々下知を下さねばならないから時間がないし、次はいつまた会えるか分からないからね。大丈夫、アーバインは私も認める優秀な魔法戦士の家系だよ。心配はいらない。君は本当の祖父の元に帰りなさい。そして……必ず逃げ切り立派な巫女として戻ってくると約束しておくれ」
リオンは頭がついていかず、ただただ弱々しく首を振ることしか出来なかった。