帝国の戦女神 5
帝国西海岸キアル。
富裕層の多く住まう国内有数の都市のひとつだ。
白い壁と石畳の街並みは色とりどりの花で彩られ訪れた者を魅了する。
そこに帝国の戦女神の異名を持つ女性がいた。
通りを行けば誰もが振り返る美貌の持ち主だ。
碧眼を縁取る睫毛は長く肌は幼子のように張りがある。
金色の長髪がなびけば香水の香りと共に大人の色気が漂った。
女性はキアルの名家サネス家の長女、名をエイファといった。
エイファは十一年前の兵役時代、国事の場を襲撃した反帝の徒から皇帝を護り抜いた功績があった。
のみならず首魁を断罪した武功もあげていた。
彼女は化身装甲という帝国の秘密兵器の数少ない適合者だった。
化身装甲とは人の倍の背丈はある鋼鉄の鎧である。
惜しまれつつも退役したエイファは戦女神の贈り名と共に故郷へ凱旋し以後は隠棲していた。
しかし跡取り娘ということもあり、いつまでも求婚に動かない我が子に業を煮やした両親の勧めで婿を取ることになった。
当時すでに三十を過ぎていたエイファであったが家格も名誉も充分だったため多くの婿養子希望が殺到した。
その中から両親はエイファより十も若い作曲家志望の青年を迎え入れた。
エイファはすぐに懐妊し男児を儲けた。
その子は貴族の倣いとして乳母に預けられている。
育児の必要がなく、することのないエイファは毎日が社交会だった。
そんな生活を続けていたエイファの元に軍から出頭命令が下されたのは久しぶりのことであった。
軍の庁舎から邸宅へ戻って来たエイファが最初に顔を会わせたのは乳母と我が子だった。
庭で息子をあやしていた乳母がエイファに気づき挨拶にくる。
エイファはにこやかに挨拶を返し我が子に触れた。
男児はエイファに似て整った顔をしていた。
羊皮紙を抱えた男が脇を通り過ぎていった。
男はエイファの夫である。
妻が軍に呼ばれて半日ほど不在だったことには気づいていないようだ。
エイファは夫の背を呼び止めた。
「あなた。少々お待ちください。ちょっとお話が」
すると罰の悪そうな顔で振り返った婿殿は吐き捨てるように口を開いた。
「エイファ、悪いが君の話を聞いている暇なんかないんだ。分かるだろ? あともう少しで発表会なんだ。なのに新しい曲が浮かんでこない。高名な先生方もたくさんいらっしゃるのに。寝ていないんだ。昨日も寝ていない。大変なんだよ。この局面と君の話、どっちが大切か君に分かるか?」
「はい」
「嘘をつけ。女なんかには男の辛さは解りっこないんだ。だから君には期待していないよ。じゃあね、邪魔しないでくれ」
結婚当初は昼夜問わず筆も羊皮紙も楽器も捨てて盛っていた夫も子を産んでからはまるでエイファに見向きもしなくなっていた。
エイファは深々とお辞儀をして夫を見送ったあと両親の元に向かった。
両親は内庭に面した広い居間で寝そべりながら果物を食べていた。
父は昔乗馬中の怪我で体を不自由にしており、エイファが長女ながら兵役についたのはその為であった。
エイファに気づいた父は果汁の滴る掌を舐め、傍で果物皿を持って座る使用人の服で拭い手招きする。
復古調の優雅な暮らしは貴族の誰もが憧れる名誉であり、それはひとえにエイファの手柄によるものだった。
「おおエイファ! お前が軍部に行っている間に良いものを頂いてね。母さんと食していたんだ。だけど最近はこういう献上品が少なくなってきているよ。もっと親孝行しなきゃ駄目だろう」
「そんな折に丁度良かったじゃない。軍はいったい何の御用だったのかしら? ねえエイファ」
エイファは佇まいを正す。
普段のたおやかな振る舞いから動きは軍人のそれへと変わっていた。
「皇帝陛下直々の召集令状でした、お母様。再びヘイデン大佐の元へ参ぜよと。これが書簡です」
エイファが皇帝の印の入った書簡を見せると両親は大喜びした。
「おお……なんと!」
「なんて書いてあるの!?」
「出兵の要請です。再び戦女神の戦いが見たい、と。大陸東部の情勢悪化、およびラーヴァリエとの開戦が噂される昨今です。私の参陣で士気を高めるのが目的でしょう」
「そうかそうか! 丁度良かったじゃないか! サーシャなら私たちが立派に育てるから、安心していってきなさい!」
「まああ! 少佐待遇ですって! サネス家始まって以来の出世だわ!」
「私も腰さえ悪くしていなければね。そのくらいにはなれたが」
「あなたの御教育の賜物ですわ!」
「なんのお前こそ! わははは!」
エイファは喜ぶ両親に合わせて微笑んだ。
立派に育てるから。
果たしてその言葉は遠征に行く者への手向けとして正しいのだろうか。
まるで戦死を見越しているかのような台詞だ。
それに、サネス家の最高位は曽祖父の中佐階級であり、サネス家始まって以来の大出世というには少なくとも曽祖父の階級は超していないとその言葉は出てこないはずだ。
つまり母は最初からニ階級特進による大佐待遇、つまり殉職を期待しているということか。
確かに昨今は功績による周囲の媚売りも熱が冷めてきていた。
今の優雅な生活を続けるには周りが羨む名誉を喧伝できる材料が早急に必要だった。
エイファの出兵は両親には願ってもない好機だろう。
跡取りも生まれているので後はそのくらいしかエイファに価値はないのだ。
「で、いつ出発するんだ?」
「早いうちにも」
「ならば祝賀会を開こう! すぐにだ! 皆を集め名誉を祝ってもらおうじゃないか!」
「私は」
「お前はいなくても大丈夫だよ。陛下がお呼びになられているなら一秒でも無駄にしては駄目だ。皆にはさっそく発ったと言えばいい。安心してお国の為に役立ってきなさい」
「ああ何を着ようかしら……!」
これだけ両親の喜ぶ様を見たのはサーシャを産んで以来だろう。
自分たちの優雅な暮らしと跡取りにしか興味のない親。
日がな、忙しいふりをして若い使用人と情事に耽る放蕩婿。
疎外感を感じないわけがなかった。
「はい、サネス家の名誉のため、皇帝陛下のため、戦場で見事散ってみせましょう。ニファ……妹のように」
せめてもの反抗のつもりだった。
最後の言葉を紡いだ途端、両親の顔が豹変する。
「エイファ、その名は出してはいけないと言ったはずだ」
「そうよエイファ。あなた気は確かなの? 訂正なさい」
「あれは名誉の戦死ではない。ただの犬死だ」
「なにも残すことなくただ死んで。おかげでご近所の笑い者になるところでしたわね」
「そうだとも。言うことを聞かない、何を考えているか分からない。それでも武芸の才があるなどといわれたものだから生かしてやっていたというのに。それすらも納められないとはあれはサネス家の汚点だよ」
「あなたたちの子です」
「エイファ! なんてことを!」
母が悲鳴をあげた。
「エイファ。まだお仕置きが必要な歳なのかい? いいかい、誰もあれに産まれてきて欲しいなんて頼んでないんだ。私と母さんが愛し合っていたら、あれが勝手に産まれてきたんだよ。それはお前にも言えることだ。育てないという選択も出来たのに、ここまで五体満足に生きてこれたのは誰のおかげかな。汚い言葉は慎むんだよ!」
「あなたも散々付きまとわれて世話を焼いて苦労したでしょうに」
「今度の出兵は一人だ。思う存分働けるはずだね。だから前より多くの武功を立ててくるんだよ。これが最後かもしれないんだから。……ところで、いつ言葉を訂正するつもりかな?」
「はいお父様。今訂正いたします。私はサネス家の名誉のため、皇帝陛下のため、見事戦場で散って参ります」
「おおっ! そんなことを言わないでおくれ!」
「あなたはサネス家の宝よ! あなたが育てないで、誰がサーシャを育てるの!」
「サーシャはお父様お母様の偉大なるお姿を見て立派に育つでしょう。寝物語には私の英雄譚を、どうぞお聞かせください」
「ああ神は私たち夫婦にどれだけ試練をお与えになるのだろう!」
「神に見初められた者ほど試練は多いと聞きますわ、あなた!」
「今から出ると夜更けの到着になってしまいますので夜更けに発とうと思います。では、お元気で」
悲劇に興じる両親に今生の挨拶を済ませたエイファは夫の元へ向かった。
夫ジョルダンの部屋は鍵がかかっていた。
中からサーシャの泣き声が聞こえる。
エイファが扉を指の背で叩くと大きな物音がした。
「ジョルダンさん、聞こえますか?」
「な、なんだ。エイファかい? どうしたんだ。邪魔するなって言っただろう」
「私、出兵することになりました」
返答を待ったが夫からの言葉はない。
相変わらずサーシャは泣いている。
「もしかしたら帰ってこれないかもしれないのでご挨拶をさせて頂きに参りました。……鍵を開けて頂いて宜しいでしょうか?」
「うるさいな! 発表会に集中させてくれよ!」
「すみません。……いってきます」
去ったふりをして暫く部屋の前に佇んでいると赤ん坊の泣き声の合間に微かに乳母の喜悦の声が聞こえ始めた。
エイファは自室に戻り出征の支度を整えた。
夕方には両親は急きょ祝賀会を開き、夫は友人の家に発表会の打ち合わせに出かけた。
既に旅立ったことになっているエイファは灯りのない自室で膝をかかえ時間が経つのを待っていた。
夜。
人々が寝静まった星空の下。
郊外のあばら家の前にエイファはいた。
そこは貴族ならば昼間でも立ち寄らない所だった。
屠殺場。
富裕層の多い町には似つかわしくないが新鮮な肉を提供する為ある程度近場になくてはならない忌み場だ。
誰もが見向きもしない場所。
見て見ぬふりする穢れた空間。
物乞いすら宿にも使わない場所にエイファは以前から度々訪れている。
気配を察した蠅が飛び、野犬が逃げ、蛆は意思もなく変わらず蠢いていた。
一部が破れ外と繋がってしまった板打ちの壁の下にはおびただしい血の海が広がっていた。
豚や羊を解体した時に出た内臓の処理を野犬の空腹に任せているのだ。
エイファは水を汲んだ手桶を地面に置くと衣服を脱ぎ始めた。
そして一糸まとわぬ姿になった。
髪の毛を束ねる様はまるで湯浴みでも始めるかのようだ。
肢体は子を産んだ女性特有の肉づきはあるが肌は柔らかな新雪のように輝いていた。
女は歩を進め臓腑の海に足を埋める。
ぬるりとした感触が足の裏全体に広がる。
膝をついて救い上げたものは両手いっぱいの臓腑。
既に冷え切っているが体温が移り次第に温さを帯びていく。
抱きしめた肝の中身がへそを伝い下腹部の茂みに絡みついた。
糞尿の臭いは既に慣れておりむしろ親しみ深い。
全身を染め上げる血と脂肪が星明りに照らされてエイファの白い肌を更に強調した。
大腸に頬を寄せ酔いしれる様は狂人の所業だろうか。
否、エイファにとってはこの時間こそが唯一まともでいられる時間だった。
「お姉さま……」
臓物に横たわり胎児のように身を屈めるエイファ。
偽りの仮面を脱ぎ捨てたその顔には清らかな安堵が湛えられていた。