時が満ちる前に 2
魔法の存在が薄れつつある時代。
ある島に空に届かんばかりの大樹がそびえ立っていた。
大賢老と呼ばれる賢者が住まうその聖域は枝の一つ一つが通常の大木の幹に匹敵する太さを持っている。
その大樹を人々はジウと呼んでいた。
ジウの大樹の枝先には少女がいた。
少女は幼いながらも気品のある顔だちをしていた。
黒髪に黒い瞳、細い手足は健康的に日焼けしている。
腕や膝には走り回った際につくった擦り傷があり活発な一面があることを覗わせていた。
少女は遠く水平線を見つめふて腐れていた。
外を眺め焦がれるのは大人たちにジウの外へ出ることを禁じられていたからだ。
つい最近までは皆と共に麓の森や浜辺に行くことも出来たのに。
遊びたい盛りには酷な仕打ちだった。
外へ出てはいけない理由は到底納得のできるものではなかった。
少女は目尻に涙がにじみそうになるのを堪え鼻をすすり口を堅く結んだ。
憂さを晴らすために外の世界を眺めても自由への思いは一層強まるだけで叶うことはない。
それでも煌めく水平線は魅力的であり、目をやらずにはいられなかった。
「リオン」
後ろから声をかけられ少女が振り向くとそこには妙齢の女性が困り顔で立っていた。
女性は美しくも不思議な風貌をしていた。
長い黒髪を後ろに撫で付け頭部に紐を巻き、眉の代わりに目の上を赤い塗料が横切っている。
そして薄紅色の唇の左右には黒丸の刺青が施され背中には風変りな刺繍があしらわれた鞍を背負っていた。
鞍を背負うのはアナイの民の特徴だ。
アナイの民とはジウのあるアルマーナ島を含む無数の島々から成るウェードミット諸島を渡り歩く少数民族である。
彼らは特定の土地に定住せずに馬と共に遊牧して生きる。
化粧と入れ墨は同胞を守るために神に純潔の誓いを立てた戦士の証だった。
「こんなところにいたのか。皆が心配しているぞ。戻るんだ」
「やだ」
優しく促す女性にリオンと呼ばれた少女はぴしゃりと拒絶する。
それも想定内と言わんばかりに女性は言葉を継いだ。
「またオタルバを困らせたそうじゃないか。わがままが過ぎるぞ」
「ちょっと森に行くくらいいいじゃんか! わたしばっかり……!」
リオンの感情的な叫びに女性はため息をついた。
「何度も言わせるな。お前はもう少しで十五歳になる。だから外に出すわけにはいかん」
「次は十四歳だもん! だいたい、誕生日はまだ先だし! みんな私の歳なんてどうでもいいんだ! 私なんか、どうでもいいんだ!」
「何故そういうことになる。それにもう少しで十五というのは数え年という歳の数え方で……」
「今までそんな数え方しなかったくせに!」
「あのなリオン、大賢老から何度も聞いているだろう? 魔法使いは十五になると魔力の質が確定する。その前後が最も不安定になる。だから何があっても大丈夫なように大賢老の傍にいたほうがいいんだ。簡単な理屈だし、すこしの辛抱ではないか」
「そんなの嘘だよ……。シュビナだってそんなことなかったって聞いたもん」
「あいつは亜人だ。お前とは体のつくりが違う。だからあいつの意見はお前の参考にはならん。人の魔法使いは十五で不安定になる。理解しろ」
「やだ! ラグ・レのばか! 眉なし!」
「あっ待て!」
リオンはラグ・レを罵倒すると下の枝に飛び降り子猿のように逃げ出した。
木の上を素早く走る技術は自分が教えたのだが何時の間にあれほど使いこなせるようになったのかとラグ・レは意表を突かれてしまった。
咄嗟に追いかけ下の枝に飛び降りるも、胸部や臀部についた余計な肉が弾んで俊敏な動きが出来ない。
リオンほどの年の頃はあのように駆けることが出来たものをとラグ・レは走り去る背中を見て虚しさを覚えるのだった。
ラグ・レを撒いたリオンは大樹の外皮を器用に伝い地面に降りて幹の隙間に入りうずくまった。
そこはリオンの隠れ家の一つだった。
膝を抱えたリオンは涙を拭いながら前方に広がる密林を恨めしそうに見る。
密林の手前では野うさぎが無防備に腹を出して眠っていた。
その野うさぎの姿こそが気ままにジウを抜け出すことが出来ない理由だった。
大樹は周囲を強力な睡眠魔法で籠のように囲われており迂闊に魔法の影響下に入ると自力では二度と目覚めることが出来なくなるのだ。
外へ出るには門を通る他ないのだがそこには門番がおりつい先ほども押し問答に負けたばかりである。
今までは皆と一緒に外に遊びに行けたのに自分だけが除け者にされているような現状がただただ辛かった。
「十五歳になるからってなんなのさ……私、ぜんぜん不安定じゃないもん」
自分と同じ年頃の子供がいないので比較は出来ないがリオンには自分は不安定にならないという確固たる自信があった。
しかし誰にその説明をしてもラグ・レのように頑なな答えが返ってくるばかりだ。
多くの者は仕方がないのかもしれない。
ただ大賢老さえも自分の言葉に耳を貸さないことにリオンは傷ついていた。
リオンは生まれながらにして魔力を見ることが出来た。
故に自分を覆う光がずっと安定しているのが分かるのである。
だからこそリオンは大賢老が自分を外に出さない本当の理由がそれではないことに気づいていた。
それを大賢老に問いただしても主張を曲げようとしないのでリオンは反発していたのだ。
魔力を見るという能力は本来ならば高位の魔法使いが長い年月をかけてようやく会得できる力である。
ジウは三百人超の人々が共同生活しているが、その中でも魔力を視認する事が出来るのは大賢老と睡眠魔法の使い手である慈愛のイェメトの二人だけだった。
大賢老はリオンが魔力を見ることが出来ることを知ってはいたが認めようとはしなかった。
認めてしまえばリオンがより多くの厄難に見舞われることを危惧していたのだ。
年若いリオンにはその真心を理解することは出来なかった。
自分は嘘をついていないのに嘘つきだと言われているようで悲しかった。
外へ出して貰えないのは自分が嘘をついていることの罰を与えられているのだと思っていた。
そして逆に嘘つきなのは大人たちだと思っていた。
誰かがやってくる気配がする。
リオンは身構えた。
やってきたのはラグ・レではなく銀髪の青年だった。
その青年を見た瞬間リオンは悪戯っぽく目を輝かせた。
銀髪の青年は眠っている野うさぎを発見すると前に座った。
その隙にリオンは青年の傍に忍び寄る。
青年は短刀を取り出し小さな声で懺悔の言葉を紡いでいた。
その背後でリオンは大きな声を出した。
「ルビク!」
「うわぁ!?」
青年は驚きのあまり野うさぎの上に短刀を落としてしまった。
衝撃で目が覚めた野うさぎは一目散にその場を逃げ出した。
ルビクはあーあと悲愴な声を出してリオンを恨めしそうに見た。
せっかく自分でも仕留められそうな大きさの獲物を獲得できる好機だったのに台無しだ。
「今日の調達が」
「寝ている子の命を絶つなんて卑怯よ」
「寝ている間に狩れたほうが苦しませないだろ?」
「ねえ、それより今大丈夫なの? イェメトの魔法に触れているけど」
青年は野うさぎの倒れていた場所に被っていた。
つまり本来なら睡眠魔法の影響下にあるはずである。
それなのに起きている。
リオンの問いにルビクは嬉しそうに胸を張った。
「イェメトに反魔法をかけて貰ったんだ。僕も一人前の散策係ってことさ」
反魔法とは本来の魔法の効果を打ち消す魔法のことだ。
リオンが目に意識を集中させるとルビクの全身の魔力が別の魔力に包まれ睡眠魔法を弾いているのが見えた。
睡眠魔法は本来無断で侵入を試みる外敵からジウを守るための魔法であるが、術者イェメトのそれは触れたものを無差別に眠らせるためあの野うさぎのような被害が後を絶たなかった。
そこでイェメトは巡回する者を決め毎日確認に当たらせているのだ。
散策係は以前はジウの中でも有力な戦士と認められた者の役目だったのだがルビクも任されるに至ったようだ。
彼はジウに来てまだ日が浅いものの献身的であり人柄も良く、戦士に気に入られ弟子のように扱われていた。
そんなルビクとリオンは比較的年が近いため友人関係にあったがリオンはルビクに嫉妬していた。
自分は大賢老の孫であるのに自由がなく、ルビクはどんどん皆から頼りにされているのが悔しかった。
「反魔法ってさ、あんまり難しい技術じゃないよね」
「え?」
「イェメトの睡眠魔法の魔力ってこう流れてるでしょ? その反対の向きに流れる魔法が反魔法ってこと。わかる?」
「うーん……あのさあ」
「なによ」
「あんまりそういうこと言わないほうがいいよ。いくら君が大賢老を祖父のように慕っていたとしても君は大賢老じゃないんだから」
ルビクの忠告にリオンは傷ついた。
「……あなたも私が嘘つきだって思ってるのね」
一段低くなったリオンの声にルビクは慌てて手を振った。
「僕は、その。違うんだ。でもそういう発言を嫌う人もいるだろ?」
とぼとぼと俯いて歩き大樹の根を背にして座るリオン。
ルビクは申し訳なさそうにリオンの隣に座った。
「ルビクは認められて凄いね」
ぽつりと呟いたリオンの声は今にも泣きそうだった。
ルビクはなんて答えようかと目を泳がせたが当たり障りのない慰めなど意味がないことを悟って本音でぶつかることにした。
「そんなことないよ。君のほうがよっぽど認められていると思う」
「外にも出して貰えないのに?」
「だからこそだよ」
リオンは顔を上げてルビクを見た。
「皆は君を心配しているんだ。君はその……魔力が見えるって言う。でも魔法は使えないだろ? 普通はそんなことはあり得ないんだ。その、あり得ないってのは前例がないって意味でさ。だから皆はさ、君が何かの拍子で魔法が使えるようになった時に困ったことになるんじゃないかって心配なんだよ。だって大賢老の孫だよ? 絶対すごい魔法が使えるに決まってるし、その大賢老が君の外出を禁じたんだから皆だって従うしかないよ」
「そんな感じには思えない」
「ちょっといいかな」
そう言うとルビクは擦り傷のあるリオンの生膝に手を添えた。
真剣な顔で目をつむるルビクだが膝はルビクの体温が伝わってくる以外の何の変化もなかった。
リオンの目ではルビクの体を覆っていた僅かな光が少しだけルビクの掌に集まっていくのが見えている。
しかしその光は今一歩のところでリオンに作用することはなかった。
「どうだい」
「別に何も変わらないけど」
「ほらね、こういうことだよ」
「なによそれ?」
「前にも言ったろ? 僕は魔法を自在に扱えるわけじゃない。発動の感覚が掴めてないから。でもそれは僕だけじゃなくてさ、ここにはそんな人が大勢いる。それでもみんな国を追われてここに来たんだ。ふとした拍子に魔法が出ちゃってさ」
魔法の力は今は昔となり自在に扱える者はごく少数となっていた。
自分の意志で指の先に火を灯したりそよ風を吹かせたり出来る者はまだ優秀なほうで、大半がその程度の力もない上に自分の意志で使うことが出来ないのである。
それでも使えない者にとっては一度でもそんな奇跡を起こせば脅威であり異端だ。
ジウはそういった者たちが魔法を学ぶ場でもあった。
「僕だって使いたい時に魔法が使えるようになりたいよ。そうなればいつでも誰かの傷を癒せるんだから。火の魔法が使える人だったらさ、感情が高ぶった時に自分の意志に関係なく誰かを傷つけなくて済むようになる。でもそうなるには魔力を知らなけばならない。見えない魔力を学ぶには感覚を掴むしかないんだ、普通ならね。それなのに君は魔力が見えるっていう」
「本当に見えるんだもん」
「皆その大変さを知っているからこそ信じられないんだよ。見えるのに魔法が使えないっていう矛盾もそれを裏付けてしまっている」
「本当に見えるんだもん」
「僕は信じるよ。信じてるからこそ心配なんだ。きっと大賢老だってそうだよ。だってさ、高位の魔法使いしか出来ないことが出来るってことはさ、大きな可能性を秘めているって、そう言っているようなもんじゃないか。そんなこと言いふらしていれば悪用しようって奴が絶対出てくるよ」
「外に出られないんだから悪用なんてされないでしょ」
「悪用されないために外に出さないんだよ」
逆だってば、と諭すルビクにリオンは納得しかけたが不自由さの不満が邪魔をして素直に聞き入れることが出来なかった。
「だったらそう言えばいいのに。数え年で十五歳とか意味わかんない」
「それは不思議だよね。この間シュビナを例に出して説明したけどさ、シュビナはそんなことなかったって言ってたし」
シュビナは若くして有力なジウの戦士に選ばれた梟の亜人だ。
彼女は魔法が使えるし、かつ直近で十五歳になった時の感覚を知っている唯一の存在だった。
しかしそんなシュビナは外出を禁じられることもなければ魔力が不安定になることもなかったという。
ラグ・レは亜人と人間では感覚が異なるのだと言っていたがそもそも魔法使いではないラグ・レは大賢老の言葉を妄信しているだけで説得力はなかった。
「十五歳になればわかるんだろうけど。不安だよね。意味も分からずただ外に出てはいけないって言われるのはさ」
リオンはやっぱりルビクが嫌いだった。
自分の話をよく聞いてくれ、親身になって一緒に考えてくれる。
こんな性格では好かれないほうが無理な話だ。
対する自分は自分のことばかりだ。
「ねえルビク、あなたって……」
その時だった。
けたたましく鐘の音が響いた。
何事かと見上げれば噂のシュビナが両腕の翼で羽ばたきながら翼の先にある指で器用に鐘を鳴らし滑空していた。
鐘はいくつか種類があり今シュビナが持っているものは一番高音のものだ。
それは有力な戦士たちに有事を知らせるためのものだった。
リオンとルビクは顔を見合わせた。
「なんだろう」
「門で何かがあったんだ」
「門で?」
「あっ、駄目だよリオン!」
ルビクの制止も聞かずリオンは一目散に駆け出した。
猪突猛進なリオンに振り回される形となりルビクも後を追った。
その頃ジウの門前では一触即発の空気が流れていた。
それ自体は小さな揉め事に過ぎなかったが、この時ジウの住人はその諍いが既に動き出している大きな闇に起因したものだったとは誰も気づいていなかった。