ありがとう 10
十年の月日は人を別人にする。
赤ん坊は少女となる。
娘だと分かったのは唯一無二の巫女の力を有しているからか。
否、そうではないと思いたかった。
あの子は何も知らずに過酷な運命に身を投じていた。
出来ることなら自分の知り得る全てを教えてやりたかった。
しかし明らかにする内容によっては彼女が自分の出自を辿る手助けとなってしまうだろう。
血縁が発覚することは未来ある彼女にとって良い事とは言えなかった。
だから多くは語らない。
たとえ罪を重ねることになろうとも。
自分で覆すことが出来ない事柄であの子が傷つくことがないように。
最低の我儘を貫き通すために世界を敵に回す。
気脈の歪みにてリオンの友エーリカから魔力の供給を受けたブロキスは最大の力でアスカリヒトを拘束した。
人ふぜいが神を倒すことなど不可能でも足止めなら出来た。
そして奇跡が起きる。
歪みに再び光が差し、それが気脈の道と繋がっていることに気づいたブロキスはこの好機を逃すまいとリオンを促した。
「行け!」
弾かれたように走り出す。
巫女を逃すまいと攻撃を繰り出すアスカリヒトだったがブロキスがそれを許さなかった。
やがてリオンは光に包まれていった。
最後まで気を抜かずに見守るブロキスに、振り向かずに叫んだリオンの言葉が届く。
「ありがとう、エーリカ! ありがとう、おとうさん!」
リオンは知っていた。
ジウに帰った日の夜、神殿で言い争う大賢老とロブたちの会話を聞いてしまっていたのだ。
オタルバはブロキスが父であると言っていた。
そしてその時リオンは自分がアスカリヒトと共に消え去る運命にあるかもしれないと知った。
知らないふりをして過ごした。
動揺すれば皆に負い目を与えてしまうからだ。
一人で耐え続け、そして決戦に臨み気づいた。
抱え込んでいたのは自分だけではなかったのだと。
断片的ではあるがアスカリヒトに反魔法を使った時、魔力が重なり合って何かが見えた気がした。
それが父の記憶だとしたら自分はなんて愛されていたのだろう。
邪神をその身に宿す父と、それを封じるために生まれた娘。
あまりに出来過ぎた構図ゆえに世界に作為的な印象を与えるだろうということはリオンにも理解出来た。
だからこそ父は父であることを隠し続けたのだ。
己はどうなろうとも娘が汚名を着ないように。
なんて不器用な人だろうか。
最後の最後で耐えることをやめたリオンは溢れる涙を抑えることが出来なかった。
一方でブロキスは唖然としていた。
聞き間違えではなく、確かにあの子はお父さんと言った。
知っていたのか。
いつから気づいていたのか分からないがなんという失態だろう。
たったの一言がブロキスの胸を締め付ける。
せめて茶番は茶番のまま終われば良かったのに。
あの子には虐殺者の父を持つという負い目を背負って欲しくはなかった。
自分の行為は誰にも理解されず、碌な最期は迎えられないと覚悟もしていたのに。
しかしブロキスは笑った。
乾いた自嘲を喜びが潤していく。
もう、充分だ。
光が消えアスカリヒトの咆哮が暗闇に響いた。
真っ暗になった
自分がどこにいるのかも分からない。感覚すらない
なのに寒い
こわい
こうなることは分かっていた。
だから最後に道づれをひとつ。
膨大に魔力を含むあの心臓でさえこの空間では感触すら感じないのか。
一か八か、呼んでみる。
イェメト、いるか?
はァい。いますよォ
良かった。成功した。
ブロキスがイェメトを確保したのは気脈の歪みに閉じ込められた時を想定してのことだった。
気脈が流れないこの空間に時間の概念があるのかは未知数だが、ジウの心臓を媒体にしたイェメトならばたった一人の男をずっと眠らせておくことなど容易いだろう。
イェメトの魔力が尽きるのが先か、自分が餓死するのが先かは分からないが餓死の概念も果たしてあるのだろうか。
分からないが、自身が狂っていくのを認識しながら死んでいくのは嫌だった。
イェメト こわい おれが いない もう こわくなってきた たのむ
五感を失った状態では人は瞬く間に自己を見失い崩壊していく。
ブロキスの自我もまた消え去りつつあった。
言い表しようのない恐怖だ。
これが多くの命を奪って来た報いだとすれば当然の結末なのかもしれないが、どうせ死ぬなら文字通り眠るように死にたかった。
はァい。それじゃあ……あなたは今から夢を見るわァ
今度はきっと素敵な夢ですよ……
ほんとう? ほんとうに?
ええ
だから
安心しておやすみなさい……
おやすみなさい……
セイドラントの自室でザニエ・ブロキスは目を覚ました。
寝台にこしかけた侍女の膝を枕にして、流れる涙を拭われていた。
これは一体どうしたことだろう。
自分はどれほど眠っていたのだろうか。
「とても……長い夢を見ていた気がする」
ずっと声を発していなかったかのようなしわがれた声が出た。
自分を見下ろす顔が心配そうに眉根を寄せる。
「夢?」
「自分の大切なものを守りたくて、多くの人を傷つけ、奪ってしまった。きっと、誰もが俺と同じように生きていただろうに。とても……俺はとても酷いことを……」
侍女は困ったように微笑むとゆっくりとブロキスの頭を撫でた。
頭を撫でられるなど赤子ではあるまいしと気恥ずかしくなるが安堵が勝り身を委ねる。
「でも、夢なのでしょう?」
じんわりとした温かさが再び眠気を誘う。
「心配しなくていいですよ」
ブロキスは優しい声に諭されて再び微睡んでいく。
「あなたは頑張ったんですから」
このような安らぎを得ても良いのだろうか。
「きっと想いも伝わっていますから」
許されざる者だろうに。
「だからもう一度眠りましょうね」
しかしもう充分に罰は受けただろう。
「今度はきっと素敵な夢を見られますよ」
だから、
「安心しておやすみなさい……」
せめて魂の残り火が消えるその時だけは、許されても良いのではないか。
「おやすみな……さ……
気脈の道の果ての歪みにて、人知れず暴君と呼ばれた男が消滅する。
ザニエ・ブロキス、享年三十七歳。
皺だらけの醜悪な容貌を知っている者が年齢を聞けば必ず驚いただろう。
それだけ男は誰にも何も知られることなく全てをやり遂げたのだった。
目を眩ますほどの強い光が和らぎ、未だ何も見えないが徐々に風を感じていく。
大地の感触がてのひらに伝わり土の香りと錆びた鉄のようなにおいが胸に飛び込んでくる。
五感が戻っていく感覚の中で少女は咽び泣いていた。
鞘の巫女リオンはついに蛇神アスカリヒトを封じたのである。