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晩餐会の時刻よりも早く誰かがやってきた。
扉が控えめに叩かれる。
侍女だろうかと期待に胸を高鳴らせた王子が扉を開けるとそこには見知らぬ男が立っていた。
男は帝国の諜報員と名乗った。
「ヘイデンの部下です。長い間姿が見えなくなっていて心配したんですよ」
帝国諜報部ショズ・ヘイデンの名前を聞き王子は眉根を寄せた。
どの面をさげて現れることが出来たのか。
既にこの国はラーヴァリエの走狗として動き出してしまっている。
あの男が急に現れなくなりさえしなければそれを回避することが出来たのではないか。
「良からぬ噂も流れていたんです。でも元気そうでよかった」
「…………」
早口でまくし立てるヘイデンの部下を王子は無言で睨んでいた。
男は自分が粗相をしたと思っているのか機嫌を取ろうとあからさまだ。
しかしそんなおべっかが通じる相手ではないとすぐに気付いたのだろう。
アシュバルで死線をくぐり抜け、かつての気弱で誠実な王子の姿はそこにはなかった。
「……ヘイデンから、急に姿を消したことについて謝罪があります」
ヘイデンにも理由はあった。
あの男の行動は最終的にバエシュ領のレイトリフを失脚させるためのものだったという。
レイトリフは南の元リンドナル王家であるヘジンボサムのことを快く思っていない。
そしてヘジンボサム家はこの国と古くから親交があるせいか帝国国内で唯一の慎重派だった。
この国がラーヴァリエと通じている陰にヘジンボサム家もあるとして芋づる式に糾弾したかったレイトリフは前線への補給路の確保と称して自領軍を同国間に駐留させ、父王がヘジンボサム家に送った親書を途中で止めて内容を書き換えた疑惑がある。
それに気づいていたヘジンボサムは沈黙を続けていた。
ヘジンボサム側から親書を出した場合に同じように改変される恐れがあり、今の父王ではそれを見破れない可能性が高かった。
よってヘイデンはこの国に潜入してレイトリフの策を破ろうとしていたのだ。
だが途中で思わぬ邪魔が入った。
姉のカーリー・ハイムマンである。
カーリーは父レイトリフに気に入られ、ヘイデンは嫡男であるにも関わらず無能の烙印を押され養子に出されたという過去を持つ。
だが彼女は彼女で生き方を押し付けてくるレイトリフに嫌気が差し、レイトリフの許していない男と肉体関係を持ち妊娠までしてしまったことがあった。
その恥知らずな愚行は名もなき男の一族が忽然と世間から消え去り妊娠もなかったことになったことで収まったが、最愛の全てを失いハイムマン家と強制的に婚姻関係を結ばれたカーリーのレイトリフに対する憎悪はヘイデンのそれに勝るとも劣らないはずであった。
だからレイトリフの暗躍を暴こうとしているヘイデンに対し、この国を含む一帯を管轄している姉は協力せずとも黙認するだろうと踏んでいた。
だが姉はこの国の王子と弟が接触するや否やそれを牽制してきたのである。
この程度の醜聞であの男を叩こうとしている無能な弟に邪魔されたくなかったのだ。
ヘイデンがやろうとしていることではあの男ならお茶を濁して終わらせてしまうだろう。
この国の人間が犠牲にならないことを前提に動くようでは得られる成果も少ない。
対してカーリー・ハイムマンはレイトリフが増長する一手としてこの国の人間が犠牲になることなど厭わなかった。
どうせ自分とは関係のない人間たちなのだから。
弟の行動を阻害し王子と切り離すことに成功したハイムマンは着実にこの国がラーヴァリエと蜜月な関係にある様子を掴んでいっていた。
そしてついにヘジンボサム家がそれを警告せんとして重い筆を取り、秘密裏にこの国に送り届けようとした親書を掴んだのである。
軍の動きを他国に漏らすことは重罪だ。
これでヘジンボサム家が失脚すればレイトリフの帝国での権威は更に増すだろう。
レイトリフにはもっと驕ってもらわなければならない。
成功を重ね栄華を極めた先に、カーリーは自らの手であの男の全てを否定してやらなければ気が済まなかった。
それが全てを失った女の執念だ。
それまでは例え結果的にあの男を守ることになっても構わなかった。
ヘイデンは何度もこの国との再接触を図っていたが恐らく姉が自分の動きをレイトリフに漏らしたおかげで隠蔽工作をしなければならず、暫くは帝都に籠らざるを得なかった。
そこで自分の最も信頼する部下に全てを打ち明けたのだが、後の事を任せたにも関わらず王子もどこかへ消えてしまっていた。
それから一年が経ちようやく王子が公の場に現れると事態は急変した。
この国の港を接収していたはずのリンドナル方面軍が港を離れ始めたのだ。
部下はヘイデンに伝鳩を飛ばすとなりふり構わず王子に接触を図って来た。
この国の人々は何故か帝国軍が離れて行ったことに何の疑問も抱かずに安堵しているようだが、沖に停泊する軍船と港との距離は艦砲射撃の距離だ。
証拠を揃えたハイムマンたちが王子の姿を確認したことで決行することにしたのだろう。
帝国への裏切り行為に対し、徹底的に周囲への見せしめが下されるまでの時間は残り僅かとなっていた。
ヘイデンの部下が掴んだ情報によると、明日の朝に最後通告が成される。
父王はこの事態を分かっているのか。
晩餐で全てを確認しなければならない。
問いたださなければならないことは沢山あった。
「遅いぞ! なにをしていたのだ……!」
「申し訳ありません父上」
晩餐の場に訪れた王子はさっそく叱責を受け姫に笑われた。
傍らに控える従者の騎士も小ばかにした表情を浮かべ早く座るように顎で促してくる。
机には贅を凝らした食事が並んでいた。
まずは杯に満たされた酒を空け、久しぶりの故郷の味を噛みしめる。
一年前であったらアルコが同席に顔を出すことはあり得ないことだった。
彼女はいつも部屋に籠りそこで食事を摂っていたはずだ。
少しは土地に馴染んだということか。
それとも夫が無事に帰って来たことに少しくらいは敬意を表したか、と考えていた矢先だった。
「下郎よ。我に貢物はないのかえ」
「なんのことですか」
「せっかくそもじの子を成したというに、するとそもじは手ぶらでここに来たか。なんと使えぬ男じゃ。われに対する敬意はないのか」
「嫁御殿よ、そういう奴なのだ、あれは」
会いに行った時は部屋に入れようともしなかったのに、今になって嫡男を産んだことに礼を言えという妻。
そしてそれに乗っかり息子を貶める父。
場の空気は最悪だ。
だがそう思っているのは王子だけだろう。
「俺のいない間にずいぶん仲良くなったみたいだな」
「き、貴様っ、何という口の聞き方だ!」
「謝れ! 我が君に無礼だぞ!」
従者の態度もでかい。
王子は深々と頭を下げ、表情の見えない位置で覚悟を決めた。
「謝ります。父上、私は弱い男でした。民を言い訳に使い、自分自身の責務から逃げてきました。しかしアシュバルで多くのことを経験した今、断言いたします。私は自分の身が例え傷つこうとも、あの日に戦っておくべきだったのです」
「何を言っておる」
「アルコ、子が生まれたのだろう。何故俺に見せようとしない」
「戦場帰りは悪い気を纏うておる。身を清めておらぬ者を会わせるわけがあるまいて」
「戦場になっていたとはいえお前の故郷だ。悪い風と言ってくれるな」
「そも、呼び捨てにするでないわ、下郎が」
急に凄みを増した王子に対し姫の声は上ずっていた。
「……アルコよ。俺が戦いに行った地がアシュバルだと、お前には伝えていないはずだ。何故知っている?」
「!」
「わ、私が言ったのだ。そもそも嫁御殿の故郷を攻めるとはいえそれは平定のための戦。嫁御殿の親族は自治政府側におったであろう。つまり嫁御殿の御実家に援軍を出したに過ぎぬ。言わない理由がなかろう」
「物は言いようだな」
「さっきから何が言いたいのだお前は?」
「王とは民を守るものだ。違うか」
「何が言いたいと聞いている!」
父王は怒った。
従者も今にも剣を抜きそうな勢いだ。
だが王子は冷静だった。
一年前ならいざ知らず、今は弁論でも力でも負ける気がしない。
「すぐそこで起こっている異変にも気づかないとはな。重鎮はどうした。大臣は。皆遠ざけてしまったから気づけない、気づこうとしない。帝国の奴らが艦砲射撃の位置にまで船を沖に出したぞ。我々がラーヴァリエに与していることにずっと前から気づいていたんだ。招いてしまったこの結果、この事態をどうする気だ」
「なんだ、そんなことか」
「……なに?」
「我らはアシュバルに行けば良い。それだけのことだし、お前が帰って来たから近いうちにそうするつもりだった。少し予定が早まっただけのことだ」
「なんだと? 民は、どうするつもりだ」
「どうでもよいわ、そんなもの」
「貴様……」
「さっきから聞いておれば下郎よ、そもじは父御に対してなんという口の聞き方をしやる。われにもじゃ。いつからそんなに偉くなった」
「俺はお前の夫だぞ」
「子を成してやっただけで夫気取りかえ。なんとずうずうしい」
「顔を合わせることも出来ないのにか。まだ名前もつけてないというのに?」
「名ならとうに付けたわ。リオンじゃ。そもじと違って立派な男になるぞえ。なんじゃ、不満か」
「リオンは……男名だぞ」
「なにを言うておる。立派な嫡男なのだから当然であろう」
「……我が子は女児であるはずだ!」
あの屈辱の皿を受け取った日、王子は恥を捨てて侍女を介し皿を姫に届けさせた。
絶対に姫はそれを受け取らなかっただろう。
だが、赤子は誕生した。
それは本当のアシュバルの王家であった侍女と王子の間に誕生した子だった。
王子は、侍女の子をアルコが我が子だと偽っているのだとばかり思っていた。
しかしそれならば子が男児であると言い間違えるはずがない。
やはりそうだったのか。
姫が王子を拒み続けていたのは、横にいる従者の男と既に恋仲にあったからなのだ。
男児は奴らの間に出来た子供だ。
部屋に籠っている間、奴らは愛を育んでいたのだ。
王子は目を逸らし続けていた憶測を突き付けられて吐き気がした。
ただしその不快な感覚は実際に体の中に入り込んだ異物によって引き起こされていた。
視界が揺らめいた。
手足の自由が利かなくなり床に転倒してしまう。
舌が痺れて息苦しく、思考がおぼつかなくなる。
これは……毒だ。
「ようやく効いてきたか。なにからなにまで愚鈍な奴だ」
「父……上」
「お前など我が子ではないわ」
「アルコ……」
「気安く呼ぶなと言っておろう。われが愛するのはこのバティスタンだけぞ」
「知って……いたのか、父上」
「アルコ殿は正当なるアシュバルの姫。そしてアーバイン殿はあの北方守護家であるぞ。ここに嫁いでくださるのだけでも畏れ多いことなのに、どうしてお前如きのために別れてくれなど言えようか。アシュバルは既に平定され我が物となった。私が彼の地を踏めばきっと真名の誓約も解かれる。つまりお前はもう子を成す必要もないし、いる必要もない。邪魔なのだ。私はアシュバルの王となる。姫とアーバイン殿は北方守護領で睦まじく暮らす。そしてお前はここで死ね。この国が帝国に攻められたとあれば島嶼中の国家が動揺するであろう。ああ、猊下はますますお悦びになられるぞ!」
「貴様ら……」
「そもじが悪いのじゃぞ。われが知らぬと思ったか? あの端女の子はそもじの種であろう。奴は終ぞ口を割らなかったが、先に不貞を成したのはそもじじゃからな」
「黙れ……その前から貴様らは。まて、……終ぞだと? お前ら……お前らカンナを、どうした」
「汚らわしい腹を見せられて辟易していた故な、そもじが待っていると言っておびき出して、赤子ともども井戸に捨ててやったわ」
静寂の中、ほほほ、と乾いた笑い声が響いた。
釣られて王子も笑った。
「嘘だ」
「嘘ではないわ。厩の井戸を見てみいや。きっと今頃、見苦しく膨らんだ端女が詰まっておるぞえ」
「…………だ」
「姫に手が出ぬとみたら下女に手を出すとはな。獣でもあるまいし、なんとおぞましい奴だ。私は何度でも言うぞ。お前など、我が子ではない」
「負け犬めが」
「死ね」
「うそ……だ……」
王子から溢れたものは涙だけではなかった。
異常なまでに膨れ上がった魔力が這うように広がっていく。
魔法使いと呼べるほどの魔力もない父王たちだったが流石に異変に気付いた。
気づいた時には既に遅かった。
「この魔力は!? い、いかん! アーバイン様、早く奴の息の根を!」
「雑魚が、私は北方守護者だぞ。舐めるな!」
多くの偶然が重なってしまった。
王子が網のように張り巡らせた糸の魔法にアーバインの衝撃派の魔法が当たり反響した。
そこに地震の力を持つ指輪の精隷石が共鳴した。
晩餐に来るのが遅いと罵られる前、王子は王の部屋を訪れて精隷石の類を持ち出していたのだ。
父王たちに逃げられないようにとの判断は、果たして間違っていたのか。
木札の精隷石はそれ単体では何の効果もない。
しかし吸収した魔法を何倍にもして跳ね返す効果を持っていた。
揺れが天地を逆さまにし、衝撃波は地表を削り全てを吹き飛ばした。
セイドラントが世界から消えた。
我に返った王子が見たものは気脈の消え去った夜空だった。
今までの全てが幻だったかのように、あたりには何もかもがなくなっていた。
ただし残った瓦礫の類が王子に呼びかけてくる。
これは、お前がやったのだと。
魔力を感じた。
ふらつく足で立ち上がった王子は気配のする方向に歩いて行った。
そこには赤ん坊が落ちていて、泣いていた。
赤ん坊のいる場所は他よりも抉れてはいなかった。
残った魔力が王子に気づかせる。
これは治癒魔法の残滓だ。
何もかもが消え失せているがここは厩があった位置だろうか。
姫から嫌われた侍女はここで暮らしていたのだ。
大きな魔力を感じた侍女は咄嗟に赤ん坊を守ったのだろう。
己の身に治癒魔法をかけ、吹き消される一瞬に全力で抗ったのだ。
そして残された。
王子が震える手で拾い抱くと、赤子は安心したかのように泣き止み眠り始めた。
「……俺の子だ……」
何もかもを失ってしまった。
何もかもを手掛けてしまった。
最愛の者さえも失ってしまった。
もはや生きている意味などあるのだろうか。
ある。
命をかけて、自分の過ちから最愛の者が守ってくれた命がここにある。
自分はこの子を何としても守らなければならない。
例え全てを犠牲にしようとも。
王子は首飾りの精隷石を取り出した。
頼れる者は誰もいないと思ったが思い浮かぶ顔があったのだ。
帝国はかつて皇帝に謁見するために父王と行ったことがある。
上着を脱ぎ、優しく赤ん坊を包んだ王子は雨燕の精隷の力を使った。
空間が揺らめいて王子が消える。
後には安らかに眠る赤ん坊が残された。
この時、誰がこれを予想できただろうか。
夜空は変わらずに安寧を湛え人々を包んでいた。