ありがとう 6
自分の中に得体の知れない邪悪なものがいる。
王子は恐怖した。
これが伝承の蛇神なのか。
そしてまさか自分が剣の神子だったとは。
真名の誓約によって時折感じていた無意識とはまた違う感覚である。
はっきりと意識を保ったまま、自分が自分ではない何かによって動かされようとしている。
思いたくないがどうしても思ってしまう。
何故、自分がこんな目に。
アシュバルの平定が終わった。
最後まで残っていた王子は帰国前に翁社護と会う。
さほどの魔力を有していないとはいえ翁社護も魔法使いであり王子の身に起きたことは把握している。
翁社護は王子に再三に渡り気を確かに持つように忠告した。
「ゼナよ、自暴自棄になるでないぞ。復活までまだ猶予はある。それまでは無暗に刺激せぬよう静かに暮らすのだ。微睡みの中にある蛇神こそ無意識であるが故に恐ろしい。いいか、決して刺激してはならぬぞ」
「そんなに長く抗うことが出来るだろうか」
「耐えねばならぬ。ゆめゆめ死ぬでないぞ。お主は蛇神にとって大事な依り代。人の手にかかる事はもちろん、自死を選んだとしても強制的に蘇らされるはずだ。そして意識が戻ったその時にはきっとお主の大切なものが焼け失せているであろう。忘れるでないぞ」
「…………」
「お主ならこの苦難を必ずや乗り越えられる。ラーヴァリエの魔法使いどもにさえ近づかねば、誰がお主が蛇神の依り代である事など分かるだろう。問題は巫女のほうだ。教皇に利用されねば良いが……」
アシュバルの民は偽りの姫がラーヴァリエの北方守護家に嫁いだと思っている。
当然本当の姫もそこにいると思っている。
王子も今更姫と婚姻関係にあるのが自分だと言わなかった。
言えば誰に洩れるか分からないからだ。
「利用? 異教徒の巫女を?」
「当代の教皇は自分がラーヴァリエの教典でいうところの救世主だと思うておるらしい。彼らの教典に登場する唯一神を騙る邪神とは蛇神のことだそうだ。邪神を倒し歴史に名を刻むのが彼の夢ならば、巫女は利用するに適した存在だろう。巫女が彼らに洗脳されねば良いが……我らにはそうならぬよう祈る事しか出来ぬ」
「我が父はよくラーヴァリエに顔を出していた。父から家督を継いだ俺もそのようにして不自然はない。北方守護家か。俺が様子を探ろう」
「お主も巫女に近づくでない。蛇の意識がお主に何をさせるか分かったものではないぞ。今の巫女が死ねば次の巫女がいつ誕生するか見当もつかなくなる。当然、蛇神の復活に間に合わぬ。巫女が力を手にするまでの間、果たして人々は生きているだろうか……」
「巫女をジウの大賢老に託すというのはどうだろうか」
「どうやってだ。大賢老は己から世界に関わろうとはせぬと聞く。ジウに直接届けるか、近くまで行ってやらねば自ら関与しようとはせんだろう」
「世界の危機であってもか」
「隠者とはそういうものだ」
「そうか……」
「姫がお主に嫁いでいればのう。お主の国はジウに近いのだろう?」
「言うほど近くはない。ここやラーヴァリエよりはよほど近いがな。それに、今は島嶼の海には帝国の船団がうようよいる。例え俺の元に姫が嫁ぎ巫女を産んだとしてもジウに送り届けるのは難しかっただろう」
「ふうむ、やはり成り行きを見守るしかないか……。まあいずれ妙案が浮かぶであろう。まだ時間はあるのだからな。お主も国へ帰ったら妻子を持て。己一人で生きようとすれば心折れるやもしれぬ。だが最愛の者がいればどんなに辛いことがあろうとも耐えられる。人間とはそういうものだ」
「自分の都合で他者を利用する行為を愛と呼ぶのが人間なら、そうかもしれないな」
出航の時間となり王子はアシュバルを後にした。
翁社護たちは船が見えなくなるまで見送り続けた。
ラーヴァリエに着いた王子はアシュバル平定の報告をする。
すると教皇は王子に別の労いの言葉をかけた。
「よくやった。大きな力を持つ赤子が産まれた。近いうちに我が元へ連れてくるが良い。祝福をせねなばらぬ」
当然のように教皇も知っていた。
だが姫の真実については知らない様子だった。
父王に迎えを要請しラーヴァリエに暫く滞在していた王子は迎えに来た父王と共に故郷に帰った。
一年ぶりに王城の外へ姿を現した王子に人々は驚き喜んだ。
民衆へは王子は重い病にかかったと教えられていたようだ。
それ以外はまるで時が止まっていたかのようにこの国は平和そのものだ。
ラーヴァリエと帝国の戦闘もイムリントで膠着状態になっているらしく、久しく戦闘は起きていないらしい。
王子が民衆の前に現れたと聞きカーリー・ハイムマンも飛ぶようにやって来た。
「御壮健なご様子、祝着至極にございます。いやお父上様から重い病にかかったと聞いて心配しておりましたよ」
「御心配申し訳なく思う。だがもう平気だ」
「一年も床に伏せねばならない病とは一体なんだったのでしょうか。それは……王城にいらっしゃるどこぞのご令嬢がたが関係してくる話でしょうか」
「……なんのことだ」
「調べればすぐに分かることです。貴方様はどこにもいらっしゃらなかった。入れ替わるように現れたあの二人は一体誰なのでしょうか。お父上は隠しているおつもりだったのでしょうが、王子のいない間にだいぶ好き勝手やっていましたよ」
「…………」
「安心してください王子、私らは貴方の味方です。お父上様は何か企んでいらっしゃるのではありませんか? 貴方の安全を確保いたしますので、お話してはくださいませんでしょうか」
「好き勝手とは」
「それはもう……色々です」
「……分かった。実は俺は父王の命で……ダルナレアに行っていた。……その二人については俺自身も確かめたいことがある。明日、時間は取れないか?」
「ダルナレア? 我らの同盟国の、あのダルナレアですか? ……分かりました。では明朝にお伺いします。当方はアロチェット大将にも同席をさせますが宜しいですか?」
「ああ」
王子はハイムマンの提案を好機と捉え嘘をついた。
ラーヴァリエとの繋がりを暴露し、完全に帝国の庇護下に入るほうが安全だった。
父王や妻は怒り狂うだろうがそんなことはどうでもよいことだ。
第一に守るべきは鞘の巫女であるし、自分を騙していた者たちには相応しい報いを受けて貰わねばならない。
王城に戻った王子は父に頼みこみ晩餐にアシュバルでの話をせんがため妻のアルコも同席させて欲しいと頭を下げた。
アルコは夫が戦場となっていた自分の故郷から帰って来たにも関わらず出迎えもしなかった。
ちょうど赤子の世話をするのに忙しかったらしい。
侍女も魔力を感じるにも関わらず姿を現さなかった。
王子は晩餐までの時間を用いて自室で神経を集中させていた。
気脈から魔力を辿るという技は実に精神力を使うものだ。
アシュバルにいた時に感じた鞘の巫女の魔力はここに来たら不思議と曖昧に感じるようになってしまっていた。
そのせいか侍女の魔力もあやふやで、いるにはいるが何処にいるかは分からなかった。