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気が変わったのか、父王は夫婦の営みに口を出さなくなったかと思いきやさっそく王子を国の代表と定めラーヴァリエに経つよう急かすようになった。
王子はこれを受けて侍女との別れを惜しみつつ、父王に首飾りを託され国を脱出した。
首飾りは持つだけで自身が扱えない魔法を使うことが出来るようになる代物だった。
思い描いた所に行くことが出来るという非常に便利なものだが、一方で記憶にある場所にしか行けないという制約があるらしかった。
王子はラーヴァリエに行ったことがない。
仕方がないのでお忍びでダルナレアに飛び、そこから神聖大陸を目指すことにした。
ラーヴァリエの首都エンスパリに着いた王子は一度父王の元へ帰って報告し、共に教皇に謁見して忠誠を誓った。
そして大聖堂の礼拝堂で唯一神に祈りを捧げて戦いの無事を願った。
ラーヴァリエ軍としてアシュバルに赴いた王子は王となった初仕事として自治政府に協力し反乱組織を鎮圧していった。
魔法にとどまらず奇妙な術を使う者が多いアシュバルでは多くの将兵は成す術もなく敵の凶刃に倒れていったが魔法を使える王子はなんとか生き延びることが出来た。
王子は多くの事を経験し、実戦に鍛えられ立派な戦士となっていった。
数か月も経った頃には幕下で最も信頼される将の一人にまで上り詰めた。
だが王子は悩んでいた。
反乱組織にアシュバルを想う民の姿を見たからだ。
彼らは数十年に及ぶラーヴァリエの非人道的な同化政策を批難し、民を生贄にすることで自分たちだけは特権を得ていた自治政府に怒り、民衆が心の拠り所としていた姫を友好の印としてラーヴァリエが連れ去ったことで起ち上がった義士だ。
ある時王子は自治政府の代表の一人である老人に戦場で得た疑問をぶつけた。
「翁社護殿、答えてくれ。討ち取った敵将が死の間際に言っていた。ラーヴァリエによって連れていかれた姫は本物の姫ではないというのは本当か」
かつてアシュバル人はラーヴァリエに占領された時に本当の王族を隠していた。
在野に落としても同化政策の憂き目から守れないが、親ラーヴァリエ派の中において存命させておけばいずれ復権の好機が訪れた時に担ぎ上げることが出来るからだ。
それを知らない人々が今、ラーヴァリエによって偽りの姫君が国外に連れ出されたことを嘆き内乱を起こしているのである。
両陣営とも守りたいものは一緒だというのに殺し合わねばならないとはなんと不毛なことだろう。
爺社護は王子の問いに答えなかったが後に白状する。
本当の姫に架せられた使命も併せて。
王子は戦いながら様々な事を知っていった。
姫の使命はこの小さな島国に収まらない、世界を巻き込む災禍に繋がっていたのだった。
アシュバルには死を司る蛇神がいた。
その神が目覚めれば世界中の生きとし生ける者はすべからく死を与えられるとされていた。
鞘の巫女と呼ばれる存在は蛇神に抗わんとした女神が作り出したとされている。
巫女は何世代にも渡って蛇神を封印してきたのだった。
時代が下り、そろそろ前代の封印の効力が薄まってきていた。
すると選ばれたアシュバル人の女は鞘の巫女の力を得るという。
本当の王家の姫はそれを裏付けるように導祖と呼ばれる女神の使者が夢枕に立ったことがあった。
伝承は真実となり、翁社護たちはいよいよ姫を全力で守らねばならなくなった。
鞘の巫女が決まったということは既に蛇神をその身に宿す依り代は誕生しているはずだ。
その者からの妨害がある可能性が高い。
丁度良く偽りの姫の縁談が決まったのは幸いなことだった。
偽りの王家の傍付きの召使の家に生まれた娘として生きて来た本当の姫の素性を知る者は翁社護たちの他になく、姫はラーヴァリエに怪しまれることなく国外へ脱出することが出来たのだった。
だがこの選択も運命と言う大いなる流れによって定められていたのかもしれない。
伝承には残っていない話だが、鞘の巫女は蛇神を宿す依り代である剣の神子を強く意識するあまりその感情を好意と錯覚してしまうという因縁があった。
本当の姫は知らず知らずのうちに惹かれてしまっていたのだ。
ザニエ・ブロキスという剣の神子に。
王子がアシュバルに来て一年が経とうとしていた頃だった。
不意に王子は恐ろしい気配をその身に感じた。
同時に、魔力を見ることが出来る者たちも気脈を這いずり震わせた邪悪な気配に一斉に気づく。
蛇神が復活前の微睡みに移ったのだ。
繋世歴373年12月。
島嶼の小さな国で産声があがった。
粗末な納屋で、誰の援けもなく。
祝福されずに生まれた女の子は後に救世主と呼ばれるようになる。