穢れた炎 8
密林の中を足を引きずりながら進む兵士の集団がいた。
汗と汚泥で臭気にまみれ、垢で黒くなった顔の中にぎょろりと目だけが光っていた。
絶えず体が揺れる者、言葉にならない言葉を口走ってしまう者、今にも瞳から光が消え去りそうな者の中で幾人かが叱咤してなんとか隊の形を保っている。
その中にあり先頭で声を出し続けていた勝ち気な女性が後ろで兵卒に肩を貸す神経質そうな青年に声をかけた。
「中尉。そろそろ休憩にしよう」
「はっ。総員待機! 報告、現在我ら混成隊、少佐殿の御隊七名、我が隊六名の計十三名、異常なしであります」
「そうか、異常なしか。……おい貴様ら、腰を下ろせ。ちょっと話でもしようじゃないか」
女性はどっかりと脚を伸ばして座った。
怪訝な顔をする一同だったが再度促されて輪になって座る。
話とは一体何だろう。
イムリント攻略戦の生き残りたちは隊長カーリー・ハイムマン少佐の次の言葉を待った。
自決の下知だろうか。
なんとなくそんな予感がして皆はようやくかという顔をした。
終わりの見えない撤退戦はもうとっくに限界を超えているのは誰の目にも明らかである。
敵に掴まって辱めを受けるよりは動けるうちに自死を選ばせて貰えたほうがよほどありがたかった。
「さて、貴様ら。貴様らは帰ったら何がしたい?」
違った。
大方の予想に反してハイムマンはどうしようもない質問をしてきた。
今も敵が迫ってきているかもしれないこの状況に全くふさわしくない戯言である。
上官に意見することは憚られるものの諫めてしまったプロツェット中尉にハイムマンはしたり顔で首を振った。
「今そういう話はどうかと……」
「今だからこそだ。希望を持つことで士気を高めようじゃないか。おい、酔いどれクランツ。貴様はずっと元気だな。貴様から教えろ」
「俺ですか? 別に……まあ、そうだなあ……とりあえずさっぱりしたいっすね! もう……おまたが蒸れちゃって蒸れちゃって」
話を振られた特務曹長は大げさにおどけて股間を掻いて見せた。
確かに痒さは不衛生極まりない戦場での大きな悩みである。
掻きむしりすぎて傷がつこうものなら破傷風になってしまうかもしれない。
なるほど確かにと皆は頷いた。
「はっはっは、酔いどれにしてはまともな事を言いおって! ……私もだ。この痒さはどうにも我慢ならんな。……中尉、お前は?」
「この不遇を訴えます。未だ救援の船さえ来ないのはおかしい。事実関係を明らかにします」
「そうだな。私も同じ気持ちだ。いいか貴様ら。我ら全員が証人だぞ。書くものがなくて記録が取れん以上は記憶が鍵となる。不当に散っていった戦友たちのためにも我らは生きて帰らねばならん。いいな。……おい最強、お前はどうだ。帰ったら何がしたい?」
「俺は……よく分かりません」
「軍曹、少佐殿がご質問なされている。反抗的態度は控えろ」
「おーっとっとっと、おいハースト。こんなもん何て答えたっていいんだぜ? 飯が食いたいとか一日中寝たいでもいいんだ。正解なんてないんだから」
「……よく分かりません」
「軍曹、貴様!」
「まあ大変! どした、脳みそどっかに落っことしてきちゃった?」
「構わん中尉、ただの雑談だ。酔いどれ、茶化してやるな。おい最強の、焦ることはないぞ。まだあと一週間は歩き続けねばならん。自分は何がしたいのか、考える時間はたっぷりあるし帰ってからゆっくり考えるでも良い。我らは色々なことがあった。整理する時間も必要だろう」
「……はい」
「よしよし。じゃあ、でかぶつ。お前は帰ったら何がしたい?」
「女が抱きたいっすね」
「バーキン! 口を慎め!」
「わっはっは! そいつはいいな。元気があって大変よろしい。なんなら今するか?」
「えっ?」
「ずっと心配していたのだ。こんな上玉と寝食を共にしているというのに貴様らは夜這いのひとつもかけて来んからな。きっと玉無し連中なのだろうなと思っていたが、安心したぞ」
「…………」
妙な空気が流れた。
確かにハイムマンは貴族の令嬢であり容姿は整っているが今まではそんなことを考えている余裕などなかった。
誘っているのかと思うと途端に目の前の上官が女に見えてくる。
反応に困りながらも内心では期待に胸を膨らませている男たちを眺めていたハイムマンははっきりと聞こえた生唾を飲む音に耐え切れずに噴き出してしまった。
「わっはっはっは、信じたか? 信じたか? 残念だったな。馬鹿者、私は既婚者だぞ。国では最愛の夫が待っているのだ。この戦いが終わったらしっかり子作りにも励まんといかんから貴様らの子種を受け入れている暇などないのだ」
「まあお下品」
「王子の留守中に姦通するどこぞの姫のような真似など我が誇りが許さんわ」
「な、なんの話ですか」
「おっと……これは、まあ、例えだ」
「自分をお姫様に例えるだなんて……無理があるわよ三十代!」
「なんだと酔いどれ! 女は誰しも死ぬまでお姫様だ! 腋の臭いをくらえ!」
「どこの世界に腋を嗅がせるお姫様がいるのよ! あーくさーい! くさーい! く……あぉえっ……ごめ、ごめんなさい離してほんとにごめんなさい臭い死んじゃう」
「規律が……」
クランツの頭を脇固めするカーリー・ハイムマン。
あまりのくだらなさに笑う一同。
罪もなき少年たちを手にかけてしまった時から塞ぎ込みがちになっていたロブもこの時は流石に微かに笑った。
そして無意識に従軍していただけの心に小さな温かさが灯り、帰りたいとさえ思えたのだった。
目を覚ましたロブは寝ぐせだらけの髪を掻き上げて顔を撫でた。
今更どうしてこんな夢を見たのだろうか。
昔の思い出が夢に出ることは多々あったがこの記憶が蘇ったことは初めてだった。
何かの暗示なのかもしれないが夢は起きたら漠然としか覚えていないものである。
甲板に出る。
三月の初めの朝は潮風が少し肌寒かった。
交代制の兵士たちが慌ただしく駆ける中、水平線には微かに陸地の影が見えてきている。
物見の声を聞きロブは成程、これのせいかと独りごちた。
「ハイムマン……みんな。とうとう来たぞ」
かつての仲間たちと共に目指し、攻略の叶わなかったイムリント要塞の先の地。
場所こそ違うがついに到達したのだ。
惜しむらくはロブには肉眼で捉えることが出来なくなっていることか。
ラーヴァリエ信教国の本土、神聖大陸への上陸が文字通り目前に迫っていた。