穢れた炎
虚ろなる山にて時の賢者が顔を上げた。
大いなる気脈の乱れがジウの死を告げる。
しかし部屋の奥の扉は開かない。
これもまた予定された歴史であるがゆえに。
ルーテルは眉間に皺を寄せた。
先ほどから妙な物音が聞こえてくる気がしていた。
そしてこの臭いはなんだ。
まるで何かが燃えているような……。
聖域・ジウの大樹の前で門番を務める牛の亜人が気づいたのは襲撃から少し経ってからのことだった。
この時すでに大賢老は使徒となったアルカラストによって志半ばの一生を終えている。
ジウは三百人からなる住人が内部で暮らせるほどの巨木である。
外にいるルーテルが気づけなかったのも無理はなかった。
後ろから誰かがやって来る気配がしてルーテルは振り返った。
大きな声で言い合いをしているようだがいずれかの夫婦喧嘩でも勃発したか。
予想ははずれ、現れたのは法衣の上に甲冑を着こみ口元だけを晒した鉄兜の集団だった。
ルーテルは頭が回らずぽかんと立ち尽くした。
兵士たちは獲物を発見すると歓喜の叫び声をあげ槍を構えて突進してきた。
体重を乗せた衝撃と共に穂先が毛深い脇腹に吸い込まれる。
ありえるはずのない敵襲に思考が追い付いていなかったルーテルはそこでようやく事態を飲み込んだ。
攻撃に反応しないルーテルを不思議そうに見ていたラーヴァリエ兵の頭に拳が振り下ろされた。
まるで紙のように兜がひしゃげ、隙間から砕けた西瓜のような肉片が勢いよく飛び散った。
今度は兵士たちが唖然とする番だ。
後ずさり槍を抜いても血が出ない。
ルーテルの皮膚は分厚く魔導の力を得た装甲義肢でようやく傷つけることが出来るほどであり、生身の人間の刺突など全く意に介さないのだ。
ジウの門番が地面に刺していた手斧を軽々と持ち上げて横に薙いだ。
手斧と言ってもルーテルの巨体だからそう見えるのであって普通の人間なら五人がかりでも持ち上がらないような大きなものだ。
兵士たちの上半身が血煙を上げて吹き飛んだ。
猛牛の目が血走り盛り上がった胸板に血管が走った。
「なんだこれ……は!?」
大樹に入ったルーテルは自分の目を疑った。
神殿から黒煙が上がり、内部の壁面に螺旋状に掘られた階段の至る所では逃げ惑う住人が殺されていた。
背を射られる老人、木槌で顔を潰される青年、そして上からは人が落ちてくる。
傷ついて足を滑らせた者、生きたまま放り投げられた者と目が合い、遥か下で爆ぜる。
ルーテルの大声が空洞を震わせた。
怒りのあまり鼻血を流し、口から泡を吹く猛牛。
これほどにまでこの男が怒ったことがかつてあっただろうか。
だが今までよりもずっと思考回路は冷静だった。
下に行くべきか、上に行くべきか。
出入口は運命の分岐点となる。
近さで言えば頂までの距離よりは神殿のほうが近い。
大賢老の安否が気になるし、道中にも食堂があるので救える命があるかもしれない。
だが夕刻であるこの時間帯は談話室や居住区のある上のほうが住人は多い。
救える人数で言えば上へ向かったほうが多いだろうし可能性も高い。
何故なら人々が上へ上へと逃げ惑っている様子から察するに敵は何らかの方法で下から入り込んだからだ。
ただしそうなると大賢老がますます心配になる。
イェメトはなにをやっているのか。
奴が侵入を許してしまったことなどジウ始まって以来のことだろう。
にも関わらず何か対処しているようには見えない。
睡眠魔法や魅了の力で迎撃することも出来るだろうに。
すると自分の見立ては間違いでイェメトから先にやられてしまったのか。
次第に選択に焦りが混ざっていく。
その間にも住民たちは殺されていく。
ルーテルは自分の額を殴って迷いを絶つと世界最高の魔法使いの耐久に賭けて上を向いた。
腕力だけで言えばルーテルはジウ一を誇る戦士だ。
襲い掛かるラーヴァリエ兵など敵ではなかった。
階段を駆け登り、出入口のほど近い場所にある談話室に飛び込んだ。
そこは血の海となっていた。
見知った顔が光を持たない目で方々を向いている。
流石のルーテルも反射的に目を逸らしてしまった。
その先に部屋の角でうずくまる女性の姿があった。
女性は子供を守り、その背中は幾度となく刺され原形を留めていなかった。
「アンジー……か?」
誰にでも優しく新参者の住人には特に一生懸命世話を焼いていた女性だ。
その胸の中から伸びる小さな手も切り刻まれ力なく地面に垂れていた。
ルーテルは吐いた。
もはや感情が分からなくなり、体が震えて止まらなかった。
「か、階級があがったんだ。感謝すべきだよ」
声が聞こえた。
談話室の外から何者かが話しかけてくる。
口元を拭い手斧を構えるルーテル。
やはり奴が絡んでいたのか。
「ルビク……。貴様、自分が何をやったか分かっているの……か」
「僕、僕は、ぼ、僕にしか出来ないことをやったんだ。僕がいなければ、皆を救済することはで、出来なかった。僕が一番すごいことをやったんだ」
「きさ……ま……。そうか……リオンの時のように、今度は奴らを連れて来たの……か。よくも……よくも皆をこんな目に合わせた……なあ!?」
「みんなは僕に感謝しているよ! 僕は正しいことをした!」
噛み合わない応酬はついにルーテルの理性を失わせた。
拳が砕けんばかりに手斧を握りしめ階段へと飛び出すと裏切り者の青年が恐怖や嘆きの入り混じった醜悪な笑みを浮かべていた。
だがそれは囮であり、ルーテルは階上にいたアスカラストに背後を見せてしまう。
使徒の放つ魔法の矢の雨が容易く戦士の体を貫いた。
体制を崩すも身体をよじり反撃を試みるルーテル。
しかし二弾目が手首に当たると拳は手斧もろとも吹き飛んでしまった。
三連目の矢は胸板を、腹を、膝関節を、目を射抜く。
声もなくその場に崩れ落ちた牛の亜人の血が階段を滴り落ちた。
「ああ……救われた……!」
恍惚に目を潤ませる使徒は上機嫌で上に登って行った。
青年はルーテルが動かなくなったことを確認すると談話室に入った。
昔の思い出が少しだけ蘇る。
叫びたい衝動に駆られたルビクは金切り声を上げながら血が出るまで頬を掻きむしった。
唯一神を賛美する合唱が響いた。
血塗られた人々はやり遂げた顔で天を仰ぐ。
大樹の頂からは黄昏の空は見えない。
立ち昇った煙がイェメトの部屋に逃げ込んだ人々を燻し出し、ジウは最後の一人に至るまで救済された。
燻る部屋の中で慈愛のイェメトはいつも通り微笑んでいた。
契約者たるジウが死んだ今、彼女も残存する魔力を消費して消える運命にある。
しかし原初の精隷たるイェメトは依り代を持たないはずだ。
どうなるかと様子を窺うアルカラストの前でイェメトは静かに消えていった。
すると驚くべきことが起った。
アルカラストの持つジウの心臓にイェメトの魔力が流れ込んだのである。
更生官長はブロキスがジウの心臓を持ち帰れと言った意味を理解した。
イェメトが半永久的に継続して実体を保っていられたのはジウが自身を精隷石としていたからだったのだ。
最強の精隷を手に入れた。
これがあれば蛇神の復活を快く思わない邪教徒たちの邪魔を完全に阻止することが出来る。
勝利を確信したアルカラストの高笑いが聞こえる。
談話室の前には血痕だけが残っていた。
点々と血の跡が続く大樹の前の道。
ルーテルは持ち前の生命力で即死を免れていた。
しかし身体の損壊が激しく意識は朦朧としている。
戦意などとうに失っていた。
ジウに背を向けて足を引きずりながら少しでも遠くに離れる。
袂に広がる湿地帯の手前にあったイェメトの睡眠魔法の壁はもうない。
目指す先は亜人の国アルマーナ。
男は領土を巡り仲違いしていた隣人に最後の望みを託さんとしていた。
情けなさで大量の涙が溢れる。
蹂躙されるがままに蹂躙され、なにがジウの有力な戦士だろうか。
自分は何も出来なかった。
たった一人を救う事さえも。
「お、俺は……俺は……無力だぁ……!」
アルマーナの者ども、テユカガ。
誰か仇を討ってくれ。
オタルバ、リオン、ロブ・ハースト。
誰か……。
巨体が揺らぎ湿地帯に倒れ伏す。
水飛沫が上がり毛皮を濡らして血が広がっていく。
水面から半分顔を覗かせた左目が空虚に蝕まれ。
そしてルーテルが立ち上がることは二度となかった。