吸血姫(短編)
吸血姫
月が美しい夜だった。
湖が月光を照らして揺らいでいる。
「ねぇ…起きてる?」
彼女は静かに問うた。
小さな声だが、それよりも静かなこの部屋ではよく聞こえた。
「今日で、あなたと出会って何日になるのかしら」
「色んなことがあったわね。ほんとうに。最初はあなたのこと、全然好きなんかじゃなかったのに」
彼女は椅子の背に向かって少し微笑んだ。
その奥のベランダは月明かりが微かに照らしている。
「真っ黒な髪。無駄に大きな体。まぁ、今ではそれも…見る影もないわね」
椅子の横をゆっくり歩いて通り抜ける。
記憶の中の彼を瞼の裏に浮かべながら、小さな歩幅でベランダへと向かう。
「あなたの声も。あなたの匂いも。あなたの温もりも。全部、当たり前だった」
冷たい夜しか生きられない私を。
照らしてくれたのはあなたの優しさだった。
またこうして夜が訪れても、あなたのくれたものがたくさん私をあったかくしてくれる。
「いつもあって、当たり前で。あなたがいるのが私の日常で。あなたがいるから、毎日が楽しくて、幸せだったのね」
優しい月は、遠くから眺めるだけで。
光だけが、包んでくれる。
真っ暗な夜の闇の中で。
「わかってたことよね。お別れは、来るものだから」
振り返って、歩き出す。
椅子に座り、薄い光を帯びた彼の顔を見つめる。
「寂しくなんかないわ。あなたがここに来る前に戻っただけよ」
「ただ…それだけなんだから」
独りは嫌いじゃない。ずっと独りだったから。
きっと、慣れてしまったのだ。
人の温もりに。肌のあたたかさに。
なぜか、孤独が怖く思える。
怖いのは孤独なんかじゃない。
彼を忘れてしまうことだ。
彼女は感じていた。
胸がずっと痛むのだ。
彼を想うと、胸が痛む。胸が痛むと、切なくなる。
心に穴が開いて、ヒュウヒュウと風が吹いているように、胸の奥に拭いきれない喪失感があることをずっと感じていた。
抱きしめてほしい。頭を撫でてほしい。
話をしてほしい。笑顔を見せてほしい。
それも全て、叶わない。
「今日は、私の220回目の誕生日よ?ほら、祝ってよ」
静かな部屋は、彼女の声を呑み込んでしまう。
「祝って…よ…。おめでとうって、大きくなったなって言ってよ…。2人で、また来年も祝おうって、言ったじゃない…」
潤んだ瞳が雫を落とす。
「あなたの好きだったこの白い髪、今ではお揃いね」
美しい髪と透き通るような白い肌。
吸血鬼の彼女は優しく囁いた。
あなたが言ってくれたこと
一つも忘れてなんかいないわ
永遠にいられなくてもいい
君のそばで静かに睡ることが、一番好きなことなんだ
君が立派なレディになるまで、僕は生きられないけれど
君を悲しませてしまうけれど
それでも僕と生きて欲しい
君はまるでお月様だね
変わらない美しさで、いつも僕を包んでくれる
「愛してるわ…あなた…。今までも、これからも。永遠に、あなただけを…」
彼女は独り鎮魂歌を口ずさんだ。
ハッピーバースデーと。
月の光は優しさと儚さを帯びながら。
2人きりを包んで溶けていく。
永遠に、いつまでも。