32 解放
香の行。
風譫行とも呼ばれるその修行は、お香の力を使って外界の情報を遮断し、自身の内面=魂と向き合うというものであった。
意図的に譫妄状態を作り出す……まあ要するにハーブでトリップする訳だな。そしてトリップして外界の情報に鈍麻すると見えてくる(らしい)自分自身というものを見つめ直す事が、魂の位階を上げる一歩になるらしい。
何と言うか、やっぱり胡散臭い新興宗教みたいな話である。
魔法のある世界でなければ積極的に拒否したい方法だろう。
しかしこれは歴とした神聖魔法の修行方法で、実際に目の前に神威からの防御法を身に着けた者も居る。
簡易な方法でしかも修行の一部分でしかないため、ヘックス教授も魂の位階を上げるというレベルには至っていない。つまり高位の神聖魔法を十全に行使する事はできないのだが、日常生活は問題無く送れるのであれば今の俺にも試す価値はあるはずだ。
そういう訳で早速この方法の実践をお願いしたのだが……、
「え、ここでやるんですか?」
「ああ、せっかくだから皆でやれば良いんじゃないかと思ってね。心を強くする行だから、誰がやっても損は無いよ」
ますます怪しい宗教の勧誘じみてきたな。
目に隈のある陰気なおっさんが言っているのだから余計にそう感じる。
それにそもそも修行なのだから、何らかの危険が伴うんじゃないだろうか。損は無いという事だが、危険があるなら少なくともシータは除外する方が良いだろう。
俺がその事についてヘックス教授に問うと、どうやらトリップの度合い自体はそこまで深いものじゃないらしい。あくまで香の力は補助で術者の自身を見つめ直す意志が無ければ成り立たない修行のようだ。
それにこの修行は気付け用の丸薬(ぶっちゃけ解毒薬)を口に含んで行うので、終えたい時はそれをかみ砕けば良いらしい。
「なるほど、そうですか」
そこまで言うのなら、まあズーグとトビーは参加で良いか。
魂の位階云々はともかくとして、もし精神抵抗力が上がるのなら探索者である俺達にとってはやって損はないだろうしな。
ただ、やはり問題はシータである。
「シータ、きみはどうしたい? おれはやっぱりおすすめはしないけど」
「ええっと……私はやってみたいです。こんな機会二度とないでしょうし。兄さん、良いですか?」
シータは興味を持ったらしい。
妹に許可を求められた過保護な兄は、渋い顔をしながらもそれに頷いた。
「トビー、いいのか?」
「ええ、オレとしても危険な事はさせたくありやせんが。でもシータだってこれからの事を考えなくちゃいけない。興味があるなら何でもやらせてみるべきでしょう」
そう語るトビーの顔は保護者のそれであった。
シータが幼い頃に両親を亡くして以来、親代わりになって育ててきた兄は、しっかりと彼女の未来の事を考えているようだ。
「そういえば、この娘さんも探索者なのかい? チームで来ているという話だったけど」
「いえ、この子はこのトビーの妹で、さいきんおれが呪いを解いた相手です。今はおれがこんな調子なので手伝いについてきてもらっただけですよ」
「へえ、解呪をやったんだ。大変だっただろうに、大人の男でもあれはキツイらしいからね」
俺が解呪を行った時ズーグも似たような事を言っていたが、やはり普通に解呪を行うと相当苦しむ事になるらしい。それでも呪いに侵されたままよりは、と解呪を求める人は多いが、苦し過ぎて解呪を完全に行うのに数日掛かる事もあるそうだ。
しかし、シータの時にはそんな事は無かった。
原因はまず間違いなく魂魄魔法であるが、ヘックス教授が知らないという事は一般的にも知られていないと考えて良いだろう。
となれば、これは交渉材料に使えるかもしれない。
今のところヘックス教授からは何も対価を要求されていないが、流石に無償という事はないだろうしな。
と、そこでシータから苦痛は無かったと告げられて驚いたヘックス教授と目が合った。
彼も俺の特殊性によるものと考えたようである。
「ヘックス教授、この件を今回のほうしゅうとしてもよろしいでしょうか」
「む、先読みをされてしまったね。まあいいか、じゃあそういう事で」
先制攻撃で言い放つと、ヘックス教授は少しおかしそうに笑みを浮かべた。
そして報酬の支払いは後程という事になり、ようやく俺達は香の行を始める事になったのであった。
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応接テーブルに置かれた香炉を囲むようにして、俺達は椅子に腰かける。
最初に行に挑むのは俺とズーグとシータだ。師匠とヘックス教授、トビーは見届け人となる。
全員で一気にしないのは安全面を考慮しての事である。ヘックス教授を信用していない訳ではないが、だからといってトリップする時にあまりに無防備を晒すのも逆に礼を失している気がしないでもない。
同じ理由でトビーも後発組にしてシータの行を見届けてもらう事にした。
ヘックス教授が香炉に火を入れ、うっすらとした煙と共に、部屋には独特な匂いが立ち込め始めた。
鼻を香炉に近づけて多めに煙を吸い、人為的な譫妄状態に入る事でスタートだ。
俺達はヘックス教授に手渡された丸薬を奥歯で挟み、香炉を順に手に取って煙を嗅いでいく。
これで修行が始ま……って言うかくせえ。
お香ってのは薄いくらいで丁度良いものだから、こんな風に思いっきり嗅げば臭いのは当たり前だろ。
と、香の匂いにそんな感想が浮かんだ時にはもう、俺は「状態」に入っていた。
周囲は見えているのだが、見えていない。
何か誰かが話しているように思えて、耳鳴りのようなキーンという音が満ちている。
匂いはお香の良い香り……いやなんだこの匂い、すっぱいような甘いような……。
体の感覚は曖昧だ。手があるのは感じるが、そこに意志が通らない。
かろうじて呼吸をする感覚は残っていて、ゆっくりと、深い呼吸で意識が落ち着いていく。
吸って、吐いて、落ち着いていく……。
落ち着いていく……。
落ち着いていく。
落ちていく。
落ちて、
堕ち、
……いつの間に俺は目を瞑っていたのだろう。
真っ暗闇の中にいた。
そうだ。
俺は暗闇の中にいるのだ。
瞼を閉じた状態とは違う、暗黒に満たされた空間。
その中を俺は漂っていた。
それを意識できれば、すぐにそれに気付く。
闇の彼方にある小さな光。
あれは俺だ。
いや、俺の魂だ。
……何となくと言うか、思い出してきた。
俺は神威を跳ね除けるための精神修養をやっていたのだ。
すっかりそれを忘れていて、俺は薬物トリップの恐ろしさを感じた。
だが今はそれはどうでも良い事だ。
ヘックス教授はこの修行は自分と向き合う事と言っていた。
あの光が俺の魂で間違いないのなら、俺はあそこに行くべきなのだろう。
不思議とアレが俺の魂だと確信がある。
しかしどうやって行けばいいのか。
手足は……動く。暗黒をかき分けるようにして泳ぐ事ができる。
この暗黒は不思議だ。
圧迫感なんて無いのに、手足を動かせば水よりもしっかりとした感覚で捉える事ができる。
俺は水泳をするようにバタ足にクロールで暗闇の中を進んでいった。
途中、俺は暗闇を泳ぐのに夢中になっていた。
ふと顔を前に向けて意外と光が近くにあってびっくりしたくらいである。
近付いてみて分かったが、光は人型をしていた。
俺の形を取っているんだろうか。
これはもしや、自分の写し身と戦わされる少年漫画にありがちな修行なのか。
下らない事を考えているうちに光のもとへ辿り着いた。
その人型の光は俺ではなかった。
女……? いや男か。
印象が揺らいでいて掴みどころが無い。
息を飲むような美形である事には間違いないが、角度によって男にも女にも見える。ゆったりとしたローブを着ているので体型もよく分からない。
中性的なのではなく、男と女どちらでもある。
そう表現するのが正しいような、美しいヒトであった。
――と言うかあんたの横に浮かんでる光の玉、それ俺だろ?
言葉にせずとも通じたのか、そのヒトはコクリと頷いた。
――そうなるとあんたは何だろう。ああそうか、あんたウィスパーさんだな?
俺の直感に対し再び首肯。その後、首を振る。
合っていて、そして間違いでもあるという事か。
ウィスパーさんそのものではないと推理するのが妥当なところだろう。
いやはやしかし、まさかこんなところで手掛かりに出会えるとはな。
自分探しの最中に見つかるとは流石に思わなかった。
まあ俺の中にはウィスパーさんが与えた力があるのだから、こうして俺の中に存在するのは当たり前なのかもしれないが。
とにかく、ここであったが百年目である。
会話はできなさそうだが意志疎通はできそうなので、色々と質問してみよう。
と、俺がそう思ったところで、ウィスパーさんが後ろを振り向いてどこかを指さす。
見ればうっすらと、赤い光が見える。
あれは多分俺の外にある力だな。何となくだが。
次にウィスパーさんが俺を指さした。
――あの赤い奴を俺に倒せって言ってるのか。
これも直感……恐らく思念が伝わっているのだろう。ウィスパーさんの意志に従いそう聞くと、やはり首肯が返ってきた。
でも多分あの赤い奴には勝てない。
超越存在ほどではないにしろ、凄まじい力を感じた。
――なあ、俺を強くしてくれないか?
――超越存在の神威にやられて満足に行動できないんだ。
――少なくとも俺には赤い奴は倒せない。少なくとも今の俺じゃあ無理だ。
――まずは魂の位階を上げて、神聖魔法をまともに扱えるようにならないと。
思いつくまま、矢継ぎ早にウィスパーさんに俺の意志を伝える。
ウィスパーさんとの突然の邂逅はあったが、俺は当初の目的を忘れてはいなかった。
そこに俺の魂が在るんだ。
こいつが強くなれば、俺は強くなれる。
俺が俺の魂(の光)に手を伸ばそうとすると、ウィスパーさんに遮られる。
何でだ?
何で邪魔をする?
彼(はたまた彼女)はビッと音が聞こえるくらい鋭く俺に指を突き付けてきた。
何だと言うのか。
俺は魂を強くして、超越存在の圧力に打ち勝たないといけないのに。
するとウィスパーさんは、今度は俺の背後に指を向ける。
後ろを向くが何もない。
次に右。
何もない。
次に左。
何もない。
次に上。
何も……いや。
そこには闇がある。
分かったぞ。
つまり、
「この闇こそが超越存在か」
言葉を発した瞬間、俺の意識はぶつりと途絶した。
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