第320話
「おかあさん! ペティア!」
男の子はケンをそこに連れて行く。
そこには、確かに男の子——————名前はクオート——————の母と妹がいた。
いや、あった。
「………そんな」
「………っ」
ミレアは絶句し、エルは怒りを堪えるような表情をしていた。
「よかったね、おかあさん! もうちょっとでまた動けるようになるよ!」
クオートは母を揺さぶる。
だが、返事はない。
「ペティア、動けるようになったら、また喋られるようになったら今度こそにいちゃんと一緒におままごとしてあそぼう! 何がしたい? ペティアがしたい遊びなら何でもしよう!」
クオートは妹に話しかけた。
話し続ける。
話し続ける。
話し続ける。
だが、彼女も母親同様に返事をしない。
「おとうさんってば酷いんだよ? 僕がおかあさんとペティアを “直そう” と頑張ってるのに、もうダメとか諦めろとか言うんだよ?」
その何もないように振る舞った表情が、かえって狂気を感じさせた。
何度もクオートは話しかける。
何度も、何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、クオートは話しかけた。
「………クオート」
ミレアとエルは後ろを振り向いた。
衛兵。
おそらく、クオートの父だ。
「おとうさん! へっへん! 僕諦めないもん! だからほら! 病気直せる人連れてきたよ! いりょうのこころえってお医者さんみたいなことだよね? お兄ちゃんそれがあるっていってたよ! だからほら、 “直して”? 」
血走った眼、抑揚が無くなっていく声。
その表情はまさに狂気に満ちていた。
クオートのこころは壊れている。
決定的に、粉々に、跡形もなく。
「………すみません。こんなところまでお呼びして。まだ、受け入れられていないのです」
父親はミレアにそう言って謝った。
「いえ………」
父親はクオートに近づいてこういった。
「クオート………いい加減にしなさい」
「いい加減? 何を?」
「いい加減に受け入れなさい………」
「だから受け入れるって………」
「母さんとペティアは死んだんだッッ!! 俺にこれ以上そんなことを口に出させないでくれッッ!!!」
クオートの母は、建物に潰され、半身が無くなっていた。
妹の方は、全身ボロボロで、捨てられるように死んでいた。
2人とも、楽な死ではなかっただろう。
父親は涙を流しながらそういっていた。
クオートの目がガタガタと泳ぎ始める。
「………嘘だよ。嘘だよ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ、嘘だッッッ!!!」
クオートは恨めしそうな目で父をにらめつけながらそう言った。
「ねぇ、早く“直し”てよお兄ちゃん。おかあさんとペティアを“直し”てよ!! ねぇ! ねぇってばぁあ!!」
「………」
何も言わない。
ケンは何も言えなかったのだ。
「………………おかあさんは、いっつもケーキを焼いてくれるんだ。僕の大好物なんだ」
「………」
「ペティアは将来魔法使いになりたいって言ってたんだ。毎日勉強して、いつか本当にえらい魔法使いになって、おとうさんとおかあさんの役に立ちたいって………」
「………」
「もう、ダメなのかな………ぁ?」
「………………!!!」
クオートは、今まで堪えていた何かが決壊して、初めて涙を流し、諦めを口にした。
「もう……ケーキ食べられないのかなぁ? ペティアの夢は叶えられないのかなぁ………」
ケンは、酷く焦燥したような顔を一瞬見せた。
今まで決して見せなかった余裕のない表情。
ミレアは初めてそんなケンを見た。
「嫌だ、い、やだ、よ………いや、いや………!」
ミレアは絶句した。
人が狂気に歪んでいく様を見るのは、これが初めてだったのだ。
「ぁあ………あああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
人が壊れる瞬間。
自分を支える柱が壊れる時、人間は人として大切な何かがこぼれ落ちる。
この少年は、それを失ったのだと自覚してしまった。
「クオート………」
父親は表情が完全に消えて無くなったクオートを抱き寄せた。
「………」
ふらっとケンがクオートに近づく。
「ケン君………?」
クオートの目の前に立つ。
そして、クオートの目を見た。
「………辛いよな。悔しいよな………治してやれなくて、ごめんな」
「!!」
正直、別人なのかと思った。
その声は、あまりにも優しく、繊細で、包み込むような安心する声だった。
表情もずっと柔らかい。
だが、
「誰かを失う、何かを失うことほど怖いことはない。俺たちが一番恐れなくちゃいけないのは孤独なんだ。でも、お前にはまだ父ちゃんがいるだろ?」
あ、とミレアは声を出しそうになった。
今、正論を投げかけるのは逆効果だと思ったようだ。
だが、声を出さなかったのは、ミレアより先に父親が出てきてケンの胸ぐらを掴んだからである。
「………やめろ」
微かに殺気が籠っている。
確かに、ケンがやっていることはかなり非常識だ。
ミレアはそう感じている。
「………俺は、こいつにこのまま壊れて欲しくない。こいつにはまだ希望はあるんだ」
「何を根拠に………」
「こいつは、ここに来る前に、街の怪我人のいる方に寄れと言った………………多分、どこかでわかってたんだと思う。こいつはとっくに、諦めていたんだ」
故に壊れた。
相反する二つの感情がぶつかって、ぶつかって、ぶつかり続けた結果、周囲は跡形も無くなって、クオートの心は磨耗しきってしまった。
父親はガタッと膝をついた。
「ぁ………俺の、 所為だ。俺が、この子を理解してあげなかったから。は、はは、はははは! 君と、同じじゃないか………いや、まだ俺の方が救いようがない。俺は何度もこの子に事実を突きつけた………だからこの子は………」
ケンはクオートと父の肩を抱いた。
「そうじゃない。アンタは何も悪いことはしてない。アンタはこいつに本当のことを教えて立ち上がるのを手伝おうとしただけなんだ。自分が辛いという事をよそに、ただただ我が子を思って行動した。いい父親じゃねぇか。アンタは誰にも責められない。もちろんこいつだってちゃんと理解してる………きっとそうだ」
ミレアはそんなケンの言葉をじっと聞いていた。
なんて優しくて、悲しい声なんだろう。
思わず泣きそうになってしまうような声だった。
「大丈夫だ。アンタなら、きっとこいつを立ち上がらせてやれる………………アンタは、俺の親父とは違うんだから」
「——————!」
父親はハッとしてケンの顔を見た。
慈愛に満ちた顔だ。
その表情が、一層彼を悲壮に見せた。
彼も同じだったのか?
もしかして、彼には支えがなかったのか?
もしそうだとしたら、あまりにも………
ケンは一度親子から離れて、母と妹の遺体に近づいた。
「ッッ………!!」
魔法で瓦礫を消滅させる。
そして、残った遺体をきれいに整え、氷魔法で凍らせた。
ケンは炎魔法を持っていると思われる魔法具を父親に渡した。
「いつか、こいつがちゃんと立って、前に進めるようになったら、そん時は一緒に葬ってやれ………じゃあ、な」
ケンは踵を返して家を出た。
ミレア達もそれに続いていく。
何も語らない。
ただただ無言に歩いていく。
ミレアもエルも、何も話さなかった。
いや、話せなかった。
家を出た後のケンの顔を見てしまったからだ。
多分この時のケンの顔を、ミレアは一生忘れられないだろう。
怒りなどという感情は通り越している。
とにかく、 形容しがたいほど恐ろしい何かを、 ケンに見たのだ。
あれは正に、修羅と呼ぶにふさわしい男の姿だった。




