第3章 正体
――ぽつり。頬に水滴が落ちてきて初めて、櫻子は目を覚ました。
辺りは暗く、冷えきった空気の隙間を縫う様にして細かい雨が降っていた。見上げると、雨粒が大木の葉を伝って落下していた。自分の体を見下ろすと、服が少し濡れている。
櫻子は慌ててウィンドブレーカーを着込み、折り畳み傘を差した。こういう時の為に持ってきて良かった、と安堵しながら。
腕時計を確認すると、もう6時になろうかという時刻だった。ここに来てから一体、何をしていたんだっけ。英単語を覚えて、お花を摘んでみたりして、お弁当食べて、お腹いっぱいになってうたた寝したんだったか。
それにしても、こんな時間まで眠り込んでいたなんて……。普段眠りの浅い彼女は、自分の健康状態に疑問を持ちつつも、石原の待っているであろう家へ戻る事にした。
「すみません、今帰りましたー」
玄関の戸を開け、真っ先にそう言った。人の良い石原の事だから、今頃心配しているかも知れない。そう思っていたのだ。
しかし、居間へ行ってみても彼はいなかった。彼の寝室や、他の部屋も覗いてみたりしたが、やはり彼の姿はない。風呂やトイレも空っぽだ。
用事が長引いているんだろうか。それともまさか、あたしを探して外へ? ……にわかに不安が湧き上がる。
ぐう。櫻子の腹が鳴った。やだなぁ、こんな時でもあたしの胃袋は呑気だ。
彼女は溜め息を吐き、台所へ移動して冷蔵庫を開けた。中にはまずまずな量の食材が入っている。
野菜が多いから野菜炒めでも作ろうかな。勝手に作っていいのかどうか分からないけれど。
櫻子は少し乱れた髪の毛を括り直し、手を洗って料理を始めた。
トントントントントントン……
野菜を切り、ボウルに入れていく。料理経験が少ない櫻子だが、手際は中々良い方だ。
だが、彼女にそんな事を気にしている余裕は無かった。また、奇妙な感覚が体を支配していたからだ。冷気、寒気、震え……
また、あの子が来る。本能的にそう感じた。
『……ねぇ』
予感していた通り、声がした。少女特有の高く澄んだ声。
「……ごめんなさい。あたし、あなたの事はまだ、分からない……」
櫻子は手にしていた包丁を強く握り締めながら、震える声で必死にそう言った。
例えこの言葉が少女の逆鱗に触れるとしても、先に言っておかなくてはならないのだ。時間を引き延ばしたってなんの意味も無い。
『……お姉ちゃん。安心して。私、怒ってないよ』
すると、少女の声は突然優しくなった。櫻子は『お姉ちゃん』という言葉が突然飛び出した事に驚いた。
『でも、私悲しいの。本当に、私の事分からない?』
「……ごめんね。分からない」
『……そっか』
ふぅー、と少女が息を吐くのが聞こえた。人間らしい溜め息。
『――すみれ、だよ』
「え?」
スミレ。スミレって、なんの事だろう。
『私、すみれっていうの』
「あ……すみれ、ちゃん?」
『そう』
顔は見えないけれど、少女が微笑した様に感じた。急に少女が身近な女の子の様に感じられて、櫻子は混乱した。
「すみれちゃんは……どうしてあたしに、話し掛けてくれるの?」
『あのね。それはね』
すみれちゃんが短く息を吸う音。
『すみれが、お姉ちゃんの妹だからだよ』
「……え?」
櫻子は、包丁から手を離した。
「妹、って……あたし、1人っ子なんだけど」
『ううん、本当は違うんだよ。お姉ちゃんもすみれもまだ小さい頃に、すみれは誘拐されたんだ。だからお父さんとお母さんは、すみれはもう戻って来ないと思って、最初からいなかった事にしたんだと思う』
そんな酷い話が、本当にあるだろうか。確かに櫻子の両親は多少冷たいところもあったが、誘拐された妹の存在を揉み消すなんて事が出来るのだろうか?
『ねぇ、お姉ちゃん。信じられないかも知れないけど、本当の事なんだよ』
そうやって、純粋そうなその声で訴えかけられると――櫻子はどうしても、信じる方向に傾いてしまう。
それによくよく聞いてみると、その声の透き通り方は母のそれにそっくりだったのだ。
「分かった。ちっちゃい時に誘拐、されたんだよね。じゃあどうして、ここにいるの?」
『それはね。誘拐犯が、石原さんだからだよ』
「……え、な……」
今度こそ櫻子は絶句した。あの石原さんが、誘拐犯? あそこまであたしに親切にしてくれた、あの人が?
『でも、悪い人じゃないんだよ。あの人はすみれの事が好きみたいで、とっても優しくしてくれるんだ。だからすみれ、石原さんの事お父さんだと思って過ごしてきた』
悪い人じゃないと言われても、誘拐はとても残虐な行為だ。残された家族をずっとずっと苦しめるのだから。とてもまともな人間のする事ではない。
「すみれちゃん、それはおかしいよ。だってすみれちゃんの事を誘拐したんでしょ? 石原さんは悪い人だよ」
『そう、かなぁ? だってすみれ、石原さんに育ててもらったから……ううん、でもすみれ、本当はあの人の事好きじゃないのかも』
「うん、あんな人好きになっちゃ駄目だよ」
『そうだよね。ありがとうお姉ちゃん。……すみれ、ずっと本当の家族に会ってみたかったんだ。血の繋がった、本当の家族に……うっ』
すみれちゃんは泣きだした様だった。嗚咽を交えながら、泣きじゃくる声が聞こえる。つられて櫻子の瞳も潤む。
『やっと会えたね、お姉ちゃん……嬉しい』
「あたしも、嬉しいよ」
自然とそんな言葉が零れる。
『大好きだよ、お姉ちゃん』
「あたしも、だよ……」
櫻子は涙を手の甲で拭い、なるべく明るい声を出そうと努めた。
「ねぇ、すみれちゃん? あたしの前に出てきてくれないかな。あなたの姿が見たい」
『あ、そうだね。すみれも大きくなったお姉ちゃんをまだ見てないや。……じゃあ、出るよ?』
「出るって、どこから?」
笑いながら、櫻子は問う。
『んとね。今は、テレビの下の収納にいるの』
櫻子は、少し離れた所にあるテレビの方を見た。成程、そのテレビ台はやけに大きい。小さな女の子なら余裕で入れるだろう。
けれど、あんな所から話して声が通るなんて少女とは思えない声量だ。まぁ、今はそんな事どうでもいい。
「そんな所にいたの? ……じゃあ、出ておいで」
『うん。……行くね、お姉ちゃん』
「ええ」
櫻子は思った。例えすみれちゃんがどんな姿をしていようと、出てきた瞬間彼女に駆け寄り、抱き締めてやろうと。
しかし、櫻子はそうしなかった。そうは出来なかった。
何故なら、テレビ台から窮屈そうに身をよじって出てきたのは――
薄汚いおじさん、だったからだ。
「……は」
櫻子は笑顔を引き攣らせた。
その太った男は、眼鏡の奥の目をぎらぎらと光らせながら、品定めする様に唇を舐めて、こちらに近付いてくる。
じゅるじゅる、という唾液の音がはっきりと聞こえてくる。
「お姉ちゃん、久し振り。すみれです」
嗚呼、その声は。明らかにうら若き女性としか思えないその声は。
間違いなく、その男の口から聞こえてくるのだ。
「い……いや!! ど、どうして!? どうしてなの!?」
「どうしたの、お姉ちゃん。そんなに慌てて」
男は首を傾げながら、なおも近付いてくる。
駄目だ。逃げてもどうせすぐ追いつかれる。押し倒されたらそれで終わりだ。一体こいつはなんなの。あたしはなんでこんな目に――
「お、ね、え、ちゃ、ん」
男は両手を広げ、笑顔で櫻子に迫った。
「来ないでっ!!」
櫻子は咄嗟に、包丁を掴み取って男へと刃先を向けた。
――サクリ。言葉で表すとそんな感じだった。
そんな感覚で、刃先に何かが刺さったのだ。
数秒後、櫻子はぎゅっと瞑った目を、恐る恐る開けた。
彼女が見たのは、血だった。真っ赤に噴き出した、血。
「あ……あう……あ……」
男は高い声で呻きながら、ゆっくりと倒れていく。激しい勢いで血を流しながら。その血しぶきが、自分の体に掛かる感触……
「あ……ち、ちが……そんな、つもりじゃ」
手で口を覆い、男から遠ざかる。
違う。こんな事する気じゃなかったのに。
どうしてこんな事に。
「おぉ……お、ねえちゃん……う、あ……」
紛う事無きすみれちゃんの声が、必死に訴えかけてくる。
「す……すみれちゃん、ご、ごめんなさ……」
「なん……で……な……の……」
男が櫻子に向けて挙げていた手が、ぱたりと落ちた。
そして男は、完全に動きを止めた。
「すみれちゃん……そうだ……聞いた事がある……純玲……純玲!!」
櫻子は途端に男に駆け寄り、涙を流しながら叫んだ。
全てを、思い出したのだ。
「純玲!! あたしの大切な妹だった、そうよきっと、きっとあなたに違いない……なのに、あたしは」
グロテスクなその死体を、櫻子はそっと抱き締めた。
「……本当に、ごめんなさい。ごめんなさい……」
櫻子はとても長い間、男を――純玲を、抱き締めていた。
そして涙が完全に止まってしまうと、櫻子は純玲を離した。
「……さようなら」
櫻子は血まみれのまま、外の暗闇へと飛び出した。