第1章 予感
どうしてこうなっちゃったんだろう、ってたまに思う。
当たり前の事をして過ごしていただけなのに、予想もしていなかった悪夢の中へと突然放り出される事がある。
今もそう。本当にどうして、こうなっちゃったんだろうな。
あたしはただひたすら、雨の中ぬかるんだ道を走っていた。泥を跳ね上げ必死に脚を動かすけれど、どこまで行っても木々が生い茂っていて、一体いつになったらこの悪夢は終わるんだろうと不安になる。
逃げていた。何からかは分からない。でも逃げるしかない。恐ろしくて恐ろしくて、呼吸がどんどん荒くなる。
あたしは悪くない筈なんだ。最近色んな事が上手くいってなくて、その気分を晴らそうとしていたら、あの子の思いにふと触れてしまった。
けれど、あたしにはどうせあの子の気持ちを受け入れる事なんて出来なかった。だから仕方がないじゃない。
「……うっ」
突然、心臓がチクリと痛む。あたしは胸を抑え、その場にうずくまった。
ああ、あたし……もう駄目かも知れない。
お父さん、お母さん。思うところは沢山あるけれど、とりあえず今までありがとう。そしてさようなら。
あたしは犯罪者になりました。
さらりと乾いた夏の風を受けて、木々の葉はそよそよと心地良い音を立てる。
そんな森の中を櫻子は歩いていた。東京都心部で生まれ育った彼女は、目にする機会の少ない緑豊かな光景に心安らいでいた。背負ったリュックサックの重みさえ忘れてしまう程に。
彼女が目指しているのは、この先にある宿泊先だった。
間近に迫る大学受験のプレッシャーや人間関係に疲れ、ストレス解消の為に数日前申し込んだ民泊。知らない人と同じ家で過ごす事への不安も先程まではあったが、杞憂だろう。この大自然の中で生活出来るというだけで、既に彼女は心を躍らせていた。
……程なくして、視界の先に開けた場所が現れた。その中央で、中々立派な日本家屋が櫻子を待ち構えていた。
間違いない、あのサイトに載ってた画像と同じ所だ。彼女は石畳の上をゆっくりと歩き、玄関の前で止まった。
引き戸の脇には、場違いな感じもする現代的なインターホンが設置されている。そのボタンへと指を伸ばす。
――穏やかな風が止まり、長いポニーテールが櫻子の背中にもたれ掛かる。
この家の方と上手くやっていけます様に。そんな願いと共に、彼女は指先に力を込めた。それに応えて軽快なメロディが鳴り響く。
『はい』
「こんにちは。民泊の予約をさせて頂いた一宮と申します」
『ええ、承っております。少々お待ち下さい』
そこまでのやり取りを終え、櫻子はほっと一息吐いた。声の主はどうやら男性らしい。
それにしても、どうしてこれだけの事にいちいち緊張してしまうのだろう。この巨大な家に気圧されているんだろうか。
しかし、彼女はそれ程気の弱い女子では無かった。むしろしっかりしすぎて女らしさが欠損しているのは、自他共に認めるところである。
と、いうところで引き戸がカラカラと開き、中から痩せた中年男性が出てきて「初めまして」と言った。
「家主の石原敬二です。本日は遠い所からようこそお越し下さいました。どうぞ宜しく」
そう述べて彼は深々と頭を下げた。櫻子も慌てて言葉を切り出す。
「はい、ご迷惑をお掛けする事も多々あるかと思いますが、何卒宜しくお願いします」
そういって礼をする彼女に、石原は笑顔を見せた。眼鏡の奥で光る細い目は優しそうで、櫻子は安心した。
「ではどうぞ中へ」
「あ、はい。失礼します」
石原に促され、櫻子はその家へ一歩足を踏み入れた。
……彼女はその瞬間、足先から奇妙な冷気が這い上がってくる気配を感じた。
思わず床に視線を移す。だがそこには何もない。コンクリートで塗り固められた土間があるだけだ。
「どうかされましたか?」
石原の柔らかい声で、櫻子は我に返った。
「いえ、何でも。すみません」
「何か困った事があったら、おっしゃって下さいね」
「はい……」
櫻子は心の中でその冷気を振り払い、靴を脱いだ。
石原は中庭に面した廊下を進み、一番奥の部屋の前で足を止めた。
「あっちはトイレですね。で、ここがあなたの部屋です。中へどうぞ」
「はい」
言われるがまま中へと入る。そこは1人で使うには少し大きい、畳部屋だった。
「わぁ、広いんですね」
櫻子が思ったままを口にすると、石原は微笑して頷いた。
「ええ、ゆっくりくつろいで下さいね。クローゼットや収納は自由に使って頂いて構いませんよ。では荷物の整理など済まされましたら、居間へ来て下さい。あちらにございます」
彼は今入ってきたのとは別の所にある戸を指差した。
「一緒にお話でもしましょう。では、待っています」
「はい、ご親切にありがとうございます」
「いえ」
彼は軽く会釈して部屋を出た。
石原敬二。彼は親切で丁寧で、下心の無さそうな男だ。家主としてまず問題は無いだろう。
問題は……この家、なのだろうか。一歩足を踏み入れた時の、奇妙な感覚。さっきからずっと止まない寒気。これは一体……
いや、そんな事を考えていても仕方ない。まずは指示通り、荷物を片付けてしまおう。
櫻子は手始めに、持ってきた着替えを仕舞う為クローゼットを開いた。
――その時。カタカタ、という小さな音が天井から聞こえてきた。
「えっ?」
櫻子は一瞬、体を強張らせた。……が、すぐに気を取り直した。どうせネズミか何かだろう、気にする程の物でもない筈。
しかし、その考えはすぐに吹き飛んだ。
『ねぇ』
「え、え……!?」
声が聞こえたのだ。先程の石原とは似ても似つかぬ、幼い女の子の声が。
「誰……なの」
櫻子は震える声で、呟く様にそう言った。しかし返事は無い。
……駄目だ。独りでいるのは危険かも知れない。
櫻子はクローゼットを開け放したまま、居間へと通じる戸を開けた。
石原の言う居間――正確に言えばLDKは、広々としたフローリングの空間だった。部屋のほぼ真ん中にテーブルと2つの椅子、そしてにこやかな笑みを張り付けた石原の姿があった。
「随分と早かったですね。さ、ここに掛けて下さい」
「あ、はい……」
どうやら彼には、先程の声は聞こえていなかったらしい。至って平然としている。
「この部屋だけ全面フローリングなんですよ。改装工事をしてね。もう随分古い家なんですけど、まぁそういうのも風情があるといいますか、家全体の雰囲気は壊したくないと思ってるんですけどねぇ」
「ええ。とっても良いおうちですもんね」
「あぁ、そう言ってもらえるとありがたいです。私は割と若い頃にこの家を買いましてね――」
石原の話を聞く振りをしながら、櫻子はあの女の子の声について思いを張り巡らせていた。
あれは、何歳ぐらいの子の声だっただろう。短い言葉だったから判別し難いが、声の高さや舌足らずな口調からして、小学生ぐらいな気がする。
どこから聞こえてきただろう。天井だったかな。直前にカタカタと音がしたのは、あの子の動く音だったのだろうか……?
「――まぁ、私もここでの独り暮らしは長いんですけれども」
「……え」
櫻子はふと、石原の話へと意識を引き戻した。
「ちょっと待って下さい。石原さんは今もここでおひとりで?」
「ええ。最初は寂しいですけど、慣れれば好き勝手出来て楽しいですよ」
気楽そうに喋る石原の前で、櫻子は凍りついた。
やはり、あの子は石原の同居人ではないのだ。という事は。
――座敷わらし。そんな言葉が、彼女の脳裏をふっとよぎる。
石原は、気付かずにこの家で暮らしているのだろうか。座敷わらしは大人には見えない、とどこかで聞いた事がある。
彼はここでの独り暮らしは長いと言った。見知らぬ少女と2人、ずーっとこの家で同じ時を過ごしていた……なんて可能性も、あるのだろうか。
次々と浮かぶ不気味な想像を決して口に出すまいと、櫻子は唇を引き締め、ごくりと唾を飲んだ。