女剣士と淫魔剣士の百合
月下、剣戟が響き渡る。
広く拓かれた荒野、観客は一人とていないというに、見目麗しい美女二人、互いの剣をぶつけ合いながら、殺すといわんばかりに目を剥いていた。
否、まさに彼女らが行っているのは殺し合い、かつ世界を賭けた代理戦争であった。
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事の発端を知るにはまず、淫魔という存在について語る必要がある。
ある日突然現れたそれは、外見は露出の激しい女性、幼子から大人まで、角や尻尾の生えた個体もあり、夜にしか現れず、最も多く出現した時は十三人同時。
それらは銃器、刃物による傷は一切受けず、まるで肌が鋼鉄でできているかのようであった。彼女らの肌を触って生きて帰れた者はいないが、銃弾を受けてくすぐったそうにする姿は生存者の目によって見られている。
当初、剣を持って侵略に来た彼女らを自衛隊や警察が応戦したが、相対した男性は命令無視で襲い掛かっては返り討ちに遭うことが頻発し、一方女性がそうならなかったことから敵に男を狂わせる能力があるということが確認された。そうした事実からサキュバス、淫魔などと呼称されることになった。
男をかどわかす、淫らな姿の魔の存在、まさしく淫魔と呼ぶに相応しい存在だった。
ただそのイメージと異なる点が一つ。
彼女らは剣を持ち、女性隊員が銃剣で応戦し、偶然か剣を叩き落とした時、淫魔は悔しげな表情を浮かべ撤退していったという。
彼女らは、剣に誇りを持っていたのだ。
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女性であり剣技に優れた才を持つ者。それが淫魔に対抗するたった一つの術であった。
水戸美嘉は日本の代表として、淫魔リルムは日本を侵略する淫魔として、毎夜の如く一対一の決闘を繰り広げている。
が。
「チェストォー!」
美嘉が叫びながら放った胴への一閃がリルムの黒剣を弾き落とす。その勢いのままリルムの体も薙ぐ。
人間ならば真っ二つになっていただろう一撃に淫魔の体は無傷、しかしてリルムの表情は忸怩に歪む。
「……これで六百五十敗」
「また私の勝ちだ。懲りないなぁ」
慣れた手つきで美嘉は剣をしまう。その動作一つ一つ、リルムは睨むように恨めしそうな表情を浮かべて見つめていた。
淫魔にとどめは刺せない。故に美嘉は防衛として、常にリルムの剣を落とし続けてきた。毎晩のように現れるリルムと戦ってはこうして勝ち続けていた。
「じゃあまた明日」
「…………」
美嘉の言葉にリルムは無言で闇に溶けていく。超常の行為であるが、美嘉にとってはもはや見慣れた光景である。
淫魔であるが、リルムが誇り高き剣士というのは間違いなかった。彼女らが特殊な魔術めいたものを使えることは分かったが、美嘉との決闘においてそれを使ったことはなく、常に正々堂々とし、剣技にて敗北を認めては撤退をし続けているのだから。
また、その誠実さを表すエピソードとして、美嘉が唯一負けた戦いがある。
あれはそう、美嘉とリルムの決闘、その二十七戦目のこと。
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昼は道場主として子供たちに剣術を教え、夜は政府に任命された『日本最強の女剣士』として淫魔と戦う美嘉。
その戦いが始まって二十七日目。
この時点で美嘉はリルムに二十六連勝していた。
しかし敗北を続けるリルムは日に日に勝利への核心を抱いていた。一日ごとに相手の動きが見えるようになっていたのだ。
いつか勝てる、淫魔の長い寿命の中、剣士として敗北を重ねることは屈辱ではあったが、強い敵と戦う昂揚感、その相手と切磋琢磨して実力が近づく達成感は、むしろ心地いい屈辱とまで言えた。
敗北の中に見えた確実な勝利、それこそが例の二十七日目。
ついに美嘉が刀を落としてしまったのだ。
その時のリルムの喜びようと言ったら、もう。
『は……ははははは! やった! ついにリルムの勝ちだな、人間!』
喜悦極まれり、淫魔としてリルムも性行為などに喜びを覚えることはあれど、連敗し続けた相手に決闘で勝利することはこの上ない喜びであっただろう。
しかし、敗北した美嘉が辛酸をなめることはなかった。
転んだ姿勢のままで、はぁ、と疲れた溜息一つ。
リルムが何事か、と疑問を浮かべて。
やっとのことで、美嘉が溜まりに溜まった物を吐き出した。
『毎晩、毎晩毎晩毎晩毎晩、よくもまあ、飽きもせず、やってきたものだ! 人間は寝ないと死ぬんだ! せいぜい疲弊した人間相手に勝利して侵略すればいい! 種族の差で勝利した、剣に劣った淫魔風情が!』
美嘉の溜まっていた全てである。悔しいとかムカつくとかではなく、とりあえずありのままの想いを叫んだまでのこと。
彼女はとにかく疲労していたのだ。疲労の末でも負けは負け、と理解はしていたが、負けた今となってそれは全く悔しくはなかった。剣技に劣っていたわけではないのだから。
日本がそれで侵略される、とかも知ったことではなかった。どうせ自分は死ぬし、不眠不休で攻められればどの道人類は負けるのだから。
結局のところ、美嘉も誇り高き、剣に生きる戦士であったのだろう。彼女にとってリルムなど剣士ではなく不眠不休で攻めてくる魔物でしかなかったのだ。
だが、リルムの態度で話は変わる。
『……ふ、負け惜しみは見苦しいな。ならば明後日、リルムと再戦願おう』
勝ち誇った笑みのまま、闇の中に消えていったリルムは、仲間を呼ぶことも、美嘉にとどめを刺すこともせずにその日は消えていった。
そして確かに明後日に現れて、しっかり休んだ美嘉があっさりと勝利することになる。二十八戦目にリルムが勝利することはなかったわけだ
その時のリルムのぬか喜びといったら。
『……何故だ! 一昨日は確かにリルムが勝利を……』
『人間は脆いんだ。すぐに体調を崩し、剣が鈍る。お前くらいなら多少鈍ったところで問題なく勝てるが……』
まったくリルムにとって信じたくないことだが、なまじリルムにも実力がある分、実力差を十二分に理解してしまった。
今まで徐々に実力が狭まっていると感じたのは、それだけ美嘉が日に日に疲弊していっただけであると。
『……今後は二日に一度、決闘しよう。そして必ず私が勝つ!』
『あと二十年は私が勝ち続けるだろうが、構わない』
その美嘉の言葉を冗談だと思えないほど、リルムはすっかり落ち込んでしまったが。
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して、本当に決闘が続いてかれこれ五年になった。
ある時は三日連続で剣を競ったり、ある時は美嘉が病に倒れて一週間ほど戦わなかったり、と予定通りとは言わなかったが二人の決闘はそれだけの年月を築いた。
そんな異常な日常のある日のこと。
「……勝った?」
「……そうさな」
またも、剣を落としたのは美嘉の方であった、リルムに負けるのは五年振りにもなるが。
「体調を崩していたか? 前にかかった、インフル……エンザ、とか。食事を抜いたとか、眠れなかったとか……」
勝ったリルムがむしろ戸惑っていた。淫魔の一生にとって五年は短くとも、二人で紡いできた決闘の時間は永遠より長いほどに濃厚なものだったから。
その完成された詩曲にとって、もはや美嘉の敗北など不協和音でしかなかった。少なくとも、リルムにとっては。
だがそれは美嘉にとって予定調和でしかない。
「ふ、ふ、ふ。私も老いたかな。もう本来なら子を産み育てる年だ。……私の体調は万全だよ」
一ヵ月では埋まらぬ実力差も、美嘉はこの五年で着々とその差が縮まっていることを実感していた。
特に、剣道場で師範をし、子らに技を教えている美嘉にとって、その成長は目覚ましいものだった。
「……もう私が勝つことはないだろう。はっはっはっはっは!」
「な、なぜ笑う!? 何が可笑しい! もうお前は……リルムに殺されるということだぞ!?」
リルム自身が最も戸惑っていた。勝つことを切望し、人界を侵略すべきだったというのに、自分が勝利することなどありえないとさえ思っていた。
そして、美嘉を殺すなどということを――今、口にして初めてそれを実感してしまった。
殺せるわけがない。負け続けて、情けをかけられ続けたような相手を、一度掴んだ勝利だけで。
だが美嘉は剣を置き、地べたに正座したまま動かない。
「気分が良い、今のうちに殺してくれ。……私情だが、私は家では子供に剣道を教えていてな。……お前はよく伸びる、よく強くなる女だ。教え子のようで……ライバルのようで……、あぁ、満足だ。命が惜しくなる前に、早く、早く殺せ!」
「できない! リルムは……」
「ならば何故ここに来る! 殺す覚悟もなく決闘に来ていたか、淫魔よ!」
美嘉の叫びは当然の疑問でもあった。リルムに返す言葉もあろうはずがなく、その逡巡は両者にとって謎。
「殺さないというのなら……帰れ、二度とこの世界に、諸共来てくれるな。……お前の成長は喜ばしく、情けを懸けられたことも、今生きていることには感謝の念がある。だが、気まぐれに命を脅かすお前は不愉快だ」
「そ、そうじゃない……リルムはただ……」
「ただ、なんだ? 遊びにでも来ていたつもりか?」
敗者であるはずの美嘉の視線が戦意を帯び始める一方で、自己矛盾を抱えたリルムは戸惑い、後ずさりを始める始末。
表情の怯え、その脆弱な精神性すら行動になって現れる。一挙手一投足が惨めな敗残者を体現していた。
それを見て、美嘉はリルムを前にして、二度目の溜息を吐いた。
「はぁ。お前のような未熟者に負けるとは。全く、淫魔とは……度し難い」
「違う……違うんだ! リルムはお前に勝って、殺す気だった! だけどお前と戦い続けて、負け続けて……」
「そういうのを負け癖がつくというんだ。すっかり負け犬根性が染みついて己が勝ったということさえ受け入れられないというのなら、再戦してやる。明後日、またここで会おう」
五年前と同様に美嘉が負け、しかし再戦を申し出たのは五年前と違って美嘉の方。
美嘉の言い分が正しければ、再び戦ったところで勝つのは変わらず――
――ひときわ鈍い金属音が鳴り響いた。
一日空けた二人の決闘は、徹底抗戦した美嘉の刀をへし折ってようやく決着を迎えた。
獲物を失った美嘉は、以前と同じように正座し、凛とした視線をリルムへ向けた。
「……二度も言わせるなよ」
それ以上、言わない。一昨日言った言葉を繰り返す必要はないと、視線だけで示す。
リルムは今度こそ意を決して黒剣に手をかける。差し出された白い細首にあてがい、震える手の動きを止めた。
美嘉が目を閉じる。
何も、死ぬのが怖くないわけではない。
二日前、負けた瞬間は潔く、その生を終えられると思っていた。だが生き延びて、空いた一日できちんと全ての身支度を終えた。
……とても終わり切れるものではなかった。遺書や書置きを用意し、ごく親しい者や親族にだけ連絡を取り、その生を全うすることにしたのだ。
無論、敵である淫魔への気配りも忘れなかった。腑抜けでありつつも教え子のような戦士であるリルムだからこそ、殺すように仕向けるため、負けを認めず戦い続けたのだ。刀を折られては、それも完遂とはいかなかったが。
死は恐ろしい。だが今ある命は二日前に失われるはずだったもの。そう思えば怖さはいくらか薄れた。教え子や老いた父母を残すことになるが、それは剣士として致し方のないことだった。
諦めることは性に合わないが、一人の戦士を育て上げる行為と考えればそれも飲み込めた。
早く死ぬことになっても、真剣を思い切り扱ったことと、リルムと出会えたことは、そう悪くないと、そう思えた。
「できない!」
そんな美嘉の意に反するようにリルムが叫ぶ。
「できないわけあるかっ! こうやるんだ! 貸してみろ!」
と美嘉がリルムの剣を取ろうとするが流石にそこまではさせない。黒剣はリルムの手にしかと握られ微動だにしない。
「お前のような腑抜けが剣を握るな! 真剣とは! 殺し殺される覚悟を……力強いなお前!」
「リルムはお前を殺さないと決めた! そしてここにも来る! 負けた六百四十七回分勝ち越すまで!」
「そんなもの意味がない! 私はこれから負け続ける、私は老いて弱くなり、お前は強くなる! 浅慮な時間稼ぎはよせ!」
浅慮な時間稼ぎ、と言われてしまえば全くの図星だ。
確かに以前からリルムは美嘉への羨望のような感情はあったし、あまりの強さに、勝てない日々に悔し涙を流すこともあった。
だが、実力で二度勝利した今、リルムが抱く目の前の人間の『強さ』というものが変容したのだ。
「逆に、お前は何故死に急ぐ」
「死に急ぐわけではない。今は一度見逃されたことを感謝している。人として、長く生きたいのは当然だろう。だがこれ以上の延命は私達の決闘に泥を塗ることになる。お前と戦ったこの五年、六百四十……何回か、その全てを、今まで懸けてきた時間を、私達の関係を無駄にする行為だ。お前が外敵で、侵略者であったとして、私はお前に、奇妙な友情のようなものさえ感じていた。それは一言では言い表せられないが…………、今生、この世界で私と同じ境遇の者はきっとお前以外にはいない。世界で二人きりで戦い続けてきたお前だからこそわかる、美しい幕切れというものがあるだろう」
世界を背負う、その重みをリルムは知らない。それは美嘉が勝手に感じていたシンパシーでしかない。
だがリルムは喜んだ。自分が感じていたように、単なる敵意や害意だけではないと、その確認ができただけでよかった。その感情の詳しい差異などどうでもいいのだ。
無論、リルムに幕切れなど必要としなかった。
「そんなことは知らない! リルムは、そんな私達の関係を失うことが恐ろしい。今のままでありたい」
「……わかるとも。だが、それが正しいと本気で思っているのか?」
リルムが頷くと、美嘉はまた、溜息を吐いた。
「私はお前を殺せるのなら殺している。現状維持では、人間は変わらない。進歩も進化もない。そうなればどの道滅ぶだけだ。立ち向かい、抗い、諦めないことで人は生きてきた。変化は怖いものかもしれないが、恐れていてはいけない」
「……だがここでお前が死ねば、リルム達がこの世界を滅ぼすではないか。矛盾しているぞ。人間を生かすなら、私と浅慮な時間稼ぎをするべきだ」
甘い毒のような言葉を、全くの無邪気にリルムは言い切った。戦士として、ではなく一人の女として、大切なものを大切にしたいという純粋な気持ちを言葉で示した。
だがそれにも美嘉は首を横に振った。
「違う、違うんだ。それじゃ変わらない。どちらの道を選んでも確かに多くの者が苦しむことになるかもしれない。茨の道になるだろう。だが、大勢のことなど知ったことではない。人間の未来も私には関係ない。私は、私とお前の話をしているんだ。浅慮な時間稼ぎに溺れれば、今まで重ねた剣とこれから重ねていく剣は、全く違った物になるだろう」
どこか寂し気な表情で放った美嘉の言葉は、ようやくリルムに響く。
嘘の関係に変わってしまう、以前までの全て、五年間で培った互いの想いを失くすその意味。
だが、それでもリルムには美嘉を殺すことができない。
「……わかった。リルムもお前と無駄な時間を過ごすことはしたくない」
ようやく美嘉が頭を垂れるも、首は落ちない。
顔をあげると、既にリルムは消えていた。
二日経っても、三日経っても、リルムが現れることはなかった。
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夢魔とも呼ばれる存在であるが故に、まさしく悪い夢だったかのような。
いや思い出せば、なるほど確かに熱く激しく官能的な、昂揚し燃え滾るような時間であった。
リルムと別れて五年、水戸美嘉は刀を使った己が誰かと結婚するべきではないと一人身を固めていた。
淫魔の存在について秘匿するにあたって、そういった隠遁めいた生活は都合がよく、国家から充分な資金援助も受けているため困ることはない。
ただ余生を過ごすには少々長すぎる時間、退屈を持て余してはかつてのリルムとの蜜月を思い出してしまうのが玉に瑕であったが――
「いるか!?」
「……はぁ。全くなんで……何をどう考えて……」
「人間と共存することにしたのだ! 何分男は我々と出会うと理性を失うため難しいと思ったが……我々は海でも空でも生きていけるからな!」
「それなら、最初から共存を……」
「反論する仲間全員と決闘して、勝利して決めたのだ。お前とリルムの五年間のおかげだ! 私達、淫魔の全員が導き出した結果だ! お前が、リルムを変えてくれたんだ」
それがリルムの考えて決めた結果だった。多少強引で力ずくではあったけれど、心にある正しいと思う事を信じて突き進み、時間は少しかかってしまったが、成功した。
「国の代表達ともいい具合に話がまとまってきて、やっと挨拶に来れた。……ミト、ミカ」
初めてその名前を呼ばれたと言っても、既に美嘉は寂しげな表情を浮かべるだけで、大喜びなどとてもできない。
「……私はもう剣を五年握ってない。お前……リルムが満足できるような戦いは提供できない」
「構わない。……それより、教えてほしい。人間のことをもっと、ミカの傍で」
美嘉はリルムの前でまた溜息を吐いた。けれど、直後に笑顔を浮かべたのはこれが初めてだった。
バトル描写サボりまくっているのお判りいただけただろうか…