8 ご飯と夜空と
「…おっとすまない、考え込んでしまっていたな。腹は、減っていないか?」
「はら…はい、お腹はすいてます」
シャロを抱きしめながら虚空を見つめていたロリンをユームの言葉が現実に引き戻す。
抱きしめられ続けていたシャロはうつらうつらと舟をこいでいた。
自分がどれだけ気絶していたかわからないが、子供はもう寝ている時間なのかもしれないな、とロリンは思った。
「そうか、少し待っていてくれ」
答えを聞いたユームは意識を夢の世界へ旅立たせつつあるシャロを見て口元を緩めた後、何のためらいもなく飛び降りた。
ベランダとロリンが表現したその場所に柵などなく、一歩間違えば簡単に落ちてしまいそうで大丈夫なのかとロリンは心配していたが、大丈夫だからないんだな、と納得した。その上で、確かに風通しがよく涼しくていい場所だけど気絶してる少女をこんなところで寝かすか、と心の中で悪態をついた。
やることがなくなったロリンはとりあえずおねむのシャロを床に横にしようとし、毛布も何もなく硬そうだなと思いやめた。
ロリンは少し逡巡した後
「えいっ!」
意を決して膝枕した。
なされるがままのシャロは、横になった途端にすーすーと寝息を立て始めた。
かわいらしいその様子に、ロリンは目を細めてゆっくり頭を撫でた。
すやすやと眠るシャロは気持ちいいのか表情が緩んでいる。
着ているものから考るに、シャンプーや石鹸どころかお風呂に入っているかどうかも怪しいのに、するすると指をすり抜けるシャロの髪からはなんだかいい匂いがした。
瞬間、ロリンの手の動きが止まる。
突然止まった気持ちよさに、シャロはもっともっととねだるように頭を動かす。
それを見つめるロリンの目は、据わっていた。
シャロから漂う女の子特有のいい匂いが、ロリンの中の男子高校生を呼び覚ましてしまったのだ。
今、ロリンの頭の中で戦いが起きていた。
『ダメよロリン目を覚まして!あなたの理想の少女は女の子の寝込みを襲うの!?』
背中から羽を生やし、頭上に光るわっかを浮かばせたロリンが懇願する。服は白い貫頭衣だ。以下天使ロリンとする。
『うるせぇ!据え膳食わぬは男の恥だ!ヤレッ!』
それに対し、額から角を生やし、蝙蝠のような翼をもったロリンが声を荒げる。服は子供には行けないお店で女王様が着ているようなものだ。以下悪魔ロリンとする。
『うるさい黙れ死ねっ!』
天使ロリンが天使らしくない言葉を発しながら白い球体をいくつも悪魔ロリンに放つ。
『実力行使か望むところだッ!』
悪魔ロリンは口の端を歪めながら、黒い球体をいくつも放ち相殺する。
こうして始まった争いは三日三晩続いた。
世界は荒れた。
大地は裂け、海は割れ、西麻布は東へ移動した。
このままでは世界が滅びる。
ロリンの精神世界に住むすべての生きとし生ける者たちがそう思ったとき、奇跡が起きた。
争いあう二人の前に、白いローブを身にまとい長いひげを生やし杖を持ったロリンが天から降りてきたのだ。以下神ロリンとする。
神ロリンは言った。
『寝ているならノーカン』
荒れた大地には草木が芽吹き、海には生命が満ち溢れ、西麻布が麻布を併合した。
世界は、救われたのだ。
時は現在に戻る。
「神よ…」
実時間コンマ数秒の争いの末、ロリンは覚悟を決めた。
右手をシャロの頬に添え、ゆっくりと顔を近づけていく。
お互いの息が顔にかかり、まつげとまつげが触れ合いそうになるほど近づいたとき
「お姉ちゃん」
「ハイ」
シャロの目がぱちりと開いた。
瞬時に元の体勢に戻るロリン。
その表情は、驚愕、焦り、後悔と変わった後死を受け入れる受刑者のそれになった。
しかし、それは訪れなかった。
「お肉のにおいがする」
シャロはそう言って上体を起こした。
最初は手を握って見つめあっただけで顔を真っ赤にしていたのに、膝枕をされていた今回は全く感情を揺らした様子はなく、シャロの表情は真剣だった。
次の瞬間下からユームが飛び上がってきた。
手にはなんの生物の物かわからない骨付き生肉が握られている。
「お父さん!」
それを確認したシャロの目が輝く。
「大丈夫だ、お前の分もある」
「やったー!」
シャロの意識は最早一切ロリンに向いてはいなかった。
ロリンは胸をなでおろすとともに、罪悪感から神を奈落の底に封印した。
ロリンの目の前には今、自分の手に握られた謎生物の生肉があった。
ベランダの端から足を投げ出し、ぷらぷらと揺らしながらシャロを中心に三人並んでご飯の時間なのだが、ロリンにはこれを食べる決心がつかなかった。
趣味はVRMMOの現代っ子が生肉を食べた経験があるかといえば、ほぼないと言ってもいいだろう。ロリンはなかった。
食の安全が叫ばれる現在、だれが好き好んで生肉を、謎生物の生肉を食べるというのか。ロリンには受け入れられなかった。
なのでとりあえず聞いてみた。
「あの、焼いたりしないんですか」
それを聞いた二人が答える。
「焼いた肉を好む者もいるな」
「生のほうがおいしいよお姉ちゃん?」
口元を血で汚しながらしゃべる少女は無視し、ユームに向き直るロリン。
「でしたら――」
「だが、おすすめはしないな」
遮ったユームの表情は真剣だ。
「昔の話だが、焼いた肉だけを食べるものが一定数いたんだ。だが彼らは一様に病気になって死んでしまった。火病と呼ばれる病気だ。たまに食べるのなら問題ないらしいのだが、わざわざ危険を冒してまで食う必要もないだろう。悪いことは言わないから生で食っておけ」
真剣な表情でまくし立てたユームに、ロリンはさすがに、それは肉を焼くことによってビタミンが失われているからであって肉以外の野菜などで補えば問題ないしむしろ生肉のほうが菌とか寄生虫とかが怖いので勘弁してください、とは言えなかった。
隣を見れば、ユームの話を一切聞いていなかったであろう少女がおいしそうに生肉をむさぼっている。
ふ、とロリンは息を吐き、清水の舞台から飛び降りる決意で肉をかじった。最悪毒耐性スキルを超えるほどの猛毒をくらっても解毒のポーションを飲めばいいと割り切って。
ぶちりと肉をかみちぎり、噛んでから飲み込む。
「…おいしい」
異世界の肉だからかは知らないが、意外とおいしかった。
「でしょ?」
シャロが隣でほほ笑む。
ユームさんもうなずいている。
「そうだね」
ロリンはシャロに微笑み返して、生肉を咀嚼した。
食後、三人は何をするともなく星空を見上げていた。
森の夜は静かではなく、虫か何かの声に包まれていた。
「きれえ…」
意識せず、ロリンの口から言葉が漏れていた。
隣のシャロは一瞬不思議そうな顔をした後、すぐに何もなかったかのように鼻歌を歌いだした。しっぽが歌に合わせて床を滑っている。
そうか、ずっと森に住んでいると当たり前だからきれいとも思わないのか、とロリンは思った。
「何がだ?」
声はユームのものだった。
横を見ると、ユームがこちらを向かずに言っていたということが分かった。
彼は、森の奥のどこか遠くを見ているようだった。
ロリンもそれを確認すると、彼が見ているのと同じ方向を見ながら言った。
「星空が、です。わたしのいたところは、星なんて見えなかったですから」
事実だ。ロリンの家では星空など見えなかった。小さいころに行ったキャンプ場で見た星も、ここまできれいではなかった気がする、とロリンは思った。
「お前は洞窟にでも住んでいたのか?」
やはり顔を向けないままのユームの言葉には、疑問に加えて呆れの色があった。
そうきたか、と思ったロリンだったが、ここに比べれば元いた場所も閉塞感という点では洞窟とあまり変わらないか、と考え直し
「そんなようなものですかね」
と答えた。
が、すぐに後悔した。
「今のなしです」
「なし?」
ロリンの考える理想の少女は星が見えない都会のマンションに住んでなどいないのだ。
「わたしの住んでいたところは丘の上の赤い屋根の家でお父さんとお母さんは優しくてペットの犬は長い毛をした白い犬で庭にはリンゴの木が植えてあって――」
「わかったわかった!もういい!」
ロリンの設定披露は途中で止められた。
「わかってくれたらいいんです」
無表情で言い切るロリンに、ユームは呆れた顔をした。
そして
「ステータスを知らなかったことも考えて、やはり生まれた場所に何か…」
としばらくぶつぶつ言っていた。
シャロは
「ぺっとってなあに?」
と聞いてきたので、ロリンはユームのつぶやきを無視してシャロにペットの意味について説明した。
肉を食べ終わりしばらくした後、再びシャロがおねむになったので、三人は部屋の中に戻った。
樹上に建てられた家、とロリンは考えていたが、どうやらこの家は一部屋しかないようだった。
それに加え、あるものは最低限と言えるのかわからない量の必需品と数着の着替えと武器と毛皮が二つだけだった。
ユームはそのうちの毛皮の一つをとってロリンに放った。
「すまないが寝具といえるものはこれしかない。こっちは娘と二人で寝るから、それを使ってくれ」
そう言ってユームはシャロの服を引っ張ったが
「お姉ちゃんと寝たい…」
と寝ぼけたシャロに断られ、そういうことになった。
仲裁役の神を封印された戦争は、夜遅くまで続いた。
一日一話でやっていきます。
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