学校裏サイトのとある噂にまつわる『明王様』の話
01
「ねえ、『明王様』の噂知ってる?」
ある夏の日の放課後。
クラス一の噂好き、喜連川麗華はそんな話題を口にした。もっとも、彼女がこの手の話を僕らに元に持ち込んでくるのは、そう珍しい事じゃなかった。
「ミョーオーサマ? なんだそりゃあ」
このクラスの元気印、鷲頭太雅は、喜連川の言葉に関心を持ったようだった。この流れもいつも通り。鷲頭がこのグループの原動力になって、いつも事は進むのだ。
「私聞いたことがあります。確か、お願い事を叶えてくれるっていう、あの噂のことですよね?」
クラスでも評判の秀才、朝日結奈が喜連川の言葉を補足する。僕らの中でもずば抜けた知識量を持っていて、かつ僕らの行動にストップをかけるブレーキ的役割もこなしている。
「そうそう! 最近うちの学校の裏サイトでめちゃ盛り上がってるの! なんでも、そこに現れた『Myouou』ってアドレス宛にメールでアポ取って、で会って、丁寧にお願いしたらなんでも願い事を叶えてくれるんだって! チョー面白そうじゃない?」
喜連川は興奮した様にそう話す。
「なーんか胡散臭いけど、でも何でも願いを聞いてくれるっていうのはいいな! 100万円が欲しい、とかでもいいわけだろ?」
「あんたの願い事って子供っぽ過ぎ。思いつく大金が100万円って」
「いーじゃんかよ! 100万あれば大抵なんでもできるだろ。家買ったりとか、宇宙行ったりとか」
「できるか、ばーか」
憤慨する鷲頭を、馬鹿にした様子の喜連川。
「でも、その噂って、単にお願い事を叶えてくれるってだけじゃなかったですよね? 確か、その『明王様』を怒らせると、呪われてしまう、とかなんとか……」
朝日は少し不安そうに情報を付け足す。
「そうそう、よく知ってるわね。なんでも、A組の近藤とか3年の三宅先輩と石田先輩が最近学校に来なくなったのは、その『明王様』を怒らせて呪われちゃったんじゃないかって、もっぱらの噂なんだから」
話の内容はまったく笑えないものだったが、喜連川はかなり面白がっているようだ。
「呪われたなんてあるわけねーだろ。バッカじゃねーの」
今度は鷲頭が喜連川の言葉を馬鹿にする。
「だから噂だって、噂。あたしが言い出したんじゃないんだって。あたしだって呪いとかぜんぜん信じてないし」
喜連川は少し心外だとばかりにそう反論する。
「……でさ、あたしはこの噂の真意を確かめたいって思うんだよね。太雅だって気になるでしょ?」
「まーな。ホントにそのミョーオーサマって奴がいるなら、面が見てみたいもんだぜ」
鷲頭はニヤニヤとして、喜連川の言葉に乗ったようだった。彼が乗り気になったのなら、僕らのグループは、どういう形であれ動き出すのだろう。僕にそれを止めるだけの力は無い。
「結奈もいいわよね?」
「……う、うん」
少し気弱で怪談なんかが苦手そうな朝日は内心嫌そうだったが、喜連川と鷲頭に従った。まあそれでも、本当に止めるべきだと彼女が思ったのなら、頑固な彼女は意地でも抵抗しただろう。流されたということは、朝日だってそこまで否定的なわけではないのだ。
「よし。であとはあんただけよ、聖也」
喜連川は僕こと南雲聖也に話を振った。鷲頭も朝日も僕の方を注視する。僕には喜連川の興味を挫くことも、鷲頭の前進を止めることも、朝日を論破することもできないが、彼女らの舵をとることはできる。それがこのグループにおける僕の役割。最終判断はいつも僕に委ねられる。
「……わかったよ。少しその噂について調べてみよう」
こうして僕ら4人は、明後日から始まる夏休みを利用して、『明王様』の噂について調査を行うことにした。
02
「おいおい、マジでメール返ってきたぞ」
翌日の放課後、興奮した様子の鷲頭がスマホを片手に僕らの元へと駆け込んできた。
「メールって、昨日送ったっていう『Myouou』宛てのやつ?」
「そうそう」
喜連川の言葉にぞんざいに返すと、説明するのはまどろっこしいとばかりにスマホの画面を僕らに見せてきた。曰く、
『 七月三十一日 午後九時二○分
村磐中学校、第一理科室で待つ
明王 』
「だってさ」
村磐中学校とは、今僕らが通っているこの学校の事であり、第一理科室の場所は当然把握している。日時は4日後で既に夏休み、問題は無い。むしろ先生達があまり残っていなそうで都合がいいくらいだ。午後九時二○分に校内に入れるかどうかはやってみないと分からないが、所詮は片田舎の旧式の警備態勢、侵入はそう難しくはないだろう、と思っている。
「なあ聖也、イケるよな?」
ニヤリと笑みを浮かべる鷲頭。彼の中では既に決行することが決まっているのだろう。
「ここまでしといて、会いに行かないなんて言わないわよね?」
喜連川の静かなプレッシャー。
「わ、私は、聖也君が行くなら、行く」
朝日も喜連川達の意見に賛同している様子だ。つまりあとは僕次第ということ。さてどうしたものか。
正直、僕の中にも、『明王様』なる噂の真偽を確かめたいという好奇心はある。だが、『呪われる』という万が一が僕の決断を鈍らす。
『呪い』なんて非科学的なものが、本当に存在しているのだろうか?
……可能性は、限りなく0に近いはずだ。
つまり、『呪い』なんてない。
僕は心の中でそう結論付けた。
「……行こう。僕だって『明王様』ってのは気になるし、この機会を逃したらもう連絡がとれなくなるかもしれない。だったら行くしかないよな。皆、夜に家を抜け出せないなんて言わないよね?」
僕の言葉に全員がニヤリとする。
「俺んちはヨユーだ。門限とかめっちゃ緩いし」
「私はけっこう難しいかも。その日だけ結奈の家にお泊りに行こうかしら」
「私の家はぜんぜんいいよ。夜も、お母さんとお父さんに見つからなければ大丈夫だと思う」
全員の意見が一致したので、作戦は続行することになった。
03
七月三十一日、午後九時過ぎ。
村磐中学校の校舎内に、僕達はいた。
「……侵入チョーヨユーだったな」
鷲頭は興奮した様子で僕らに同意を促す。
「あんたは何にもしてないでしょ。学校に入れたのは、わ・た・し・の・お・か・げ。感謝なさい」
喜連川の言うことはもっともだった。
夏休みに入っているとはいえ少なからず学校にやってくる生徒はいるわけで、当然教師も学校に登校してきているのだ。それはつまり、常時と変わらず定時になると戸締りの見回りがあるということだ。僕達は、男性教師が見回りの際に女子トイレの戸締りを女子生徒に頼むという慣例を逆手に取り、戸締りの時刻に一階女子トイレ付近で待機していた喜連川が、教師の指示に従うふりをして鍵を開けたままにしておく、という作戦を決行したのだった。これにより僕らは夜間になっても、喜連川が鍵を閉めたふりをした窓から校舎内に侵入することができた。これは間違いなく喜連川の手柄だろう。
「……は、早く待ち合わせ場所に行った方が、いいんじゃないかな?」
そう言う朝日は、夜間に校舎に侵入してしまったという罪の意識に苛まれているのか、それとも単に夜の校舎が怖いのか、声が少し震えていた。
「なんだ朝日、ビビってるのか? ちょっと学校入ったくらいじゃバレっこねーよ」
「ばか! 結奈はあんたと違って繊細なのよ。この鈍感男」
「誰がドンカン男だ! 俺はめっちゃ敏感だっつーの!」
「あんたのどこが敏感だって言うのよ!」
「……二人とも、少し声のトーンを落としてくれないか」
いつものように口喧嘩を始める鷲頭と喜連川を、僕が窘めて止める。
僕達は朝日の言う通りに、『明王様』との待ち合わせ場所である第一理科室へと向かった。
04
「……まだ誰もいないみたいね」
理科室の中をそっと覗いた喜連川が、少々がっかりした風にそう言った。
「……でもよ、『ミョーオーサマ』ってのが幽霊と神様だったら、姿見えないんじゃないのか?」
喜連川に続いて理科室の中を覗いた鷲頭はぼそっと呟いた。
「ばっかじゃないの。幽霊なんているわけないじゃない。あの噂は、どうせどっかの誰かさんの面白半分なイタズラに決まってるわ」
「え! 願い事を叶えてくれるっていうから、てっきり幽霊とか神様みたいなのかと思ってたぜー。これで誰かのイタズラとかだったら、100万円貰えないじゃんかー」
「あんたは宝くじでも買ってなさい」
喜連川がぴしゃりとそう言って会話を終わらせた。そのままずんずんと理科室の中へと入って行った。鷲頭も恐れることなくそれに続く。廊下に残された僕と朝日。
「……えっと、朝日、お先にどうぞ」
廊下に一人女の子を残すのもどうかと思い、朝日に先を譲る。
「あ、ありがとう……」
消え入りそうな声でそう礼を言った朝日は、僕に向かって少しはにかむと、おずおずと理科室の中へと入って行った。
僕は心の中が少し浮き足立つのを感じながらも、平然を装って朝日に続いた。
理科室の中は当然真っ暗で、理科室独特のアルコールの匂いが鼻を突いた。喜連川と鷲頭が言った通り、部屋の中に人影は無いようだった。ただし、この暗さでは人が隠れていたとしてもわかりはしないが。
「ど、どうしましょう。あと5分で9時二○分になりますよ」
朝日に言われてハッとした。メンバーの中でスマホを持っている僕と鷲頭はそれぞれの画面で時刻を確認した。スマホを持っていない朝日がどうして正確な時間を知れたのかといえば、おそらく部屋の中の時計を確認したのだろう。この暗さで時計が見えるとは、なんという夜目なのだろうか。
「……堂々と待つか?」
「……いや、隠れて様子を見よう」
鷲頭に問われて、僕はそう答えた。その答えの中には、少しだけ、噂にあった『呪い』を警戒する気持ちも含まれていた。相手が幽霊でも神様でも人間でも、とりあえずむやみな接触は避けたいところだ。
僕達4人は、理科室特有の黒くヒンヤリとしたテーブルの影に身を潜め、入り口をじっと見つめながらその時を待った。
05
午後九時四○分過ぎ。
第一理科室の中で息を潜めてその時を待っていた僕達の集中力も、段々と切れかかってきていた。
「……ちょっと、誰も来ないし何も起きないじゃない。どうなってるのよ」
「……もしかすると『明王様』っていうのは、案外時間にルーズなのかもしれないですね」
朝日の場違いに呑気な言葉に、僕達の緊張は完全に緩んでしまった。
「ヤメだヤメだ。時間にルーズな幽霊も神様もあってたまるか。俺は約束守らない奴は嫌いだぜ」
「しょっちゅう遅刻してるあんたが言うな」
「誰がバカだと!?」
「まだばかなんて言ってないわよ! ばか!」
黙っていることに疲れていたのか、いつにも増して激しく口喧嘩をする鷲頭と喜連川。
「……やっぱり、『明王様』っていうのは、ただの噂だったんでしょうか?」
「……だろうな。まあ、朝日が言う通り、その『明王様』っていうのがちょっとばかり約束に遅れてるって可能性もあるけど、それならそれで、『明王様』の正体が人間だったんだろうって話さ」
「どうして人間だってわかるんですか?」
僕の言葉に、朝日が疑問を口にする。
「鷲頭の言う通り、時間にルーズな幽霊も神様もいないだろうって推測からだけど、間違ってるかな?」
「……幽霊にも神様にもお知り合いはいないのでわからないですけど、ちょっとくらいうっかり屋さんのお化けだって、いるんじゃないかなって、私は思いますよ」
ふふふっと自分の言葉に笑みをこぼす朝日。そんな仕草に内心ドキリとしながらも、表面上は動揺を取り繕って、行動方針を口にする。
「……今日は一旦これで終わりにしよう。全員帰宅だ。で、今後の事はまた明日話し合いをしよう」
僕の言葉に全員が頷く。
「じゃ、明日は太雅んちに集合ね」
「なんでいっつも俺んちなんだよ!」
理不尽だと喚く鷲頭に、喜連川は意外そうな顔をする。
「いいじゃない。この暑い中、家から一人出なくてもいいんだから。むしろ感謝して欲しいくらいだわ」
「お前らが来ると俺の部屋が荒れるんだよ!」
「あら、いつ行っても散らかり放題じゃないの。今更私達が少し散らかしたところで、何も変わらないでしょ?」
「いや変わるって! あれはあれで別に散らかってるわけじゃなくて、あの場所に一時的に置いてあったんだっつーの!」
「……二人とも、いい加減口喧嘩するのはやめてくれないか」
僕の言葉により、鷲頭と喜連川は口喧嘩を止めたようだ。僕が帰ると言ったことで、朝日はほっとしたような表情を浮かべていた。
僕達4人はテーブルの影から這い出してきた。
「さ、帰ると決まったらさっさと帰りましょうか。今夜は結奈んちにお泊りだし、楽しみだわ」
「ふふふっ、そうですね。でも、家に戻る時は、お父さんとお母さんに抜け出していたことが分からないように、こっそりですよ」
「わかってるわかってる。ねえ聞いてよ聖也、朝日ったらね、家からこっそり抜け出す時、自分の身代わりとしてぬいぐるみをベッドの中に仕込んできたのよ。マンガじゃないんだから、バレるって言ったのに、聞かないのよ」
喜連川がニヤニヤしながらそう言うと、朝日は顔を真っ赤にした。
「……だって、そういうものかと思ったんですよ……!」
そんな朝日の様子を見てなんともほっこりとした気分になりながら、僕達は第一理科室を出た。
「……あ、ずっと我慢してたんだけどよ、便所行ってきてもいいか?」
思い出したかのように鷲頭はそう切り出した。
「まったく、あんたはほんとに下品ね」
「うるせーよ! 便所くらい人間なら誰だって行くだろ! お前は一生便所行かないのかよ!」
「そういうの普通にセクハラだから。いいからさっさと行ってきなさいよ」
鷲頭はぶつくさと言いながら、喜連川に追い払われるように廊下の先にあるトイレへと行ってしまった。
「……こんな暗い中でお手洗いに行けるなんて凄いです。私は絶対無理です」
「あいつは単に何も考えてないだけよ。今が昼間なのか夜なのかもわかってないんじゃないかしら? 結奈、あんたは普通よ」
鷲頭の大胆さに少し関心していた朝日に、喜連川はそう付け足す。
「麗華さん、鷲頭さんにもう少し優しくしたほうがいいんじゃないですか?」
「いいのいいの。あいつとは腐れ縁で付き合い長いし、こんな感じがちょうどいいのよ」
「でもあんまり強く言い過ぎると、嫌われちゃいますよ……?」
「ハアッ!? な、何言ってんの!? べ、別に嫌われたっていいわよ、あんな奴! むしろ嫌われたいくらいだっていうか、私はめっちゃ嫌ってるっていうか――」
暗い中でも察することができるほど顔を真っ赤にしながら、わかりやすいリアクションをとる喜連川。
そんな喜連川と朝日の会話を横で静かに聞いていると、ポケットの中でスマホが震えるのを感じた。メールでも届いたのだろう。さては親に、部屋を抜け出したことがバレたか、はたまたトイレでビビってしまった鷲頭からのSOSか……。
僕は二人には気づかれないようにそっとスマホを取り出して、今着信したメールの内容を確認した。
『 謀ったな 』
「…………っ!?」
メールの文面を見て思わず声をあげそうになった。
件名は無く、文章はたったのこれだけ。僕はなんとなく嫌な予感を感じつつ、送信者を確認する。
「……あ……」
メールの送信者の欄に表示されていた名は、あの『Myouou』だった。
06
激しく脈打つ心臓をなだめる様に、静かに深呼吸した。
僕の元に届いた『Myouou』からのメール。つまりこれは、先程まで僕達が待ち合わせをしていた『明王様』からのメールということだ。
だがおかしい。
『明王様』にメールを送ったのは鷲頭だ。だから、『明王様』が僕のアドレスを知っているはずがない。メールを送ってこられるはずがないのだ。
その事実に気づいて一人震撼してしまった僕。
一人動揺する僕の耳が、喜連川のぽつりとした呟きを拾った。
「……ねえ、いくらなんでもあいつ戻ってくるの遅くない?」
喜連川の口調には、珍しく鷲頭を心配する声音が含まれていた。
確かに。
既に鷲頭がトイレに行ってから10分近く経っている気がする。さっきの感じでは腹を下していたわけではなさそうだし、確かに戻りが遅過ぎる気はする。
「暗くて、トイレットペーパーの場所が分からないのかもしれませんね」
朝日の至極真っ当な意見。その可能性は十分にあるだろう。だが、先程のメールを見てからずっと嫌な予感がしているのだ。
「……ちょっと皆で呼びに行きましょうよ」
喜連川の提案により、僕達は鷲頭が向かった廊下突き当りのトイレへと足を向けた。
07
「……中には誰もいなかった」
トイレの中を確認した僕は、そう二人に報告した。
「……そんな……じゃあ、鷲頭さんは……?」
顔を真っ青にする朝日。喜連川も焦りの表情を浮かべるが、朝日ほど悲嘆に暮れているというわけではなさそうだ。
「窓から、外に出たんじゃないの……?」
「窓からって、ここ2階だろ」
僕がそう指摘する。
そんなことにも気付かないような喜連川ではない。やはり動揺しているのだろう。
全員の頭に思い出されるのは、『呪い』という不気味な単語。不安に蝕まれそうな心を叱咤して、僕は二人に言葉をかける。
「……ここでこうしてても仕方ない。どうするか決めないと」
「……捜す。あいつを捜さないと」
焦点の定まっていないような表情をしながら、それでも喜連川ははっきりと言った。
「そんな……危険です。誰か大人の人に任せたほうが……」
「それで明日の朝まで待てっての!? のんびりしてて、その間にあいつが呪われたっていいっていうの!?」
朝日の肩を掴んで乱暴に揺さぶる喜連川を、僕は朝日から引き剥がしなだめる。
「落ち着けよ。別にまだ呪われたって決まったわけじゃないだろ」
僕の言葉に小さく唇を噛む喜連川。朝日もその表情は暗い。
「とにかく、鷲頭を捜そう。あいつ1人を置き去りにしてくわけにはいかない」
喜連川も朝日も頷いた。
僕は、さっき『明王様』から届いたメールのことは、二人には黙っておくことにした。これ以上2人を動揺させるわけにはいかない。
08
それから僕達は、学校中を探し歩いた。途中恐怖に負けかけた朝日を激励しながらだったために時間がかかってしまったが、その中で鷲頭の手がかりになるようなものは何も見つからなかった。
現在午後10時50分過ぎ、もうすぐ11時というところで、おもむろに喜連川が口を開いた。
「……わ、私もトイレ行きたい」
顔を赤くしながらそんなことを言う喜連川を、穴が開くほど見つめてしまう。
「鷲頭がトイレで行方不明になったのに、そこに自分から飛び込もうなんて、頭大丈夫か?」
「うるさいわね! 行きたくなっちゃったものは仕方ないでしょう! まだ帰るわけにも行かないし!」
必死に食い下がる喜連川を、呆れたように見つめる僕。
普段はあれだけ鷲頭といがみ合ってるくせに、実はどれだけ恋しがってるんだか。
「わかったよ」
「ふん! でも1人だと怖いからちゃんと見張ってよね!」
喜連川のその言葉に疑問を浮かべる僕。
「いや僕は女子トイレ入れないんだけど」
「ばか! あんたじゃなくて結奈に付き添ってもらうのよ!」
そういうことか。びっくりした。
トイレはさすがにさっきと同じ場所とはせずに、今度は1階の女子トイレにした。喜連川が教師にバレないように鍵を開けっ放しにして侵入に利用したあの場所だ。
「じゃあ、ちゃんと見張っててよね! 外で!」
「はいはい」
僕を一睨みすると、喜連川は朝日を連れ立ってトイレの中へと。
「……結奈、いなくならないでね? 個室の外でちゃんと待っててね?」
「わかってるから、早くしないと。我慢は体に良くないよ?」
そんな風に優しい朝日と共に僕の視界から二人は姿を消した。僕はこのトイレの外で見張りだ。
正直少し怖いが、朝日がいる手前そんな軟弱な様は見せられない。僕は1人で勇ましくトイレの番人として仁王立ちする。昼間とは違って人気のない真っ暗な廊下を見つめていると、何か言い知れぬ不安のようなものが心を侵食してきているような気がした。
『明王様』の噂。
謎のメール。
姿を消した鷲頭。
後悔の念が僕の心へと押し寄せる。僕が決めたのだ。『明王様』を調べてみようと。ちょっとした好奇心からだったのだ。まさかそれがこんなことになってしまうなんて。
男の僕でさえこれほど状況に参っているというのだ、女子2人がきつくないはずがない。一旦二人を家に帰して、それから改めて鷲頭を捜そうか……。ただし朝になっても見つからなければ、大人に知らせよう。停学とかそんなことは気にしてられない。お化けや神様の類いではなく、人為的に連れ去られてしまった可能性だってなくはないのだ。
と、虚空を見つめながらそんなことを考えていると、どれだけ時間が経っただろうか、ポケットの中のスマホが再び震えた。
「……っ!?」
僕は先程『明王様』から届いたメールを思い出し、瞬間的にスマホを床に叩きつけたいという衝動に駆られたが、届いたメールが鷲頭からのものである可能性が捨てきれない以上、メールの内容を確認しないという選択肢は無かった。
嫌な予感しか感じなかったが、僕はポケットから恐る恐るスマホを取り出し、タッチ操作でメールの内容を確認する。
『 怒らせた、報いだ 』
「……あっ……!?」
予感は的中し、差出人はやはり『Myouou』だった。
そのたった一行の内容を、僕は何度も反復する。よく意味が理解できるように。
報い。
怒らせた?
僕達が何をしたというのだ。
何を勝手に怒って、勝手に報いを与えてくるのだ。
理解できない。
「……ねえ、聖也君」
いつの間にか僕の真後ろまで迫っていた朝日に、僕は飛び上がるほど驚いた。よく見れば、朝日の表情には焦燥の色が見られた。
「……どうしよう、ノックしても声かけても、麗華ちゃんから返事がないの」
朝日の言葉に僕は言葉を失い、そのまま女子トイレの中へと足を踏み入れた。
「おい喜連川! 冗談よせよ! 返事しろ!」
バンバンと個室のドアを叩くが、反応はない。
後ろで心配そうな表情を浮かべる朝日を尻目に、僕は用具入れからバケツを取り出し、逆さにしたそれを足場に個室のドアに張り付き、内側を覗く。
個室の中には、喜連川の姿はなかった。
鍵はかかったままだというのに。
「聖也君……?」
僕は静かにドアから降りると、朝日に向き直る。今の僕は、さぞ青い顔をしていることだろう。
「……喜連川が、消えた……」
朝日の顔も真っ青になる。
僕達2人はトイレの中で立ち尽くした。
09
考えるのは後にしよう。まずは行動だ。
こんな危険な場所にこれ以上留まれるわけがない。まずは朝日をここから連れ出し、彼女の安全を確保した後に、警察を呼んでこの学校を調べてもらうのだ。
既に状況は、僕達の手に負えるものではなくなっていた。
「……朝日、とりあえずここから逃げよう」
「…………」
朝日は何も答えない。いや、本当は朝日自身だってこの状況に責任を感じてしまっているが、それでも恐怖から、ここに留まるという選択肢をとれないでいるのだ。
「さあ、2人の事は、あとで僕がどうにかするから、朝日は、今はとにかくこの場を離れてくれ」
僕が少し強引に腕を引くことでようやく状況を理解したのか、のろのろと朝日も足を動かす。廊下に向かおうとした僕らがふとトイレの出入り口に目をやると、そこに、『奴』はいた。
筋骨隆々の身体つきをした、身長2mは越えようかという異国風の大男が、憤怒の形相を浮かべ、トイレの出入り口を塞ぐように仁王立ちしていたのだ。
「……あ、ああ、あああああ………」
恐怖で声が出ない。
「……きゃああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
朝日の悲鳴が学校中に木霊し、委縮した僕の脳を叱咤した。
「……早く……っ!」
僕は掴んだ朝日の腕を強引に引っ張り、出入り口とは逆側、トイレの奥へと向かう。そこには、校舎内に侵入する時に通った小さな窓があった。
魂が抜けたように覇気を失った朝日に激を飛ばし、急いでその窓を潜らせる。朝日が窓の外に出ると、僕も飛び込むようにしてその窓から校舎の外に出た。
空気の出入りのほとんどない校舎内と違って、外に出た瞬間に感じたのは、冷たい夜風の心地よい感触。一瞬感じた心地よさも、背後に感じた生暖かい気配によって霧散する。外側からトイレの中を覗けば、先程の『奴』が、ゆっくりとこの窓に向かってきているところだった。
「……ひっ……!?」
一瞬怯んだが、そんな暇はない。再び朝日の腕を掴むと、半ば朝日を引きずるほどのスピードで駆けだす。
「朝日! 走れ! 全力で!」
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
俯くようにして必死に僕に追随する朝日からの返答はない。そのことを若干怪訝に思いながらも、僕らは敷地内を駆け回る。
走りながら一瞬後ろを振り返ると、そこには悠然した足取りでこちらに迫る『奴』の姿があった。
「……はっ……はっ……こっちは全力で走ってるのに……はぁっ……なんで……っ……はぁっ……!」
うちの学校の敷地内は無駄に広い。いきなりの全力疾走にびっくりした身体に、これ以上の疾走はきつい。文科系の朝日には特に、だろう。
僕らはグラウンドの入り口付近にあった水飲み場付近で走るのをいったん止め、そこに身を寄せた。しゃがみ込むようにして姿を隠す。
ちらりと今走ってきた道を振り返ると、そこに『奴』の姿はなかった。なんとか一旦は撒けたらしい。
「はぁ……はぁ……よかった……」
朝日の方はというと、相変わらず俯いたまま荒く息をするだけで、僕の方を見ようともしない。まあ無理もないか。あれだけの恐怖体験をしたんだ。僕自身、今この時だって、本当は怖くて仕方がないのだ。
「……なあ朝日、怖いのはわかるけどさ、今は大丈夫だよ。ぼ、僕が隣にいるんだからさ……!」
少し気恥ずかしいけども、僕はそんなことを口にした。少しでも朝日を元気づけてあげられたらと思っての事だ。
俯いたままで朝日に表情はわからない。
「……なあ、朝日、大丈夫か――」
『 貴 様 は 私 を 怒 ら せ た そ の 報 い を 知 れ 』
朝日の口から発せられたのは、朝日の声では全くなかった。もっと低くて野太い、男の声だった。
恐怖に凍りついた僕が見つめる中、顔を上げた朝日の表情は、醜く憤怒に彩られていた。まるで『奴』のように。
「……あ、ああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
010
そこからのことはあまりよく覚えていない。
とにかく恐怖に駆られた僕は、まるで『奴』のような表情を浮かべ迫ってくる朝日を、この手で殴りつけ、泣き喚きながらみっともなく1人で逃げてきた、ということはなんとなく覚えている。
校外に出た僕は、僕の外出に気付いて探しに来ていた両親によって発見され、保護された。
両親や教師陣、警察にも事情を聴かれたが、僕は何も話すことが出来なかった。ただ、朝日が浮かべたあの表情が頭から離れないのだ。
その後になって、校内で朝日が発見されたという話を聞いた。
が、彼女の詳しい状態などについては何も教えてもらえず、他の先輩達と同じように『呪われてしまった』のではないかという噂がまことしやかに広がった。
鷲頭と喜連川は未だに行方不明のままだ。
警察が必死に探しているが、手掛かりが何もないらしい。
僕は残りの夏休みを、病室や自宅でカウンセリングを受けながら過ごした。
だが、そんなもので僕の心が晴れることは無い。
僕は残りの夏休みを、いや、これから先の人生をずっと、この時のことを後悔しながら過ごすのだろう。
僕が判断を誤らなければ……。
数カ月もすると噂は廃れ、『明王様』の噂を口にする者はいなくなった。
しかし『あの事件』から時間を経た今でも、学校裏サイトの隅のほうに、『Myouou』のアドレスは残ったままだった。
まるで次の誰かからのメールを待っているかのように。