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星追いのワタリガラス  作者: 夏越象英
6/6

別れ路の埋め火(上)

――さあ約束だ。話してやるよ、あんたの父親のこと――

とうとう自らの出生を知ったスグリ。

周囲の変化もともなう中で、彼女は何を感じ、何を考えるのか?


よろしければ、お付き合いを。

 雪解けの水音が谷間にこだまし、木々の枝先が薄緑にけぶり、鳥たちが春の訪れを今や遅しと囀り始めた頃、唐突にそのときはやって来た。

 冬の間中断されていたスグリの左腕の文身が、とうとう完成したのだ。

「さあ、約束だ。話してやるよ、あんたの父親のことを」

 ミクリはそう言うと、囲炉裏を挟んで真向かいに座るスグリを見据えた。その眼差しは冷ややかで、彼女が自分の祖母であることを、スグリが忘れそうになるほどだった。

 スグリはとっさに、むき出しになっている自分の左腕に目を落とした。彼女の腕には、肘の辺りから手の甲にかけて、蝶々、鷹、そしてワタリガラスの三種の生き物が、連なるようにして描かれていた。

 黒い輪郭で描かれた中に、ところどころ赤や青の彩色を施されたその文身は、彼女の母方の系譜を表している。

 これが自分の生まれを裏づけるただひとつの印だなんて、なんだか少し頼りないなとスグリは思った。

 祖母は蝶々、母は鷹、そして彼女自身はワタリガラス。“本性”と呼ばれるそれは、各人に割り当てられた、護り神となる生き物のことだ。

 里の者は皆もの心ついた頃、ある特別な方法でヨタカにそれを選定される。定められた“本性”は、ヨタカと本人、そしてその子と孫までしか知ることを許されない。

 “本性”を他者に知られるということは、命を握られるも同然のことなのだ。里の者たちは、たとえ夫婦や兄弟姉妹であっても、互いの“本性”や腕の文身を話題にすることはなかった。

 実際には見たこともない自身の“本性”と、会ったこともない実母のそれとを、スグリはまじまじと見つめた。そして今度は、右腕へと視線を移す。彼女の右腕はまだ何も描かれておらず、まっさらなままだ。こちらには、彼女の父方の系譜が刻みこまれるはずだった。

 ところが、左腕の文身が出来上がったのを確かめた後、ミクリの口から思いもよらない言葉が飛び出したのだ。

――あんたの右腕に、文身を入れることはできないんだ――

 その意味が呑み込めずにいるスグリを、ミクリは囲炉裏端に座らせた。そして彼女が発したのが、今しがたの一言であった。

 視線を右腕からミクリへと戻し、スグリは言った。

「いったい、どういう意味ですか。私の右腕に文身を入れられない、って?」

 まるで眼前に見えない壁でもあるようだった。自分の声が、自分でも驚くほど硬くなり、くぐもっているのが分かった。真っ先に浮かんだことを、スグリは口に出した。

「私の父が誰か、分からないとでも、仰るのですか」

 囲炉裏の焔に目を落として、ミクリが応える。

「そういうことではないんだ。あんたの父親が何者かってことは、ちゃんと分かっている」

「それじゃ、どうして……」スグリは不安に顔を曇らせた。冬のあの日、ふと浮かんだ疑念が蘇る。ミクリがおもむろに目を閉じた。すると、その眉間には深い皺が現れた。

 ふと、自分は祖母の笑顔を見たことも、笑い声を聞いたこともない、ということに思い至り、スグリは冷水を浴びせかけられたような心地を覚えた。スグリの知るミクリはいつも、どこか不機嫌そうで、それでいて、この世の全てに失望しているような、物憂げな雰囲気を漂わせていた。

――いつもそんなふうに、何もかも諦めたような、寂しそうな顔ばかりしていないでよ――

 サマニの言葉が脳裡を過る。あの言葉は、自分よりもミクリにこそ相応しいのかもしれない、とスグリは思った。

 絶え間なく降り積もる雪が地面を覆い隠してしまうように、彼女の身に降り掛かった、スグリの与り知らぬ悲しみや苦しみの記憶が、その心を閉ざしてしまったのではないだろうか、そんな気がしてならなかった。

 その直後、ミクリが目を開けた。灰色の眼は虚空を見つめたまま、はしばみ色の眼だけが鋭くスグリを捉える。躊躇いがちに、けれどもはっきりとした声音でミクリが告げた。

「……入れたくても、入れようがないんだ。あんたの父親も、その父親も、“本性”を持たないのだから」

 彼女の言葉に、スグリは耳を疑った。

 里で暮らす者のうち、“本性”を与えられない者などいない。それは魂の拠り所を示し、死ぬとその人の魂は、自身の“本性”の神が司る世界へ帰ると言われている。“本性”を持たない、ということは、存在意義すら脅かす一大事だ。スグリには想像もできないことであった。

「“本性”を持たないなんて、そんなこと……」

「あるんだよ」

 ぴしゃりとスグリを遮って、ミクリは続けた。

「少しは勘づいているかと思ったんだが。……あんたの父親は、この里の者ではない。ミズホの地からやってきた、他所者なんだよ」


 * * *


ほとんど上の空のまま、スグリは粥を掻きこんだ。とりわけ今夜は好物の鳥肉入りだったので、なおのこと嬉しい夕食のはずだった。ところが、その味もほとんどわからないうちに、気がつくと飲み下してしまっているような有り様だった。

「スグリ、どうかしたの。さっきからずうっと、壁ばかり睨みつけて」

 ナナエの言葉で我に返ったスグリは、慌ててかむりを振った。「なんでもない。平気」

 そう、と不服げに呟いたきり、ナナエは何も言わなかった。その視線は一瞬スグリの左腕に注がれたが、すぐさま騒ぎだしたサユリの方へ移ってしまった。スグリはそっと、養父母の様子を窺った。

 もう自分には文身を入れて貰うためにミクリの元へ通う必要がないことも、間もなくヨタカ見習いとしてミクリの庵で暮らし始めなければならないことも、まだ誰にも打ち明けていない。話さなければと思いながらも、家族を前にすると何も言えなくなるのだ。

 度々粥をこぼしそうになるサユリを叱りつけながら、ナナエは幼い娘の食事を手助けしている。その姿をぼんやりと眺めながら、昼間ミクリから聞いた話を、スグリは想い返した。


 * * *


 ミクリによれば、スグリの父親は星ノ森の者ではなく、ミズホの者だという。行商人ではなく、手負いのままどこかから逃れてきた男だった。ある日突然、血や泥で汚れきったぼろ布姿で、ミクリの庵へ転がりこんできたのだという。

 どのようにして南山を越えてきたのかも、いったいどうした事情で、ミズホの土地から遥か北にある星ノ森までやって来たのかについても、男は口を割ろうとしなかった。

 彼を追い出そうとしたミクリを説得し、里の者たちに内密で居候させたのは、スグリの実母マツリだ。その頃彼女はヨタカ見習いとして、それまで離れて暮らしていた母親のミクリと暮らし始めたばかりだった。

 他所者に対するもの珍しさもあったのだろう、マツリはかいがいしく男の世話を焼いたという。そんな彼女と、故郷を追われ寄る辺のなくなった男とが恋に落ちるのにそう時間はかからなかった。そして間もなく、マツリはスグリを身籠ったのだ。

 そのまま何事も起こらなければ、ひょっとすると、スグリはミクリの庵で生まれ、ミズホの男を父と呼び、マツリを母と呼びしながら育っていたかもしれない。その存在を里の者たちに知られることなく。

 しかし現実には、そんなことをいつまでも隠しおおせるはずがなかった。やがて事は露呈してしまった。丁度、臨月に入った頃のことだったという。

 マツリは男を逃がそうとしたが、それも虚しく、男はあっさり里の男たちに捕らえられ、どこかへ連れて行かれてしまった。里から遠く離れた何処(いずこ)かで殺されてしまったのだろう、とミクリは言い添えていた。

 その後、マツリはスグリを産んだ。そして産後間もなく、熱病で死んでしまったという。

 産まれた子どもの処遇については、長老たちの間で揉めに揉めたらしい。ミズホの民の血が流れる子なぞ不吉だ。即刻殺してしまえ、などという声もあがったそうだ。

 しかし幸いにも、その言葉が実行されることはなかった。スグリは、マツリの代わりとして将来ヨタカになるという条件の下、生き永らえることを許されたのだ。

 代を重ねるごとに産まれる子の数が減りつつあるこの里では、子を生さぬヨタカに頭数を割くことが、少しずつ難しくなっていた。異郷の民の血が混ざり、同時にヨタカの血をも引くスグリは、その人身御供にうってつけだったのだ。


 * * *


 囲炉裏の焔を見つめながら、スグリは物思いにふけっていた。ミクリから聞かされた話はあまりに途方もなくて、スグリにはまだ、どこか他人事のように感じられた。

 けれど心のどこかで、うすうす気づいてもいたのだ。他の里の者たちと比べあまりに異質な自分の外見と、秋に出合った行商人たちと自分との奇妙な特徴の一致。カガリやサマニが教えてくれた、スグリに関する大人たちの言葉。そして、里の者がときおり自分に向ける不穏な眼差し。

 それら全てが、スグリが異端の者であることを暗に示していた。

 養父母やきょうだいたちは、いったいどこまで知っているのだろう。スグリは家族の顔をこっそり見回した。不意にマシケと目が合い、スグリは慌てて目を逸らした。

 養父も、実父を連れ去った者たちに加わっていたのだろうか。そんなことを考えて、スグリはぞっとした。

 マシケがしばしば見せるミズホの民に対する憎しみの根源には、もしかしたら、スグリが産まれた経緯も含まれているのかもしれない。

 従妹の子ではあれど、異郷の者――ひょっとすると、自らの手で殺めたか、あるいは、殺されるのをその目で見ていたかもしれない相手――の子を己の養い子とし、共に暮らしその成長を見続ける、というのは、いったいどんな心地だろう。スグリには想像もつかなかった。

――この子の母親も、熱で死んだ――

 ふと、前の秋に、ミクリの庵で聞いたマシケの言葉を想い起こした。あのときのマシケは、スグリを実の娘同然に案じていたように思えた。けれど、実際のところはどうなのだろう、とスグリは危ぶんだ。

 養父や養母が、にわかに赤の他人になったような心地がした。底知れぬ谷底へ落ちこんで行くような、不思議な感覚に襲われた。

 自分がどれほど、この養父母とその子どもたちを、己の家族と恃んでいたか想い知らされたスグリであった。

 星追いの祭りが終われば、スグリはこの炉端を離れ、ミクリの元へ行く。彼女に残された日数は、そう多くはなかった。


 * * *


「それじゃあんた、もうすぐ家から出て行くの?」

 運び桶に水を汲みいれる手を止めて、カガリが言った。先日ミクリから聞かされた話を、スグリはカガリに打ち明けたのだ。自分の父親が異郷の者であることだけを除いて。

 頭から被っている黒布のため彼女の表情は見えなかった。その声音はあくまで落ち着いたもので、然して動じてはいないようだった。

「うん」

 スグリがこくりと頷くと、水汲みを再開しながらカガリが尋ねる。

「いつ頃?父さまたちにはもう話したの?」

「星追いの祭りが終わって、ウリュウたちの婚儀が済み次第、だって。父さまたちには、まだ話してない」

 雪はまだ残っていたが、もう、厚い氷を叩き割る労もなく、膝に霜が降りることもなく、水を汲める季節になっていた。露わになった地面からは、土や草木、虫や獣たちの糞尿といった、様々なもののにおいが立ちこめ、息をする度眩暈を覚えるほどだった。しかしこれも、しばらく経てば鼻が慣れ、ほとんど何も感じなくなる。

 月の満ち欠けがもうひと巡りする前に、南山の麓に生えるコブシの木も蕾をつけるだろう。それから数日のうちに、義兄夫婦の新居もできあがり、二人が祝言を上げる日がやってくる。それを見届けた後、スグリはミクリの庵へと移り住むのだ。

「ふうん」

 それだけ呟くと、カガリは黙りこんだ。ごうごうと水が川を流れる音と、汲んだ水がはね散る音、そしてそこかしこに響み渡る鳥たちの鳴き声が二人を包む。予期していたとおりの義姉の反応に、スグリは内心もの足りなさを感じながらも、黙って水汲みに専念した。

 そのとき、不意にカガリが口を開いた。

「そういえば。あれ、結局どういうことだったのかしら?ほら、あんたの母さんのこと。ミクリ様は“ヨタカじゃなかった”って仰っていて、お向かいのおばさんは“ヨタカだった”って言っていたの」

「ああ、それは……」一呼吸置いてから、スグリは応えた。

「どちらも嘘は吐いていないんだと思う。お向かいのおばさんにとっては、たとえ見習いでも修業を始めていたから“ヨタカだった”、でもおばあ様にとっては、まだ正式な儀式を済ましていなかったから“ヨタカでなかった”。……多分だけど、そういうことなんじゃないかなって」

「なんだか、ややこしいわね。まあ、どちらであっても、もうあたしには関わり合いのないことだわ」

 抑揚のない声でぽつりとそう言った後、カガリはスグリに顔を向けた。

「あたしの方が先に出て行くことになるとばかり思っていたのに。あんたがいなくなるのが先になっちゃったわね」

 最後の方は、微かに声が震えていた。胸を突かれたような心地がして、スグリは義姉を見やった。結婚前に婚約者を喪ったことと、立て続けに実兄と義妹とが自分を置いて巣立っていくこと。より強く彼女の胸を締めつけるのはどちらなのだろう。ほんの少し前まで、後者の気持ちに胸を痛めていたのは自分だったというのに。

 いつの間にか、二つの運び桶は水で一杯になっていた。

「もう、帰ろう」

 それだけ言うと、カガリは立ちあがった。スグリも慌ててそれに続いた。


 * * *


 帰り路、スグリたちはある人物と出会わした。不運にもそれは、カガリが毛嫌いしている、里長の次男シュマであった。

 広い肩幅に厚い胸板、太い腕と脚。里の若者たちの中でも抜きん出て体格の良い彼は、間近で相対すると驚くほど威圧感があった。唯一の同年であったムビヤンが俊敏でしなやかな牡鹿なら、彼は鈍重で無骨な熊に喩えられよう。

 スグリたちに気付くと、彼はいつもの尊大な調子で話しかけてきた。

「あれ、誰かと思ったら。マシケのところのノッポ女とチビ鴉じゃないか」

 スグリたちは彼の言葉が聞こえなかった振りをして、その場を通り過ぎようとした。

「おい、無視するなよ。俺は里長の息子だぞ。……相変わらず、父親に似て無愛想で辛気臭い奴らだな。そんなんだから、婚約者も死んじまったんじゃないのか?」

 この言葉に、カガリが立ち止まった。できるだけ彼と口を利かずに済むよう先を急ごうとしたスグリであったが、義姉は頭巾越しに彼を睨み据えたまま、頑として動こうとしなかった。夫の喪に服している間、妻は近親以外の男と会話することが禁じられている。義姉がそのことを忘れてしまわないようにとスグリは祈った。

 カガリの注意を自分へ向けられたことに満足した様子でシュマが続ける。

「あいつも、間抜けだよなあ。狩りの途中で足を滑らせておっちぬなんて。そんな奴と夫婦になる前に縁が切れてよかったな」

 義姉が怒りで震えだしたことにスグリは気が付いた。立場上口を聞けない彼女に代わり、スグリは言い返した。

「無神経なこと言わないで。カガリが今、あんたと話せないことくらい知ってるでしょう。そっとしていてよ」

「ガキは黙ってろよ。……まてよ。もしかして、あいつが死んだのはお前のせいじゃないのか?自分が結婚できないからってやっかんで、呪いでもかけたんだろう。ヨタカの孫なら、それくらい朝飯前だもんな」

 思いがけず矛先が自分へ向き、スグリは唖然とした。

「そんなわけないでしょう!あたしまだ修業前なのよ。人を呪う方法なんて知らないし、呪う気もない。それにヨタカは里の者を呪ったりなんてしない。そんなことできるわけないじゃない!」

 憤然として言い募るスグリを鼻先で笑いながらシュマは言った。

「どうだか。ヨタカになる者は皆生まれながらに、人の生き死にや盛衰を見通して、その運命を組み替える能力(ちから)を持っていると、親父が言っていたぞ。それにお前は……」

「そんなの、知らない」スグリは力いっぱい首を横に振った。彼の口ぶりから、もしかしたら自分の実父についても何か知っているかもしれない、とスグリは感じとった。まだ、義姉に実父のことを知られたくはなかった。傍らのカガリの腕をとって彼女は言った。

「カガリ、早く帰ろう」

 カガリがゆっくりと、小さく頷く。その仕草からも、彼女が今、懸命に怒りと嫌悪とを押し殺しているのが感じとれた。スグリたちはシュマに背を向け歩き出した。

「おい、ウドの大木。喪が明けても、当分お前に相手は現れないぞ。マレブもスルクも、他の連中も、いったん他の男の求婚を受けた、年上のお前に求婚する気はないとさ。何だったら、俺が結婚してやってもいいぞ」

 せせら笑うようなシュマの言葉に、カガリが再び立ち止まる。戸惑うスグリの腕を振り払い、彼女はシュマの方へ向き直った。

「カガリ!」スグリは諫めたが無駄だった。

 次の瞬間、盛大な水音が響き渡った。

 カガリが、背に負っていた水桶の中身を全てシュマめがけてぶちまけてしまったのだ。水を滴らせたまま呆気にとられて立ち尽くすシュマに冷然と一瞥をくれた後、スグリの方へ向き直ってカガリは言った。「帰ろう」

 そしてスグリの手を引き駆け出した。走り去る二人の背中にシュマの声が届く。

「死んだ男を恋しがって、どんなに拒んだところで、いつかは結婚しないといけないんだ。お前みたいな不格好で陰険で偏屈な女と添い遂げようなんて物好きな奴、いるわけがないだろう。お前は俺と結婚するしかないんだよ!」

 スグリはカガリを見上げたが、彼女は前を向いたまま何も言わなかった。スグリは何と言ったらいいのかわからず、黙々と走り続けた。

――どんなに拒んだところで、いつかは結婚しないといけない――

 この言葉が覆し様のない事実であることを、二人とも痛いほど承知していた。スグリばかりがその例外であることも。

 シュマから自分に浴びせられた言葉を、スグリは懸命に頭から追い出そうとした。けれどもそれは、まるで逃れようのない蜘蛛の糸のように、いつまでもスグリの心にまとわりついた。


 * * *


 その夜、スグリはなかなか寝つけなかった。

 今朝の出来事、それに昨日知らされた自分の生まれ、冬の間に思い知った自分と家族の距離……。全てがスグリの中で混然と渦を成し、彼女の心を掻き乱した。

 自分はいったい何者なのだろう。多少異質なところがあったとしても、自分はこの里の一員なのだと、ずっと信じて暮らして来た。けれど、それは思い違いだったのだろうか。

 ほんとうは、始めから、別の場所へ向かう隣り合った道を進んでいただけなのに、それが同じ道だと思いこんでいたのかも知れない。そんな考えにいつしかとりつかれるようになっていた。

 スグリはそっと頭をもたげ、枕元に置いた道具類を見やった。小刀に弓矢、小物が詰まった腰袋、そして布に包まれた、母の形見の長笛。

 その見慣れぬ形の笛は、元は母の物ではなく、実父がミズホの地から持ちこんだ物なのだと、つい先日ミクリから聞かされた。幼い頃から、これだけは他の者の目に触れさせないようにと言い含められていた物だった。

 暗闇の中、笛の包みへとスグリは手を伸ばした。触れてみると、柔らかい布の下に、硬く滑らかな笛の手触りが感じられた。

 里の誰も同じ物を持たず、誰一人として鳴らし方を知らぬ異国の笛。それはまるで、この里の中で自分の居場所を見つけかねているスグリそのもののように思えた。

 いっそ、叩き壊してどこかへ棄ててしまおうか。そんな考えが浮かぶのと、座敷の一隅から物音がするのとは、ほとんど同時だった。カガリの寝場所かららしかった。

 身を固くしていると、ほどなく覆いの内からカガリが姿を現した。そしてそのままスグリの側を通り、外へと出て行ってしまった。

 なんとなくいやな予感がして、スグリはそっと起き上がり義姉の後を追った。


 * * *


 外へ出ると、雪の気配をたっぷりはらんだ冷たい空気が、ひんやりとスグリの頬を撫でた。静かではあったが、全てが凍りついたような冬の夜とは違う、密やかに草木が息づく春の夜だ。

 ほんのり菫色をした夜の闇に目を凝らすと、少し先を歩くカガリの後姿が目に入った。とうやら彼女は北を目指しているらしい。迷いのない足どりだった。スグリは慌てて追いかけた。

 寝静まった家々の前を通り過ぎ、とうとう里の北境までやってきた。カガリは何の躊躇いも見せず、境を示す柱木の間を横切り、まっすぐ進んで行く。その先にあるのは墓地と水汲み場だけで、北の大川までで道は行き止まりになっている。義姉の意図を量りかねて、スグリは内心首を傾げた。

 そうこうするうちに、墓地と水汲み場の別れ道までたどり着いた。彼女は少し迷う素振りを見せた後、水汲み場へ向かう方へと進んで行った。ひょっとして、川にでも身を投げるつもりなのではないか、とスグリは危ぶんだ。昔語りにも、亡き恋人を偲んで、谷川へ身を投げた若者の話はいくらでもある。

 ところが、水汲み場へたどり着いたカガリは予想外の行動に出た。彼女は踵を返すと、まだ雪の残る、道脇の雑木林へと踏み入って行ったのだ。スグリは面食らって立ち尽くし、しばらくその様を見詰めていた。しかしすぐ様我に返り、カガリに続いた。

 ざらざらとして脆い春先の雪道はひどく歩きづらく、スグリはしばしば足をとられるうち、いつの間にかカガリの姿をすっかり見失ってしまった。不安と恐怖とに胸を締め付けられながらも、カガリの残した足跡を頼りに、ひたすらに歩き続けた。

  やがて、突如として視界が開けた。見ると、そこは木立に囲まれた湖畔だった。一見したところ、カガリの姿はなかった。半ば混乱したまま、スグリは泉の方へと早足に近づいた。

「誰?」

 どこからともなく聞えた声に、スグリは思わず叫び声を上げた。すると、雪の影からカガリが姿を現した。スグリは安堵のため息を吐いて、カガリに駆け寄った。

「どうして、ここにあんたがいるのよ」

 いかにも不機嫌そうな、つっけんどんな声音でカガリが言った。スグリは思わず立ち止まり、応えた。

「あんたが出て行くのに気が付いて。昼間のこともあったし、なんとなく、気になったから……」

「それで、あたしの後をつけたの?」

 威圧的な物言いに怖じ気づきながらも、スグリは頷いた。カガリが、さも呆れた、と言わんばかりにため息をついた。

「あたしが川に身を投げるとでも思ったの?馬鹿じゃない。……言っとくけど、あいつからあんなことを言われたくらいで世を儚むほど、やわじゃないわ」

「じゃ、なんでこんなところへ来たの?わざわざ夜中に、あんな危ない雪道を通ってまで」

 今度はカガリが口ごもる番だった。しばし沈黙した後、カガリはもごもごと言った。

「ここ、あの人と最後に会った場所なのよ」

 その一言で、スグリは数カ月前のできごとを想い起こした。カガリがスグリに口裏を合わせるよう頼み込み、水汲みの間に、ムビヤンとカガリとが密会したときのことを。そのときから、あまりに沢山のことが起こり過ぎていて、スグリにはまるで、はるか遠い日の出来事のように思えた。

 何と言ったらよいのか分からず、スグリは黙ってカガリの顔を見やった。黒い頭巾の下で、カガリが小さく笑った。何かを諦めたような、力のない笑い方だった。

「解ってるのよ。この里で生きていく限り、いつかは別の相手を選ばないといけないって。……でも、あいつだけは嫌。たとえあいつがどんな手を使って、ほかの男たちとの結婚を邪魔しても」

 目の前に広がる湖はしんとして、まるで磨き上げられた刃のように澄み渡っている。いつになく饒舌な義姉の言葉を、スグリは黙って受け止めていた。彼女は一息にそこまで言うと、頭巾越しにじっとスグリを見詰め、言った。

「あんたから見れば、贅沢な話かもしれないけど。今のあたしには、誰も選ばなくていいあんたが、うらやましくてたまらない」

 ぎょっとして、スグリは義姉の顔を見上げた。

「怒った?」どこか自嘲するような物言いで、彼女はスグリに問うた。それに応えて、スグリは慌ててかむりを振った。そもそも選びたい相手もいない自分が、その言葉に腹を立てる理由などなかった。カガリが、ため息混じりにぽつりと呟いた。

「あんたって、ほんと、無欲ねえ」

 そのとき、ふと、昼間のシュマから浴びせかけられた言葉を想い起し、スグリはとっさに言った。

「あたし、自分が結婚できないからって、他の誰かを妬んだりしない。呪ったりなんて絶対しない」

「わかってるわよ。何年あんたと義姉妹やってるか忘れたの?あんたがそんな奴じゃないってことくらい、知ってる」

 その言葉に、スグリはどこか救われたような心地がした。

「あんたのお陰で、ここで何するつもりだったのか忘れちゃった。……もう、帰るわ」

 そう言うと、カガリはもと来た方へ歩き出した。義姉の後ろ姿はどこか儚げで、スグリはその背中に思わず呼びかけた。

「カガリ」

「なあに?」

 少し考えてから、スグリは言った。

「もしも、結婚したくない相手を選ばなきゃいけなくなったら、ヨタカの庵へ来たらいいよ。あたしが匿ってあげる」

「ばっかねえ。そんなことしたら、あたしもあんたもただじゃすまないわよ」

 ころころと笑いながら、カガリが応えた。笑っているのに、やっぱり彼女はどこか哀しそうだった。

「今夜のこと、父さまたちには内緒よ」

 それだけ言うと、カガリは湖畔を後にした。スグリも慌ててその後に続いた。


  凍みたか ホーイ 凍みねか ホーイ

  凍みた道なら 兎跳ね来て 昔々の穴塞ぐ

  凍みね道なら 狐駆け来て 昔々の穴開く

  カラス降り来りゃ 雪みなとけて 千夜万夜の春が来る

  凍みたか 凍みねか ホーイ ホーイ


 ざくざくと雪道を歩きながら、どちらからともなく、凍み渡りの囃し唄を口ずさむ。いつ誰が作ったかも知れない、他愛もない内容の唄だった。

 無邪気に唄い合い笑い合いしながら、スグリたちは家路を急いだ。このときのスグリは、自分はこの里の一員であり、マシケの家の家族なのだということを、心のどこかで危ぶみながらも、その一方で、まだ信じていた。自分の生まれがどれほど歪なものか、そしてそれがどんな意味を持つのかについても、実際ほとんど解ってはいなかったのだ。


 * * *


 それから数日の間は、カガリもスグリもシュマの報復を密かに恐れつつ過ごした。ところが、彼とのひと悶着から二日経ち三日経ち、とうとう七日ほども経ったが、何の音沙汰もないままだった。

 始めのうちこそ、気味が悪いと顔を見合わせていた二人であったが、ウリュウたちの新居建築に駆り出され忙しくなるにつれ、そんな事件があったことすら、いつしかすっかり忘れ却ってしまった。

 その一件を些末な事と済ましてしまわず、マシケやウリュウに相談していれば、後の悲劇を食い止めることができたのかもしれない。けれども、それを予見するには、二人はあまりに無知で、あまりに幼かった。

 この後立て続けに起こる出来事が、スグリと里の者との間に横たわる、決して越えることのできない深く大きな溝を、はっきりと彼女に思い知らせることになった。

ここまでお読みいただきまして、ありがとうござます。

またの御来訪をお待ちしております。

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