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星追いのワタリガラス  作者: 夏越象英
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咲かずの花(下)

第五話です。

今回も引き続き、スグリの義兄姉の結婚話です。

急激な周囲の変化に戸惑いながら、少しずつ自分の中に隠れていた感情に気付き始めるスグリ。

そして、義兄姉たちの恋の結末は?


今回も、よろしくお願い致します。

 寒さが厳しくなり、川の面はすっかり氷に埋め尽くされた。それから月がひとめぐりの満ち欠けを終えると、一日一日と、日を追うごとに少しずつ、陽差しにぬくもりが戻ってくる。

 そのうちに降り積もった柔らかい雪が、昼の間に融け、夜に再び凍りつく、ということを繰り返し、地表はやがて、かた雪の滑らかな薄板に覆われ始める。

 それは星ノ森の人々にとって春が近づいてきたしるしであり、そして同時に、とりわけ男たちにとっては、数日がかりでの遠出の狩りへの、旅立ちの合図でもあった。

 ある夜、炉を囲んで皆それぞれに仕事をしていると、マシケがふと顔を上げ、妻の顔を見やり、呟くように言った。

「そろそろ遠出の時期だ。明日あたり、ソタニやルモイと話をしなければならない」

 その表情はいつになく厳しく、なんとも言い表しようのない翳りがあるように、スグリには感じられた。

 遠出の狩りへは、いくつかの家の男たちで連れだって行くのが通例であった。多くの場合は、血の繋がりがより強い家同士で、あるいは血筋に関わらず、気心の知れた者同士で。

 スグリの家は、ソタニの家とルモイの家、この二軒の家の男たちと行くのが毎年のならいになっていた。

 不意に話しかけられたにも関わらず、ナナエはまるでそれを予知していたかのように落ち着いていた。ほんの束の間手を止めてマシケの顔を見やった後、再び刺繍に取りかかりながら応える。

「そうですねえ。もう、そんな頃でしたね」

 養母の声音の中に、いくらか非難がましい響きが聞き取れたのは、スグリの気のせいだったのかもしれない。

 炉中の消えゆく仄灯りに照らし出された養母の(おもて)からは、なんの表情も読み取れなかった。

「今年は木の実のみのりが悪かったからな。いつもより、戻るのは遅くなるかもしれん。とりわけ今年は、手に入る獲物が多ければ多いほどいい」

 最後の一言は、ウリュウとカガリとに視線を向けながら発したものだった。結婚して子どもたちが家を出るとき、親は子どもに様々なものを持たせる。毛皮や布地、獣肉や装飾品、その他生活に必要な道具類。それらは、子らにとって当座の財となるのだ。

 いつもどおりむっつりとした様子でそう言うマシケに、ナナエは手を止め、顔を上げた。「そうですか…」

 そしてもの思わしげに目を伏せると、ナナエは再び顔を上げた。その眼差しは、彼女の長男へと注がれている。母親に見つめられたウリュウは、怪訝な顔で彫りものの手を止め、彼女を見つめ返した。

「もう、遠出の狩りにも慣れた頃だとは思うけど。結婚前に、花嫁を悲しませてはだめよ」

 薄暗がりの中で、ウリュウの顔がさっと朱に染まったように、スグリには見えた。黒曜石のかけらをいくつも金輪に連ねた彼の耳環が、持ち主の内心を表わすように、チリチリと微かな音を立ていっせいに揺れ動いた。

 スグリの傍らで縫物をしていたカガリが彼の顔をちらと見てから、小さく鼻で笑った。彼女が頭を動かすと、小さな白い貝殻を花房のようにたっぷりと連ねた彼女の耳飾りが、カチャカチャとやわらかな音を立てた。

「なんだよ、急に。そんなことするわけないだろ」

 明らかに動揺した様子で、いつもより上ずった声でそう応えるウリュウに、マシケがぴしゃりと言った。

「里から遠く離れた山の奥では、何が起こるかわからない。少し数を重ねた程度で、慢心するな」

 ウリュウは黙ったまま、物言いたげな眼差しで父親を見つめ返すばかりであった。その瞳に、黒曜石の耀きを思わせる鋭さがあるように見えたのはスグリの気のせいだったのかもしれない。スグリはふと、義兄が手にしている短刀の柄に目を落とした。

 未だ微かに香りを放つ、真新しい木材でできた柄には、半ばではあったが美しい紋様が彫りこまれている。春の婚儀の折、花婿が花嫁に贈る品のひとつだ。

 よく見るとそれは、平生の彼の言動からは想像できないような、丁寧で繊細な仕事だった。きっと、贈られた花嫁にとって生涯の宝となるだろう。

 不意に、この顔ぶれでこんなやりとりができるのも、この冬かぎりなのだということに思い至り、スグリははっとした。

 次の冬にはもうこの炉端に、義兄の姿も義姉の姿もないのだ。そしてスグリもまた、彼らとは異なる形で、いずれこの炉端から立ち去らねばならないときがやってくる。

 その途端、目の前の光景が、スグリには遠くおぼろげなものに感じられた。義姉の婚礼衣装と刺繍針とを掴む両手に、思わず力が入る。自分が何かから切り離され、ちっぽけで頼りないものになっていくような心地がして、スグリは目眩を覚えた。

 しかしその刹那、サユリのむずかる声がスグリをうつつへと引き戻した。すでに寝入ったはずのサユリやソーヤ、トーマが、大人たちの話し声で目覚めてしまったらしい。

 サユリを慌てた様子であやすナナエをぼんやり眺めながら、スグリは湿原の向こうにある、ミクリの庵を想い起こしていた。

 やがて囲炉裏の火がすっかり消えてしまうと、皆床に就いた。


「ねえ、スグリ」

 そう言って、カガリが不意にスグリの腕を掴んだ。ぎょっとして、スグリは糸よりの手を止めた。見ると、やけに強張った顔つきで、カガリがスグリの顔を覗きこんでいる。

 家の中には、カガリとスグリしかいなかった。ナナエはサユリを連れ、里長の家で開かれる女たちの寄り合いへと朝から出かけていた。マシケもウリュウを伴って、ソタニの家へと狩りの相談へ行っている。トーマとソーヤは、この寒い中もの好きにも、二人そろって、外へ遊びに出ていた。

「なあに?」

 スグリが尋ねると、カガリは考えこむように下唇を噛んだ後言った。

「頼みたいことがあるの。明日の水汲みのとき、あたし、途中でいなくなるから。スグリ、あたしの分の水も汲んでおいてくれない?用事が済んだら、すぐ戻るから。お願い」

 思いがけない義姉の頼みごとにスグリは面食らった。その真意を問い質そうとした途端、今朝水汲み場で目にした光景を思い出した。

 スグリが水を汲んでいる最中、ムビヤンがカガリに何やら耳打ちをしていたのだ。カガリは戸惑ったような様子でムビヤンを見つめ返していた。彼に話しかけられると、いつもの彼女なら、俯いたりそっぽを向いたりするのに。

 この冬の間に、水汲み場でムビヤンと出くわすのは常となっている。もしかしたら、ムビヤンはスグリたちが水汲みへ行くのを見計らってやって来ているのかもしれない、と密かにスグリは考えていた。

 スグリの中でムビヤンの印象は、無邪気な仔鹿から角の生えきった大人の牡鹿へと、いつの間にか変わっていた。

 何と返答しようか暫し迷ったが、スグリはしぶしぶ頷いた。カガリは自分よりずっと上背があって、取っ組み合いではスグリに勝ち目はほとんどない。なんとなくいやな予感があったけれど、下手に断って、彼女と喧嘩になるのはごめんだった。

「いいけど…。そしたら明後日の水汲み、あたしの分も水を汲んでもらうからね」

「ほんと!やった、恩に着るわ」

 そう言って柄にもなく顔を輝かせる義姉を眺めながら、恋とはこうまで人を変えてしまうものなのか、とスグリは唖然とした。よく見知ったはずの義姉が、まるで見ず知らずの人のように思えた。

 * * *

 その晩、帰宅したマシケが、明後日の朝に出立する旨を告げた。早速ナナエが、持っていく食糧や道具の仕度などについてマシケと算段を始めた。

 そのやりとりを聞くともなしに聞きながら、スグリは義姉の婚礼衣装の刺繍に取り組んでいた。ふと顔を上げると、ウリュウもカガリも、熱心に両親のやりとりを見つめている。

 はじめは訝しく感じたスグリであったが、やがてその意味に気がついた。恐らく、彼らは重ねているのだ。次の冬、自分たちの炉端で旅立ちの算段をする自分と結婚相手の姿と、眼前にある両親の姿とを。

 義兄姉との心の距離が日増しに開いていくのを感じながら、手にしている婚礼衣装にスグリは視線を戻した。

 衣装は至るところに色糸の刺繍がほどこされ、残る空白はわずかとなっている。それは、婚儀の日がもうすぐそこまで迫っているあかしであった。

 春の光を浴びて立つ、丈高くすらりとしたカガリの花嫁姿は、さぞかし美しく、人目をひくだろう。

 ふいに、手のひらにしっかりとつかんでいたはずの、そこにあってあたり前と思っていたものが、さらさらと指の間からこぼれ落ちていくような心地をおぼえたスグリであった。


 次の日、水汲み場へ着くなり、カガリは落ち着きなく辺りを見回した後、桶を背から下ろし、スグリを見やった。

「用が済んだら、すぐ戻るから。それまで待っててよ」

 そう言うそばから気もそぞろ、といった様子で、カガリは道を外れた雑木林の中へと分け入って行った。一人取り残されたスグリは今さらながらに、自分がひどく馬鹿げたことに加担してしまったような白けた気持ちになって、しばし立ち尽くした。

 ムビヤンと逢いたいのなら、こんな仕事のある昼日中ではなくて、皆が寝静まった夜に忍んで逢えばいい。昔語りの中では、恋人同士は夜逢うものと相場が決まっているのだから。そんなことを、スグリは心のなかで独りごちた。

 少し前まで、あんなに澄ましていた義姉の変わりように、スグリは戸惑いを覚えていた。

 少しずつ強まる日差しに、いつの間にか雪が溶け消えてしまうように、疑いやためらいに凝り固まっていた人の心も、ほんのちょっとしたきっかけで、存外あっさりと解きほぐされてしまうものらしい。

 やがて、スグリは自分の水桶を背から下ろした。そして自分の桶とカガリの桶とを見比べてから、大仰にため息を吐いて天を仰いだ。

 自分の水桶ひとつでもそれなりに手間取るというのに、今日は義姉の分まで面倒を見なければならない。今になって、軽はずみに彼女の願いを聞き入れた自分に腹立ちを覚えたスグリであった。

「あら、スグリじゃない」

 突然後ろから聞こえた声にギクリとして、スグリはおそるおそる振り返った。見ると、そこに立っていたのは、近所に住むサマニという娘であった。スグリは思わず目をみはり、サマニを見つめた。彼女はいったいいつからここにいたのだろう?カガリがいたのを見ただろうか?そう思うと、身を切る寒さにも関わらず、冷や汗が出る心地がした。

 そんなスグリの心の中を知ってか知らずか、サマニはくつくつと笑いながら言った。

「こんなところでそんなでっかいため息を吐いて、どうしたの。それに、カガリは?あなたたち、いつも一緒に水汲みに来ているのに。…もしかして、怪我か病気にでもなったの?」

 サマニの最後の一言に、スグリはほっとした。どうやら彼女は、先程の義姉とのやりとりを見ていないらしい。

「カガリならぴんぴんしてるよ。今日は別の仕事があって水汲みに来れなかったの」

「なんだ、そうなの。そんならいいけど」

 そう応えたサマニの様子を、スグリはちらと窺った。彼女はスグリの言葉をすぐに信じたらしかった。そしてスグリの足元の桶に目を止めると言った。

「一人で二つも運ぶの?家族が多いとはいえ、一人でやるには荷が重すぎるんじゃない」

「別に、平気」

 慌ててスグリは応えた。そんな彼女の顔をサマニはじっと見つめた後、にっこり笑って言った。父親ゆずりの、いかにも人のよさそうな、柔和な笑顔だった。

「ねえ、お互いの分を二人で汲みましょうよ。一人で汲むの、結構大変なのよ」

 サマニにはあまり利のある申し出とは思えず少し迷ったが、スグリは頷いた。二人で手分けをして、三つの水桶に水を汲み始める。そのときふと、スグリはサマニの顔を見やった。

 ぱっちりと開かれた栗色の目を縁取る、明るい茶色のまつ毛。その上には、まつ毛と同じ色をした、太く濃い眉毛。頭の巻き布の下からも、同じ色の巻き毛が覗いている。

 秀でた額に、しっかりとえらの張った顎、そして目鼻立ちのはっきりとした彫りの深い顔立ち。ふっくらとした頬は明け染めの空のような薄紅色を、厚くぽってりとした唇はナナカマドの実のような鮮やかな赤色をしていた。

 くるくると表情を変え、てきぱきと立ち働き、ころころと笑い歌う、よく通る澄んだ声の持ち主でもある彼女は、里でも評判の美人であった。この少女が今度の春には自分の義理の姉になるのかと思うと、誇らしく感じると同時に、それに見劣りする自分に引け目を感じるスグリであった。

 こんなにも優れた少女が、どうしてウリュウのような者を夫に選んだのだろう。そんな疑問が、ふとスグリの中で頭をもたげた。ウリュウとサマニ、カガリとムビヤンという組み合わせよりも、ムビヤンとサマニの組み合わせの方がお似合いのような気がしたのだ。ウリュウもカガリも、ともにどこか陰険で、ともに明るく人懐っこいムビヤンやサマニとは釣り合わないように思えた。

「スグリ、どうかした」

 サマニの声に、スグリは我に返った。「なんでもない」

 三つの桶に水を汲み終えると、サマニはそそくさとその場を後にした。一緒に帰ろうという彼女の誘いをスグリは断り、水汲み場に残った。

 しばらく待つと、やがてカガリが姿を見せた。顔を輝かせながら駆けよってくる彼女は、朝日を受けて咲き匂う大輪のヤマユリをスグリに想わせた。「ムビヤンは、いったい何の用だったの?」

 思わずそう尋ねてから、無粋であったとスグリは思った。しかし義姉は得意げに微笑んでみせると、腰に提げた物入れから何かを取り出し、スグリの眼前に掲げて見せた。「これ」

 てっきり不機嫌なはぐらかしが返ってくるものとばかり思っていたスグリは、義姉の意外な態度に面食らった。見せつけられたものを見ると、それは左右一組の耳飾りであった。それぞれの金輪にヒスイの管玉が一つずつ吊り下げられたその耳飾りにスグリは見覚えがあった。もちろんムビヤンのものであった。

 遠出の狩りに出掛けるとき、男たちは皆無事の帰還を願い、おのおのの耳飾りを家の祭壇に預けていく。しかし、未婚の若者の中には、それをこっそり恋人に託していく者もいるのだという話をきいたことがあるのを、スグリは想い起こした。

「なあんだ。それなら別に、こんな朝の仕事どきでなくってもよかったじゃない」

 スグリは思わず声を上げた。耳飾りを大切そうに布きれで包んだ後、物入れに仕舞いこみながらカガリが言った。

「旅立ちの前に、あたしの顔をしっかり見ておきたかったんだって」

 満面の笑みを浮かべてそう言った義姉の顔を、思わずぽかんとして見つめたスグリであった。

 * * *

 二人それぞれ水桶を担ぎ里への道を歩いていると、不意に傍らでカガリが、ふふ、と笑いを漏らした。見上げると、いとも幸せそうに微笑む義姉と目が合った。

 彼女の気分に染められたのか、なんとなくくすぐったいような心地がして、スグリも笑いを漏らして義姉を見た。そのうちに里の家並みが見えてくると、どちらからともなく早足になった。いつもならとうに家へとたどり着いている頃だった。やがて早足が駆け足になり、あっという間に駆け競べへと変じていた。

 背中でばしゃばしゃと音を立てる重い水桶をものともせず、唖然とした様子で二人を眺めているよその家の子どもたちにも目もくれず、カガリとスグリとは一心に我が家を目指して走り続けた。

「あたしの勝ち!」

 そう言って家の入口の柱に取りついたスグリの後から、追いついてきたカガリが言った。「すばしっこさだけは、一生あんたに勝てる気がしないわ」

 互いに肩で息をしながら見つめ合っていると、声を聞きつけたらしいナナエが、家の中から姿を現した。

「あんたたち、今までなにをしていたの。帰りが遅いから心配してたのよ」

「ごめんなさい。水汲み場でサマニに会って、少し話しこんでしまったの」

 黙りこんだカガリに代わって、スグリはとっさにそう応えた。義姉が問い掛けるような眼差しでそっとスグリの顔を見やった。

 ナナエはあまり関心のない様子で、そう、とだけ呟くとスグリたちに背を向け家の中へと取って返した。

「はやく水を家の中へ運びこんでちょうだい。水汲みの外にも仕事は沢山あるんですからね」

 家の中へ入ろうとしたスグリの手をカガリが掴んだ。見上げると、戸惑ったような、どこか探るような彼女の眼差しと出合った。

「ほんとだよ。あんたがいなくなった後、サマニが来たの。母さんに怒られたくなかったら、話合わせてよ」

 素早くスグリが囁くと、少しためらった後カガリが頷いた。スグリの手を握る彼女の手の力が強まったのをスグリは感じた。頭上で、カガリが小さく笑った。スグリも義姉の顔を見上げ、小さく笑った。

 二人で手を繋いだまま家の中へ入って行くとき、こんなことができる日も、もう数えるほどしかないのだ、ということに気がついて、スグリははっとした。


 その夜スグリを眠りの淵から引き戻したのは、近くで眠っていた義兄の起き出す気配だった。

 厠にでも行くのかと考えながらまたうとうととし始めたスグリであったが、外へ出た義兄の足音が厠のある方とは反対方向へ向かっているのに気がついて、すっかり目が覚めてしまった。

 翌朝の出立を控えたこんな夜更けに、いったいどこへ行くのだろうと、なにとはなしにスグリは胸騒ぎを覚えた。こっそり寝床を脱け出し、義兄の後を追った。

 靴を履くのももどかしく裸足のまま土間に降り立ち、出入り口の菰の隙間から顔を出す。研ぎ澄まされた刃のような空気がスグリの頬や指先、そして足のつま先を切りつけた。

 足音の向かった方を見やったスグリは、こちらに背を向け足早に歩いていくウリュウの姿を見とめた。

 日暮れ頃から続いていた吹雪は鎮まり、微かな風の中で粉雪が舞っていた。月は半分ほどまで欠け、雲間にときおりその姿を覗かせるばかりだったが、思いの外に周囲は明るかった。

 雪のせいだ、とスグリは気づいた。地面に降り積もった雪が、わずかな月や星の灯りを吸い込み、照り返していたのだ。雪灯りの中、いくぶん背中を丸めぎみに歩いていくウリュウが、スグリにはどこか、遠くへ旅立つ見知らぬ人のように感じられた。

 やがて一軒の家の入り口の前にたどり着くと、ウリュウは立ち止まった。そこは明日彼が共に旅立つソタニの家だった。ウリュウが菰に手を伸ばすのと、中から人が顔を出すのとはほとんど同時だった。

 ウリュウとその誰かとが、二言三言交わす。どうやら示し合わせていたらしく、相手は何のためらいも見せずに、素早く菰の内から出てきた。遠目で、しかもウリュウが邪魔になりはっきりとはわからなかったが、背格好からその相手はサマニらしいことが察せられた。

 二人はその後もしばらく話しこんでいた。すると、ウリュウが腰の物入れから何かを取り出し、サマニに手渡した。サマニはそれを受けとると、それをつまみ上げまじまじと見つめていた。彼女の手の中で、それがキラリキラリと鋭い光を放った。昼の出来事を想い起こしながら、あれはきっとウリュウの耳飾りだ、とスグリは直感した。

 ウリュウが少し屈みこみ、サマニになにやら囁きかけた。サマニが少し顔を上げウリュウを見やったが、その表情は読み取れなかった。

 と、次の瞬間ウリュウがサマニの肩に手を伸ばし、そのまま彼女を抱きすくめてしまった。突然の思いがけないことにスグリは唖然としてその光景を見つめた。しかしやがて、家族でない男女におけるその所作の意味を思い出した。途端にスグリは慌てふためいて、後も見ずに菰の内側へと身を隠した。

 混乱したまま座敷へととって返し、寝床に潜りこむ。家の外は不気味なまでに静かだったが、スグリの頭の中では嵐が吹き荒れていた。見てはならないものを見てしまったという罪悪の気持ちと、目にした光景そのものに対する嫌悪とも怒りとも悲しみともつかない気持ちとがないまぜになって、吐き気すら覚えた。

 しばらくすると、家の出入り口で物音がした。どうやらウリュウが帰ってきたらしかった。

 彼は座敷へと入ってくると、静かに寝床へと潜りこんだ。まるでウサギがそっと自分の巣穴へと入りこむように。

 間もなくウリュウの寝息が聞こえ始めたが、その一方でスグリの方はなかなか寝つけなかった。様々な思いがスグリの中で渦を巻いていた。ウリュウはなぜサマニにあんなことをしたのだろう、あの直前彼はサマニに何と告げたのだろう、カガリも今日の昼間ムビヤンにあんなことをされたのだろうか…。

 ようやくスグリがうとうととし始めた頃には、すでに山の端が白く滲み、夜明けを告げる鳥たちの鳴き声が湿原に響きわたっていた。

 やがて、マシケとウリュウ、そして同行するソタニやルモイの家の男たちが遠出の狩りへと旅立つときがやってきた。出立の際は、おのおのの家族総出で彼らを見送った。みんなの後ろで爪先が赤くなるほど硬く、サマニが両手を握り合わせているのに気づいたのは、スグリだけだったかもしれない。彼女の耳環に取り付けられた紅玉の玉飾りが小刻みに揺れていたのは、寒さのためばかりではなかっただろう。心なしか、顔もいくらか青ざめていたように見えた。

 その朝は、サマニの顔も、カガリの顔も、スグリは正面から見ることができなかった。それがなぜなのか、彼女自身にもわかりはしなかった。


 男たちを見送った後、スグリは一人で水汲みへと出かけた。マシケとウリュウとがいなくなった彼女の家では、桶一つ分の水で事足りるのだ。水汲み場には誰もいなかった。

 川岸に取り付けられた足場に膝をつき、氷った水面に棒で孔を穿つ。汲み桶が入るほどの大きさまで孔を拡げ、そこから汲み桶で運び桶に水を汲み入れていく。

 水滴が飛び散ると、たちまちのうちに渡し板の上は霜が降りたようになった。

 水を汲み終える頃には、スグリのむき出しの指先は蓮華のような薄紅に染まっていた。かじかんだ指先を温めようと擦りあわせ息を吐きかける。かがみこんだ拍子に、水面に映った自分の顔と目が合って、思わずスグリはそれに見いってしまった。

 頭の巻き布からのぞく髪は癖ひとつなく、黄昏どきの沼を思わせるような、奇妙な光沢をもつ闇の色をしていた。里の中にこんな髪を持つ者はスグリの外にはいなかった。母親ゆずりだと言われるはしばみ色の目を縁取るまつ毛も眉も、同じ色だ。

 顎の細く尖った、卵形の輪郭。額は平らぎみで、その下には丸目ではあるがどこか印象の薄いまなこがぶら下がっている。唇の薄い小さな口、そして膨らみのない頬。里の中でも目立って彫りが浅く、なんとものっぺりとした冴えない顔立ちの娘であった。

 里の他の娘たちの容貌を想い起こしながら、スグリは小さくため息を吐いた。周囲の人々と比べ、自分のそれがあまりに異質であることにスグリは気づいていた。

 自分でも目にする度戸惑ってしまうこんな姿をした自分を、家族や里の者たちは毎日目にして、あたりまえのものとして受け容れているのだ。それを思う度、なんだかほっとするような、それでいてぞっとするような、おかしな心地がした。

 こんな娘のことを美しいとみなし、いとおしんでくれる者など現れはしないだろう。もしかしたら里の者たちは、腹の底で自分のことを蔑んでいるのかもしれない。こんな自分には実際、誰の目にも触れずに、あの湿原の向こうにある庵で独り朽ちていくのが似つかわしいのだろう、などという暗いもの思いに捕らわれた。

「あら、スグリ。おはよう」

 突然背後から声が聞こえて、スグリは我に返った。慌てて振り向くと、水桶を背負ったサマニが彼女を見下ろしていた。今朝の深刻な様子とはうってかわって、穏やかな微笑みを浮かべている。

「サマニ。…おはよう」

 つい目を逸らしながらスグリは応えた。水に映った自分の顔とにらめっこしていた姿を見られたのかと思うと、恥ずかしくてたまらなかった。

「今日も一人なの?あら、今日は桶一つなのね」

 そんなスグリの心中を知ってか知らずか、サマニが言った。彼女の口ぶりにどこか含みがあるように思えたのは、スグリの気のせいだったのかもしれない。

「父さまとウリュウがいないから、とうぶんは水桶一つでいいの」

「あ、そっか…」

 スグリの言葉に、サマニが呟くような返事をした。サマニは水をいっぱいに湛えたスグリの水桶にちらと目をやると、スグリに物言いたげな視線を投げかけた。彼女の眼差しの意味を察して、スグリは素早く立ち上がった。自分の水桶をひとまず移動させ、サマニにその場所を譲る。

「ありがとう」

 サマニはそう言うと、汲み場の渡し板の上に桶を置き、その傍らに膝をついた。そして、氷で孔が塞がりつつある水面を、棒でせっせとつつき始めた。その横顔に目をやったスグリは、彼女の目元にうっすらとくまが見えているのに気がついた。

 そのとき不意に昨夜のできごとを想い起こし、スグリはしばしその場に立ちつくした。

 あの凍える夜、ウリュウが入り口にたどり着くと、間髪を入れずにサマニは姿を現したのだ。もしかしたら彼女は、家族が寝入るのとほとんど同時に起き出し、寝ずにウリュウのことを待っていたのかもしれない

 もしそうだとしたら、いったいどれほどの間、彼女は彼を待ち続けていたことだろう。いったい何のために、誰のために?そこまで考えて、スグリは心が握り潰されるような心地を覚えた。そして気がつくと、考えるより先に口が動いていた。

「ねえ、サマニ」

「なあに。スグリ」

 手を止めて、スグリの顔を見上げながらサマニは応えた。その目には無邪気な問いかけの感情の外は何も見あたらなかった。しばしためらった後、思いきってスグリは言った。

「サマニは、どうしてウリュウと結婚しようと思ったの?」

 口にしたそばから、胸の内に後悔の念が広がっていくのをスグリは感じた。自分はいったい何を言っているのだろう、そんなことを聞いて、どうしようというのだろう?スグリ自身よくわからなかった。

「どうして…」

 まるで言葉を知らない幼児が、大人の口にした言葉をそっくりそのまま口真似するような調子で呟いたきり、サマニは黙りこんでしまった。

 氷の下で水がさらさらと流れゆく音に混じって、どこか遠くでキツネの鳴く声が微かに響いた。少し経ってから、自分がききたいことと少し違うことを言ってしまったことに気がつき、スグリは慌てて言い直した。

「サマニは、ウリュウのことを好きなの?」

 サマニは変わらず黙りこくったままだった。どんどん居心地の悪さばかりが増していき、今すぐにでもこの場から立ち去りたくてどうしようもない気持ちで、スグリの胸はいっぱいになった。まるで親から叱られるのを待つ子どものように、彼女が手を握り合わせて俯くのと、サマニが口を開くのとはほとんど同時だった。

「そうね。好きよ、ウリュウのこと」

「ムビヤンよりも?」

 途端にサマニの声が訝しがるような調子に変わった。

「ムビヤン?…もちろん、比べるまでもないわ」

「どうして?」

 しばしの沈黙の後、サマニはそっと呟くように言った。

「…どうしてそんなことをきくの?」

 思わず顔を上げて、スグリはサマニを見た。目の前の少女の顔からは、いつもの穏やかな微笑みが消えていた。そのとき、自分とさして年の変わらない彼女が、まるで自分よりずっと年上であるように感じられた。

「怒ってるの、サマニ」

 顔が熱くなるのを感じながら、スグリは恐る恐る尋ね返した。するとサマニは首を横に振って見せた。

「別に。ただ、どうしてそんなこと知りたいんだろうって思ったの。だって、あんたヨタカになるんでしょう。ヨタカは結婚できないんでしょう。そんなことを知っても、あんたには何の役にも立たないじゃない」

「…知ってたの?」

「なんとなく、ね。里の大人たち、若者の縁組みの話をしてるとき、絶対にあんたの名前だけは出さなかったから。それどころか弟たちに、この里で何事もなく暮らしていきたかったら、あんただけは絶対に選んじゃいけない、選んでも許されないからってよく言い聞かせてる。それに、ヨタカを継ぐのはあんただろうってこともよく話しているし、そういうことなのかなって。…やっぱり、そうだったんだ。それならなおのこと、どうしてそんなこと知りたいの?」

 今度はスグリが黙りこむ番だった。彼女の言う通り、今取りざたしていることなど、スグリには一生関わり合いのないことなのだ。自分自身、なぜこんなことがこんなにも心に引っ掛かるのか分からず、密かに狼狽えていた。

 それに加えて、思いがけない相手が自分のことを気にかけて見抜いていた、ということにも、スグリは不思議な戸惑いを覚えていた。きっと誰も、自分のことなど気にも止めていなくて、まるで触れてはいけない腫れ物のように思っているだろうと、うすぼんやりと考えていたのだ。この発見は、スグリをなんとも言いがたいふわふわとした気分にさせた。

 縁組みが決まってからの、義兄姉たちの変化に対する戸惑いや焦り、そして昨日今日の出来事に対して自分が抱いた感情。それらにしばし思いをめぐらしてから、スグリはゆっくりと口を開いた。今目の前にいる少女なら、自分の言葉を受け止めてくれる。そんな確信があった。

「わからないの。どうしてサマニが、ウリュウを選んだのか。スルクやマキリ、それにマレブ…一年待てば、ほかにも沢山若者はいるじゃない。確かに、いちばん素敵なムビヤンはカガリを選んでしまったけど…。どうしてよりによって、いちばん無口で陰険で、見た目だって、背が高いことくらいしかとりたてるところのないウリュウを選んだの?ムビヤンだって、そうよ。どうして、いちばん素敵なサマニでなくて、カガリを選んだのか、わからない。わからなくて…その理由を、知りたくなったの」

 そこまで一息に言ってから、スグリは大きく息を吐いた。この答えすら、自分がほんとうに知りたいことから少しずれているような気がしたけれど、今、彼女が精一杯言葉にできる限りがこれだった。サマニは少し驚いたような顔でスグリの顔をじっと見つめていたが、やがてくつくつと笑いだした。

「そんなこと、考えていたの。…いいわよ、教えてあげる。ちょっと、こっちへ来て」

 そう言って手招きをされ、スグリは恐る恐るサマニに近寄った。スグリが傍へくると、サマニはそっと耳打ちをした。彼女の温かい息がスグリの耳にかかって、くすぐったかった。

「いつだったかな。あたし、山へ家族と食べ物を探しに行ったとき、家族とはぐれてしまったの。まだ一人では道もわからない頃のことで、半べそかきながら山の中をさまよってたら、ウリュウに会ったわ。彼も、狩りの途中で大人たちとはぐれてしまったんだって。出合った瞬間、彼、わって大きな声上げて、尻もちついたの。あたしを熊か何かだと思ったみたい。

その後は、二人で山の中を歩きまわって、大人たちと合流することができたんだけど。そのときの驚きようとか、あたしだってわかった後の慌てぶりとか、あとは、二人で山道を歩いてる間、怖がってるのをあたしに懸命に隠そうとする姿なんかが可笑しくって。それまで、何考えてるかわからなくて、怖いなあってくらいにしか思ってなかったんだけどね。それから、なんとなく気になるようになって、彼の色んなところに気がつくようになって、気付いたら、いつかこの人と結婚しようって思うようになってたの」

「…そんなことで?」

 彼女の答えに拍子抜けして、思わずサマニの顔を見やりながら、スグリは言った。くつくつと笑いを漏らしながら、サマニは言った。

「うん。…カガリにもきいてみたら?似たような返事が返ってくるかもしれないわよ。あ、それと今言ったこと、ほかの人には内緒だからね。もちろん、ウリュウにも」

「ウリュウにも?どうして?」

 驚いて目を円くしたスグリに、顔を真っ赤にしてサマニが言った。

「当たり前じゃない。そんなの知られたら恥ずかしいわよ」

 そういうものなのだろうか、と思いながら、スグリは頷いてみせた。

「ウリュウ…無事に帰ってくるといいね」

 なんの気なしにスグリは呟いた。すると、突然サマニが顔を曇らせた。

「どうしたの、サマニ」

「うん。…大したことじゃないんだけどね。実はあたし、昨日、ウリュウから耳飾りを預かったの。そのときにきいたんだけど…」

 まさか知っているとも言えずに、スグリはそ知らぬ振りで相づちを打ち、先を促した。

「なんでも彼、去年の遠出のとき、山をいくつも越えて、大地の果てまで行ったんだって」

 スグリは息を呑んだ。“大地の果て”など、炉端できくお伽噺の中でしかきいたことのないものだ。マシケたちがそこへたどり着いたなどという話、マシケからもウリュウからも、聞いた覚えがなかった。もしかしたらナナエが大騒ぎするであろうことを見越し、示し合わせて隠しているのかもしれない。

「そこでは陸が途切れてて、ウミって呼ばれる、荒れ狂う大きな湖がどこまでも広がっているんだって。そこで、水が岩場にぶつかる音や、見たこともない鳥たちの鳴き声を聴いていたら、そのうち心がどこか遠くへ飛んでいってしまいそうになって、怖くなったって言ってたの。その話をしている間も、ウリュウはどこか遠くを見るような目をしていた。私、怖くなって、彼に、どこへも行かないでって言ってしまったの。そしたら、彼は私のこと抱きしめてくれたんだけど…。それからずっと、今も、ウリュウがこのまま帰って来ないんじゃないかって、不安で不安でたまらないの」

 昨夜の光景を想い起こして、スグリは胸を突かれたような心地がした。ウリュウはスグリにとって大切な家族だ。けれど、サマニにとってのウリュウは、きっともっと特別な存在になりつつあるのだろう。

 彼女と同じ苦しみを自分が味わうことは決してないだろうけれど、今まさに、これまでずっと一緒だった人たちとの別離を目前にしているスグリには、少しだけ今の彼女の気持ちがわかるような気がした。思わずサマニの手を握り、彼女の目をじっと見つめる。不安に苛まれやつれ果てた姿など、美しい彼女には相応しくない、と心から思った。

 獲物を携え、意気揚々と帰ってくるウリュウたちの姿を想い描きながら、スグリは言った。

「大丈夫よ。きっと、ウリュウは帰ってくるわ」

「ほんとに、そう思う?」

「うん」

 こっくりとスグリが頷くと、サマニは安堵した様子で微笑んだ。

「あんたがヨタカの孫だからかな。あんたにそう言われると、なんだかほんとうにそうなるような気がするわ」

「きっと大丈夫よ。ウリュウには、サマニがいるんだから。きっとウリュウの護り神さまとサマニの護り神さまとが、ウリュウのことを守ってくださるわ」

 なんとなく照れ臭くなって、スグリはサマニの手を放し、立ち上がった。問いに応えてくれた礼を言い、その場を立ち去ろうとして背を向けたスグリに向かって、サマニが言った。

「ねえ、スグリ。もしかしたら、どこかにいるのかもしれないわよ、あんたにも。あんたを選んでくれる人。…あんたがこの里にいる限り、そういう人と出合うことはないだろうけれど。たまたま互いに、生まれるところを間違えてしまっただけで、もしかしたら…。ううん違う、もしかしたらじゃなくって、きっと、どこかにいるわよ。だから…。いつもそんなふうに、何もかも諦めたような、寂しそうな顔ばかりしていないでよ」

 彼女がなぜ突然そんなことを言ったのか、スグリにはわからなかった。スグリの慰めに対する、彼女なりのお返しのつもりだったのかもしれない。けれどもサマニの言葉に、胸を刺し貫かれたような痛みに襲われスグリは戸惑った。

「…ありがとう。でも、別にあたし、寂しいなんて思ったことないよ」

 背を向けたまま、かろうじてその一言を投げかけ、スグリはその場から駆け去った。自分がそんなふうに彼女の目に映っていたのだということに、ただただ驚いていた。自分はそんなに寂しそうな顔ばかりしていたのだろうか、寂しい、などという気持ちがどういうものなのかもよく知らないのに、と。そして同時に、あまりに見えすいた気休めでスグリを慰めようとしたサマニに、少しだけ腹立ちを覚えもした。どこへ行こうと、自分を選ぶ者などどこにもいないだろうことぐらい、彼女自信いやというほど承知していた。


 水汲みから帰ってくると、家の中にはカガリしかいなかった。

「ただいま。母さんたちは?」

「母さんとサユリはカタヌシさまのお家。トーマとソーヤはどこかで遊んでる」

 スグリの問いかけに、カガリは刺繍に取り組んだまま、顔も上げずに応えた。桶をいつもの場所に運びこみ、スグリは座敷へと上がった。囲炉裏端のカガリの隣に座り、腰の物入れから糸縒りの道具を取り出す。

 自分も仕事にとりかかろうとした途端、先ほどサマニから言われたことを想い起した。

―カガリにも、きいてみたら?―

 しかし、きいてみたところで、どうせ自分には何の役にも立たないのだ。スグリはすぐに思いとどまった。

 黙々と仕事をしていると、不意にカガリが手を止め、スグリの方を見やった。

「無事に、帰って来るかな」

「父さまたちなら、きっと大丈夫よ」

 目をぱちくりさせながらスグリは応えた。今まで彼女が家族の遠出の際に、彼らのことを心配する様子を見せたことなど一度もなかったので、スグリは戸惑った。

「父さまたちもそうだけど…。あたしが言ってるのは、ムビヤンのことよ」

「ムビヤン?…きっと、彼も大丈夫よ」

 そう言いながら、スグリは奇妙な心地に襲われた。不思議なことに、ムビヤンが無事に帰って来る姿を、はっきりと想い描くことができないのだ。先ほどサマニと話していたときは、あんなにもはっきりとウリュウたちが帰って来る姿を想い描くことができたのに。なんとなく胸騒ぎを覚えたが、カガリの手前、つとめて平静を装ったスグリであった。

「もしもあの人の身に何かあったら、あたし…」

 そう言うカガリの腕や肩は、小刻みに震えていた。とっさにスグリは、義姉の腕をそっと掴んだ。

「大丈夫よ、きっと、大丈夫だから」

「ほんとにそう思う?」

「ほんとよ」

 これではどちらが姉でどちらが妹かわからない、と思いながらも、スグリはカガリが落ち着くまで、彼女の腕を掴んだまま同じようなせりふを繰り返した。女たちにとって、自分の伴侶が自分の知らない、危険に満ちたところへ旅立つ、ということは、何よりも不安をかき立てられることらしい。それは、ナナエやサマニ、カガリばかりでなく、女たち全てが共有する苦しみなのかもしれない。やがて彼女の震えが治まり、顔色も落ち着いたのを見計らって、スグリは言った。

「カガリはほんとうに、ムビヤンのことが好きなんだね」

 カガリが気恥ずかしげに俯く。その仕草に、わけもなく胸がちくりと痛むのを感じながら、スグリは言葉を続けた。

「ムビヤンのどこが、そんなに好きなの?」

 すると、カガリがはっとしたように顔を上げ、スグリの顔を見た。暗い灰色の瞳が、ひたとスグリのまなこを捉えたと思った刹那、どこか遠くを見るような眼差しに変じた。そしてそのまま、彼女の視線の先は囲炉裏の焔へと転じてしまった。焔をじっと見つめたまま、ぽつりと呟くようにカガリは言った。

「内緒」

 そしてやりかけの刺繍に再び取りかかったきり、彼女は黙り込んでしまった。いったんこうなったら、義姉は絶対に口を割らない。自分の心の中を人に知られるのを、本来嫌う娘なのだ。逆にいえば、彼女にとってそれだけ、ムビヤンが大切な存在なのだということでもあるのだろう。スグリはそっと諦めのため息を吐いてから、自分の仕事に専念した。

 しばらく黙々と作業をしていると、不意にカガリが手を止めた。そして、囲炉裏の焔をじっと見つめたまま、ぼそぼそとした口調で言葉を発した。その声は、かろうじて傍らのスグリに聞き取れるかどうかの、ごく小さなものだった。

「何年か前、あたし一人で水汲みにいったとき、シュマにひどくいじめられたことがあったの。そのとき、近くで見ていた他の男の子たちは、みんな見て見ぬふりをしていたんだけど…。そのときたまたま通りがかったムビヤンだけは、あたしのこと庇って、あいつを追っ払ってくれた。それで、泣いてたあたしに、お前は何にも悪いことしていないんだから、泣く必要も、あいつにびくびくする必要もないんだって言ってくれたの。あたしを庇ったせいで、自分の方がずっと傷だらけになってるのに。それで、あたしが自分の鉢巻で傷の手当てをしながら、もう絶対泣かないって約束したら、とっても嬉しそうに笑ったの」

 そこまで言うと、カガリはそっと俯いた。

「その笑顔がね、すごく素敵だったの。寒い冬の日に、夏のお日様に照らされたみたいに、身体も心もあったかくなったわ」

 何も言えずに、スグリはじっとカガリを見つめた。俯いたカガリの口元には、柔らかい微笑みが浮かんでいた。その微笑みには、春先に咲くスミレの花の風情があった。きっとそのとき、カガリもムビヤンに笑い返したに違いない。そして彼も、カガリのその笑顔に心奪われたのではないか、スグリにはそう思えてならなかった。

「彼ね、そのときに使ったあたしの鉢巻の切れ端、今も大事にとっておいてくれたのよ。昨日耳飾りをあたしに預けたとき、それをあたしに見せながら、あれっきり、泣いたところ見たことなかった、約束守ってくれたんだなって、笑って言ってた。びっくりしちゃった」

 そう言って嬉しそうに笑うカガリを見ながら、恋をするということは、花を咲かせるのとよく似ているのかもしれないな、とスグリはふと思った。心の中にいつの間にか芽生えたつぼみが、知らず知らず、互いに水や光を与えあううちに育っていき、やがて時期がくれば花開き、次の種を落としていく。そしてその営みは永遠に繰り返されていくのだ。

 ふと、気が遠くなるような心地を覚えて、スグリは思わず目を瞑った。そして次の瞬間、自分がその連鎖の中に与することはないのだ、という事実に気がついて、何ともいえない空虚さを覚えた。


 それから月が満ち欠けをひとめぐり終えた頃、同じ日の朝に旅立った、二組の狩人たちが星ノ森の里へ相前後して帰還した。一組は、マシケやウリュウが同行した組、もう一組は、ムビヤンが同行した組だ。

 マシケたち一行は、沢山の獲物を携え、意気揚々と帰って来た。まさしくスグリの想い描いたとおりの姿だった。

 一方、ムビヤンの同行した一行も、沢山の獲物を手に帰還した。ただひとつ違ったのは、彼らだけが、悲しい報せを携えていたことだった。

―ムビヤンが死んだ―

 あのときの、スグリの予感が当たってしまったのだ。

 この報せは直ちに里じゅうに知れ渡り、ムビヤンの家では形ばかりの葬儀が執り行われた。

 亡骸はなかった。同行した者たちの話では、狩りの途中、足を滑らせて崖下の谷川に真っ逆さまに落ちていったという。彼の身体は雪の少ない川岸に打ちつけられたきり、ぴくりとも動かなかったらしい。

 葬儀のとき、今頃は獣たちの馳走になっていることだろうと、放心した様子でムビヤンの父親がぽつりと誰かに呟くのを、スグリはきいた。年老いた彼の母親や、すでに嫁いでしまった彼の姉、そして幼い妹が、暗い顔つきで父親の後に従っていた。

 黒い頭巾ですっぽりと顔を蔽い隠したカガリは、スグリの傍らにぴったりと寄り添って、葬儀の列の中ほどを歩いていた。黒い頭巾で顔を隠すのは、葬られる者の妻として喪に服すことを意味していた。まだ婚儀を終えてないカガリには本来その必要はなかったが、本人が強く望んだためそれが許されたのだ。これによって、カガリはまる一年経つまで、結婚することができなくなった。

 婚儀を終えている場合、残された者は三年間再婚できなくなるのだが、カガリは未婚であった。結婚前の娘が婚約者の死に自ら喪に服すことを望むことなど、ほとんど前例のないことであったため、年寄りたちの話し合いによってそのように定められたのだった。

 俯いたまま、どこかおぼつかない足取りで歩く義姉の手をしっかりとつかんだまま、スグリは黙々と歩き続けた。

 カガリが気丈にも涙ひとつ見せなかったのは、もしかしたら、生前のムビヤンとの約束を守ろうとしていたためなのかもしれない。

 あのときもっと、自分がしっかりと彼の帰還する姿を思い描くことができていたら、彼は生きて帰ったかもしれない。そんな途方もない考えがスグリの頭をかすめた。

 カガリの花は、花開くのを目前にして、散ってしまった。咲かずに終わるのは自分だけだとばかり思っていたスグリは、思いがけない義姉の恋の結末を、信じられない思いで噛みしめていた。心の中には、苦い後味だけが広がっていた。

 * * *

 やがて雪が解け、湿原の道が姿を現し始めた。それまでなりを潜めていた獣たちの鳴き交わす声が間遠くに聞こえ、雪の合間から、コケや草花の緑が覗くようになる。冬の厳しさの中にも、春の兆しが、日増しに里の周辺で見られるようになっていった。

 ウリュウとサマニとの婚儀を目前に控えたある日、スグリの左腕の文身が完成した。それと同時に、スグリはミクリから、いくつかの事実を打ち明けられた。それまでの間にスグリの中に積もり積もったいくつもの疑念が、雪が解けるように解きほぐされていった。

 そしてこのときから、スグリの運命は動き出したのだ。それはすさまじい力で彼女を押し流し、そのときの彼女には想像もつかないような大きな流れへと彼女を巻き込んでいくものだった。

お付き合い頂き、ありがとうございます。


お時間ありましたら、次回もお付き合いを。

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