カシューナッツ
「――ん……朝か」
けたたましく鳴り響く電子音。毎朝、多少の嫌悪感を抱きつつも、これが無かったら起きることは出来ないので素直に起床時間を七時半にセットしてしまう。世の常ではあるのだが俺はいかんせんこの無機質な物体に叩き起されるのが嫌いだ。二律背反。
「起きます、起きますよーっと……」
いつまでも騒がしいこいつを上からバシンと叩く。途端静かになる部屋。
俺は起き上がりベッドに腰掛け、覚醒しきっていない頭を掻きむしる。起きた瞬間元気に朝食を口に運べる人間の気がしれない。
座りながらにしてまたも眠気が襲ってくる。うつらうつらと船を漕ごうとしている体に気合で鞭を入れる。ここで二度寝をしてはいけない。高校進学から二週間にして早くも遅刻してしまっては不良街道まっしぐらだ。そういえば誰かが、高校生になると四六時中眠気が取れなくなるという話をしていた気がする。アレは本当だったのか。恐るべし高校生……。
そんなどうでもいいことを考えながらよっこらせと立ち上がろうとする。
その前に枕元を一瞥。
「…………カシューナッツ」
そう、カシューナッツ。酒のおつまみで有名なあの豆だ。俺は未成年なので酒を飲むことが出来ないが、カシューナッツに関してはあのクセになる歯ごたえが嫌いじゃない。ふと食べたくなる衝動に駆られる食べ物の一つである。お酒は二十歳になってから。
……俺の好みはいいとして。カシューナッツなどと、突然何を言い出すんだこいつは、気でも触れたのではないかと思われるかもしれないが至って普通である。現に枕元には『素焼きカシューナッツ』と表された袋があるのだ。
そうこうしている間にも時間は矢の如く進んでいる。俺は少し焦り気味に制服に着替え一階の洗面所へと向かい顔を洗ったり歯を磨いたりする。なんせ四月だ。クラス内での俺の印象はこの一ヶ月で粗方固定されるだろう。そんな中で不潔な男というレッテルを貼られるわけにはいかない。常に清潔に、整髪料は付けすぎず、あくまで自然に、だ。
「うっし」
今日もいい感じだ。俺はそうして自分のヘアスタイルに納得がいくと脇に置いてあった真新しい黒のブレザーに袖を通してリビングへと向かう。もちろん、素焼きカシューナッツを片手にして。
リビングには母さんが黒のタイトなパンツに真っ白なワイシャツ、更にコーヒーを片手に朝のワイドショーを眺めていた。息子の俺が言うのもなんだが、すごく映える。
「ふわぁ……おはようございまーす……」
「はいおはよう。朝ご飯はどうするの?」
「ああ、今日は食いもん出てきたからこれでいいや」
「あらそう。で、何が出てきたのよ?」
「……カシューナッツ」
「カシュ……ぷっ……! どんな夢見たらカシューナッツが出てくるのよ!」
「こっちが聞きたいわ……」
辟易しながらカバンを背負う。そろそろインターホンが鳴る頃だろう。
ぴーんぽーん
ほら、時間だけはきっちりしてるんだよ、あいつ。
俺がリビングの入口から顔をのぞかせると玄関のドアが軽快に開かれた。
「おはようございまーっす。大哉起きてますかー?」
「ここにいるだろうがここに」
「あら本当!」
わざとらしく口に手を当てる栗色もっさりポニーテール。ったく調子いいなおい。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はいはい。母さん今日から一週間くらい出張で九州の方に行くから。冷蔵庫の中はある程度補充しておいたけど、足りなくなったら買いなさいよ。お金は置いとくからね」
「おう」
「任せてくださいおばさん! 今日から一週間の大哉の体調管理、及び身の回りの世話はわたくし鳴沢文子が全て承りました!」
「お前は一体俺のなんなんだよ」
俺は受け流して一人玄関を開ける。
「うふふっ、それは頼もしいわね。文子ちゃん、いいお嫁さんになるわよ」
「お、お嫁さんだなんてそんなっ……御褒めに預かり光栄です!」
鳴沢文子は満面の笑みで応える。
「それはいいんだけどね、行っちゃったわよ。大哉」
「えっ!? あっ……! 大哉のやつ~……では行ってきますー!」
「はーいいってらっしゃーい」
ぷらぷらと手を振って見送る母さん。
この見るからに出来る女な感じのオーラを全身から滲みだしている人物が、さっきから言っている通り俺の母である。ちなみに今回の出張はさして珍しいことではない。
俺にはよく分からないが、どうやらうちの母さんは見た目だけが出来る女なのではなく、その中身まで完璧みたいで、自分のキャリアを自分のものにしておくことに留まらず、様々な企業の講習会の講師として全国から引っ張りだこの状態らしい。出張先から出張先へのハシゴなんてのもざらにある。たしか電化製品の商品開発関係の仕事だったような。昨日は久しぶりに家にいたから(と言っても二日)なんだか見るからに高そーな寿司屋に連れて行かれた。回ってない寿司なんて食ったことが無かったから味なんて緊張して分かったもんじゃない。なんだよ時価って。
「もう! なんで置いてくのよ!」
後方から文子が息を切らしながら叫んできた。
「お前も食うか? カシューナッツ」
「いらないよ! ていうかなんでカシューナッツ!?」
ようやく俺の横に来て歩き始める。息を弾ませながら上目遣いでこちらを見てくる文子に少しドキッとして慌てて目を逸らす。
「そんなん俺の夢に聞いてくれ」
「――あ、なるほど。そういうことね」
その一言で納得する文子。呼吸も整ってきたようだ。
「お前もほんと飽きないよなー。どうやったら毎朝時間きっちりにインターホン押せるんだ?」
「え? きっちりなの?」
「そりゃもう。八時ぴったしですよ」
「そうなんだ。まあ、小学校からずーっとやってることだからねぇ。特に意識はしてないよ」
感慨深そうに、しかし自慢げに腕を組みながら言う。
「腐れ縁が成した業ってことか……」
「ま、まあそうなっちゃうわよね……」
「「ハハハ……」」と二人同時に溜息を漏らす。
そう、今俺の歩幅に必死に食らいついて歩いているこいつ、鳴沢文子は生まれた頃からの仲、世間一般で言うところの腐れ縁というやつだ。うちの母さんと文子のところのおばさんが、俺たちを妊娠中にたまたま同じ病院で知り合ったらしい。そしたら家も近所と来たから世間は狭いということを思い知らされる。
小学校に入学すると母さんたちは俺と文子二人で登下校をするように言った。それからというものは文子が八時にうちに来て二人仲良く……あ、いや後々三人で登下校をするようになる。
「それはいいとしてだ。文子、宿題は済ませたか?」
「え? あぁそりゃあもう完璧だよ。うん本当に……」
目が泳いでるぞ。
「そうか、やってないのか……。見せてもらおうとお前に期待した俺がバカだった。というか今更だよな」
「んなっ!?」
「普通さ、こういう幼馴染キャラって勉強の面倒も見ることが出来るオールマイティな感じだろ? それなのにお前ときたら勉強以外のことはそつなくこなすくせして頭が悪いってどういうことだよ」
「だ、黙って聞いてれば……でも言い返せない……」
結局黙るしかない文子だった。
正直に言って、俺はこの腐れ縁も中学校までだろうなと覚悟していた。理由は俺たちの学力にある。自分で言うのも何だが、俺たちは頭が悪い。二人とも中の下くらいのレベルだと思う。中学校の定期テストの順位は必ずこいつと隣同士だったから全く同じだったのだということが分かる。
学力が同じならば二人して同じ高校に行くのではないかと思われるだろうが、ここで俺は山王学園高校という、ここの地域では比較的レベルの高い高校を受験してしまったのだ。そんな山王高校に俺は奇跡的に入学することが出来た。そう、悪魔的発想、鉛筆サイコロによって。
そして入学式。俺は唖然とした。そこには絶対にいるはずのない文子の姿があったのだ。聞くと奴も鉛筆サイコロによって入学出来てしまったらしい。お前も悪魔の血族だったのか。
と、そのような経緯があって腐れ縁は続いてしまっているというわけである。
「おい今日の宿題、数学の笹川じゃねえか。あいつ提出物にうるさいから出しておきたいなー」
途端、血の気が引く文子。
「す、数学……。数学という単語自体が何かの数式なんじゃじゃないかって思えてくるよ……」
奇跡的に合格した俺たちだが、そのツケは大きなものだった。
己の頭とは不相応な学力レベルの高校にちゃっかり入ってしまった俺たちを待っていたのは、過酷な授業と課題ライフだった。ハイレベルな授業にはついていくのもやっと。いや、盛った。ついていけていない。そんな状況でどうやって宿題をこなせと言うのだ。
「かくなる上は、いつもの手段を使うしかないか」
「だよね。私たちがこの学校で生きていく手段は、それしか考えられないもん」
二人して頭を抱える俺たちはそれで合意した。それというのは――
「いたぞ」
「うん」
通学路の途中、いつもの交差点にその姿はあった。
「おーっす」
「陽介おはよー」
「ああ、おはよう」
「なぁ陽介、幼馴染の俺たちから折り入って頼みがあるんだが」
「宿題なら見せんぞ」
「み、見破られているだと!」
「え~いいじゃん! 陽介のケチ!」
憮然とした態度で丹波陽介は言った。
男にしては長い肩辺りまで伸びる黒髪。そしてその辺のファッション雑誌に載っていそうな中性的でモデルばりのルックスと体型。こんな奴、周りの女の子が見逃すはずが無い。それに加えて頭が良いと来た。噂によると今回の入学試験、一位はこいつだとかなんとか。個人的にはその黒縁眼鏡をコンタクトレンズにすれば今以上にファンが増えると思うのだが。……いや俺がそんな話してどうする。惨めになっていくばかりだよクソ!
「ダイヤ……宿題なんてのはな、見せてもその時だけ助かるだけで、しっかりと勉強しなければ何の意味も無いぞ?」
「おいダイヤじゃねえ! 俺はヒロヤだ! 高校に入ってまでそのあだ名で呼ぶの止めろよ! 『あれがいわゆるDQNネームってやつ?』って勘違いされるだろうが!」
「今更か。そんなの、お前だってもう慣れちゃってるだろ? 先週の入学式で同じクラスの奴に『君、ダイヤって言うの?』って言われて危うく頷く所だったじゃねえか」
「ぐ……それはまあそうだが……高校にもスタートダッシュってものがあるだろ!? 下手したら俺は高校三年間をダイヤ君で終えるかもしれなくなる。そう考えただけでゾッとしたんだよ。――そして卒業式、卒業証書を受け取る時校長が俺に言うんだ。『三年○組、市川ダイヤ』ってな! あぁ恐ろしい……」
俺はわなわなと両手を震わせこれがどんなに恐ろしいことなのかを熱弁した。
「落ち着いて大哉! ここでケンカしたら宿題見せてもらえなくなっちゃう!」
深刻な顔で文子が言う。ああそうだったな、ここで取り乱してしまっては向こうの思うつぼだ。落ち付け。クールになれクールに。しかし文子よ、そんなどうでもいいような顔をしないでくれ。俺としては結構重要なことなんだ。
「そっちがそういう作戦ならな陽介、こっちにも秘策がある」
「いや別に作戦でも何でもないし」
呆れる陽介を置き去りに俺と文子は陽介の両サイドに立ち、耳元で囁いた。
「もう学校で喋ってあげないぞ?」「もう学校で喋ってあげないよ?」
「――――!」
重いトーンで、しかもステレオサウンドでこれを聞かされた陽介は戦慄していた。そう、俺たちは陽介の決定的な弱点を知っている。
その時突然後ろから声を掛けられた。
「た、丹波君っ! その……おはよう!」
「――あぁ、おはよう」
声を掛けられたのはもちろん俺や文子ではなく陽介である。二人の女子はこいつしか視
界に入っていないらしい。
先程まで俺たちの言葉に戦慄していた陽介だったが、何事も無かったかのように平静を取り戻して女子たちに笑顔を向けていた。
「やった! 丹波君とお話しちゃった!」
「良かったじゃん! きっと今日は良いことあるよ!」
女子たちはそんな会話をしながら小走りで俺たちを追い抜いていくのだった。
「――で、さっきの話に戻るが……」
眼鏡の位置を修正しながら話す陽介の表情は、にこやかだったさっきと比べて打って変わり、再び陰りを見せていた。
「そう、それだ。お前はその容姿から、常にみんなから注目されている。それは必然的に多くの人から話し掛けられることもあるってことだ。話し掛けられたら当たり障りの無い会話をして事なきを得るお前だが、自分から話し掛けるなんてこと、学校での事務的なこと以外に俺は見たことが無い! ただ二人、俺と文子を除いて!」
「ただ宿題を見せないだけでそんなことになっちゃったら嫌だよねぇ?」
意地の悪そうな笑みを浮かべる文子。
「う……それは…………困る」
陽介の動揺が秒を追うごとに大きくなっていっているのが分かる。
陽介の弱点。それは自分から人に話しかけることが出来ないことだ。学校でまともに会話をすることが出来る人間は俺と文子だけ。要するに友達と呼べる人間は俺たち二人だけということになる。
こんなイケメン野郎のくせにコミュニケーション能力は皆無。なんなんだこの宝の持ち腐れ感は。
その二人からもう話さないと言われてしまったら陽介からしたらそれは焦るだろう。
「休み時間をどう過ごす? 移動教室は誰と行く?」
「はたまたお昼ご飯は誰と食べるんだろうねぇ~?」
「~~~~! 分ぁかった!! 分かったから! 見せるから! これでいいだろ!?」
「よし」
「うん」
一件落着。どこまでもクズな俺たちだった。




