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「ん~まぁ、ここだよな」
マルクスの独り言と同時に、バサッと皮翼が砂埃を舞い上げた。漆黒の巨体が着地して、地鳴りが起きる。
争った痕跡が残る、血で汚れた地面に降り立った三人は、すぐに王宮へ向いた。
庭には人っ子一人、見当たらない。
「……中には、居るようだな。王子、着替え。嬢ちゃんは前向いててな」
「は、はいっ」
素早く目を逸らすと、背後で光が走った。
一瞬だけドルディノの裸を想像しそうになって、慌てて打ち消す。
「お疲れさん」
「いえ……」
「いや~凄く楽しかったよ~! ありがとうねドルディノ君!」
「あ、はい……はは……」
乾いた声色に疲労を感じて振り向くと、出会った灰色の瞳が柔らかく細まれ、心臓がぎゅっとなる。
「……っっ!」
「じゃあ……いってみるか。とはいえ、もう全部終わってそうだけどな」
「そうですね」
歩き出した途端「危ないから」とドルディノに引き寄せられ、そんな場合ではないのに胸が高鳴ってしまう。
しかしそれも王宮と距離が近づくにつれ、緊張のそれに取って代わった。
「……れぇ……、おのれえええぇぇぇぇぇ!」
女の、腹底から放たれた低音が金切り声にかわり、その憎悪に当てられたリンは咄嗟にドルディノの袖を掴んだ。
騎士に取り押さえられ振り乱したのだろう、こげ茶の髪が般若のような顔に垂れ、射殺さんばかりに正面を睨め付けている。
「裏切りおってえええぇぇぇぇぇボッツゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!」
――えっ!?
予想外な名前が飛び出し周囲に視線を走らせると、前方斜め左側に立っている人物に目を止めた。
その横顔は、いつにも増して感情がごっそり抜け落ちている。
「いいのかァ……? お前の妹は……見捨てるのかァァァ? 爪を一枚一枚剥いで、指を一本ずつ落とし……耳を削いでじわじわと切り刻」
「無理ですよ」
遮るように、ボッツの情緒ない声がホールに響く。
「妹は、ドラーグが、ギーンの別邸から救い出してくれました。俺はもう……貴様の命令なんぞ、聞く必要はない」
「おのれえええぇぇぇぇぇ貴様のようなゴミがああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
地の底からわき上がるような叫びに、心臓が摘ままれたように呼吸が苦しくなり、裾を握りしめている指先に力が入る。まるでそれが、唯一の命綱のように。
唾を飲み込む音すら立てるのが恐ろしい。
その時、しがみ付いていたドルディノの腕が右肩に回され、ぐいっと体を引き寄せられる。見上げると優しい微笑みに迎えられ、安心感から泣きそうになって俯いた。
すぐに前を向いて、女王と対峙しているであろう、金髪の男性の背中を見つめる。
「あたくしに触れるでないっ下賤な者めがあああぁぁぁぁぁぁぁ!」
身動きできぬよう取り押さえている騎士が唾を吐かれるが、拭いもせず男は無言で女王を見下ろしている。広いホールの壁伝いに並んで静観している騎士たちも、誰一人として身じろぎしない。
不意に右側に見える扉が開かれ、騎士二人と、捕えられている男性が一人現れた。
男性は白い簡素な服を着ていたが素足のままで、痩せこけて無精ひげが生えた顔にはくまが浮いていた。たどたどしい足取りに合わせ、金髪がふわふわと揺れている。
「あ……あぁ……どこ、ここはどこなんだぁ……ここは…………いやだ、いやだ……僕、僕の……僕の小鳥ちゃんはどこ……どこにいったんだよぉぉぉ…………!」
決して大きくなかったが、静まった室内には男の掠れ声がよく反響した。
「っリュグド……! 貴様、ダグートォォォォォォォォォォォ!! おのれぇえぇぇぇぇよくも息子を!!」
ギッと見上げた女王が目を見開いたが、一瞬で戻る。
コツコツと床を踏みしめ、金髪の男性は女王に寄って行く。
「……ミラルダ・ラシス・グレマルダ女王。あれは、お前の罪だ」
女王の目前に立つ、頭……ダグートが、二人の騎士に連行されてきた金髪の男に向けるその眼差しは……とても悲しそうだった。
「る、さい……うるさうるさいうるさいうるさい黙れ黙れえええぇぇぇぇぇぇぇ!」
「三十八年前。お前は私の母、イルチェ・ラシス・グレマルダ王妃を毒で死に至らしめた」
「証拠を出すがいい! あたくしが毒を盛った証拠を! 出せぬだろう!? そうだ出せる筈がない!!」
狂ったように笑う女王に目を眇めたダグートは、感情を落とした声音で告げる。
「当時、お前に指示されたという侍女が、口封じされる前に送った、友人あての手紙が残っている。そこに、お前の指示だ、と……家族を人質にされていてやるしかない、と綴られている。それが、これだ」
懐から取り出した薄汚れている手紙をちらりと見せ仕舞い込むダグートに、女王は愕然とした。
「な…………」
「お前は、いつから王妃の座を狙っていた? 母上から、死ぬ間際に『国王を支えて欲しい』と頼まれてからか? それとも、それより前……友人として接していた頃からか?」
歯を食いしばる女王を静かに見下ろすダグートは、続けた。
「三十二年前、父上である国王陛下も王妃と同様に毒殺。父上を何故殺した? ……お前は知らないだろうが、指示に従った使用人を殺すよう依頼したゴロつきどもは、他所でも同じような事件を起こしたため、幽閉されていたんだ」
再び正面を向いた女王は、目を剥いて、茫然とダグートを見上げた。
「同年、第一王子だった私に全ての罪を着せ公開死刑しようとしたが、私が逃げたため曖昧に片づけた。……私が生きていると不安だったのか? 度々刺客を送り込み、暗殺しようとしたな。まあ全て返り討ちにしたが」
「くっ…………」
「は、……は、……え」
震えた声の主へ、一斉に視線が向けられる。ふわふわした金髪の男……リュグド王子は、愕然とした様子で女王をみている。
もしかしたら今この瞬間、自我を取り戻しているのかもしれない、とリンは思った。
「りゅ……リュグ、ド…………」
今まで、けたたましい声を上げていた人物とは思えないくらい弱々しい、女王のそれ。
「…………あと一人」
ダグートの言葉が合図になったかのようにどこからか扉の開く音がし、二人の騎士が伴ってきた、銀髪の女性。
ひゅ、と息を吸い込んだのは、果たしてリンだけだったのか。
早鐘のように打つ鼓動、のど元にせり上がってくる激情で全身が震え、視界が水の膜で歪んでいく。
「お…………、お…………かあさ…………」
はっとした様にドルディノが見たことにも気づかず、リンは感情の赴くまま、ふらりと前に出た。
え……、と漏らしたのは誰なのか。
あまりの予想外の出来事に戸惑いが走るホール内で、騎士に連れられてやって来た銀髪の女性がゆっくり顔を上げ――……悲鳴を上げる。
「リアンッ! リアン、リアンリアンリアァァァァンッ!」
それまでの儚げさが嘘だったように騎士二人を振り払い、確固たる足取りで駆け抜け、ダグートやリュグドも通り過ぎリンを掻き抱いた。
「おかあさん、おかあさんおかあさんおかあさんんんんんんんんんああぁぁぁぁぁぁぁ! あい、あいたかった、会いたかったああぁぁぁぁぁぁぁ!」
「リアン、リアンリアンリアンわたしの、わたしの愛しい子ぉぉぉぉぉぉああああぁぁぁぁぁ!」
お互いを固く抱き締め合い咽び泣く銀髪の親子を、困惑の中、誰もが固唾を呑み見守っていた。
補足
63話後半や、88話のマルクスのセリフの流れでなんとなく分かると思っていますが、グレマルダ女王は非常に怨まれていますので、仕えていた使用人たちは、ほぼダグート側です。
リアン母、55話にも少しでております(特に確認しなくても大丈夫です)




