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三人と別れ、宛がわれた部屋に戻ったリンは入浴後、用意された寝間着の上に青いショールを羽織り、ベッドに腰かけていた。そこから覗ける窓から暗闇に瞬く星空に、ほっと息を一つ零す。
――なんか、色々あったなぁ……。
誘拐されて、体が女性のそれになり、ドルディノが暴走して竜化し、竜の国にまで来てしまった。
――そういえば、ミュンルちゃんたち元気にしてるかなぁ。
聞くところによると、帰ってすぐに親元へ戻されたらしいが、また会えるだろうか。
リンの瞳に切なさがともる。
――ロディとロネに再会できたことが、嘘みたいで凄く嬉しい。でも。
「……お母さんにも、会いたい……」
こみ上がるものを頭を振って誤魔化すと、バルコニーへ出る。
「お……リアン」
横から飛んできた声に振り向くと、両手を手摺りに掛けていたロディが立っていた。寝間着とは違う動きやすそうな服装をしている事に首を傾げながらも、側に寄っていく。
「ロディも……眠れないの?」
「まぁ、な。なんかさ、こんな……静かなの、久しぶりで落ち着かなくてさ」
その言葉に、ふ、と息を零す。
「そうだね……」
ロネはどうしたのだろう、と疑問が湧いたが、きっと好いているという彼女の所かもしれない。
「……なあ、明日どっかいくんだって?」
「あ、うん。聞いたの?」
「ちょっと小耳に挟んだだけ。……なぁ、本当について行くのか?」
「うん、そうだけど……なんで?」
「心配だからに決まってんだろ……」
肩越しに見つめてくる青の双眸に気遣いを見て取ったリンは、ふんわりと笑った。
「ありがとう。大丈夫だよ……ドルディノさんとフェイさんも一緒だし」
「ああ……そういやそうだったな……なぁ、あの人たちとはどうやって会ったんだ?」
「あの人たち……」
ああ、いっぱいいたっけなと呟いたロディが空を仰ぐ。
「……船の人?」
「お頭さんたちだね? ……数年前、私が奴隷市場に立たされている時に、ヤル兄さんが見つけてくれたの。覚えてる? ヤル兄さんのこと。小さい頃一緒に住んでた……」
「いや、あんまり」
「ふっ、そうなんだ」
微笑んだリンに、ロディの口元も綻ぶ。
「じゃあロディは?」
「……あー、市場に立たされそうになったところで逃げたのはいいんだけど、食べ物に困ってさー。……そしたら声掛けられて、ついてったら見どころがあるとか言われて鍛えられて仕事とかしてたんだけど、しくじって死にそうになってる所をじーちゃんに救われたんだ」
「ガーガネス様、よね?」
「うん、そうそう。まさか竜人とは思わなかったなー……通りで、硬ったいし強いと思った。歯が立たないわけだ」
「あーそういえばロディってマルクスさんと戦ってたよね。剣扱えるなんて凄い。びっくりしたよ」
「負けたらしいね……まぁボクは覚えてないけど」
ブスッとするロディが面白くて、つい笑い声を漏らす。
「……なぁリアン」
「うん、なぁに?」
不意に、頭上から何かが開く音がして、二人は同時に口を噤んだ。足音がしてひょっこり覗いた漆黒の癖っ毛に思わず満面の笑みを浮かべる。
「ドルディノさん」
「あ、お邪魔でした?」
「そんなことないです。ね? ロディ」
振り向くと、ロディは真上を見つめたまま何も答えない。
「……ロディ?」
「なぁ……お前、ちょっと降りて来いよ」
「僕ですか?」
「そうだよ」
「分かりました」
片手を手摺りについて飛び越えたドルディノが綺麗に着地するやいなや、顔面を近づける。
「ろ、ロディ……? 何して……」
「なぁ。あんた、小さい頃からずっとここに住んでんの? 数年間くらい小さい島にいなかった?」
ひゅ、と息を呑んだリンの心臓が早鐘を打つ。素早く目線をドルディノへ転じ、答えを待った。
「あっと……はい。昔、僕は一時期ここにはいませんでした……」
「やっぱりな」
大きな溜め息をついたロディが後頭部へ両手を回し、背中を壁に預ける。
「……っ」
心臓が胸を突き破って出てしまいそうな程暴れている。リンは言葉に詰まり、震える指先を抑えることしかできない。
「一応訊くけど。あんた、ボクたちの村で一緒に暮らしてた少年だよな? ……正確に言うと」
一旦切ったロディがリンをちらりと見やる。
「こいつの家で」
灰色の双眸に、今にも泣きだしそうなリンの姿が映し出された。
「……そうです」
告げながら、リンの頬を滑り落ちる涙を指先で優しく拭う。
「言うのが遅れてすみません……リアン……さん」
「ふぅっ……っ……!」
飛ぶように抱きついて背中の裾を力一杯掴む。
肩を震わせ声を抑えるように泣く頭を、ドルディノの手が優しく撫でた。
「なぁ、お前島にいるとき喋んなかったよな。なんで?」
「あ、あの時は、声が出なかったんです。ただ、島が襲われた日に話せるようになったんですが……」
「へぇ……あと一つ訊いていい?」
「なんでしょうか?」
「お前、『クロちゃん』じゃないの?」
リンがぱっと顔をあげると、涙で濡れた対のサファイアが再び灰色のそれと出会った。
その刹那、ドルディノのかんばせにひどく優しげな微笑みが浮かぶ。
「そうです」
茫然とドルディノを見上げるリンの涙は止まっていた。が、一転し眉をつり上げて逞しい胸を叩き始める。
「んー! んんー!」
「ふっ! 叩かれてんぞー少年。あ、もう青年か」
「ご、ごめんなさいリンさん、ごめんなさい。す、すみません……あの、反省してますから……ちょっと、落ち着いてくださ……」
ロディの愉快そうに笑う声とドルディノの謝罪の言葉が、暫し夜空に木霊していた――。
「さあ! 行くぞ~!」
青空の下に響くフェイのはずんだ声にマルクスが吹き出し、ドルディノは乾いた笑いを漏らした。
「マルクス。王子を頼みましたよ」
「あっ、ああ……わかってるよっ、くくっ」
シードから渡された荷物を背負ってドルディノに近づくと、そろそろかな、と呟く。
「すみません、お待たせしましたっ」
小走りでやってくるリンの後ろから、ロディとガーガネスがゆったり歩いて姿を現す。
「見送りですか?」
「ああ。ロディがそうしたいというのでな」
シードの問いに答えているガーガネスの深みのある声を背後に、ロディはリンを抱き締めた。
「気を付けていって来いよ」
「うん、ありがとう。行ってくるね」
「ドルディノ君、宜しくね~!」
上機嫌なフェイを何とも言えぬ表情で見つめるシードとガーガネスの横で、腹を抱えて笑うマルクス。そんな竜人たちに不可解な眼差しを送っていたロディだったが、ドルディノの促しで側を離れる。
「ほらほら、距離あけてねー。竜になるとデカイからねー」
マルクスの注意喚起にフェイも城に向けて走り出す。最中、後方から迸った閃光と膨れ上がった“気”を感じ振り返ると、漆黒の竜が佇んでいた。
「わぁ~……感服……」
睫毛に隠された灰色の双眸は慈愛に満ち、優しそうな顔つで、側頭部に伸びている二本の角はそれ自体がまるで磨かれていない原石のよう。黒く短い毛が、頭上から腰にかけて背筋に沿うように生えており、ふわふわして気持ちよさそうだ。体は艶のある硬くて美しい鱗に覆われ、頑丈さが窺える。
重々しそうに、竜がゆっくりとした動作で地に伏せた。
途端、パンパンと小気味良い音が鼓膜を揺らす。
「はーい、じゃあ行きますよー。二人とも集合ー」
竜の頭に登ったマルクスが手を引き、リン、フェイの順で位置を決める。
「まあ落っことさないように俺がついてるが、しっかり毛を掴んで、でこぼこしてる間に入ってな。そっちのほうが安定する」
二人の返答を聞いてから、マルクスは振り返った。
「じゃ、行ってくる」
「お気をつけて」
シードが声を掛け、
「リアン、お前は特に怪我しないようになー!」
「はいっ!」
ロディの言葉にリンが元気よく叫んだ。
「口閉じといてねー。じゃあ、出発ー!」
マルクスの合図で再び重そうな音を立て緩慢に立ち上がった黒竜は、大きな皮翼をバサリと広げ――跳躍した。
全身を襲う風圧に吹き飛ばされないよう慌ててへばりついたが、真後ろから上がったフェイの満足げな叫びに吃驚し、一瞬だけ奇異な眼差しを向けてしまう。
――フェイさんって、こんな面もあったんだ……。いつも飄々としてどこか一線も二線も引かれてる気がしてたけど……。
気が付けば風の勢いが落ちており、喋れそうなまでには優しくなっていた。両手でがっちり毛を掴んだままで上半身を起こし、周囲を見下ろそうと試みる。が、あまりの高さに眩暈がし恐慌しないよう一点を見つめ、予防に努めることにした。
景色を楽しむ余裕もない。
しかし眼前のマルクスは流石と言うべきか、足を開いて側頭部の角を掴んだだけで胸を張って立っているし、背後のフェイは風景を楽しんでいる気配が伝わってくる。
――前から、凄いとは思っていたけど……。
改めて、フェイの偉大さを痛感した。
大空へ羽ばたいていった黒竜と三人を見送ったロディは城へ消え、外には竜人の二人が残っていた。
「それにしても……王子は優しい御方ですね。三人も背中に乗せるとは……。我らが竜体になった際背に乗せる相手は異常事態を除いて、特別な者のみというのに」
「ええ、まあ……そうですね」
その姿が視界から外れてもその場を離れなかった二人だったが、不意にガーガネスが動いた。
「“気”も捉えられなくなりましたね。戻って待ちましょうか」
「そうですね。行きましょう」
ガーガネスを誘導したシードはもう一度上空を一瞥してから、踵を返した。




