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リン視点です。
微かに、名を呼ばれた気がした。
遥か昔に捨てた、本当の名前を―――……。
「リアン」
はっと意識が覚醒した瞬間、サファイア色の瞳に顔が映り込んだ。刹那、夢じゃなかったという嬉しさと共に絶望がのしかかり、息苦しさが増す。
ショックだった。理解したくなかった。
生死も分からないままだった幼馴染にようやく再会できたのに。
「どうして…………?」
口からついて出た声はか細く震えていた。視界が揺れて決壊し、止めどなく溢れてくる雫が目尻を流れていく。
裏切られたような気持ちで一杯だった。
「ロネ……」
「…………」
無言で見下ろす彼を見て、ふと違和感を感じた。
その表情は無機質で冷たく、感情が削げ落ちたような面をしている。
自分を見つめているこの男は、本当にさっきまで抱き締め合ってた人と同じだろうか? 先刻はほんの僅かだったけれど、たしかに微笑んでくれていたのに。
そして、はっとする。
「……ロネ……あなた、男の子になったんだね?」
「…………」
「おぉぉぉー、やっと起きたのか」
その声を聞いた瞬間、リンは飛び起きていた。背筋がぞくっと震え、血の気が引いた。心臓は、ばくばくと早鐘のように打ち、息が詰まる。
思わずロネを見上げると、彼は口元を引き結び、ただじっとそこに立っていた。
感情が欠落したような表情で。
「くっくっく……懐かしいなぁ~。いや、先日町で会ったなぁ? お前も若い男を連れて……どうした? あの男には捨てられたのかぁ?」
「……にを、……って…………」
―――あなたが勝手に連れてきたんじゃないか!!
そう叫びたかったけど、言葉が詰まって一つも言えない。
恐怖で、体がすくんでいた。
「くっくっく……顔をみせてみぃ」
足早に寄ってきたギーンの太い指先がリンの顎を掬いあげる。
「っ……っつ……」
―――いやだ……早く放して、気持ち悪い!
ふい、と目を逸らした瞬間、体が浮いて衝撃が走った。頭と肋骨がズキズキと鈍痛を訴え、頭部を掴み投げ飛ばされたのだと気づく。
「ふんっ……全く、すっかり毒されおって。まあよい。調教のし甲斐がある」
全身の震えが止まらない。肩越しにギーンを振り返ると、下賤なものを見る目つきで見下ろされていた。
「まずはそうだな……その汚い髪の色をどうかせねばならんだろう?」
口角をあげ、愉しそうに笑うギーンの言葉に息を呑む。
「くっくっく……あっはっはっはっはっははあ! その恐怖に歪んだカオはそそる! そうではなくてはなぁ!? 実にいい! 最近こいつは慣れてきよってなあ……つまらんと思っていたところだ」
そう言って、ギーンは空気のように立ちつくすロネに視線を向けた。
「くっくっくっ……だがなぁ、お前を連れて来いと命じた時は久々に動揺していてなぁ。今も無表情に見えるだろうが、ワシには解る……お前は今、苦しみもがいているじゃろう?」
ギーンに顔を覗き込まれたロネの表情筋は、しかしぴくりとも動かない。
「ああ……実に愉快! お前を手に入れたことで再びこの男とも遊べるじゃろうな! さて、話はここまでにしようか……水を持ってこい」
「かしこまりました」
ロネが踵を返した瞬間、三つ編みに結っている髪が腰のあたりでふわりと浮いた。
―――いかないで!! 二人きりにしないで!!
その願いもむなしく、バタンと扉が閉じられて急激に心細くなる。
「お前、まだどちらでもないんじゃろう?」
ずいっと眼前に寄せられたギーンの吐息がかかり、胃にむかつきを覚える。だがリンは、何でもない風を装って目を逸らさなかった。
―――……負けるもんか! 楽しみさせてなんかやらない!!
「ほぉ……くっくっく……!」
軽いノック音が響き扉が開かれると、小さな椅子に大きめの桶を乗せたものを抱えたロネが一礼し入室してくる。
「失礼いたします」
「おお、来たか。アレはもってきたじゃろうな?」
「ここに」
すっとギーンに向かって差し出した手の平には、小さなガラス瓶が転がっていた。
その中に白い粉が詰まっているのを見て、はっとする。
―――今から髪の色を落とそうってこと?
「さぁ、やれ」
下された命令に、一拍間をあけたロネは「かしこまりました」と返し、乱れ一つない足取りで距離を詰め、椅子と桶を床へ置いた。
「仰向けになってください」
感情のこもらない声音で言われ、リンは同じサファイア色の瞳をじっと見つめる。そうして、僅かに口元を緩めて見せた。その一瞬、ロネの目が開き、また戻る。
いいよ、と。そう伝えたかったのだ。そしてそれは通じたようだ。
リンはベッドの上に素早く仰向けに転がるとロネに身を委ねる。
きゅぽん、と何かが抜ける音がし、次いでかき混ぜられる水音が耳朶を打つ。ロネが椅子に座り、彼の指先がリンの髪を梳いた。次第に鼓膜が細かく揺れる水音を拾い、櫛を通されることで色が落ちていく想像が脳裏を巡る。
それは、自身が置かれている現状を忘れてしまう程、穏やかなときだった。
「あああぁぁーダメだ、ダメだ!」
ギーンの苛立った声音を耳にした途端、心臓が跳ね体が強張る。
今度は何をされるのか。
「あっちへいけ!」
ロネが追い立てられるように場所をあけるとギーンはリンの腕を引っ張り上げて起こし、床に置かれた桶を指さした。
「跪け!」
―――え?
躊躇するとギーンが無理矢理リンの体を床に押し付けた。節々に痛みを感じながらも腕を張って四つん這いになると、ギーンに後頭部を掴まれ嫌な予感を覚えた刹那。
間髪入れず襲ってきた息苦しさにもがいて抵抗すると、すぐに顔を引き上げられて飛沫が飛び散る。肺が空気を求め、喘いだ。
「まだだ!」
「っ……!」
息を止める間もなく、再び桶に顔面を押し付けられ、髪を洗われる。後頭部を引っ張られ顔を上げた瞬間、リンは一気に空気を吸い込むと息を止め、次に備える。短い間隔で数回に分けて行われたそれをそうやってやり過ごしていると、ギーンがついに後頭部を掴んだまま手を横に振りはらった。
倒れかけた体を支えていると、背後からギーンの言葉が耳に届いた。
「多少マシになったではないか! 片づけておけよ!」
高笑いしながら出て行ったギーンに安堵していると、隣に気配を感じて顔を上げる。
そこには、傷ついたような瞳をしたロネが跪いていた。
「……ロネ」
名を呼んだ途端、くしゃりと顔が歪む。
「僕は……君に名を呼んでもらえる資格がない……」
「そんなこと……」
「…………ごめんね」
そう呟いて、ロネは立ち上がる。
「片づけるよ。その前に……」
持参してきていたタオルでふんわりと、リンの、銀とクリームイエローがまだら模様になっている頭が包まれ驚いた。
「しっかり拭いておかないとね……」
「い、いいよ自分でやるよ!」
「いいよ……」
リンは止めようと上げた手を、ゆっくり落とした。ロネが、寂しそうに見えたから。
自分たちは、同士だ。
同じ村の出身でもあるし、ギーンに囚われいいように扱われる新しいオモチャでもある。だから、ロネの気持ちは痛い程分かるのだ。
ギーンは、『オモチャ』が嫌がることを強要し、彼らが浮かべる苦痛の表情を観て愉しむ。
あの男は、おそらく嫌がるロネの顔を見たくてリンを誘拐させ、こうして傍に置いているのだろう。リンの苦しむ姿を見せて苦悩するロネを観るために。
最低な男だ。
「……終わり。じゃあそこ片づけるから、ベッドに座ってて」
「え、いや、自分で……」
「いいから」
「……分かった」
ちょこんと座ったのを確認したロネは、てきぱきとした動作で丁寧に片づけを開始する。床に散った飛沫を拭き上げてから乾拭きをしているロネを見つめながら、リンは思わず感嘆の声を漏らした。
「ん?」
それに反応したロネが顔を上げた。
「え、いや、なんでもないよ! ただ、早いなぁって……」
「……慣れてるからね」
その言葉に色々な含みを感じ、リンは押し黙った。
「ねぇリアン……近いうちに、僕一人で君に会いに来るから。その時は……黙ってついて来てくれる? ……大丈夫。酷いことをするわけじゃない」
一瞬の躊躇いがリンの顔に出たのか、ロネがそう付け加えた。若干の気まずさを覚えながら、リンは頷く。
「うん……いつ頃?」
「……多分、真夜中」
「……分かった」
「それじゃあ僕は一旦下がるね。食事の支度をしなくちゃいけないから。……また話そう」
「うん」
パタン、と扉が閉じられ静寂が室内を満たした。なんだか酷く疲れた気がして、重い溜め息がついて出る。改めて狭い部屋を見渡すと、最低限の家具が目に映った。引き出し付きの机と椅子、自分が座っている真っ白なベッドに鉄格子が嵌った窓。
そこから僅かに覗く茜色の空で時刻が分かる。
一人きりになりようやく人心地ついた瞬間、リンははっとした。
「ミュンルちゃん!」
自分のことで頭がいっぱいで、すっかり頭の中から抜け落ちていた自分を恥じた。
訊こうにも、唯一会話ができるロネはもう行ってしまって、いつ機会が訪れるか分からない。
あの子は今どこにいるのだろう。
―――捕まってなければいいけど……。
再び顔を上げ、先刻より薄暗さが増している空を眺めた。
「……ドルディノさん……会いたい。みんなも……今頃どうしてるんだろう……」
大切な仲間へと思いを馳せ、リンは瞼を伏せたのだった。




