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時は少し戻って。
一人、部屋に戻ったリンは扉を開けた途端に香ってくる薬草の匂いを吸い込んで、自然に頬が緩むのを感じていた。
―――戻って来たんだ……ここに。すごく、ほっとする。
船から離れていたのはほんの数日だったはずなのに、なんだかとても長かったように思う。
「ただいま……」
その言葉に反応してくれる者は、誰も居ない。ただ虚しく空気に溶けて消えていく。だが、それでいいのだ。
リンは、中央を挟むように壁際まで並んでいるいくつもの薬草棚を、友達に挨拶するような気持ちで見つめながら歩いていく。そして端まで行ったとき目前に現れた扉を開けた。
そこは、自分の寝室である。真っ先に目に飛び込んできたベッドの真っ白なシーツに惹かれ、仰向けにばふっと寝転んで天井を眺めた。
―――なんか……とても、疲れた……。
無意識に瞼を閉じると全身が突然鉛のように重たくなった気がした。
こんこん、と何かが叩かれた音が聞こえ、リンは飛び起きた。
―――あれっ!? ……寝ちゃったのか……。
間髪入れず扉がドンドンと大きく揺れ、やや音量を上げたフェイの声が響く。
「リーンー? 居ないの~?」
「あ、はい居ます! 今出ますっ」
慌てて駆け寄り扉を開けると、どんと何かがぶつかってきた。
「あ……ミュンルちゃん?」
胸元にある薄灰色の頭が動き、ミュンルの可愛らしい笑顔と目が合う。
「お兄ちゃん!」
ぎゅーと小さい両腕で腰回りに抱きついてくるのが愛らしく、ついその頭をなでなですると腰に巻きつく手に力がこもった。
「リン、都合が悪くないならその子、預かっててくれない~?」
「え、でもこの子は……」
―――ドルディノさんの連れで……。
「大丈夫だよ~彼も了承してるし。ね~?」
すっとフェイが脇に移動すると、金髪に染めたままのドルディノが姿を現した。
瞬間、心臓が大きく跳ねて胸が苦しくなり、頬が熱を帯びる。
「っ…………」
思わず視線を逸らしてしまった。ドクンドクンと早鐘のように打つ鼓動に静まれと念じていると、不意に僅かな痛みが混じっていることに気付く。
―――っ……? な、に……?
それは、少しずつではあるが確実に強くなってきている。
リンは、はっと目を見開いた。
―――そういえば……この間も森で突然胸が苦しくなって凄く痛かった……! あの時と一緒!?
唐突に心臓を掴まれたような激痛が走り息が詰まる。
「お兄ちゃん……? どこかいたいの? だいじょうぶ?」
苦痛が一瞬で消え去りはっと目を開けると、目と鼻の先に心配そうなミュンルの顔があった。驚いて顔を上げれば、「突然どうした~?」と訊いてくるフェイと気遣わし気な目線を送ってくるドルディノの姿が目に映る。
「あ、いえ……大丈夫です、すみません。少し、めまいがして……」
不思議なことに、本当にどこも痛くなかった。気のせいかと思うくらいだが、でもそうではない。あの痛みは本物だった。
―――二度目だし……なんだろう……なにかの病気……?
「本当に平気~? 無理そうならヤル捜してこようか~?」
「いいえ、大丈夫です」
「そう~?……じゃあ、この子任せても大丈夫~?」
「あ、はい。もちろんです」
「まあ、何かマズくなったら声かけてよ~、ドルディノ君の部屋にいるからさ~」
「分かりました」
「よし。じゃあオイラ先に行っとくから~」
「あ、はい! 分かりました!」
ちゃ、と軽く手を挙げて踵を返したフェイの背中にドルディノが声を張り上げる。
暫くしてからパタン、と扉が閉まる音が聞こえ、床の軋む音が消えて静けさに満たされた。次の瞬間振り返ったドルディノが歩幅一歩分距離を詰めてくる。
「リンさん……本当に大丈夫ですか? この間も森で……」
何のことかすぐに思い至ったリンの顔は、知らず知らずのうちに微笑んでいた。じんわりと心が温かくなって、喜びで満たされる。
一瞬のことだったのに気づいてくれていた上に、今も体調を気遣ってくれる。
嬉しくないわけがない。
―――……もう、認めなくちゃどうしようもない。私は、この人が…………好きなんだって。
「はい、大丈夫……です。ありがとうございます」
そう答えると、ドルディノはいかにもほっとしたように柔らかい笑みを浮かべていた。
―――この人の、この笑顔が本当に好き。安心する……。
故郷と、家族や友達を失って以来初めて感じる感情。昔はそれがあることが当たり前だと思っていた。
―――でも、そうじゃない。本当の幸せは気付かないところにあるんだ。
「よかった……。すみません、ミュンルのことよろしくお願いします」
「はい」
「ミュンルも、リンさんを頼んだよ」
「うん! わかった~!」
「頼もしいな」
ふ、と笑いをこぼしたドルディノの手が少女の頭を軽く撫でる。
―――あ。……いいなぁ。
羨ましいと思う気持ちが顔に出ていたのか、「リンさん?」とドルディノが不思議そうに首を傾げていた。
途端恥ずかしくなって視線を足元に落とす。
「い、いえっ……何でもないですっ」
「そうですか……? 気分悪いなら、遠慮なく言ってくださいね?」
「はい」
「それなら……僕、行きますね。それでは、よろしくお願いします」
軽く頭を下げたドルディノが身を翻し歩いて行く。リンは、その姿が完全に見えなくなるまで見送ってからミュンルに話しかけた。
「二人っきりになっちゃったね」
「うん!」
「疲れてない? とりあえず中に入ろうか」
きぃ、と扉を大きく開くと、素早く身を滑り込ませたミュンルは一直線にベッドに飛び込んだ。ばふっと大きな音がしたと同時に、少女の小さな体が弾んで楽しそうな笑い声が木霊する。
つい、笑みが零れた。
―――子供って、本当に元気だなぁ。
ベッドの端に腰を下ろしたリンだったが、ふと髪染め粉を腰に巻いている外套の中に仕舞ったままであることを思い出して、布を取り外した。
「あ! それ、へんそうに使ったお道具!?」
「うん、そうだよ」
手元を覗き込んでくるミュンルの前で紙袋から丁寧に取り出し並べていると、はっとする。
―――えっ! 私の髪染め粉がない……! もうなくなったから買ったのに……どうしよう、あれがないと……!
髪を染めることができない。
「お兄ちゃん? だいじょうぶ?」
ミュンルが心配そうに顔を寄せてきて、リンは少女の存在を思い出した。
「あ……ごめんね、何でもないよ……」
口ではそう言いながらも頭では対策を考える。
―――どうしよう……買いに行く? ……行くしかないか……人に頼めるものでもないし……仕方がない。
「ミュンルちゃん。ぼく、外に出かけようと思うんだけど……ミュンルちゃんも一緒に行く?」
「うん、行くー!」
仁王立ちで握った拳を天に掲げるミュンルを見て、くすっと小さな吐息を零したリンは「行こう」と小さな手を握りしめ、寝室から出て行った。
甲板に出ると、海鳥の鳴き声と潮の香り、そして眩しい陽光が身を包んだ。外界に目を慣らさせてから辺りを見渡し、監視塔にいるモルスと船縁に立っているボッツとヤルの姿を確認する。リンにいち早く気が付いたのだろうボッツが何か呟くと、背中を向けていたヤルが足早に駆け寄ってきた。
「リン! お前その格好はどうした!? 何があったんだ!? 大丈夫か!?」




