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―――完全にバレてる。でも……どうして、そう確信しているかのように言うんだろう? いくらミュンルが言いかけたとはいえ、違う可能性もあるのに。
突然ぐい、と服を引っ張られた。何か言いたげな顔をしているミュンルと目が合い、我慢していると察したドルディノはよしよしと小さい頭を撫でて、顔を上げた。
「あの」
「あ、ボッツ。おっかえりぃ~」
振り向くと、丁度ボッツがタラップから甲板に足を踏み入れたところだった。真っ直ぐフェイの側に来た彼はドルディノを一瞥すると、視線を戻す。
「フェイ」
そう言って、あっちの方向に顎をしゃくった。
―――あ、これは僕は居ないほうがいい話……かな?
「じゃあ僕はこれで……」
「あ、ドルディノ君。どこいくの~?」
「えっ? ……部屋に戻ろうと……」
「そう? じゃあ、あとで行くから~」
「あ、はい……。行こうミュンル」
「はーい!」
―――何の話……さっきの、続き……?
ミュンルと繋いだ手に、僅かに力がこもる。
「お兄ちゃん?」
どうしたの? と黄色がかった薄灰色の双眸が問うていたが、ドルディノは頭を振ることで応えた。
部屋に戻り次第ミュンルに口止めしようと思っていたドルディノは、室内の扉をきっちり閉めると勢いよく振り向いた。
「ミュンルゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!?」
ふわふわ、ふわふわとミュンルの髪の毛が柔らかそうに宙に舞っている。それだけではなく、なんと体ごと浮いていた。驚愕で目を見開き、思わず開けたままになっていた口を閉じるとうずくまるようにして両手に顔を埋める。
―――あああぁぁぁぁ前途多難だ……。
少女は今、竜の翼を出すことなくきゃっきゃと楽しそうに泳いでいた。それは風を自由に操ることのできる風竜だからこそ、出来ることである。本来ならば能力が芽生えていることはとても喜ばしいことであるが、現状では全く喜ばしくない。むしろ不安でしかない。
元来、力が不安定な幼少期は、郷里で大人たちから指導を受けるなどして各々が能力の鍛錬を行うようになっており、下界での禁止事項などを理解できるようになってから初めて外に出られる決まりである。
ただし、突発的な何かが起きた場合は除いて。
昔、ドルディノもそうして下界に落ち、リアンに出会い、救われたのだ。
―――リアン………………。…………はっ! いやいやそうじゃないだろ僕! 今は余計なことを考る状況じゃない。もうすぐフェイさんが来るんだ! その前に……!
思い出に浸りそうになる寸前で我に返り、一気に顔を上げると。
「ね……寝てるうううぅぅぅぅ!?」
しまった、と、咄嗟に両手で口を抑えて耳を澄ますも、早鐘のように打つ己の心臓の音しか聞こえてこない。
はああぁぁぁと重い溜め息をついたドルディノは、絶望的な気持ちで逡巡した。
―――うん……どうしようか、これ…………。
目の前には、ふわふわと上下に優しく揺れながら、気持ちよさそうな寝息を立てて眠りこけている同胞がいた。
ある意味凄い技術だと心から感心するがそんな場合ではない。
―――いや、もうこれは起こすしかない……隠せな…………いや、隠そう!!
奥のほうにある寝床と掛布団が視界に入った瞬間、ドルディノはぐっと拳を握った。
宙を彷徨っているミュンルを素早く捕獲し、ベッドに押し付けるようにして俯せに寝かせると足元にある掛布団を一気に引き上げる。
かくして、奇妙な形にもっこり膨らんでいる寝床が出来上がった。
―――よし! こ、これでやり過ごせるか……!?
不意に、ギシと床が軋む音を耳が拾う。
―――来た!?
見開いた目でドアノブを穴があくほど見つめる。静まった室内にキィィと高音が反響し、開いていく扉の隙間から黒く艶のある靴が覗いた途端、ドルディノの喉がごくりと鳴った。
目を離さぬまま高速でベッドの端に座り、少女の背中に乗せている手にぐっと力を込める。意識がないせいか予想外に風の抵抗は弱く、すんなりということをきいてくれた。
息つく暇もなく、脹脛まで覆っている黒いブーツ、淡い黄色を帯びたズボン、意外にがっちりした胸板、そして両肩で外に向かってはねている茶髪、最後に余裕がありそうなフェイの顔が映り込んで、気持ちが先走る。
「ふぇ、フェイさぁん早かったでひゅね!?」
思いっきり噛んだ。
「ぶぅほっ!! っあはっあははははははっ! ふははははははははっ! っもっ、もう、なんでっ! そこでっ、かっ、噛むの!? 面白すぎでしょ!? くっあははははははは! もうダメお腹痛い!!」
もうヤダ、と叫びながら腹を抱えて爆笑するフェイを尻目に、顔を真っ赤に染めて体を震わせたドルディノは自己嫌悪と羞恥心やらで一杯で、壁を突き破って身を隠したい衝動に駆られながらどうすることもできず、ただただ彼のバカ笑いが収まるのを祈り続けた。
それからひとしきり大笑いして気が済んだのか、フェイがんんっ、と咳ばらいをした。これだけ盛大に笑われたら緊張感もなにもない。先刻まであった体中の強張りも解けていたが、突然もっこり膨らんだ布団を押さえつけている腕が動き、はっとして力を込める。
―――危ない危ない。ミュンルが浮いたらもう誤魔化しきれない……。
油断大敵だと心を引き締めたその時、手の下の掛け布団が本格的にもぞもぞと動き出した。
―――うわっ、やばい!
「そこにいるの連れてきた女の子でしょ? 起きたみたいだよ~?」
のんびりとした声音が響き、焦燥感が募る。
―――いや、絶対これあなたの笑い声で起きたんだって! あああぁぁぁぁーもーう! しかもいつからミュンルがいることに気づいてたの!?
なんだかフェイの手の平で踊らされているような気さえしてくる。
「んん~? なぁにこれぇ……お兄ちゃぁ~ん……?」
ふ、とミュンルの周りを包んでいた風の流れが消えた。おそらく無意識に消したのだろうが、この状況では非常にありがたい。
―――良かった!
「ミュンル、僕はここにいるよ」
「ん!」
がばっと布団を剥がしたミュンルはとろんとした瞳で目を合わすと目元をごしごし擦り、瞬きを繰り返した。そしてその視線が、寝室の扉の前を陣取っているフェイに向く。
「あ。遊びに来たの? おじさん!」
「お、おじ……」
「お兄ちゃんだよ、ミュンルっ」
フェイは片手で顔を覆って天を仰ぎ、ドルディノは諭すように言い聞かせ、不満そうに眉根を寄せたミュンルは、え~と呟いた。年はわりと近いように思うのだが、何がその差を隔てているのだろうか。申し訳ない気持ちを抱きつつ様子を窺うと、フェイは片目を隠して天井を向いたまま身じろぎ一つしない。何を考えているのだろう。
「うん、そうしよう」
突如そう呟いたフェイがミュンルを見た。
―――え、なに……。
ドルディノは咄嗟に佇まいを直す振りをして、フェイの視線からミュンルを庇った。遮られたことに気が付いたのかそうでないのか、眇められた黄緑色の双眸がドルディノを射抜く。
「ね~ドルディノ君。その子、リンに預けない? そのほうが君も話しがしやすいんじゃないかな~? リンなら、信用してるでしょ、君」
心臓がどくっと強く跳ね、早鐘のように脈打つ。普段は新芽のように鮮やかで美しい瞳の色が濃くなったような気がした。
あの目に、全て見透かされているような気持ちに陥る。
「お兄ちゃん好き!」
不意に上った明るい声が、室内を満たしていた重たい空気に亀裂を入れた。互いを牽制しあっていた二人の意識が、笑顔でドルディノを見上げている幼い少女へ向かう。
「お兄ちゃんのところに行く?」
ツンツンと裾を引っ張りながら首を傾げるミュンルに思わず、くすり、と笑い声が漏れた。
―――敵わないなぁ、この子には……。
「なーに?」
「いや……なんでもないよ」
そう言って、ミュンルの頭をくしゃりと撫でる。
「決まったね~。じゃあ行こうか、すぐ近くだし~」
「はーい!」
すっくと立ちあがったミュンルは、ちょん、と床に降り立ってドルディノを振り返り、微笑んだ。
「ほら、お兄ちゃんいこー!」
―――まあ、そうだね……色々心配はあるけど……。
「わかった」
そうして立ち上がると、ドルディノはミュンルを連れてフェイと共に部屋を後にした。




