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「―――ドルディノさん、終わりました」
ぱさ、と首元に巻かれていた布が取り払われ、ドルディノは立ち上がると後ろを振り返った。
「ありがとうございました」
そう言って、前髪の先を軽くつまむ。鏡がないためどのような姿になっているかは想像もつかないが、つつがなく終えてくれたに違いない。ずっと同じ姿勢でいたせいか筋肉の強張りを感じ、肩や腕など身体を大きく動かしてほぐしていると、リンにじっと見つめられていることに気が付いた。
「……リンさん?」
「っあ、いいえ……なんでもありませんっ」
ぐるりと回れ右をして後片付けを始めるリンを見て、首を傾げる。
―――なんかおかしいのかなぁ。
「ん? ミュンルどうしたの?」
いつの間にか足元に寄って来ていたミュンルが、瞳をきらきらさせて自分を見上げていた。先程のようなからかいの色はない。
「お兄ちゃん、王子さまみたーい!」
心臓がびくんっと飛び跳ね、脈拍が速まる。
「あ、ありがとうミュンル」
頬が引きつりそうになるのを抑えながら感謝の言葉を舌に乗せるが、内心慌てていた。
実はドルディノは、人型の姿でアグレンの城から出たことがない。それは特に理由があるわけではなく自然にそうなっていただけだ。
しかしこの瞬間、ドルディノは人間の姿で城下町にいかなかった自分に盛大な拍手を送った。
もし故郷で人型の自分とミュンルが出会ったことがあったならば、少女の口からぽろっと事実が吐露されていたかもしれないのだ。
―――子供って、怖い…………。
「あたしも、へんそうしたいー!」
好奇心からだろうが、リンに手間を取らせるわけにもいかない。どう説明すればミュンルが理解し、引いてくれるのか考えあぐねていると、後片付けを終えたリンが前に出た。
「ごめんねミュンルちゃん。1人分しか材料を買ってなかったから、もう変装できないんだ。またあとで落ち着いた時に、ミュンルちゃんの変わりたい色に変装させてあげるから……」
「いまはできないの?」
「うん……」
申し訳なさそうに頷くリンを見て、ミュンルは肩を落としたがそれは束の間だった。
「うん、わかったー! またあとでへんそうさせてねっ」
「うん」
「約束ー!」
リンのおかげで万事を得、力んでいた肩の力を抜くと自然に溜め息が零れ出た。扱いを間違え本性を表し暴れでもしたら大変なことになる。気を付けねばならない。
「そういえばお兄ちゃんは、どこでへんそうを使えるようになったのー? 他の人から教えてもらったの?」
「あ……うん。昔、人に教えてもらったの」
そうなんだー、とミュンルが相槌を打つのを耳にし興味を引かれ、会話に横やりはいれずに近寄って行く。
「その人も、へんそうしてたの?」
「ううん、その人は………………」
間が空いた。どう答えたらいいか考えている風だ。ミュンルはにこやかに首を傾げながらリンを見上げ、いまかいまかと返事が来るのを待っている。
―――これは返事がもらえるまで引かないだろうな……。僕も返事が気になるけど……。
間に入るべきか逡巡していると、ようやくリンが口を開いた。
「……髪が、ないから……」
その瞬間、船で帰りを待っているであろうヤルの頭が拡大されて脳裏に浮かぶ。
―――それってもしかして……?
「はげてるの? おじいちゃんなんだー」
―――言い方ー!!!
咄嗟に顔を両手で覆い俯く。背中に妙な汗が出てしまいそうだ。
今まで敢えて言わなかった言葉をこうもさくっと言ってしまえるって……。
―――子供って、怖い。
「えっ。いえ、禿げているわけじゃ……おじいちゃんじゃなくて、お兄さんだよ」
「えっ!? お兄ちゃんなのにはげてるの!? どうして!?」
―――そこに食いつくの!?
思わず顔を上げミュンルを凝視する。
今まで一緒に過ごした中でこれほどミュンルが驚いている姿は初めてだ。
だが気持ちは分からなくもない。ドルディノも、初めて彼を目にした時は疑問に思ったのだから。
「ヤル兄さんは、自分から髪を剃って、変装しているの。ぼくたちは髪を染めているけど」
―――え?
ミュンルも、きょとんとしている。そしてリンの服の裾をつん、と引っ張ると首を傾げた。
「お兄ちゃんもへんそうしてるの?」
その瞬間、リンはひゅ、と空気を吸い込んで目を見開き、両手で口元を覆って俯いた。外套を着ている時は分からなかった華奢な肩が今にも震えだしてしまいそうで、倒れやしないかと見ていてとても心配になる。
ドルディノが言葉をかけようと口を開いたその時、ミュンルが目の前にあったリンの頭に手を伸ばし、感動の吐息を漏らした。
「お兄ちゃんのかみ、白色なの? きれいだねー!」
―――白?
ドルディノの意識がリンからミュンルに移る。
少女の指先がリンの髪の毛を弄んでいる姿が目に入り、慌てて傍へ行くとミュンルの手を外し、一歩後ろに下がった。すると間髪入れずに頭を上げたリンは素早く後退し、距離を取ったのだ。
リンの行動に驚きながらも、何かに怯えているような様子に何も言えず、口を噤む。
―――……たし、かに……白、くはあった。でも今のは……白、というより…………。
「色がぬけちゃったの?」
場にそぐわない、ミュンルの明るい声が響いた。
「ミュンル……そう、沢山訊くものじゃないよ。ほら、リンさんも僕の髪を染めてくれたばっかりで疲れてるだろうし……ね?」
「ん? ……うーん……うん、そうだね!」
ミュンルに微笑んで見せてから顔を上げると、リンは離れたまま身じろぎせず、不安そうに顔を歪めていた。顎の下で何かを祈るように組まれた両手が僅かに震えている。
訊いて確かめたい気持ちがドルディノの中に溢れんばかりに膨れ上がっている。しかし、背中を小さく丸め委縮しているリンに、自分の欲を満たすだけの行動は取れない。取ってはいけない。
リアンのことは大事だが、この人にも傷ついてほしくない。
いずれ訊くにしろ、それは、今ではない。
それが、ドルディノの出した答えだった。
意を決して、いつもより明るい声で名前を呼ぶ。
「リンさん」
びくっ、と見るからに大きくリンの体が震えたのを見て、ドルディノは自分の決断は間違えてないと確信した。
「どうしましょうか、一休みしてから町に戻りますか?」
「……あ……、す、すみません……では、す、少しだけ……っ」
身を翻し逃げるように立ち去って行くリンの背中を急いで追いかけようとして、止まった。
自分が行くと、嫌かもしれない。しかし、一人で行かせるのにも不安が残る。
―――僕がついていくのがいいのか、ミュンルに任せるのがいいのか判断が難しいところがあるけれど……。
「ミュンル……リンさんに気付かれないように、かくれんぼしながら、守ってくれる?」
真剣な眼差しでそう問いかければ、少女も真面目な表情で首を縦に振った。
「うん、行ってくる!」
ふわ、と飛ぶように足音も立てずに走って行き、小さな背中は瞬く間に視界から消えていく。一人残されたドルディノはふぅ、と息を吐いた。
そして、脳裏に再現される先程の光景。
―――あれは……確かに。
「銀髪……だった……」
天から降り注ぐ陽の光が、リンの頭部を明るく照らしていた。淡く透けて見えるクリームイエローの色の中で唯一、生え際だけは美しい銀色を帯びて、きらきらと輝きを放っていたのだ。
髪は、毎日少しずつだが伸びていく。それを、毎日染めるわけにもいかない。いや、もしかしたら染めていたのかもしれないが、ここ最近はずっと一緒に行動しており、一人になるようなタイミングもなかった筈だ。
だからこそ、発覚したのだろう。
どくん、どくんと心臓の鼓動が早鐘のように強く打ち始める。
先日、洞窟の中で気絶したリンを介抱した時、確かに額には古い傷があった。何かの動物に引っ掻かれたような、抉られたような形状の。
リンがもし、あの子だったとしたら。例えそうでなくても同じ島の人間ではあるのだ。もしかしたら何か情報がもらえるかもしれない。
そう考えるだけで、緊張して吐きそうになる。静まれと命じながら、握った拳を胸に抑えつけた。
「……心配だし、そろそろ行こう……」
そう独り言ちて二、三歩進んだところでぴたりと足を止める。目の端で、光を捉えたからだった。不思議に思って近寄って行くと、川べりに小さい筒のような容器が転がっていたのを見つける。
―――これは、もしかしてリンさんの、落とし物?
濃いブラウンの円柱の形をした入れ物で、蓋はガラス出てきているようだった。これが太陽の光を反射させたのだろうと推測する。
それを拾い上げ、危険物ではない事を確かめるため、ドルディノはガラスで出来た蓋をゆっくり引き抜いて中身を覗いた。
「あ……」
それには、リンの髪と同じクリームイエローの色の粉が詰まっていた。




