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それから暫く待っていると、二人は何事もなく帰って来た。ただ一つ違うことは、リンが別れた際には持っていなかった小さな袋を手にしていることだった。疑問をぶつけようと口を開いた瞬間、リンの言葉に掻き消される。
「あの……ドルディノさん。すみません、ちょっと水場があるところに移動したいのですが……」
「水場?」
―――んー、水場……。
脳裏に浮かぶのは、昨晩一夜を過ごしたあの洞窟だ。記憶では、少し歩いた先に川があったはずだ。
「洞窟の所はどうでしょうか。確か、近くに川が流れてませんでしたか?」
そのリンの言葉に、ドルディノは頷いた。
「そうですね。……じゃあ、戻りますか?」
「はい。行きましょう」
「ミュンル。昨日いた洞窟にちょっといくけど、いいかな?」
「うん、いいよ!」
満面の笑顔で明るく返事をする少女を見て、ドルディノはその小さな頭をくしゃりと撫でる。ミュンルは嬉しそうに声を出して笑い、そんな二人を見つめていたリンは、胸元をぎゅっと握りしめた。
先刻歩いていた道を逆に辿って数時間後、三人は目的の洞窟まで戻って来ていた。
内心、兵士もしくは宿で襲撃してきた男たちのどちらかと鉢合わせするのではないかと危惧していたドルディノだったが、それは杞憂で終わり、ほっと溜め息を漏らした。
木々の香りと湿気が少し混じった土の匂い、耳朶を打つ穏やかな水音。時折どこからともなく響いてくる鳥のさえずりは、尖った気持ちを落ち着かせてくれる。
町からは距離もあるため人は寄り付かないだろうし、鉄のさびたような臭いも届かない。
唯一、安らぐことのできる場所のように感じられた。
ゆっくり深呼吸をしてから真後ろに立っているリンの様子を窺うと、リンは紙袋を抱いたまま真横を通り過ぎ、川べりに両膝をつけた。そうして袋の中身を一つずつ確かめながら、戻していく。
必要なものを探しているのかもしれない。
そう思いながら眺めていると、興味を示したミュンルがリンの左側を陣取り、前のめりになって瞳を輝かせた。
「お兄ちゃん、それどうするの?」
「これはね、変装するために使うんだよ」
そう説明すると、リンは背後から立ったまま覗き込むようにして見ているドルディノと視線を合わせた。
「これを使って、ドルディノさんの黒い髪を金髪に染めますね」
「えー! すごーい!」
まほうみたい! と楽しそうにはしゃいだ声をあげるミュンルのそれを聞きながら、ドルディノはハッとしたように目を見張った。
「……髪の、色を……?」
それは、考えたこともない発想だった。
今まで自分は、銀色の髪と青藍の瞳を持つ人を捜していたのだ。だがもし、リアンが髪の色を染めていたら?
もし、瞳の色すらも変える方法が存在し、リアンがそうしているとしたら。
どこかですれ違っても、気づかない可能性が高い。
―――どうして……気づかなかった……! 僕は……阿呆だ……!!
あまりの衝撃に、全身から力が抜け落ち、身体がぐらりと揺れる。
「っ……!? ドルディノさんっ……!? 大丈夫ですか!?」
あやうく転倒するところを、リンが咄嗟に背中を支えたことで免れた。リンは気遣わし気な表情で俯いているドルディノの顔を下から覗き込む。
「っ……。ドルディノさん……少し、座りませんか……」
「…………」
促されるまま腰を落としたドルディノの背中がとても寂しそうに見えて、リンは思わず、添えたままの手でゆっくりと撫でていた。
「お兄ちゃん……」
心配そうに顔を歪めたミュンルもリンに倣うように、今は小さく見えてしまっているその背中をそっとさする。
―――僕は……何をしてきたんだろう。
迷惑を掛けることを承知で勝手に城を抜け出して、捜しに出て。その結果がこれだ。
―――情けない……。
「お兄ちゃん……げんき、出して……?」
間近から聞こえた幼い声色で、不意に意識がミュンルに向かう。
眉を下げ、今にも泣きだしてしまいそうな顔を見た瞬間、少女と出会った時のことが脳裏に掠める。
洞窟の前で事情を聴いた時、この子は泣いていた。友達とはぐれたと言って。
そう、友達。
―――そうだ……捜しているのは、リアンだけじゃないんだ。仲間を見つけなくちゃ。きっとその子もミュンルを捜しているはずだ。髪や眼のことだって、今分かって良かったじゃないか。一番最悪なのは、それを知らないまま永遠に会えなくなることだったんだから。……よしっ!
すくっと立ち上がったドルディノの灰色の双眸は、先程までと違い、力強い光で満ちていた。
「リンさん! ありがとうございました! ミュンルもありがとう!」
その瞬間、ミュンルがぱっと花が咲いたような笑顔をドルディノに向ける。
「お兄ちゃん!」
「うん、くよくよしてごめんね。もう大丈夫」
目を細め、柔らかい笑顔で微笑むドルディノを見て、ミュンルの後ろにいたリンはひっそりと安堵の溜め息を漏らした。
「リンさん」
名を呼ばれたリンが顔を上げると、ドルディノは軽い会釈をしてから告げた。
「髪染め、宜しくお願いします」
「―――……はい」
「あたしもー!」
片手を天に掲げて元気よく叫んだミュンルに、二人は吹きだし、声をあげて笑った。
そうして一息つくと、リンが先に動いた。紙袋の中身をあらかた出し終わると、ドルディノに目配せしたのである。
「ドルディノさん、こちらに」
「あ、はい」
リンの前で腰をおとし片膝を地につけると、ドルディノの首周りにベージュ色の薄い布が巻かれた。
「これは、服を汚さないためです。じゃあ、始めますね」
「はい、宜しくお願いします」
ドルディノは、リンの邪魔をしないために身動きしないでおこうと決め、背筋を伸ばした。
暫くしてから背後で何かを取り出す気配がし、次第に金属がぶつかる音や蓋の開閉音が聞こえ始めた。次に何かを混ぜているような動きを感じ、ついで独特な香りが漂ってきて鼻孔を刺激する。
―――そろそろ、かな……?
緊張で、胸がどきどきする。
両手に力が入った。
「では、染めていきますね。もし何か不都合があったら言ってください」
そう聞こえたと同時にリンの指が髪を撫でる感触がした。髪を優しく引っ張られ、時折、指先が頭皮を軽く掠める。その塩梅が非常に心地よく、時間が経つにつれ激しい睡魔が押し寄せてきて、頭の位置が後ろへ傾かないように維持することを困難にしていく。
―――あー……だめだ、凄く眠い……耐えろ、ドルディノ……耐えるんだ……!
握り締めた手の平に爪を食い込ませ、歯を食いしばってカッと目を見開き、なんとか意識を保とうと懸命に闘っていると、いつの間にか目の前に来ていたミュンルが満面の笑みを浮かべていた。
どことなく、デジャヴを感じる。
―――……なんか、この笑みは……。
「お兄ちゃん、ねむいの? きもちいい?」
リンの手が止まったと同時にドルディノの肩がぎくりと跳ね上がり、力が抜け落ちていた背筋がピンッと張る。
にやにやしているミュンルに何故かマルクスを見た気がした。
「っ……つっ!」
耳まで赤く染め何も言えないでいると、リンの指先がふたたび髪を掬い始める。しかし今度は眠くはならなかった。瞳をきらきらさせ面白そうにドルディノを見ているミュンルの存在が、眠気を追い払うのに貢献しているからだった。
「いいよ? お兄ちゃんあたしがちゃんと見てるから、ねてもだいじょうぶだよ?」
「い、や……平気だよ、もう目は覚めたから!」
「ふぅん」
目を眇めて正面から眺めてくるミュンルのにやにやは、ドルディノの髪が金髪に生まれ変わるまで続いた。




