61
ズゥン、と地響きがして、どこかで鳥が一斉に羽ばたいた。
「なにっ……!?」
背後で囁かれた言葉はドルディノの耳に入らなかった。足は既に地を蹴っていたからだ。
「ドルディノさん!?」
しかし慌てたようなその声がドルディノの意識を引き戻し、動き出した足を止める。
はっとして振り向いたドルディノの双眸に、慌てて駆け寄って来るリンが映り込んだ。
その間もじわじわと募る焦燥感に、ドルディノは拳を握る。
リンを置いて行けない。でも、向こうで何が起こっているのか、そこに誰がいるのか一刻も早く確かめたい。
緊張と焦燥感で、心臓はドクンドクンと音を立て、顔は強張っていた。
そんなドルディノの様子に気が付いたのか、駆け寄ってきていたリンの足が、躊躇するようにピタリと止まる。
「ドルディノ……さん? どうか、したんですか……?」
不安そうに問いかけてくるリンの声に、ドルディノは瞼を閉じる。そうして次に目を開けたドルディノの顔には、何かを決意したような表情が浮かんでいた。
「っ……」
なんだか突然不安に陥り、リンの足が一歩、僅かに後ずさりする。
しかし次の瞬間。
「っひゃあ!!?」
力強さを感じたと同時に体が宙に浮き、驚愕の声が漏れた。突然の浮遊感に、数時間前の恐怖が体を貫いて、反射的にドルディノの首に両手を回して縋りつく。
「っ、なっ……なんっ……」
恐怖が先立って呂律が上手く回っていない。
再度、リンを横に抱き抱えたドルディノは、その声が上擦っていることに気が付いた。ついで、首に回された両腕が、僅かに震えていることにも。
そして、自分の失敗を悟った。
自分の国から出立し降りた場所で偶然出会ったイリヤ。ドルディノが彼に会った時、丁度奴隷商人達に雇われていた男達から逃げている真っ最中だった。男達を撒く際、成り行きで咄嗟にイリヤを抱えて飛び降りしたが、その時も、彼は今のリンのように怯えていたのではなかったか。
それを思い出したドルディノは一瞬イリヤのことを想ったが、今はそれどころではないと打ち消した。意識を胸に抱えているリンへ向けると、落ち着いた声で話し掛ける。
「すみません、リンさん。僕……あの地響きが気になるんです。もしかしたら、あの先に……」
―――同族がいるかもしれない。
ぐっと口元を引き結び逸る心を抑えつけじっとリンを見つめていると、暫くしてから、首に回っている両腕に力が込められたのが体に伝わった。
まるで、振り落とされないようにするかのように。
「……行きましょう」
「ありがとうございます!」
承諾の言葉を聞いて安堵の溜め息を漏らしたドルディノは、微笑んだ。
「それじゃあ、行きます!」
そう告げて僅か数秒の後、ドルディノの足は勢い良く森の中を駆け抜けていた。
―――っ……速、いっ……!
叩きつけてくるような風で耳元のフードがバサバサと大きく波打ち、辺りに響いている筈の葉擦れの音を掻き消す。
ドルディノは、上手く木々の合間を縫うように走っていた。
そのせいで視界に飛び込んでくる景色は目眩が起きそうなほどの速さで流れてゆき、下手に口を開くと舌を噛みそうだった。もし振り落とされたら、という考えが一瞬頭を掠め、恐怖に慄いたリンはドルディノの首に回している両腕に、命綱といわんばかりに力を込め、絶対に離してなるものかと心に強く誓った。
同時にその瞳を固く閉じ、暗闇を選ぶ。そうすることで視覚から体に染み込んでくる恐怖を緩和しようと思ったのだ。
リンにできることはただただ、ドルディノが目指している場所へ一刻も早く辿り着いてくれることを祈るばかりだ。
何十分かかるのだろうか。もしかして数時間かかるのだろうか。
そんなことが頭に浮かんで、嫌な汗が滲む。
―――早く……早くついてほしい!
そうして永遠とも感じられた数分が過ぎた頃。
不意に、叩きつけるように吹いていた風が穏やかになっていたことに気が付いた。おそるおそる瞼を開けると、確かに流れるのが遅くなった景色が目に映り、次いで顔を見上げると真剣な表情で前を見つめているドルディノの横顔が映り込む。
その瞬間、ほっと人心地つけた気持ちになって、今どこだろう、と正面へ視線を向ける。
多少緩やかになったといえども、やはり次から次へと景色は流れていることには変わらない。
―――ふわぁ……足、本当に速い……。
自分の足では到底出せない速度に、尊敬の念を覚える。
その時。
「っ!?」
がくんと体が前のめりになりかけて、すぐ戻った。
倒れるかと思ったおかげでバクバク鳴る心臓を抑えながら、ピタリと足を止めたドルディノを見上げる。
「……? あ、の……?」
周囲にはこれといって変わったことがない気がするのだが、目的地についたのだろうか。そんな疑問が口から飛び出そうになった時、体がまた揺れ始める。
しかしそれは先刻とは違い、とてもゆっくりとしたもの。
リンとしてはとても安心できる速度だったので、結局疑問を口にすることはなくドルディノが歩いて行くに身を任せることにした。
が、間髪入れずにリアンの体がビクッと大きく震えた。
―――な、なにっ……!?
そう遠くない所で、ギャギャー! と声を上げながら鳥が一斉に羽ばたいた音が聞こえ、心臓は未知の恐怖に早鐘を打ち始める。無意識にドルディノの首に回している両腕に力を込めた。
「大丈夫ですか……?」
はっと顔を上げると、心配そうな灰色の双眸と視線がぶつかる。
「だ、大丈夫、です……」
ドルディノの声の調子に合わせて小声で答えると、素早く視線を逸らす。
―――なんか……顔は、見られてないって分かってるのに……なんだろう、なんか……顔が、熱い……。
両腕を下し、そっと胸を押さえる。すると、触れた場所から手の平に心臓の鼓動が伝わって来て、ぎゅ、と目を閉じた。
―――なんで…………。こんなに、ドキドキするの?
そう考えた矢先。
うわあああああ!
誰かの叫び声が前方から聞こえたと思った瞬間、視界が突然流れ出した。咄嗟に手を伸ばして首元に腕を巻き付ける。が、しかしその速度は特別速いわけではなく、駆け足程度だった。
先に進む度にその叫び声は明確に聞こえ始め、他にも何か固いものがぶつかる音や、重たそうなそれが混じっていることに気が付く。
そんな不穏な空気を体で感じ取り、リンの顔が強張った。張りつめた雰囲気が漂い始め、無意識に背筋を伸ばし、湧いた唾を飲み下す。
「リンさん、ちょっといいですか?」
「あ、はい……」
その雰囲気とリンを抱き抱えている腕を僅かに動かしたことで、言わんとしていることを正確に理解し、リンは回していた腕を引っ込めた。両足でしっかりと土を踏みしめると、数分前にも踏んでいた筈なのに、久しぶりに地に足をつけた気がした。
そうこうしている間にも男性と思われる者達の悲鳴のような叫び声は続いている。
ドルディノはリンを解放すると足早に声のする方へ進んでいき―――リンは、ぐんと強い力で腕が引っ張られるのを感じて驚愕する。
「っ!?」
急いで視線を落とすと、リンの手首はドルディノに掴まれていた。
一瞬足がもつれそうになったが、足早くついて行くうちに速度は落とされてゆき、すぐ忍び足のようになった。が、重たい何かがドカッ! とぶつかる音を間近で耳にしたリンの体が一瞬飛び跳ね、驚きのあまり声が漏れそうになるのを口元を覆い、寸でのところで抑える。
グアアアアアアアア!
突如何かの生き物のような鳴き声が耳を劈いて、咄嗟に両耳を塞いで座り込んだ。
恐怖と焦燥感で神経が張りつめる。助けを求めるように前に居るはずのドルディノを捜すと、心配そうな表情の灰色の双眸と目が合った。
ドルディノは腰を折り片膝を地につけ、リンと目線を合わせた状態で近距離に居たのだ。
深い安心感からだろうか。
そんな場合ではないのに、どうしてか、ものすごく泣きたくなった。
「大丈夫ですか……?」
急にうずくまったリンが心配になり、ドルディノは跪いて声を掛けた。フードで顔は隠れ表情は分からないが、雰囲気から良くない事だけは窺える。
「……は、い。大丈夫です、ごめんなさい……」
聞こえてきたそのか細い声に、不安が募る。だが、止まない男達の叫び声や、何かの生き物のけたたましい唸り声。それらが聞こえてきて落ち着かず、真実を確かめたいと焦燥感さえ湧き上がる。
ドルディノはそっとリンの前に手を差し出した。
僅かに躊躇した様子を見せたリンだったが、ドルディノの手に自分のそれを重ね―――途端、手を握りしめると苦しそうな声を上げて前のめりになった。
「っ……!」
「!? リンさんっ……!? どうかしたんですか!? 大丈夫ですか!? リンさんっ!?」
「はっ……つぅ…………!」
「リンさん!!」
はぁ、はぁ、と息苦しそうな呼吸を幾度と繰り返しているのを見て、ドルディノは何もできない自分が情けなかった。ぐっと奥歯を噛み締めると、せめてもと、リンの背中を優しく撫でる。
リンのそれは、次第に弱まっていった。
時間にして、ほんの十数秒の出来事だった。
落ち着いてきたのを見て、ドルディノは背中をさすりながら、そっと声を掛ける。
「リンさん……? 大丈夫ですか……?」
「は、い……すみません、もう、大丈夫です」
「ぐああああああ!!!」
突如風を薙ぐ音と同時に叫び声を上げた男が前方から飛んで来るや否や、後方で大木に背中を叩きつけられ、ずず、とずれ落ち足を投げ出した状態でがくん、と首が下がった。
「っ……!」
それから身じろぎ一つしない男の元へ急いで駆け寄っていったリンが触診し始め、それでも男の動きがないと解ったドルディノはすくっと立ち上がる。
あの男は意識があったとしても、リンに何かが出来るほどの状態ではないと判断したのだ。
それでもリンに気を配りながら、ゆっくりと現場へ近づいて行く。側にあった、大きく太い木の幹に体を潜めて様子を窺うと、数十人の鎧を着込んだ男達が見えた。
その他に、幾人があちらこちらに倒れている。
グルルルル、と唸る動物の声が間近で聞こえ、ドルディノはそちらへ意識を向け―――口を綻ばせた。
小さい角が頭に一本だけ生え、つるっとしているが硬そうな灰色の皮膚。自分の半分くらいの背丈で、未発達な腕や足は少し細めだが、指先から生えている鉤爪はそれとは真逆に立派なもので、人には恐怖を生みつけ、命の危険を感じる以外の何物でもない。
―――やっぱり……竜だ!
正体を確かめることが出来て安堵すると共に、疑問が浮かぶ。
―――でも……なぜ、ここに?
咆哮が上がり、はっと意識を引き戻したドルディノの双眸に、灰色の短くも太い尾が振り回され、陽光に反射し鋭い光を放つ剣を振り上げ襲い掛かっていく人間を、ガッ! っと容赦なくぶっ飛ばす様子が映り込んだ。ぶっ飛ばされた男は地に転がると、苦しそうな喘ぎ声を上げる。
「っ、大変!」
その声が真横から聞こえた瞬間、ドルディノは自身の気を完全に取られていたことを悟った。
気が付いて手を伸ばしリンを制止しようとした時には既に遅く。
「えっ……?」
そう僅かに囁かれたリンの声が鮮明に耳に焼き付けられた瞬間、ドルディノの視界からその姿は一瞬で消えさった。
灰色の尾と共に。
「あああああ!!」
全力で駆け出し、なす術もなく身を打たれ、地に転がったリンの元へ着くと、その頬に手を伸ばす。
「リ、リン……リンさん……! リンさん……!! 大丈夫ですかっ!? リンさんっ!!」
縋りつくようにその名を連呼するドルディノの声だけが、虚しく辺りに木霊していた。
どれだけ呼んでも、意識は戻らない。
「っ…………!」
ぐ、と両の拳を握りしめる。
ドルディノの目つきは鋭く、その双眸は怒りで鈍い光を放っていた。そうして、視線をゆっくりとした動作で移動させる。
行きついた先は―――リンを飛ばした張本人。
グル……。
気弱になったような唸り声が、静まった森の中にはよく響いた。
ドルディノの意識の中には既に、リンと、睨み付けている相手のみに向けられていた。
ドルディノはゆっくりと労わりをもった動作でリンを横抱きにすると静かに立ち上がり、再度睨み付けるように灰色の動物―――同族を、見た。
一歩、後ずさりする灰色の竜に、堂々とした足取りで近づいていくドルディノ。
そんな異様な光景を、意識が残っていた数人の男達は、固唾を呑んで見守っていた。
ドルディノの歩みはついにそれの目前でピタリと止まる。
「……はぁ……」
灰色の竜にしか聞こえなかったドルディノのその溜め息は、苛立ちを含んだ重いものであった。
彼の視線は再度両手に抱えている人へ落ちる。次に顔を上げた時、竜が見たドルディノの黒い双眸には、滾っていた怒りは読み取ることが出来なくなっていた。
「……行こう」
そう静かに告げられた言葉はやはり、耳の良い竜にしか聞こえず。
地を、ズシンズシンと重たそうに揺らしながら木々の中へと消えていく化け物と、それを先導している二人の人間の姿は、男達の目にしっかりと焼き付いたのだった。
一ヵ月以上不調が続き、同時にどうしたら楽しんで読んでいただけるかを悩んでいたらあっという間にこんなに日が経っていました。 遅くなってすみません。お待ちいただいた方、読んで下さる方、どうも有難うございます。 どうか、あなた様が楽しめるようになっていることを、切に願います。




