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 口を挟む隙は、なかった。

 突如部屋に侵入してきた野蛮な男達が頭に襲いかかり、敵の血飛沫が上がる。同時に轟いた船長の怒号。

 そして気が付いた時はすでに、自分の体は宙を舞っていた。

 急速に迫り来る地面と激しい風圧に煽られて、言い表せれぬ程の恐怖が体を突き抜け、反射的に力強く目を閉じていた。一時してから、視界が閉じられ敏感になった体に伝わって来る振動が安定していると気が付いたリンは、恐る恐る瞼を上げた。

 その目に飛び込んできたのは、どこまでも続く生い茂った深緑の絨毯を、天から落ちてくる柔らかい月明かりが照らしている光景だった。しかしそれは、自分を抱えて走っているドルディノの駆ける速さでどんどん流れ、瞬く間に風景が変わっていく。

 まだ、思うように動かせない体に残る気だるさ。そして、気を抜けば堕ちてしまいそうになる意識。それらを持て余しながらも気になるのは、同様の状態のドルディノに自分を抱えさせ、走らせている事だ。

 出来るなら彼に迷惑をかけないためにも、自分の足でちゃんと歩きたい。

 でも……。

 突如、ガクンと体が大きく下がり、驚愕してドルディノの服を握っている手に力が入り、態勢を瞬時に整えたドルディノの顔を見上げると、目を見開いて息が詰まった。

 心配そうに見下ろしてくる灰色の双眸と、外套の布越しに目が合ったのだ。

 「す、すみませ、んっ……大丈夫、ですかっ?」

 額に玉が浮き、汗を流しながら息を荒くして訊いてくるドルディノを見て、素早く顔を俯けたリンは、強く飛び跳ねて胸を叩く心臓と顔の火照りを感じながら、か細い声で答える。

 「は、い……」

 ―――大丈夫、大丈夫……こっちからは布が透けて見えるけど、彼に私は見えてないんだから……。だから、落ち着いて。落ち着いて……!

 「すみません、まだっ……走りますね。舌、噛まないようにっ……気を、付けて……ください。あ、と……何でしたら、眠ってくれても……っ……、大丈夫、です、から……」

 はぁ、はぁと荒い呼吸を繰り返しながらそう告げたドルディノの声には、隠し切れない疲労が滲んでいた。

 思わず「歩きます」と言おうとして―――……口を噤む。

 言えなかった。彼が、何を心配して先を急いでいるかが、解ったから。ここで自分が歩くと言えば、心配をしながらも彼は下してくれるだろう。この人は、そういう人だ。

 優しいから。

 でも、だからこそ今、下して欲しいなどと言ってはいけない。

 自分は、足手まといになる。距離を稼がねばならないこの状況で、体が上手く動くかも分からない自分がわがままを言ってはいけない。

 ―――ごめんなさい。ごめんなさい……。

 ドルディノの服を握りしめている指先に力が入り、同時にリンは彼の胸に頭をコツンと預けた。

 その行動を了承と取ったのか、ドルディノは再度走り出した。どんどん視界が流れ、向かい風で外套の布がバサバサと音を立てて翻る。

 ドルディノの胸に額をつけ、リンは瞼を閉じた。敏感になった耳が葉擦れの音や虫のそれなどを拾っていたが、それも意識と共に少しずつ遠のいていく。

 ―――ああ……なんだか、懐かしくて……温かい。

 薄れゆく意識の中でそう思ったのを最後に、リンは眠りに落ちたのだった。



 頭がくらくらして足元がおぼつかず、躓きそうになるのを何度も耐えながら、ドルディノは走り続ける。

 通常なら感じることが殆どない息苦しさと、全身に重くのしかかっている倦怠感。それらのせいで、幾度も足を止め木陰に身を潜めて休めたら、と思いながら。

 しかし。

 はっ、はっ、と荒い呼吸を繰り返す度に膨らむその胸元から、しっかりと感じる温かさと両腕に掛かっているずっしりとした存在感に保護欲が湧き上がり、しっかりしなければ、と己を叱咤する。

 誰にも仰されることなくのびのびと成長した草花には時折肌を打たれ、どっしりと構えている大木から別れている枝と激突しないように避けながら、一心に森の中を駆け抜ける。

 ―――この人を、守らなくっちゃ……。

 ザザザザ、と葉擦れの音が立つと共に、パキン、と乾いたそれが、虫の音も止んだ暗闇の中に木霊する。

 自分の胸から吐き出される呼吸音が、やけに大きく聞こえた。

 足を止めずに視線を落とし、胸に抱き抱えている人が身に纏っている濃い緑の外套が、向かい風に乗り波打つ様子が目に入り、落としてしまわないようにと無意識に手の平に力が入った。

 ―――今は、僕しか側に居ないのだから。

 そうして湧き出してくる力を糧に、安全と思える距離を稼げるまで、ドルディノは走り続けた。



 何時間、走っただろうか。肩で荒く息をしていたドルディノは、ようやく足を止めた。神経を集中させて周囲の気配を探る。動物や、人の気配を。

 しかし、自分が感じ取れる範囲内にそれらの気配はなかった。

 疲れと安堵から溜め息を漏らしたドルディノは、顔を上げて周囲に視線を走らせる。

 一息つける場所を探すためだった。

 ゆっくりとした動作で歩きながらも忙しなく目を動かしていると、ある一点を見つめてドルディノは微笑んだ。

 ―――あそこなら。

 ドルディノの双眸には、よつまたに枝分かれしている、太くて逞しい大木が映っていた。ほんの数歩で大木に近づくと、数メートルも距離が離れているその場所を仰ぎ見ながら、唸り声を上げる。

 ―――流石になんにも踏み台になるものがないのに、あそこまでは……跳べないなぁ。

 暫く逡巡したあと、視線を胸の中に居るリンへ落とした。耳を澄ますと、静かな寝息が聞こえる。

 ―――迷っている暇は、ないか……周囲に、人の気配もないし。

 ドルディノはふっと目を細め背中に気を集中させた。

 熱が全身を巡って背中に集まり、そして―――。

 次の瞬間、バサッと音を立てて空気を震わせ、その背中に漆黒の皮翼が現れた。続いて大きく羽ばたくとその体は宙へ浮かび、よつまたの場所に近づくにつれて突風に煽られた木々がザアアアと、葉擦れの音を立てた。

 僅か数秒で地面から数メートル離れた太い枝に足をつけた途端、ドルディノの背中に生えていた漆黒の翼は一瞬で掻き消え、彼はリンを抱いたまま安定して座れそうなところを目で探すと腰を下した。

 リンが無理な姿勢で寝ないように態勢を整えながら自身のそれも行い、位置が決まるとようやく人心地つけた気分になって、今までの疲労を吐き出すかのような溜め息が自然に漏れ出す。

 ―――少しだけ、休もう……。

 頭を、背中を預けている大木にコツンとつけ、重い瞼を閉じると、ドルディノの意識はあっという間に闇に呑まれていった。


 

 「ねぇ、おかあさん?」

 「なぁに? リアン」

 四、五歳くらいの小さな子供が、顔を上げて問いかけた。その透き通るような青い瞳には、美しく輝く銀髪を一本に束ね、左肩から胸へと流している整った顔立ちの綺麗な女性が映っていた。その女性は愛情のこもった青い瞳で、胸に抱いている子供を見つめている。

 それは、愛おしそうに。慈しむように。

 女性と同じ銀の髪を受け継いだ子供は、前から不思議に思っていたことを口に乗せた。

 「ろでぃのおうちには、おとうさんがいるんだよ。りあんの、おとうさんはどこにいったの?」

 それを聞いた女性は一瞬言葉を詰まらせ、なんとも言えない表情をした。そして静かに瞼を伏せると、子供に回している両腕に力が込められる。

 ぎゅ、と抱きしめられた子供は息苦しそうな声で抗議した。

 「おかあさん、くるしいよ……」

 そう言った子供の顔はくすぐったそうで、けれども嬉しそうな表情をしていた。

 自分を抱きしめてくれる母親の、温もり。この腕の中にいれば、何も怖いことはない。

 抱き締めてくれている母親の温かい吐息が、耳をくすぐる。

 「……ごめんね、リアン。……お父さんは…………」


 チュンチュン、と心が洗われるような小鳥の囀りが聞こえ、リンの意識が浮上した。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 ―――懐かしい、夢…………。

 まだ、何も知らなかった頃の。

 切なさに胸が苦しくなり自然に手に力がこもる。と、その手に温もりを感じて驚き咄嗟に引き寄せると、誰かの胸に居ると気が付いた。そして次に目に飛び込んできたのは、太くしっかりした枝と、深緑の葉。

 視線を落とすと驚愕で目を見開いた。

 ―――た、高……い!! なんでこんなとこにいるの!? 

 地面から天に向かって、自分自身が三人は並べそうなその高さに愕然とし、数秒遅れて我に返ると素早く顔を上げた。

 何故こんなところにいるのかが、知りたかったのだ。

 だが―――……。

 「ね……てる…………?」

 状況を訊こうにも、唯一知っているドルディノは、静かな寝息を立てて眠っていた。意外に広くて逞しい胸が、ゆっくりと膨らんで、しぼんでいる。

 「…………」

 なんとなく、リンは眠っているドルディノの顔をじっと見つめた。

 綺麗に通っている鼻筋。目を縁取る睫毛は、扇状に広がり綺麗で長い。宝石のように艶のある漆黒の髪は、そよ風が吹く度にふわふわと揺れ、思わず目を奪われた。

 無意識に手が伸びて、その黒く短い髪先に、ゆっくりと触れる。

 ―――柔らかい……クセっ毛……。……そういえば、あの子も……黒くて、クセのある髪だったなぁ……。

 脳裏に浮かぶ、少年の姿。それが、静かに寝息を立てるドルディノの顔と、僅かに重なって、ゴクリと唾を飲み下した。

 緊張で体が硬くなり、心臓がいつもより速い鼓動で胸を打つ。

 ―――……そんな、まさか……だよね。そんな訳ない。いくらちょっと似てるからっていって、あの子なわけ……。…………。

 「あ……」

 「っ……!!」

 間近から声が聞こえ、リンの心臓が強く跳ね上り、早鐘のように打ち出す。

 もう少しで叫ぶところだった。

 「おはようございます。先に、起きてたんですね。どうですか? 体の調子は……」

 そう声を掛けられて、思い出した。食事に薬を盛られて体のコントロールが出来なくなっていたのだった。

 改めて四肢に力を入れ、感覚を確かめる。回っていた視界は正常に戻っているし、僅かにあった吐き気も治まっていた。

 「もう、大分いいみたいです。実際に、走ったりしてみるとまた違うかもしれないですが……」

 「そうですか、とりあえず良くなったみたいで、良かったです」

 目を細め、微笑んでそういうドルディノを見て、一瞬息が止まった。

 「……っ……めて……」

 「え?」 

 訊き返してきたドルディノを見て、リンは顔を俯けた。

 ―――……やめて……そんな、顔で、笑わないで……!  

 

 突然面を伏せたリンの様子が気になり、ドルディノは無意識に手を伸ばしかけて、引っ込めた。

 ―――……やめて、って聞こえた気がしたし……。

 嫌がるのに触れて、嫌われたくはない。

 不意に遠くから小鳥の囀りが聞こえて、引かれるように視線を空へ移した。

 夜が明けて、空は白み始めている。耳に気を集中させて気配を探るも、人のそれは感じ取れない。

 が。

 ―――これ、は……!

 人でならざる者の気配を肌で感じ取り、その方向へ顔を向ける。

 ―――間違いない。

 予想が確信に変わった瞬間、ドルディノの耳に何かの動物の鳴き声が聞こえた。

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